発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様   作:神座鬼神

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第15話:部屋の模様替えと、届かない対症療法

1. 二十二日目の朝と、暖炉の温度差

 

 上陸して二十二日目の朝。

 私は寝台の上で、滑らかな麻布のシーツにくるまりながら目を覚ました。

 下腹部の奥には、まだずっしりとした重い熱の火種が燻っている。昨日の午前中に襲ってきた、頭が割れそうな狂乱の熱波に比べれば幾分か落ち着いてはいたけれど、皮膚の表面は薄皮一枚剥がされたかのように過敏なままだ。少し身じろぎするだけでも、布地の擦れがチリチリと神経を刺激する。

 

「……ん……」

 

 首筋に当てていた手拭いがぬるくなっているのに気づき、枕元へ手を伸ばす。

 陶器の小皿の上に、冷たく絞られた新しい麻の手拭いが置かれていた。テオドールが夜明け前に取り替えてくれたのだろう。それを首筋に当てると、ジュウと熱を吸い取られるような冷涼感に、ようやく息が整った。

 

 カチャリ、と暖炉の前で鉄の火掻き棒が鳴る音がした。

 見れば、テオドールが暖炉の前にしゃがみ込み、ナラの割り薪を新しくくべたところだった。

 パチパチと薪が爆ぜ、赤々とした炎が勢いよく立ち上る。

 その瞬間――暖炉から押し寄せてきた熱気が、私の肌をチリリと刺した。

 

「……あつ……っ。テオ、火が近すぎるわ」

 

「えっ? ローナ、起きたのかい?」

 

 テオドールが振り返る。

 私は麻布を胸元まで引き上げ、顔を顰めて訴えた。

 

「熱気がこっちまで届いて、息が苦しいのよ」

 

「すまない……。でもね、今朝は海風が強くて部屋の隅が底冷えしているんだ。僕の机のあたりなんて、寒さで指先がかじかんでしまって、ペンがうまく進まないくらいなんだよ」

 

 テオドールは手袋を外した右手を私に見せた。指先が寒さでわずかに赤くなっている。

 彼が観察記録をつける木製の研究机は、外光を採り入れるために北側の窓際に置かれている。冬のすきま風が容赦なく吹き込む場所だ。

 

「窓を少し開けて風を通せればいいんだけれど、あの冷たい風が直接肌に当たると、針で刺されたみたいに痛むし……」

 

 私が呟くと、テオドールも困ったように眉尻を下げた。

 暖炉の火が近いと私は暑くて息苦しく、窓際の寒風は私の肌に障る。かといって、テオドールが寒さに震えていては、食事の支度も記録もままならない。

 テオドールが「手拭いをもう一度冷やしてこようか」と腰を浮かせかけた。

 

「待って、テオ。手拭いを替えてもらうのもいいけれど、このままじゃ一緒に朝ごはんも食べられないし、ノートも見られないじゃない」

 

「え……?」

 

「部屋の家具、少し位置を変えてみない? 工夫すれば、あなたも私も、もう少し楽に過ごせる場所が見つかるはずよ」

 

「家具を動かすのかい? ……そうだな、試してみる価値はあるかもしれないね」

 

 

2. 衝立の角度と、二人の距離

 

 私は寝台から足を降ろし、平らな足裏を床につけた。

 立ち上がると下腹部に熱い疼きが走るけれど、樫の杖に体重を預ければ室内を移動するくらいはできる。

 部屋の中を見回し、暖炉の火の向きと、窓から射し込む光の位置を確かめる。

 

「テオ。まず、部屋の隅にあるあの麻布張りの木枠の衝立を、暖炉と私の寝台の間に立ててみて」

 

「衝立を? ……こうかい?」

 

 テオドールが三つ折りの衝立を引きずってきて、暖炉の脇に広げた。

 暖炉の赤い火が直接見えなくなり、寝台へ届く強い熱気がふっと和らぐ。

 

「これなら火の直接の熱さは遮られるわ。でも、それだとあなたの机の寒さは変わらないでしょ?」

 

「うん。それに、衝立で光が遮られて、手元がずいぶん薄暗くなってしまったよ」

 

「だから、机も動かすのよ。その研究机を、北の窓際から暖炉の斜め前あたりへ持ってこれない?」

 

「暖炉の斜め前……? でも、あまり壁に寄せすぎると、背後の棚から標本や資料を取り出すときに窮屈になるよ」

 

「じゃあ、棚から半歩ぶんだけ離して、窓の光が机の上に斜めに落ちる位置で止めてみて」

 

「分かった、やってみよう」

 

 テオドールが机の端を持ち上げ、ギギギと床を滑らせながら位置を微調整する。

 さらに衝立の角度を少し手前へ傾けると、暖炉からの直射熱は寝台に届かず、斜め前に移動させたテオドールの机のあたりへと、じんわりとした温もりが届くようになった。

 

「……どうだい、ローナ?」

 

「うん、さっきよりずっといいわ。火の息苦しさがなくなった」

 

「僕の方も、手元に光が届いているし、手がかじかむこともなさそうだ」

 

 テオドールがほっと息をつき、額の汗を拭った。

 最後に、食事用の小さな丸机をどこへ置くかで顔を見合わせる。

 

「この丸机は、部屋の真ん中……衝立のすぐ外側に置こうか」

 

「ええ。それなら私の寝台からも、あなたの机からも同じくらい離れていて、近寄りすぎて肌が触れる心配もないわね」

 

 丸机を据えると、部屋の居心地が格段に落ち着いた。

 過敏な肌を刺激するような強い熱気やすきま風はなく、テオドールも悴む手先を温めながら机に向かえる。

 

「よし、それなら朝食を持ってくるよ。昨日のスープの残りを、君の分は冷まして、僕の分は温めてくるね」

 

 テオドールが台所へ行き、やがて丸机の上に二つの器が置かれた。

 私の前には、人肌よりも少し冷たい程度に落ち着かせた、濃厚な豚骨スープと小さく割いた豚肉。

 テオドールの前には、湯気を立てる熱々のスープと黒パン。

 

「いただきます」

 

 スプーンでスープをすする。

 冷ましてあっても、豚骨の出汁と脂の旨味は十分に濃厚だ。舌の上をとろりと滑り、乾いていた喉と胃の腑を優しく満たしてくれる。

 丸机を挟んだ向かい側で、テオドールもパンをスープに浸しながら口に運んでいた。

 直接肌に触れ合うことはできなくても、視線が合い、同じスープの匂いを分かち合える。寝台に横たわったまま口を開けるだけではない、当たり前の朝の時間がそこにあった。

 

 

3. 届かない外側と、第2期の記憶

 

 食事が終わると、テオドールは棚から小さな陶器の壺を持ってきた。

 上陸して十四日目、乾燥でひび割れかけた私の肌のために調合してくれた、羊脂を主成分にした保湿軟膏だ。

 

「ローナ、首筋と手首に少し塗っておこうか。空気が乾いているから、皮膚の引きつりを和らげておいた方がいい」

 

「……ええ、お願い」

 

 テオドールが指先に軟膏を取り、私の手首と首筋の過敏な皮膚へ、薄く慎重に伸ばしてくれた。

 しっとりとした脂の膜が肌を覆い、外気にさらされていたヒリヒリとした痛みがわずかに鎮まる。

 けれど――。

 

「……やっぱり、ね」

 

 私は塗られた手首を見つめながら、小さく息を吐いた。

 

「どうしたんだい? まだ痛む?」

 

「ううん、皮膚の表面はしっとり落ち着いたわ。でも……お腹の奥の火は、少しも小さくならないの」

 

 私は麻布の上から、自分の下腹部にそっと手を当てた。

 陶器の壺に入った軟膏も、氷のように冷たい手拭いも、肌の表面を一時的に冷まし、潤すことはできる。

 けれど、身体の奥深くで脈打ち、骨盤を重く揺さぶっている熱狂の火種には、指先一つ届いていないのだ。

 

「十四日目に軟膏を試した時もそうだったわね。あれは乾燥から肌を守ってくれたけれど、脚や声の期限を延ばすこととはまるで別だった。……冷水で肌を拭いても、お腹の熱が消えるわけじゃない。外側から撫で回すだけの対症療法じゃ、この身体の奥で起きていることには追いつかないのよ」

 

 テオドールは軟膏の壺の蓋を閉め、手帳の余白をペン先で見つめた。

 

「……うん。君の言う通りだ。冷水手拭いも軟膏も、苦痛を和らげて生活を保つための処置であって、周期そのものを制御する手段じゃない」

 

「ねえ、テオ。思い出してみて。……十日目や十五日目あたりのこと」

 

「第2期……安定していた頃のことかい?」

 

「そうよ。あの頃の私は、今みたいに息を切らして寝込むこともなかった。二本の脚で市場へ歩いて行けたし、あなたと笑って話せたし、美味しいお肉をお腹いっぱい食べられた。……微熱はあっても、今よりずっと暮らせる程度だったの」

 

 私は丸机の上に身を乗り出した。

 

「おばばの教えでも、この脚と声は子どもを作る季節にだけ現れるものなのよ。だから、目指すべきなのは海に戻って魚になることでも、この熱に焼き切られて狂乱することでもないわ。……あの第2期の、今より暮らせていた弱い繁殖状態のまま、この身体の奥の火種を留め置くことはできないの?」

 

 テオドールは手帳のペンを置き、私の言葉を深く噛み締めるように目を細めた。

 

「……繁殖の激しさを手懐け、暮らせる水準に留める……か」

 

 

4. 比較動物学の記述――家畜の繁殖熱を鎮める薬

 

「身体の表面を冷やすのではなく、奥の内分泌……生殖の衝動そのものに働きかける手がかりが要るんだね」

 

 テオドールが立ち上がり、壁際の書棚から分厚い革表紙の書物を引き抜いた。

 数日前に市場でお菓子を食べすぎて倒れた時、彼が棚から下ろしてくれた既存の比較動物学と獣医学の学術書だ。

 

「この本を、もう一度見直そう。水温や外皮の観察にとらわれる前に、家畜や哺乳類の繁殖生理について書かれた章があるはずだ」

 

 テオドールは机の上に書物を広げ、褐色の頁をパラパラとめくっていった。

 インクの匂いと古びた紙の匂いが立ち上る。やがて、彼の人差し指が一つの項目でぴたりと止まった。

 

「……あったよ。『大型使役動物における異常発情の抑制と鎮静』」

 

「異常発情の……抑制?」

 

「ああ。馬や牛などの家畜において、繁殖期に雌が激しい興奮状態に陥り、高熱を出して暴れたり、食欲を失って衰弱死する現象についての記述だ。……まさに、君の今の状態に近い」

 

 テオドールが声を出して読み進める。

 

「『……かかる激越なる興奮は、個体の生命力を著しく損なう。これに対し、南部山間部に自生する薬草――ベルヘ草の乾燥根より抽出せし濃厚チンキは、性腺の過熱せる興奮を速やかに減衰せしめ、母体を穏やかなる休止状態へと導く薬効を有す』」

 

「ベルヘ草……!」

 

「そうだ。家畜の生殖行動が過熱しすぎた際、その衝動と熱を鎮静させるために古くから使われてきた薬草の浸出液だ。動物の繁殖の火を力尽くで消し去るのではなく、過剰な熱発を抑えて、安全な水準まで興奮を鎮める用途で用いられているらしい」

 

 テオドールの声に熱がこもった。

 机上の空論でも、肌の表面を撫でる気休めでもない。

 身体の内側から湧き上がる生殖の暴走そのものを、外側から抑え込むための具体的な薬品。

 

「それよ、テオ! そのベルヘ草の薬があれば、私のこのお腹の火も、第2期の穏やかな状態まで引き戻せるかもしれないじゃない!」

 

 私が身を乗り出して叫ぶと、テオドールは手帳を開き、ベルヘ草の名称を素早く書き留めた。

 だが、すぐにその表情が険しく曇った。

 

「……でも、この薬は僕の研究室にはない。南部からの輸入品で、家畜用とはいえ作用が強い薬品だ。一般の雑貨店や市場の屋台で手に入るような代物じゃないよ」

 

「じゃあ、どこにあるの?」

 

「港町の中央通りにある、古い薬種商だ。あそこなら、本国や各地の大学、医師ギルドと取引があるから、特殊な生薬のチンキを取り扱っている可能性がある」

 

 テオドールは時計を見上げ、それから私の顔を真剣な目で見つめた。

 

「明日、港町の薬種商へ行ってくる。手に入るかどうか、確かめてみるよ」

 

「ええ、行ってきて! 手に入ったら、すぐに試しましょう!」

 

 上陸して二十二日目が過ぎ、期限まで残り十八日。

 部屋の配置を変えて生活を守りつつ、私たちの視線は、気休めの外側から、身体の奥の生殖そのものを飼いならすための具体的な手段へと向かい始めていた。

 

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