発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様   作:神座鬼神

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第17話:最初の一滴と、かすれる声

1. 二十四日目の夜――最初の一滴の投与

 

 上陸して二十四日目の夜。

 崖の上の研究所には、暖炉の熾火(おきび)が放つ鈍い赤色だけが揺れていた。

 

 中央の丸机の上には、テオドールが昨日持ち帰った琥珀色の小瓶が置かれていた。

 赤い封蝋が削り落とされ、栓が抜かれている。

 部屋の中には、独特の苦々しい乾草の匂いが微かに漂っていた。

 

「……脈拍は、百十四」

 

 テオドールが懐中時計の秒針を見つめながら、私の手首から指を離した。

 その声は低く、慎重だった。

 私の下腹部の奥には、相変わらず煮え滾るような熱の塊が居座り、肌の表面は麻布の擦れすら針で刺されるように痛む。排卵サージの激しい波は、二十四日目の夜になっても衰える気配を見せていなかった。

 

「準備はいいかい、ローナ」

 

「ええ。いつでもいいわ」

 

 テオドールは細い硝子のスポイトを手に取り、琥珀色の小瓶の底から、濃褐色の液体を吸い上げた。

 そして、私の前に置かれた深皿――人肌より少し冷ました豚骨スープの澄んだ表面へ、慎重に先端を近づけた。

 

 ポタリ。

 わずか一滴。

 濃厚な琥珀色の滴がスープの油膜の上に落ち、淡い波紋を描いて溶け込んでいく。

 

「まずは、一滴だけだ。……巨体の種馬ですら十滴で腰を抜かすと言われた薬だ。スープで十分に薄めて、そのうちの一匙だけを試すんだ。そうすれば、一滴のさらに一部しか身体に入らない。ゆっくり口に含んでみておくれ」

 

 私は木のスプーンを手に取り、スープをひと匙すくって口元へ運んだ。

 舌に乗せた瞬間――豚骨の脂の奥から、舌根を刺すような鮮烈な苦味と、樟脳に似た冷たい香気が喉の奥へと広がった。思わず眉間に皺が寄るほどの渋苦さだ。

 けれど、私は吐き出すことなく、喉仏を動かしてそれを飲み込んだ。テオドールは私に一匙だけ飲ませると、残りの薬入りスープをすぐに机の端へと下げた。

 

「……すごく苦いわね。舌が少し痺れるみたい」

 

「水を用意してあるよ。……さあ、寝台に横になって、身体の変化を待とう」

 

 テオドールに支えられながら寝台へ移り、シーツを胸元まで引き上げた。

 時計のチクタクという規則正しい針の音だけが、静まり返った部屋に響いていた。

 

 

2. 熱の消火と、取り戻した夜

 

 投与から、およそ二時間。

 夜中の二時を回った頃――私の身体の内側で、はっきりとした変化が始まった。

 

「……あっ……」

 

 思わず声が漏れた。

 下腹部の奥で、二日間にわたって燃え盛っていたあの重い熱の火種が、まるで冷たい清流を注ぎ込まれたかのように、すうっと音を立てて鎮まり始めたのだ。

 身体の芯を苛んでいた暴力的な熱波が引いていく。

 それと同時に、首筋や胸元を覆っていたチリチリとした知覚過敏が急速に和らぎ、麻布の擦れが苦痛ではなく、柔らかい布の感触として肌に感じられるようになった。

 

 テオドールがすぐに私の手首を取り、時計を覗き込んだ。

 

「……脈拍八十二。……下がった。百を超えていた拍動が、正常値まで落ち着いている」

 

「テオ……お腹の熱が、本当に静まったわ。……息が、苦しくないの」

 

 私は深く息を吸い込んだ。

 胸を圧迫していた衝動と熱狂が消え、頭の中を覆っていた霧が晴れていく。

 ふと、私は自分の右手を持ち上げ、丸机の上にあるテオドールの素肌の手の甲へと、そっと指先を伸ばした。

 

「あっ、ローナ、肌に触れると痛むんじゃ……」

 

 テオドールが身を引こうとした。

 だが、私の指先が彼の皮膚に触れた瞬間――。

 痛まない。

 針で刺されるようなあの激痛も、首筋を駆け抜ける甘い痺れもない。ただ、テオドールの手のひらの、じんわりとした心地よい温もりだけが、真っ直ぐに伝わってきた。

 

「……痛くない」

 

「え……?」

 

「痛くないわ、テオ! 触っても、ちっとも痛くない!」

 

 私は嬉しさのあまり、彼の手首を両手でぎゅっと握りしめた。

 それだけでは飽き足らず、彼の手のひらを撫で、外套の袖をぐいぐいと引っ張った。何日も触れることすら恐れていた相手の温もりを、貪り食うように確かめる。

 

「ふふ、冷水手拭いもいらない! 衝立の向こうで震える必要もないわ! ねえ、テオ、明日の朝ごはんは何にする!? カリカリに焼いた塩豚がいいわ! それから、あの甘いパンも爪の先くらいなら分けてくれるでしょ? 明日は私、自分で歩いて台所までお代わりを取りに行くんだから!」

 

 私が丸机の上で欲張りにまくし立てると、テオドールは呆気に取られたように目を丸くし、それから心底安堵したように破顔した。

 

「はは……元気になった途端に、いつもの食い意地だね。分かったよ、塩豚でもパンでも、明日は君の好きなだけ用意するさ」

 

 テオドールが私の両手を温かく包み返してくれた。

 当たり前の会話。当たり前の接触。

 私たちが何としても守りたかった人間の暮らしが、すぐ手の届く場所に戻ってきたのだと信じて疑わなかった。

 その夜、私は満ち足りた笑顔のまま、上陸以来もっとも深い眠りへと落ちていった。

 

 

3. 二十五日目の朝――声のかすれと脚の強ばり

 

 翌朝――上陸二十五日目。

 東の窓から差し込む冬の淡い朝日が、部屋の中を白く染めていた。

 

 目を覚ました瞬間、身体の軽さに胸が躍った。

 下腹部の熱は完全に鎮静化しており、激しい疼きも、肌を刺すような空気の刺激もない。

 暖炉の前で鍋をかき混ぜているテオドールの背中が見えた。香ばしい塩豚の匂いが漂っている。

 

「おはよう、テオ!」

 

 昨夜の約束を思い出し、私は満面の笑みで元気に声を張り上げようとした。

 

「……テ、……ッ……?」

 

 ――え?

 自分の喉から出た音に、息が止まった。

 

 澄んだ鈴の音のような声が出ない。

 喉の奥から漏れ出たのは、カサカサと擦れた、かすかな空気の擦過音だけだった。

 風邪を引いた時のように喉が痛むわけではない。ただ、喉仏の奥にあるはずの「声帯」の張りがふにゃりと抜け落ち、息を吹き込んでも全く震えてくれないのだ。

 

「ゴホッ、ゴホッ……! ……テ……オ……?」

 

 咳払いをして、もう一度力を込めて呼んでみる。

 けれど、絞り出されたのは、乾いた枯れ葉を擦り合わせたような、掠れた嗄(か)れ声だった。

 

 私の咳き込む音に気づき、テオドールが勢いよく振り返った。

 

「ローナ!? どうしたんだい、声が……!」

 

「わ、……たし……こえ、が……」

 

 パニックが胸を突き上げる。

 私は寝台から飛び起きようと、シーツを跳ね除けて床へ両足を降ろした。

 立ち上がってテオドールの元へ駆け寄ろうとした――その瞬間。

 

 ガクン。

 

「きゃっ……!?」

 

 膝の力が抜け、床へ崩れ落ちそうになった。

 間一髪のところで駆け寄ってきたテオドールの腕が、私の身体を抱き止めた。

 

「ローナ! 危ない!」

 

「あし……あしが……動か、ない……」

 

 嗄れた声で訴えながら、自分の脚を見下ろす。

 膝と足首の関節が、まるで錆びついた蝶番のようにギシギシと強ばり、自分の意思で軽やかに動かすことができない。

 昨日まで小股によちよちと歩けていたあの柔軟な脚が、まるで重い棒切れのように強ばり、引きつっていた。

 

 

4. 突きつけられた現実――「弱めるつもりが」

 

「声が……出ないのか……? 脚も……?」

 

 私を抱きかかえて寝台の端に座らせたテオドールの顔から、サーッと血の気が引いていった。

 昨夜の穏やかな笑顔は消え去り、その瞳は信じられないものを見るように見開かれている。

 

「どうしてだ……? 声が……? 喉が、閉じてしまっているのか……?」

 

 テオドールは同じ問いを何度も呟きながら、慌てて机の上の黒い手帳とペンを取ろうとした。

 だが、その指先は目に見えて激しく震えており、ペン軸をうまく掴めず、紙の上にカチャリと落としてしまう。

 学者としての観察記録すらつけられないほど、彼の動揺は深かった。

 自分が選んで飲ませた薬が、目の前の彼女から言葉と歩行を奪った。その重苦しい事実が、彼の思考を麻痺させていた。

 

「ローナ、脚は……? 感覚はあるかい? 痛むのか? ……嘘だろ、熱を下げただけなのに、どうして……」

 

 混乱し、蒼白な顔で手を彷徨わせるテオドール。

 その姿を見た瞬間――私の胸の奥で、恐怖を押し退けて、猛烈な意地が突き上げてきた。

 

(――しっかりしなさいよ、テオドール……!!)

 

 声が出ない。

 喉に力を込めても、漏れ出るのはカサついた空気の擦過音だけだ。

 それでも私は、震える両手でテオドールの袖を力任せに引っ張った。

 引き寄せて、至近距離で彼を睨みつける。

 

「……テ……オッ!」

 

 掠れた息の音で呼びかけながら、私は丸机の上を指差した。

 文字の練習に使っていた、石板と石筆。

 テオドールは目を丸くし、ハッと息を呑んだ。

 彼は強ばる私の身体をしっかりと両腕で支え、倒れないよう慎重に机の椅子へと座らせてくれた。

 

 私は石筆を握りしめると、石板へ叩きつけるように走らせた。

 ガリガリと、石を激しく削る音が部屋に響く。

 ぎこちない、歪な文字。習いたての言葉を、命を削るように刻みつける。

 

『あきらめるな』

『わたしは まだ ここにいる』

 

 私は石板をバンと手のひらで叩き、テオドールを真っ向から見据えた。

 声が出なくても、脚が重くても、私はまだ生きている。海へ逃げ帰るつもりもない。勝手に終わったような顔をするな、と目で叱りつけた。

 

 テオドールは石板の文字をじっと見つめた。

 息を詰まらせ、やがて――震えていた両手をぎゅっと握りしめ、自ら深呼吸を繰り返した。

 取り乱していた瞳から恐怖の濁りが引き、自分の足で立ち直った学者の強い光が戻ってくる。

 

「……すまない、ローナ。……君の言う通りだ。僕が動揺している場合じゃない」

 

 テオドールは落としたペンを拾い上げ、机の上に置いた。

 そして、私の喉元にそっと触れ、強ばった膝の腱を指先で確かめた。

 

「……薬の追加投与は、絶対に中止だ。……ベルヘ草の成分が身体から抜ければ、薬効が切れて元に戻る余地があるかもしれない」

 

 テオドールは唇を噛み締め、手帳の記述と私の身体を交互に見つめた。

 

「……弱めるつもりが、身体を人間の形に保っていた維持機能まで、一緒に弱めてしまったんじゃないか……?」

 

「……?」

 

「ベルヘ草のチンキは、確かに暴走する熱を鎮めた。……でも、熱だけを都合よく消すことなんてできなかったのかもしれない。君のこの仮設声帯も、歩く脚も、あの激しい生殖の働きそのものが下支えしていたとしたら……。熱を力尽くで抑え込んだことで、声や脚を保つ力まで削ぎ落としてしまった可能性がある」

 

 それはまだ確定した結論ではない。

 けれど、目の前で起きている現実が、その不気味な可能性を突きつけていた。

 薬が抜ければ声と脚が戻るのか、それとも取り返しのつかない変化を引き起こしてしまったのか、誰にも分からない。

 

 窓の外を見上げると、冬の冷たい光が、二人の足元を容赦なく照らしていた。

 

 上陸して二十五日が過ぎた。

 人間でいられる期限まで、残り十五日。

 声は嗄れ、脚は強ばり、私たちはかつてない暗闇の前に立たされていた。

 けれど、石板に刻まれた歪な文字を真ん中に挟んで、私たちの戦いは、まだ何一つ終わっていなかった。

 

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