発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様   作:神座鬼神

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第5話:夜番の筆記と帰海の教え

観察日誌:一八四九年十月二十五日(収容第14日)

観測場所:沿岸博物学研究所・地下水槽室

観察・記録:主任研究員 アルベルト・マウラー

助手:カール・ヘンペル

被験体:所属未詳水生動物(検体A-01)

生体兆候:直腸温三十六度七分、脈拍毎分七十六回、自発呼吸数毎分十四回

行動観察:昼間の呼びかけに対する頑なな沈黙、給餌拒絶

 

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1. 沈黙の抵抗と夜番の筆記

 

 午前九時。地下水槽室には、換気口から差し込む冷たい外気と、海水の循環音だけが響いていた。

 水槽の底――深さ一メートルの青緑色の海水の中に、検体A-01は身を丸めて沈んでいた。

 銀緑色の長い髪が水中に広がり、青白い背中と二本の脚を覆い隠している。呼びかけに対しても、観察窓を軽く叩く音に対しても、彼女は身じろぎ一つしなかった。

 

「先生……やはり駄目です」

 助手カールが器具台の上の木製ボウルを見つめ、困惑したように息を吐いた。

 ボウルの中には、新鮮な牛レバーと卵黄を煮汁で練り合わせた特製の肉ペーストが入っている。

 

「昨夜から口を固く結んだまま、一口も食べようとしません。スロープに引き揚げようと滑車を巻けば、激しく身を捩って首枷の革を噛み千切らんばかりに暴れます。……完全に心を閉ざし、敵意を剥き出しにしています」

 

「心を閉ざす、か」

 マウラーは作業台に向かったまま、鋼ペンの先をインクに浸した。

「情緒的な表現だな、カール。捕獲された高等動物が示す典型的な受動的抵抗にすぎん」

 

「ですが先生、彼女が自発的に口を開くはずがありません。台の上に縛り付けられ、奇妙な歩行をさせられ、ただの肉の塊だと見下されたのです。知性を持った生き物が、そんな相手の質問に素直に答えるなどあり得ません!」

 

「当然だ」

 マウラーは冷淡に言い捨て、眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げた。

「相手の協力や信頼などという不確かなものに頼って記録を取るのは三流のやることだ。彼女が私を殺したいほど憎悪していようと、そんな主観的感情は研究において何の妨げにもならん。……私はただ、事実を拾い集めただけだ」

 

 マウラーは執務机の引き出しから、一冊の薄い手帳を取り出した。

 

「これを見ろ、カール」

 

 

2. 夜間の呟きと対峙

 

「これは……先生の手帳ですか?」

「そうだ。二十四日の未明、水槽室の衝立の陰で行った夜間監視の筆記記録だ」

 

 マウラーは手帳の頁をめくった。そこには、几帳面な筆致で、時刻ごとの記録がびっしりと書き留められていた。

 

「被験体は昼間、我々の前では冷徹な知性と頑なな沈黙を装っている。警戒心と、知性体としての誇りゆえだな。……だが、夜の暗闇の中、たった一人で水槽に残された時はどうだ?」

 

「え……?」

 

「彼女の肉体は、下腹部に強い熱感を帯び、激しい知覚の昂ぶりに晒されている。その上、見知らぬ地下室に囚われ、海から切り離されているのだ。強烈な不安と身体の疼きに耐えかねたとき、彼女は何をしていたと思う?」

 

 マウラーはペン先で、手帳の一行を指差した。

 

「人間へ訴えかけるためか、あるいは自らの記憶を確かめるためか、覚えたばかりの言葉を暗闇の中で必死に反復していたのだ」

 

 マウラーは感情を交えぬ平坦な声で、手帳の記述を読み上げ始めた。

 

「――一八四九年十月二十四日、午前二時十五分。被験体、水面から顔を出し、スロープの木枠に額を押し当てて小声で発声。

 ……『かえして……うみへ……わたしを、かえして……。おばば……いたいよ……あついよ……』」

 

 ――ピクリ。

 

 水槽の底で丸まっていた人魚の背筋が、凍りついたように強張った。

 水中に漂っていた銀緑色の髪が、微かな震えとともに引き締まる。

 

 マウラーは彼女の反応を確かめることもなく、事務的な調子で朗読を続けた。

 

「同日、午前三時十分の記録。水中で喉を鳴らすような独自の音響を発した後、水面へ顔を出し、再びドイツ語を呟く。

 ……『いわかげ……なぬか……しおの……ことば……』『しろい、こな……やきもの……たべては、ならぬ……』」

 

 ザバッ……と、重く静かな水音が室内に響いた。

 水槽のスロープの上に、人魚が両手をついて這い上がってきた。

 水面から現れたその顔には、先ほどの無関心な仮面はなかった。

 濃紺の瞳が、底知れぬ戦慄と冷たい怒りを孕んで、まっすぐにマウラーを射抜いている。濡れた素肌の上を、冷たい海水が無言で滴り落ちていた。

 

「……物陰で盗み聞きとは、陸の学者はずいぶんと下劣な真似をするのね」

 掠れたハスキーな声が、低く、冷ややかに響いた。

 

「下劣ではない。客観的な観察記録だ」

 マウラーは顔色一つ変えず、手帳をめくった。

「君が夜間に呟いていた言葉は何を意味している? 水中で発していた音は我々の言語体系とは異なるが、仲間や母への呼びかけか? そして、『岩陰』や『白い粉』とは何の伝承だ」

 

 

3. 人魚の証言と群れの教え

 

 人魚は水槽の木枠を細い指で強く掴み、マウラーを冷たく見据えた。

 力による脱走は不可能。沈黙による拒絶も、この執拗な学者の前では通用しない。自らの呟きすら拾い上げられていたことを知った彼女は、しかし、屈服したのではなく、この冷酷な男を動かして海へ帰るための「交渉」として、自ら口を開いた。

 

「……教えてあげるわ」

 人魚の声には、誇り高き知性の響きがあった。

「わたしたちが母から、長老から受け継いできた教えを。それを知れば、あなたがわたしをここに繋ぎ止めておくのが、どれほど無意味で愚かなことか分かるはずよ」

 

 マウラーは手帳を執務机に置き、ペンを構えた。「聞こう」

 

「わたしたちの身体が変わり始めた時……最初の七日は、決して人の前に姿を晒してはならないの。波打ち際の岩陰や桟橋の下に潜み、冷たい潮水に身を浸しながら、陸のサルの言葉を聞いて魂に刻むのよ。海にいる時は、空気の中で声を出す喉なんて持っていないから」

 

「ふむ。初期の潜伏と発声器官の形成、および周囲からの言語習得か。合致するな」

 マウラーがペンを走らせる。

 

「それから……『白い粉の練り焼き(パン)』を決して口にしてはならないという戒めよ。あれは陸の泥菓子。昔、陸へ上がった娘がそれを腹いっぱいに食べて、激しい目眩と吐き気で動けなくなり、腑を壊して死にかけた。わたしたちの身体は、陸の穀物を受けつけないの」

 

「一口で即座に死ぬ毒なのか? 誰の経験だ?」

 マウラーが鋭く問い返した。

 

「一口で死ぬわけじゃないわ。群れの昔語りよ。たくさん食べた娘がひどく苦しんで海へ逃げ帰ったと、おばばから聞かされたの」

 

「大量に食べた後、目眩と吐き気で動けなくなった、という伝えなのだな。一口で死ぬ毒とは区別して記録する」

 

 マウラーは冷静に書き留め、視線を上げた。

「そして、繁殖についてはどうだ。君たちはなぜ陸へ上がる?」

 

 人魚は唇を噛み、下腹部を抱えるようにして息を吐いた。

 

「身体が熱くなり、脚と声を得て陸にいられるのは……およそ四十日。その間に、陸の男を見つけなければならない」

 

「男を見つける? 同種の雄は存在しないのか」

 

「海に男なんていないわ」

 人魚は冷ややかに言い放った。

「わたしたちは、陸の男の種をもらって、はじめて腹の中に子を宿すの。生まれてくるのは、すべて母と同じ姿をした娘だけよ」

 

「人間の種を必要とし、生まれるのは母に似た娘ばかりだというのだな。証言として記録する。子がどのように生じるかは、まだ分からん」

 マウラーは淡々とペンを走らせた。

 

「種をもらって子を宿せば、四十日を待たず、脚が寄り、陸の声も衰え始めるの。だから、すぐ海へ帰るわ」

 人魚は身を乗り出し、必死にマウラーに言葉を投げかけた。その濃紺の瞳に、切実な光が宿る。

 

「……でも、もし男が見つからなくても、身体が壊れてしまう前に海へ帰れば、脚は元に戻り、海の中で生き続けられるのよ! 母も、そうやって海へ戻ってきたと言っていたわ! だから……海へ帰して! 四十日を過ぎて陸に留まれば、身体が焼けて、溶けて消えてしまう! 今すぐ海へ帰れば、わたしは助かるのよ……!」

 

 

4. 救命の認識と冷酷なる拒否

 

 水槽室が静まり返った。

 人魚の必死の訴えが、石の壁に反響して消えていく。

 

「先生……!」

 助手カールが蒼白な顔で叫んだ。

「彼女の言う通りです! 海へ戻せば、彼女は助かるんですよ! 脚が元に戻り、海の中で生き続けられると……彼女自身が証言したじゃありませんか! 今すぐ海岸へ連れて行けば――」

 

「静かにしろ、カール」

 

 マウラーの冷淡な声が、カールの言葉を遮った。

 マウラーは手帳にすべての証言を書き留めると、静かにペンを置いた。

 

「証言としては極めて整っており、一貫性がある。陸上活動の限界がおよそ四十日であること。そして、受胎の有無にかかわらず、破綻する前に海へ戻せば海棲形態へと退縮し、生命を維持できるという口伝。……なるほど、海水の浮力と塩分環境に戻すことが、彼女の身体を救う確実な道であることは十分に理解できた」

 

「先生……! では……!」

 カールの顔に、そして人魚の瞳に、微かな希望の光が差しかけた。

 

 しかし――。

 マウラーは冷ややかに手帳を閉じ、眼鏡の奥の氷のような双眸で二人を見据えた。

 

「だが、海へ戻せば、この先陸上でこの肉体がどうなるのかを観察できなくなる」

 

「……え?」

 人魚の表情が凍りついた。

 

「君は言ったな。『四十日を過ぎて陸に留まれば、身体が焼けて溶けて消えてしまう』と」

 マウラーは淡々と告げた。

「その現象が、いかなる過程を経て起こるのか。陸上に留まり続けた肉体が、重力と乾燥の下でどのように崩壊し、いかなる結末を迎えるのか。……それを見届けることこそが、私の観察の目的だ。海へ帰してしまえば、すべては水底の闇に消え、二度と記録できなくなる」

 

「あ……」

 人魚の口から、掠れた息が漏れた。

 希望の光は一瞬にして打ち砕かれ、底知れぬ絶望と恐怖がその顔を覆い尽くした。

 

「悪魔……。あなた、知っていて……わたしが助かると知りながら……見殺しにするために、ここに閉じ込めるの……!?」

 

「見殺しではない。私はただ、起きる現象を一秒たりとも見逃さずに記録するだけだ」

 マウラーは事務的な声でカールに向き直った。

 

「カール、給餌を再開しろ。肉ペーストを無理にでも摂取させろ。……彼女が教えてくれた『四十日』の猶予を、無駄にしてはならんからな」

 

「……っ……」

 カールは絶句し、拳を震わせた。

 

 水槽の中で、人魚は自らの下腹部を抱え込み、音もなく涙を流しながら、冷たい海水の奥へとゆっくり沈んでいった。

 助かる道を知りながら、それを観察のために完全に閉ざした生物学者。

 冷酷なる日誌に、破滅への決定的な転機が刻みつけられた。

 

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