発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様 作:神座鬼神
観察日誌:一八四九年十一月一日(収容第21日)
観測場所:沿岸博物学研究所・地下水槽室(特別観察ケージ)
観察・記録:主任研究員 アルベルト・マウラー
助手:カール・ヘンペル
被験体:所属未詳水生動物(検体A-01)
環境条件:室温十八度、湿度八十五パーセント、換気口最大開放
生体兆候:直腸温三十七度八分、脈拍毎分九十八回、自発呼吸数毎分二十八回(頻呼吸)
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1. 夜明けからの急変
地下水槽室の扉を開けると、カールは足を止めた。
窓を開けていても、室内には以前からの甘い芳香が強く残っている。
「先生、夜番の者が、朝から様子が変わったと……」
「夜明け前から眠れていない。呼びかけへの返事も途切れる。時計を出せ」
マウラーは石造の槽の傍らに立っていた。
人魚は、測定のため一時的に移された観察用の囲いの中で、布を握って横たわっている。濡れた髪が額に張り付き、息は短かった。
「……あつい」
カールは膝をついた。
数日前、彼女はこの部屋で、自分を海へ帰すよう筋道を立てて訴えた。その時と同じ瞳が、今は彼の顔を探すように揺れていた。
「ここにいます」
「眠れないの。ずっと……」
それだけ言うと、彼女は目を閉じた。だが、すぐにまた開いた。
水を換える音や廊下の足音のたびに肩がこわばり、休息は続かなかった。
「昨夜より反応が強い」
マウラーが帳面に書いた。
「時刻を添えて記録しろ」
2. 接触への反応と計測
カールが寒暖計を用意しようと腕に触れると、人魚は短く叫んで手を引いた。
「触らないで。今は……痛い」
「乱暴にはしていません。どうして……」
「軽い接触でも苦痛を訴える。どこへ、どの程度触れたかを記せ」
マウラーは彼女の呼吸が少し整うのを待ち、脈と体温を測った。検査中だけ右腕を革帯で支え、終えると緩めさせた。
「直腸温三十七度八分。脈は一分間に九十八。呼吸は二十八」
カールは数字を書き留めた。
「この熱は、いつまで続くのですか」
「まだ分からん。だが、眠れず、身体を休められない状態が続けば消耗する」
マウラーは、人魚の額の汗を見た。
「初日にも局所の熱感はあった。今日、初めて生じたわけではない。これまでと強さが変わっている」
「だったら、休ませることを先に……」
「変化した時こそ、記録を欠かすな」
カールのペン先が止まった。
人魚はその会話を聞き、布を握り直した。
3. 鎮まらない症状
本人は欲求を鎮めようと自慰を試みたが、その後も熱感と落ち着かなさは引かず、苦痛を訴えた。マウラーは時刻と、症状が続いていることを短く記した。
「……これでも、駄目なの」
彼女の小さな声に、カールが顔を上げた。
「自分で鎮めようとしたのに、まだ苦しいと言っています」
「今回の試みでは、症状は鎮まらなかった。その事実を記録する」
マウラーは帳面を指で押さえた。
「彼女が話したのは、人間の種を得て子を宿した後に、脚と声が衰え始めるという経過だ。今の反応を、その証言と同じ変化だとは扱えん」
「その仕組みが分からなくても、助ける道は聞いたはずです」
カールは机の上の手帳へ目を向けた。
十月二十五日の問答は、そこに残っていた。彼自身も、その場に立ち会っていた。
4. 帰海の要求と観察の継続
人魚は囲いの格子へ手を伸ばした。
「カール……」
名前を呼ばれ、彼はもう一度膝をついた。
「お願い。海へ帰して」
腕を差し出せば届く距離だった。
カールは彼女の指に触れかけ、さっきの痛みの訴えを思い出して手を止めた。
「先生、冷たい水で少しでも熱を和らげ、休ませましょう。そして海へ移すべきです。あの朝、先生も聞いたでしょう。身体が壊れる前に戻れば生きられると」
「冷水と休息は一時の緩和になるかもしれん。だが、海へ戻すことは許さん」
「なぜですか。彼女の話を認めたではありませんか」
カールは鍵へ手を伸ばした。
その手首を、マウラーが掴んだ。
「海へ戻せば、この先陸上でこの肉体がいかなる経過を辿るのか、見届けられなくなる」
「見届けるために、ここへ置くのですか」
「そのための観察だ」
カールは上司の手を見下ろした。
人魚の身体からは、何も新しい数値を取る必要のないほど明白な苦痛が伝わってきた。それでも、この男は鍵を渡さなかった。
「……助けて」
声は格子の向こうから届いた。
マウラーは人魚へ顔を向け、懐中時計を開いた。
「短い呼びかけには応じる。本人から帰海の要求あり。記録しろ」
「先生……」
「測定後は槽へ戻す。休息中も、呼吸と発声の変化を記せ」
人魚の瞳が、開かれた時計からマウラーの顔へ動いた。
自分の頼みが、数字と同じ欄へ収められていくのを見ていた。
カールは鍵を受け取り、彼女を水槽へ戻す支度をした。
海へ向かう扉は閉じたままだった。