発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様 作:神座鬼神
1. 留守番と二十三日目の波(ローナ視点)
上陸して二十三日目、昼前。
崖の上の研究所は、暖炉の薪が爆ぜるかすかな音と、窓を叩く冷たい海風の唸りだけに包まれていた。
朝早く、テオドールは黒い外套を羽織り、小さな革の鞄を抱えて崖下の港町へと下りていった。
昨日見つけた、大型家畜の発情熱を鎮める薬――ベルヘ草のチンキを手に入れるためだ。
私は昨日整えた部屋の中央、丸机の前の椅子に腰掛け、肩に巻いた麻布の端をぎゅっと握りしめていた。
下腹部の奥には、相変わらず重い熱の火種がどっしりと居座っている。
息を吸うたびに、首筋から胸元にかけて甘い痺れが駆け抜け、皮膚の表面が薄皮一枚剥がされたかのようにチリチリと空気に擦れる。
衝立のおかげで暖炉の直射熱は遮られ、丸机の上にはテオドールが汲み置いてくれた冷水の小桶と手拭い、それに人肌程度に冷ました豚骨スープが並んでいる。
けれど、身体の芯で燃え盛る繁殖の炎そのものは、少しも小さくはなってくれない。
私は机の上の黒い手帳を引き寄せ、石板の横に置かれたインクの数字を見つめた。
上陸して二十三日。
人間でいられる四十日の期限まで、残り十七日。
(……十七日しかないのよ)
おばばの教えが、頭の奥で冷ややかに囁く。
――四十日が過ぎる前に海へ身を投げよ。男の種を得ずとも、期限内に海へ戻れば、何の傷もなく海の中で生き続けられる――。
その通りだ。
もし私がただ命を長らえたいだけなら、この部屋でじっと嵐が過ぎるのを待ち、期限が尽きる直前に崖から海へ飛び込めばいい。そうすれば、脚は尾びれに戻り、声は失われ、何事もなかったかのように冷たい海の中で生きられる。
けれど――海へ戻れば、脚は尾びれに戻り、声も消えて、この温かい部屋での冬は終わってしまう。火を通した肉の味も、文字を覚える楽しさも、何よりテオドールと言葉を交わして笑い合う生活を、手放さなければならなくなる。
安全に海へ帰るためだけに、手に入れた暮らしを諦めるなんて、私の図太い食い意地が許さなかった。
「……待ってるわよ、テオ」
私は冷たい手拭いを首筋に押し当て、熱い息を吐き出しながら、扉の向こうを見つめ続けた。
2. 港町の薬種商(テオドール視点)
港町の中央通りは、冬の冷たい湿気と魚油の匂いに満ちていた。
石畳を踏みしめながら、テオドールは脇に抱えた平たい革張りの木箱を、外套の下で強く抱き直した。
目指す店は、通りの外れにある重厚な樫の扉の薬種商だった。
店内に入ると、天井から吊るされた干し草や乾燥鉱物の独特な苦い匂いが鼻をつく。
カウンターの奥から、老眼鏡をかけた白髪交じりの店主――港町で数十年にわたり本国や各地の大学と特殊薬品を取引している薬種商が、顔を上げた。
「おや、崖の上の若き解剖学者先生じゃないか。こんな真冬に、海産標本の防腐剤でも買いに来たのかね?」
「……いえ。今日は標本の薬品ではなく、特殊な生薬のチンキを探しに来ました」
テオドールはカウンターに歩み寄り、声を低くして告げた。
「南部山間部原産のベルヘ草の乾燥根チンキを、一瓶分けていただきたい」
店主の手が、ぴたりと止まった。
眼鏡の奥の灰色の瞳が細められ、テオドールの顔をじろじろと値踏みするように見つめる。
「……ベルヘ草だと? あれは内陸の牧場で、繁殖期に狂乱して暴れる高価な種馬や牛を鎮めるための、極めて強い抑制薬だ。なぜ海洋動物の骨や魚を調べているお前さんが、そんな大型哺乳類の発情抑制薬を欲しがるんだ?」
「……比較生理学の研究です。生殖期における神経興奮と筋肉の緊張緩和の対照実験に使いたいのです」
「ふん、学者の言い草だな」
店主はカウンターに肘をつき、不審げに鼻を鳴らした。
「あいにく、ベルヘ草のチンキは南部からの貴重な輸入品でね。今や本国でも入手が難しい。それに、作用が強すぎて扱いを誤れば心臓麻痺すら起こしかねん代物だ。……価格は銀貨八枚だ。お前さんのような駆け出しの学者が、ぽんと払える額じゃないだろう」
銀貨八枚。
テオドールの懐にある全財産をかき集めても、銀貨三枚にしかならない。
だが、ここで手ぶらで帰るわけにはいかなかった。
研究所で一人、熱と過敏さに耐えながら自分を待っているローナの顔が、脳裏をよぎる。
テオドールは躊躇いを断ち切るように息を呑み、外套の下から抱えていた平たい木箱をカウンターの上に置いた。
真鍮の留め金を外し、蓋を静かに開く。
「……これを、見ていただけますか」
箱の中に敷き詰められた黒い天鵞絨(ビロード)の上には、息を呑むほど精緻な標本が横たわっていた。
深海の岩礁に潜む極めて稀少な銀鱗の深海魚――その頭骨から尾骨、微細な鰭条の一本一本に至るまで、薬品で脱脂され、完全な白骨として組み上げられた完全骨格標本だった。
店主の目が、丸く見開かれた。
「これは……! 見事な仕事だな。傷一つない……王立学術院の博物展示室に並んでいてもおかしくない出来栄えだぞ」
「……この春、王立学会の年次大会へ提出するために、僕が半年間かけて仕上げた標本です。学会の会報に論文とともに掲載されれば、博物蒐集家の間でも高値で取引されるはずです」
テオドールの指先が、標本の縁をわずかに愛おしむように撫でた。
夜遅くまでロウソクの明かりで目を赤くし、油で手を荒らしながら骨を磨き上げた、会心の成果だった。この春の大会で認められれば、若き解剖学者としての未来が開けるはずだった。
それを手放す痛みが、胸の奥を鋭く締め付ける。
だが、天秤のもう片側にあるのは、名誉ではなく、目の前で生きているローナの命と、彼女との生活そのものだった。
テオドールは標本から指を離し、店主をまっすぐに見据えた。
「この標本と、手持ちの銀貨二枚を差し上げます。……それで、ベルヘ草のチンキを一瓶、譲ってください」
店主は標本とテオドールの顔を交互に見つめ、やがて深く息を吐いた。
「……学者が自分の看板標本を手放すとはな。よほど切羽詰まった実験と見える。詮索はせんよ」
店主は木箱を引き寄せ、カウンターの奥の鍵付きの棚へと向かった。
やがて戻ってきたその手には、厳重に蝋で封をされた、手のひら大の遮光硝子――深い琥珀色の小瓶が握られていた。
「ベルヘ草の濃厚チンキだ。絶対に原液をそのまま煽るなよ。体重数百キロの種馬ですら、水で薄めて十滴も飲ませれば腰を抜かして動けなくなる。取り扱いにはくれぐれも気をつけるんだな」
「……感謝します」
テオドールは冷たい小瓶を受け取り、胸のポケット深くに滑り込ませた。
空になった鞄を抱え、振り返ることなく薬種商の店を後にした。
3. 帰還と琥珀色の小瓶(ローナ視点)
夕暮れの気配が研究所の窓を赤く染め始めた頃。
カチャリ、と土間の閂が開き、激しい足音とともにテオドールが戻ってきた。
外套の肩には冷たい霙(みぞれ)が白く付着し、息を白く切らせている。
「テオ……!」
私が杖をついて立ち上がると、テオドールはまっすぐに中央の丸机へと歩み寄ってきた。
外套の胸元から、一本の小さな小瓶を取り出し、机の上にコトリと置いた。
黒っぽい琥珀色の硝子瓶。口は赤い封蝋で固められ、外側からもかすかに苦い草の匂いが漂ってくる。
「手に入ったよ、ローナ。……ベルヘ草の浸出チンキだ」
「本当に手に入ったのね……!」
私は小瓶に手を伸ばしかけ――ふと、テオドールの手元に視線を落とした。
朝、彼が大事そうに脇に抱えて出かけていった、あの平たい革張りの木箱が見当たらない。
「ねえ、テオ。あの木箱は……? あなたが夜遅くまで標本室に籠もって作っていた、あの魚の骨の箱はどこへ行ったの?」
私の問いに、テオドールは一瞬だけ視線を逸らし、それから微かに眉を下げた。
「ああ、あれかい。……薬種商の店主が気に入ってね。銀貨が足りなかったから、代わりに引き取ってもらったんだ。……標本なら、また新しい魚を獲って作ればいいから」
その口調の奥に、滲み出るような悔しさが隠れているのを、私は見逃さなかった。
文字を習い、彼の机の上の原稿を見ていたから知っている。春の学会で自分の名前を知らしめるために、彼があの骨格標本にどれほどの誇りと情熱を注ぎ込んでいたか。
私の胸の中で、カッと怒りの火が燃え上がった。
「何よそれ! あんなに夜遅くまで目を真っ赤にして、手を油まみれにして磨いていたじゃない! 春の学会に出すんだって、あんなに嬉しそうに話していた大事なものを……なんで勝手に手放すのよ!」
「ローナ……」
「誰があんな骨と引き換えに薬を買ってこいなんて頼んだ!? あんたの半年分の努力でしょ! 『また作ればいい』なんて、そんな強がりで誤魔化さないでよ!」
私の剣幕に、テオドールは目を瞬かせ、それから絞り出すように本音をこぼした。
「……惜しくないと言えば嘘になるよ! 悔しいさ、僕だって! でも……君が部屋で息を切らして熱に耐えているのに、あんな魚の骨を抱え込んで何になるんだ! 君がここにいなくなったら、論文が載ったって何の意味もないじゃないか!」
声を荒らげたテオドールが、肩で息をして私を見つめた。
その必死な瞳を見ていたら、怒りと悔しさと愛しさが胸の中でごちゃ混ぜになり、私は鼻の奥をツンと突かれた。
ぐっと涙を引っ込め、丸机をバンと掌で叩いた。
「馬鹿ね! いいこと、テオ。私がこの薬を飲んで元気になったら、絶対にあの骨格標本は買い戻すわよ! 海に潜って珍しい魚を十匹でも二十匹でも捕まえて、あの強欲な薬種商の机に叩きつけて取り返してやるんだから!」
「え……?」
「それから、勘違いしないでよ! 私が、この二本の脚で市場へ行って、美味しい肉を食べて、あんたと一緒にこの部屋で笑って暮らしたいから飲むの! 勝手に私のために身を削った気にならないで!」
私が仁王立ちになって言い放つと、テオドールは呆気に取られたように口を開けた。
それから――ふっと表情を崩し、目元を手で覆って、小さく吹き出した。
「……あはは、まったく……君の食い意地と気の強さには、本当に敵わないな」
テオドールは顔を上げ、穏やかで力強い光を宿した瞳で私を見つめ返した。
「ああ、分かったよ。絶対に買い戻そう。二人でね」
彼は琥珀色の小瓶を引き寄せ、机の真ん中に据えた。
「これは大型の使役動物を強制的に鎮静させる強い薬だ。作用も未知数だし、どんな副作用が出るか分からない。……でも、二人で選んだんだ。明日の夜、食事に合わせて、まずは極めて微量から試そう」
「ええ! 望むところよ!」
窓の外では、冬の冷たい夜が崖の上の研究所を包み込んでいた。
上陸して二十三日が過ぎ、期限まで残り十七日。
ただ守られるだけの存在ではなく、自分の欲望と意志で、私たちは確かな覚悟を抱いて次の一歩へと踏み出そうとしていた。