発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様 作:神座鬼神
1. 二十四日目の夜――最初の一滴の投与
上陸して二十四日目の夜。
崖の上の研究所には、暖炉の熾火(おきび)が放つ鈍い赤色だけが揺れていた。
中央の丸机の上には、テオドールが昨日持ち帰った琥珀色の小瓶が置かれていた。
赤い封蝋が削り落とされ、栓が抜かれている。
部屋の中には、独特の苦々しい乾草の匂いが微かに漂っていた。
「……脈拍は、百十四」
テオドールが懐中時計の秒針を見つめながら、私の手首から指を離した。
その声は低く、慎重だった。
私の下腹部の奥には、相変わらず煮え滾るような熱の塊が居座り、肌の表面は麻布の擦れすら針で刺されるように痛む。排卵サージの激しい波は、二十四日目の夜になっても衰える気配を見せていなかった。
「準備はいいかい、ローナ」
「ええ。いつでもいいわ」
テオドールは細い硝子のスポイトを手に取り、琥珀色の小瓶の底から、濃褐色の液体を吸い上げた。
そして、私の前に置かれた深皿――人肌より少し冷ました豚骨スープの澄んだ表面へ、慎重に先端を近づけた。
ポタリ。
わずか一滴。
濃厚な琥珀色の滴がスープの油膜の上に落ち、淡い波紋を描いて溶け込んでいく。
「まずは、一滴だけだ。……巨体の種馬ですら十滴で腰を抜かすと言われた薬だ。スープで十分に薄めて、そのうちの一匙だけを試すんだ。そうすれば、一滴のさらに一部しか身体に入らない。ゆっくり口に含んでみておくれ」
私は木のスプーンを手に取り、スープをひと匙すくって口元へ運んだ。
舌に乗せた瞬間――豚骨の脂の奥から、舌根を刺すような鮮烈な苦味と、樟脳に似た冷たい香気が喉の奥へと広がった。思わず眉間に皺が寄るほどの渋苦さだ。
けれど、私は吐き出すことなく、喉仏を動かしてそれを飲み込んだ。テオドールは私に一匙だけ飲ませると、残りの薬入りスープをすぐに机の端へと下げた。
「……すごく苦いわね。舌が少し痺れるみたい」
「水を用意してあるよ。……さあ、寝台に横になって、身体の変化を待とう」
テオドールに支えられながら寝台へ移り、シーツを胸元まで引き上げた。
時計のチクタクという規則正しい針の音だけが、静まり返った部屋に響いていた。
2. 熱の消火と、取り戻した夜
投与から、およそ二時間。
夜中の二時を回った頃――私の身体の内側で、はっきりとした変化が始まった。
「……あっ……」
思わず声が漏れた。
下腹部の奥で、二日間にわたって燃え盛っていたあの重い熱の火種が、まるで冷たい清流を注ぎ込まれたかのように、すうっと音を立てて鎮まり始めたのだ。
身体の芯を苛んでいた暴力的な熱波が引いていく。
それと同時に、首筋や胸元を覆っていたチリチリとした知覚過敏が急速に和らぎ、麻布の擦れが苦痛ではなく、柔らかい布の感触として肌に感じられるようになった。
テオドールがすぐに私の手首を取り、時計を覗き込んだ。
「……脈拍八十二。……下がった。百を超えていた拍動が、正常値まで落ち着いている」
「テオ……お腹の熱が、本当に静まったわ。……息が、苦しくないの」
私は深く息を吸い込んだ。
胸を圧迫していた衝動と熱狂が消え、頭の中を覆っていた霧が晴れていく。
ふと、私は自分の右手を持ち上げ、丸机の上にあるテオドールの素肌の手の甲へと、そっと指先を伸ばした。
「あっ、ローナ、肌に触れると痛むんじゃ……」
テオドールが身を引こうとした。
だが、私の指先が彼の皮膚に触れた瞬間――。
痛まない。
針で刺されるようなあの激痛も、首筋を駆け抜ける甘い痺れもない。ただ、テオドールの手のひらの、じんわりとした心地よい温もりだけが、真っ直ぐに伝わってきた。
「……痛くない」
「え……?」
「痛くないわ、テオ! 触っても、ちっとも痛くない!」
私は嬉しさのあまり、彼の手首を両手でぎゅっと握りしめた。
それだけでは飽き足らず、彼の手のひらを撫で、外套の袖をぐいぐいと引っ張った。何日も触れることすら恐れていた相手の温もりを、貪り食うように確かめる。
「ふふ、冷水手拭いもいらない! 衝立の向こうで震える必要もないわ! ねえ、テオ、明日の朝ごはんは何にする!? カリカリに焼いた塩豚がいいわ! それから、あの甘いパンも爪の先くらいなら分けてくれるでしょ? 明日は私、自分で歩いて台所までお代わりを取りに行くんだから!」
私が丸机の上で欲張りにまくし立てると、テオドールは呆気に取られたように目を丸くし、それから心底安堵したように破顔した。
「はは……元気になった途端に、いつもの食い意地だね。分かったよ、塩豚でもパンでも、明日は君の好きなだけ用意するさ」
テオドールが私の両手を温かく包み返してくれた。
当たり前の会話。当たり前の接触。
私たちが何としても守りたかった人間の暮らしが、すぐ手の届く場所に戻ってきたのだと信じて疑わなかった。
その夜、私は満ち足りた笑顔のまま、上陸以来もっとも深い眠りへと落ちていった。
3. 二十五日目の朝――声のかすれと脚の強ばり
翌朝――上陸二十五日目。
東の窓から差し込む冬の淡い朝日が、部屋の中を白く染めていた。
目を覚ました瞬間、身体の軽さに胸が躍った。
下腹部の熱は完全に鎮静化しており、激しい疼きも、肌を刺すような空気の刺激もない。
暖炉の前で鍋をかき混ぜているテオドールの背中が見えた。香ばしい塩豚の匂いが漂っている。
「おはよう、テオ!」
昨夜の約束を思い出し、私は満面の笑みで元気に声を張り上げようとした。
「……テ、……ッ……?」
――え?
自分の喉から出た音に、息が止まった。
澄んだ鈴の音のような声が出ない。
喉の奥から漏れ出たのは、カサカサと擦れた、かすかな空気の擦過音だけだった。
風邪を引いた時のように喉が痛むわけではない。ただ、喉仏の奥にあるはずの「声帯」の張りがふにゃりと抜け落ち、息を吹き込んでも全く震えてくれないのだ。
「ゴホッ、ゴホッ……! ……テ……オ……?」
咳払いをして、もう一度力を込めて呼んでみる。
けれど、絞り出されたのは、乾いた枯れ葉を擦り合わせたような、掠れた嗄(か)れ声だった。
私の咳き込む音に気づき、テオドールが勢いよく振り返った。
「ローナ!? どうしたんだい、声が……!」
「わ、……たし……こえ、が……」
パニックが胸を突き上げる。
私は寝台から飛び起きようと、シーツを跳ね除けて床へ両足を降ろした。
立ち上がってテオドールの元へ駆け寄ろうとした――その瞬間。
ガクン。
「きゃっ……!?」
膝の力が抜け、床へ崩れ落ちそうになった。
間一髪のところで駆け寄ってきたテオドールの腕が、私の身体を抱き止めた。
「ローナ! 危ない!」
「あし……あしが……動か、ない……」
嗄れた声で訴えながら、自分の脚を見下ろす。
膝と足首の関節が、まるで錆びついた蝶番のようにギシギシと強ばり、自分の意思で軽やかに動かすことができない。
昨日まで小股によちよちと歩けていたあの柔軟な脚が、まるで重い棒切れのように強ばり、引きつっていた。
4. 突きつけられた現実――「弱めるつもりが」
「声が……出ないのか……? 脚も……?」
私を抱きかかえて寝台の端に座らせたテオドールの顔から、サーッと血の気が引いていった。
昨夜の穏やかな笑顔は消え去り、その瞳は信じられないものを見るように見開かれている。
「どうしてだ……? 声が……? 喉が、閉じてしまっているのか……?」
テオドールは同じ問いを何度も呟きながら、慌てて机の上の黒い手帳とペンを取ろうとした。
だが、その指先は目に見えて激しく震えており、ペン軸をうまく掴めず、紙の上にカチャリと落としてしまう。
学者としての観察記録すらつけられないほど、彼の動揺は深かった。
自分が選んで飲ませた薬が、目の前の彼女から言葉と歩行を奪った。その重苦しい事実が、彼の思考を麻痺させていた。
「ローナ、脚は……? 感覚はあるかい? 痛むのか? ……嘘だろ、熱を下げただけなのに、どうして……」
混乱し、蒼白な顔で手を彷徨わせるテオドール。
その姿を見た瞬間――私の胸の奥で、恐怖を押し退けて、猛烈な意地が突き上げてきた。
(――しっかりしなさいよ、テオドール……!!)
声が出ない。
喉に力を込めても、漏れ出るのはカサついた空気の擦過音だけだ。
それでも私は、震える両手でテオドールの袖を力任せに引っ張った。
引き寄せて、至近距離で彼を睨みつける。
「……テ……オッ!」
掠れた息の音で呼びかけながら、私は丸机の上を指差した。
文字の練習に使っていた、石板と石筆。
テオドールは目を丸くし、ハッと息を呑んだ。
彼は強ばる私の身体をしっかりと両腕で支え、倒れないよう慎重に机の椅子へと座らせてくれた。
私は石筆を握りしめると、石板へ叩きつけるように走らせた。
ガリガリと、石を激しく削る音が部屋に響く。
ぎこちない、歪な文字。習いたての言葉を、命を削るように刻みつける。
『あきらめるな』
『わたしは まだ ここにいる』
私は石板をバンと手のひらで叩き、テオドールを真っ向から見据えた。
声が出なくても、脚が重くても、私はまだ生きている。海へ逃げ帰るつもりもない。勝手に終わったような顔をするな、と目で叱りつけた。
テオドールは石板の文字をじっと見つめた。
息を詰まらせ、やがて――震えていた両手をぎゅっと握りしめ、自ら深呼吸を繰り返した。
取り乱していた瞳から恐怖の濁りが引き、自分の足で立ち直った学者の強い光が戻ってくる。
「……すまない、ローナ。……君の言う通りだ。僕が動揺している場合じゃない」
テオドールは落としたペンを拾い上げ、机の上に置いた。
そして、私の喉元にそっと触れ、強ばった膝の腱を指先で確かめた。
「……薬の追加投与は、絶対に中止だ。……ベルヘ草の成分が身体から抜ければ、薬効が切れて元に戻る余地があるかもしれない」
テオドールは唇を噛み締め、手帳の記述と私の身体を交互に見つめた。
「……弱めるつもりが、身体を人間の形に保っていた維持機能まで、一緒に弱めてしまったんじゃないか……?」
「……?」
「ベルヘ草のチンキは、確かに暴走する熱を鎮めた。……でも、熱だけを都合よく消すことなんてできなかったのかもしれない。君のこの仮設声帯も、歩く脚も、あの激しい生殖の働きそのものが下支えしていたとしたら……。熱を力尽くで抑え込んだことで、声や脚を保つ力まで削ぎ落としてしまった可能性がある」
それはまだ確定した結論ではない。
けれど、目の前で起きている現実が、その不気味な可能性を突きつけていた。
薬が抜ければ声と脚が戻るのか、それとも取り返しのつかない変化を引き起こしてしまったのか、誰にも分からない。
窓の外を見上げると、冬の冷たい光が、二人の足元を容赦なく照らしていた。
上陸して二十五日が過ぎた。
人間でいられる期限まで、残り十五日。
声は嗄れ、脚は強ばり、私たちはかつてない暗闇の前に立たされていた。
けれど、石板に刻まれた歪な文字を真ん中に挟んで、私たちの戦いは、まだ何一つ終わっていなかった。