発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様 作:神座鬼神
1. 冷めかけた塩豚と、空回る診察
上陸二十五日目の朝。
崖の上の研究所には、暖炉の薪が爆ぜる音と、乾いた紙をめくる音だけが響いていた。
机の端に置かれた平皿の上では、昨夜私が歓喜してねだった塩豚が、すっかり冷めかけていた。
豚の脂が白く固まり始め、香ばしい匂いだけが微かに部屋に残っている。
目の前では、テオドールが血相を変えて手帳と懐中時計を握りしめ、私の顔を凝視していた。
「……脈拍、七十八。呼吸は浅いが規則的だ。瞳孔の散大は……目立った異常はない」
テオドールは呟きながら、私の首筋に冷たい聴診器を当て、胸の音に耳を澄ませていた。
今朝の取り乱しこそ収まったものの、失敗への恐怖が彼を極限まで硬直させていた。もう二度と見落としをするまいと、学者としての確認作業にすべての意識を集中させている。
私の喉元を指先で慎重に触診し、それから膝の関節を曲げ伸ばしして強ばり具合を記録していく。
「ローナ、喉の奥に圧迫感はあるかい? 気道が塞がれている感覚は……」
私が声を出せないことを思い出し、テオドールはハッと息を呑んで首を振った。
「すまない、喋らなくていい。首を縦か横に振るだけでいいんだ。……痛みはあるかい?」
私は首を横に振った。
痛みはない。風邪のように熱っぽいわけでもない。
ただ喉仏の周りの筋肉から張りが消え失せ、声帯が息を捉えてくれないだけだ。
そして――それよりも何よりも。
ぐうう、と私の腹が盛大に鳴った。
昨夜は一滴の希釈スープをひと匙口にしただけで、深い眠りに落ちてしまったのだ。空腹で胃袋がねじれそうだった。
私は丸机の端を指差し、冷めかけた塩豚の皿をじっと見つめた。
それから、テオドールに向けて指先を突き出す。
「……ッ、……!」
声は出ない。擦れた空気の音が喉から漏れるだけだ。
テオドールは私の視線に気づき、眉をひそめて皿を見つめた。
「……皿? ああ、匂いが鼻について気分が悪いのかい? すぐ片付けるよ。油の匂いは吐き気を催しやすいからね」
テオドールが立ち上がり、皿を下げようと手を伸ばした。
違う。そうじゃない。
私は慌てて彼の外套の袖を引っ張り、首をぶんぶんと横に振った。
皿を指差し、自分の口元を指差し、もう一度皿を指す。
「えっ……? 喉が渇いたのかい? ぬるい白湯なら今すぐ用意できるけれど……」
ちがう。白湯じゃない。
テオドールの先回りは、心配が深すぎるあまり、ことごとく明後日の方向へ飛んでいく。
私は痺れを切らし、丸机の上に置いてあった石板を引き寄せた。
石筆を力任せに握りしめ、白い粉を飛ばしながら文字を刻みつける。
『ちがう』
『にく』
『たべる』
『ちいさく きれ』
私は石板をテオドールの胸元に突き出した。
テオドールは眼鏡を押し上げ、石板の文字を凝視した。
一秒、二秒。
やがて、信じられないものを見たように目を丸くした。
「……肉……? 君、こんな時に、お腹が空いたのかい……?」
私は真顔で頷いた。
空くに決まっている。朝ごはんに塩豚を食べると約束したのは彼だ。
声が出なかろうが、脚が重かろうが、胃袋はしっかり人間の肉食のままで動いている。食べなければ戦えない。
「……は、はは……」
張り詰めていたテオドールの肩から、ふっと力が抜けた。
乾いた笑いが彼の唇から漏れ、青ざめていた頬にようやく人間らしい赤みが差した。
「参ったな……。僕がどれだけ青ざめていたか、君はまるで分かっていないね」
テオドールは呆れたように首を振りながらも、すぐに台所からナイフと小皿を持ってきた。
冷えた塩豚をまな板に乗せ、私の喉に引っかからないよう、親指の爪ほどの大きさに手際よく刻んでいく。
カリカリに焼かれた端の香ばしさと、豚の塩気が小皿の上に山盛りになった。
「はい、どうぞ。脂が固まっているから、ゆっくり噛むんだよ」
私は木のスプーンで刻んだ塩豚をすくい、口の中へ放り込んだ。
冷めてはいたけれど、噛み締めるたびに染み出す濃厚な塩気と肉の脂が、空っぽの胃袋に染み渡っていく。
美味い。やっぱり陸の火を通した豚肉は最高だ。
私が満足そうに頬袋を膨らませて咀嚼する姿を、テオドールは手帳のペンを止めて、どこか救われたような目で見つめていた。
2. 昼下がりのずれ――生まれた隙間
異変が動き始めたのは、昼を過ぎた頃だった。
冬の淡い日差しが部屋の中央へ差し込み、暖炉の火が穏やかに燃えている。
テオドールが薬種商から持ち帰ったベルヘ草のチンキは、巨体の家畜ですら十滴で腰を抜かす強烈な代物だった。
けれど、昨夜私が口にしたのは、スープで薄めたもののうち、わずか「一匙」に過ぎない。
朝から幾時間かが過ぎ、時計の針が静かに進んでいくうちに――。
「……あ……」
寝台の端に腰掛けていた私の喉の奥で、小さな変化が起きた。
喉仏を締め付けていたあの冷たい強ばりが、ふっと解けたのだ。
「……あ……テ、オ……」
掠れてはいる。けれど、朝のような乾いた空気の摩擦音ではない。
かすかな濁音を伴った、確かな声が喉から零れ落ちた。
暖炉の前で本を読んでいたテオドールが、弾かれたように顔を上げた。
「ローナ……!? 今、声が……!」
「……テ……オ。……声……少し、出た……」
まるで何日も水を飲んでいなかった旅人のように嗄れてはいたけれど、自分の意思で音を紡ぎ出すことができた。
テオドールが駆け寄り、私の膝元に膝をついた。
「声帯の緊張が戻ってきているんだ……! 脚はどうだい? 足首を動かせるかい?」
私は恐る恐る、右足の爪先を床の上で持ち上げてみた。
朝は鉄の棒のように突っ張っていた足首が、わずかに上下へ動いた。感覚が消えていたわけではない。関節を固めていた強烈な脱力が、潮が引くように緩んでいるのだ。
「……立てる、かしら」
「無理をしちゃいけない。僕の肩に掴まって」
テオドールが私の両脇に腕を差し入れ、身体を引き上げてくれた。
私は彼の肩に両手をかけ、慎重に床へと爪先を降ろす。
足の裏が板張りの床に触れた。
「……っ……」
まだ一人で歩き回ることはできない。膝の関節が頼りなく震える。
けれど、テオドールに脇を支えてもらえれば、確かに自分の両脚に体重を乗せることができた。崩れ落ちることはない。
そして――それと同時に。
下腹部の奥深くで、すっかり静まり返っていたはずのあの重い熱が、鈍い脈動を再開し始めていた。
炭火の灰の奥で、眠っていた赤い火種が再び目を覚ましたような、じわりとした温かさ。下腹部の熱が、ゆっくりと戻り始めていた。
けれど、その時。
私はテオドールの肩を掴んでいた自分の手に、ふと違和感を覚えた。
「……あれ?」
「どうしたんだい、痛むのか?」
テオドールが心配そうに私を見上げた。
彼の首筋と、私の手のひらが直接触れ合っている。
だが――痛まない。
いや、まったく何も感じないわけではない。
昨夜の完全な鎮静状態に比べれば、肌の表面に微かなチリチリとした熱さはある。
けれど、二十三日目や二十四日目のように、触れただけで飛び上がるような激痛や、脳を焼き尽くすほどの過敏な刺激は、まだ戻ってきていなかった。
「……テオ。痛くないわ」
「え……?」
「声は、こうして少し出るようになったでしょ? 脚にも体重がかけられる。お腹の熱も、少し戻ってきたみたい。……なのに、あんたの肌に触っても、まだあの針で刺されるような痛みがないの」
テオドールは息を呑み、私の顔と自分の肩を見つめ直した。
すべてが一斉に元通りになったわけではない。
声と脚の自由が戻り始める時間と、過敏痛が凶悪な勢いを取り戻す時間との間に、明らかな「ずれ」が存在していた。
「……作用の、時間差か……?」
テオドールが呟いた。
それは確定した学術理論ではない。彼の手帳にもまだ書かれていない、私たちの身体だけが知っている生きた変化だった。
けれど、そのずれは、私たちの胸にひとつの小さな光を灯した。
生殖の熱と、声や脚の機能は、完全にひとまとめの不可分なスイッチではないのかもしれない。
力任せに全てを消し去れば声も脚も失われるが、戻りつつある今のように、声や脚を保ちながら過敏痛を抑え込める「狭い隙間」が、どこかに存在するのではないか。
もちろん、それだけで上陸期間を延ばせる証拠にはならない。
けれど、今朝の絶望的な暗闇に、確かにひとすじの風穴が開いた瞬間だった。
3. 確かめたい声、聞きたい値段
テオドールが私を寝台に座らせると、彼の表情には学者としての抑えきれない興奮が滲み出していた。
「ローナ、いくつか発声の確認をさせてほしい。喉仏に指を当てるよ。……『あ』と『い』の母音を、少し長めに発声してみてくれるかい?」
「……あー。……いー」
私が素直に音を出すと、テオドールは手帳に素早くペンを走らせた。
「音の伸びはまだ少し粗いが、仮設声帯の振動は明らかに正常へ近づいている。息を吐き出す時の胸の違和感はどうだい? 肺の底に引っかかりはあるかい?」
「……ううん、息は苦しくないわ」
「素晴らしいよ。一匙の希釈液でこれだけの劇的な変化と、そこからの自発的な回復曲線を描くなんて……。次は子音だ。『か』と『さ』の行を――」
テオドールが熱心に次の頁を開こうとした。
その瞳は輝き、朝の青ざめた表情が嘘のように生き生きとしている。
彼のそういう学者らしい探究心は嫌いじゃない。むしろ頼もしいとすら思う。
けれど、二言三言付き合っているうちに、私の胸の奥で別の思いがむくむくと鎌首をもたげてきた。
――声が出せるようになったのなら。
今、この喉で真っ先に確かめなければならないことがある。
「……ねえ、テオ」
「ん? どうしたんだい? 喉が渇いたなら――」
「声が戻ったかって、さっきから返事してるでしょ」
私は少し喉を鳴らし、掠れた声に精いっぱいの力を込めて言った。
「それより、あの骨はいくらで買い戻せるの?」
テオドールのペンの先が、紙の上でピタリと止まった。
彼は顔を上げ、戸惑ったように眼鏡の奥の目を瞬かせた。
「……え? 骨って……深海魚の標本のことかい?」
「そうよ。他に何があるの」
「ローナ、今は君の身体の記録が最優先だ。薬効が抜ける時間と声帯の回復度合いを正確に測っておかないと、次の投薬の判断ができない。標本のことは、君の身体が完全に元通りになってから考えればいい」
テオドールは優しく宥めるように言い、再び手帳へ視線を落とそうとした。
私は寝台から身を乗り出し、彼の机の端を手のひらでピシャリと叩いた。
「元気になるまで待つなんて嫌よ! ほかの人に売られたらどうするの!」
「ローナ……」
「あのおじいさんのお店、珍しい薬や古い道具がたくさんあったんでしょ? あんなに綺麗に磨いた魚の骨、お金持ちの学者や物好きが見つけたら、すぐに買っていっちゃうじゃない! 『後で買い戻します』なんて言っておかないと、手遅れになるわ!」
掠れた声でまくし立てる私を、テオドールは呆気に取られたように見つめていた。
けれど、彼の瞳の奥に、ただ困惑しているだけではない色が灯るのを、私は見逃さなかった。
「……売られる、か」
テオドールが小さく呟いた。
彼の手が、インクの染みた自分の指先を無意識に強く握りしめる。
「……あの標本は、僕が半年間かけて骨の一本一本を薬品で洗い、ピンセットで組み上げたものだ。深海魚の頭骨の軟骨結合は極めて脆くて、少しでも乾燥の度合いを誤れば粉々に砕けてしまう。……それを防ぐために、徹夜で湿度を保ちながら仕上げたんだ」
語るテオドールの声には、隠しようのない未練と愛着が滲んでいた。
彼だって、諦めたわけじゃないのだ。
私のために手放す決断をしたけれど、心血を注いだ研究の成果を、本当は誰よりも愛している。
「春の王立学会の年次大会……。論文の提出期限は、来月の末だ。もし、それまでに標本を手元に取り戻せるなら……僕はあの骨と一緒に、深海魚の頭骨構造に関する研究を発表したい。学術院の教授たちに、僕の研究を認めさせたいんだ」
テオドールが顔を上げ、私をまっすぐに見つめ返した。
そこには、ただ私を庇護する看病者ではなく、自分自身の野心と欲望を持ったひとりの若き学者の顔があった。
「……でしょ? だったら、うかうか待ってる暇なんてないじゃない!」
私は得意げに胸を張った。
テオドールは一瞬虚を突かれたように目を見張り、それから吹き出すように笑った。
「はは……そうだね。君の言う通りだ。他人に買い取られてから後悔しても遅い」
テオドールは手帳を閉じ、机の引き出しから新しい羊皮紙とペンを取り出した。
「手紙を書こう。薬種商の店主へ宛てて、取り置きの交渉をするんだ」
4. 羊皮紙の交渉と、託された手紙
部屋の中央にある丸机に、ランプの灯りが落ちていた。
私とテオドールは肩を並べて机に向かい、一枚の白い羊皮紙を覗き込んでいた。
ペン先にインクを浸したテオドールが、さらさらと流麗な文字を走らせていく。
「まずは、昨日の礼だ。ベルヘ草のチンキの譲渡に対する感謝。……それから、本題だね」
「いくらで買い戻せるか、はっきり書いてね! 銀貨何枚必要なの!」
私が横から口を挟むと、テオドールは苦笑しながらペンを動かした。
「分かっているよ。『昨日お預けした深海魚の完全骨格標本について、しかるべき対価を支払って買い戻したく存じます。つきましては、正当な買戻し金額をご教示いただきたく……』」
「あと、埃をかぶせないでって書いて! ガラスケースの一番いい場所に置いて、誰の手にも触れさせないでって!」
「そんな無茶な注文は書けないよ、ローナ。相手は商売人なんだから」
「じゃあ、『必ず買い取るから、他の誰にも売るな』って強く書いてよ! 約束を破ったら承知しないんだから!」
「……表現を少し柔らかくするよ。『当方の研究において唯一無二の資料であり、春の学術大会への提出を期しております。甚だ勝手を申し上げますが、来月末まで他者への売却をお控えいただき、当方への譲渡を優先していただけないでしょうか』……これでどうだい?」
テオドールが顔を向けてきたので、私は腕を組んで満足そうに頷いた。
「うん、いいわ。来月末ね。それまでに私が海へ潜って、銀貨をごっそり稼げるくらいの大魚を獲ってくればいいんでしょ?」
「君が海へ行くのは、身体が万全になってからだよ」
テオドールは笑いながら、手紙の末尾に自分の名前をしっかりとサインした。
それから蝋燭の火で赤い封蝋を溶かし、手紙を三つ折りに畳んで真鍮の印章を押し当てた。
冷えて固まった赤い蝋が、二人の約束を封じるように机の上で鈍く光った。
「さて……問題は、この手紙をどうやって届けるかだね。僕が町まで歩いて持っていけば、半日は家を空けることになる。君を一人にしておくわけにはいかない」
「あ、それなら大丈夫よ。ほら、そろそろ時間じゃない?」
私が窓の外を指差すと、折よく崖の下の街道から、ガタゴトと重い車輪の軋む音が響いてきた。
麓の漁村と港町を往復している、定期の連絡馬車だ。週に二回、夕暮れ時にこの研究所の前の道を通って郵便や小荷物を運んでくれている。
「そうか、今日は火曜日だったね」
テオドールは手紙を手に取り、コートを羽織って足早に玄関を出ていった。
窓から見下ろすと、夕焼けに染まる坂道で、テオドールが馬車の御者に銅貨を二枚渡し、手紙を託す姿が見えた。
御者が手紙を受け取り、帽子に手を当てて馬車を走らせていく。
やがて、冷たい夜風を連れてテオドールが部屋に戻ってきた。
その顔には、朝の恐怖も先ほどの焦りもなく、どこかすがすがしい決意の色が浮かんでいた。
「御者に頼んできたよ。明日の朝一番には、薬種商の店主の手元に届くはずだ」
「ふふ、よくやったわ、テオ!」
私は寝台から立ち上がろうとして、やっぱり少しよろめいた。
テオドールが慌てて駆け寄り、私の腰をしっかりと支えてくれる。
下腹部の奥には、確かにあの重い熱が再び息づき始めている。けれど、テオドールの腕の温もりは、まだ痛むことなく私の肌に伝わっていた。
上陸して二十五日目が暮れていく。
四十日の期限まで、残り十五日。
声はまだ少し嗄れていて、脚も思うようには動かない。
薬種商がどんな返事をしてくるかも、手放した骨を取り戻せるかも、まだ誰にも分からない。
けれど、私たちは机の上に手帳とペンを広げ、立ち止まることなく次の一歩を踏み出していた。
失われたものを取り戻し、手に入れたい未来を自分たちの手で掴み取るために。