発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様   作:神座鬼神

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第2話:発光クラゲの標本と、銀貨三枚の取引

1. 五日目の朝食と、分厚い肉への執着

 

 上陸して五日目の朝。

 私は純白の羽毛布団の中で、のんびりとあくびを噛み殺していた。

 

「……ふあぁ……今日も、暖かいわ……」

 

 部屋の隅にある暖炉からは、ナラの薪がパチパチと心地よいリズムで爆ぜる音が聞こえる。

 最初の二日間に私を苛んでいた尾ひれの分離痛は、すっかり引き潮のように引いていた。

 布団から足を出し、木の床へそろりと降ろす。

 土踏まずのない平らな足底。指の間には薄い水かき。大股で歩こうとするとまだ膝がぐらつくが、足首に体重を乗せ、重心を左右に小刻みに揺らす「ペンギン歩き」をマスターしたおかげで、今では部屋の中なら壁に手をつかずに歩き回れるようになっていた。

 

 ペタッ、ペタッ、ペタッ。

 

 鏡台の前まで歩き、ガラスに映る自分の姿を眺める。

 青白かった肌には血色が戻り、濡れそぼっていた銀緑色の長髪も、櫛で梳かされてさらさらと肩に流れている。

 そして何より、喉の奥だ。

 作りたてだった仮設声帯の充血が治まり、テオドールが毎日淹れてくれる蜂蜜ホットミルクのおかげで、人間とほとんど変わらないスピードで言葉を紡げるようになっていた。

 

「おはよう、ローナ。……あ、もう一人で歩いている。足の痛みは完全に引いたみたいだね」

 

 木製の扉が開き、テオドールがお盆を抱えて入ってきた。

 銀縁眼鏡をかけ、白いシャツの上に革のエプロンを着けた、真面目そのものの青年だ。

 盆の上には、湯気を立てる二つの陶器皿と、ミルクのカップ。

 

「待ってたわ、テオ! 今朝のご飯は何?」

 

 私は待ちきれず、テーブルの椅子に小走りで腰掛けた。

 テオドールが皿を置く。

 そこに乗っていたのは――親指ほどの長さに切られたカリカリのベーコンが二切れと、薄く削られた固いパンが一欠片。

 

「……テオ?」

 

「ん? どうしたんだい?」

 

「これ、少なすぎない? 私、昨日の夜言ったわよね? あの黄色い脂の乗った肉をもっと大きく切って、卵も落としてほしいって」

 

 私が皿を指差して抗議すると、テオドールは情けなそうに眉尻を下げて肩をすくめた。

 

「無茶を言わないでくれよ。僕の給料は帝国大学の助手基準、つまり最低水準なんだ。一昨日、君のためにベーコンを一塊買っただけで、今週の食費の半分が吹き飛んだんだよ。卵だって港町じゃ貴重品だし……僕の皿を見てごらんよ」

 

 テオドールの席を見ると、彼の皿にはベーコンすらなく、固くなったパンの端切れと薄い塩スープが載っているだけだった。

 

「僕だって本当は、毎朝たっぷり肉を食べたいよ。でも、薪だって木材屋の親父さんに頼み込んでツケで降ろしてもらっている状態なんだ。君を飢えさせるつもりはないけれど、これ以上贅沢をさせる余裕は、今の僕の財布にはないんだ」

 

「う……」

 

 テオドールに悪気がないことは分かっている。

 見ず知らずの遭難者の私に、自分の取り分を削って貴重な肉を分けてくれているのだ。

 けれど、完全肉食である人魚の胃袋は、こんな小鳥のエサのような量では到底満足してくれない。海にいた頃は、毎日何十匹もの生魚を丸呑みして熱を生み出していたのだ。

 

(この男にただねだっているだけじゃ、これ以上の肉も薪も手に入らないわね……)

 

 私はホットミルクを小さく舐めながら、じっとテオドールの顔を見つめた。

 お人好しで、生活費を必死にやりくりしている貧乏学者。

 けれど、彼には知識と腕がある。

 

「……ねえ、テオ」

 

「なに?」

 

「あなた、お仕事……研究が進めば、お金が入るんでしょ? 大学から手当が出たり、珍しい標本が高く売れたりするんじゃないの?」

 

「まあ、そうだけどね。新種の海洋生物を記載して論文を送れば特別手当が出るし、港の標本商に珍しい標本を納品すれば買い取り金が入る。……でも、そんなに都合よく貴重な獲物が手に入るわけじゃないよ」

 

 テオドールが溜息をつき、スプーンでスープを掬う。

 私はニヤリと唇の端を吊り上げた。

 

「手に入るわよ。私が手伝ってあげるんだから」

 

「え……? 君が?」

 

「そうよ! 初日の夜、深海魚の標本を救ってあげたのを忘れたの? 私、海の生き物のことなら、あなたの大学の先生よりずーっと詳しいんだから。私をもっと養いたいなら、二人で稼げばいいじゃない!」

 

 テオドールは目を丸くし、それから苦笑した。

 

「遭難して保護された身なのに、僕に『もっと稼げ』と提案する居候なんて、前代未聞だよ。……でも、ちょうどよかった。実は今朝、港の漁師から少し厄介な持ち込みがあってね。僕一人じゃ処置に困っていたところなんだ。ちょっと作業場に来てくれるかい?」

 

 

2. 溶けゆく発光生物と、海中の知恵

 

 テオドールに連れられて入った作業場は、アルコールと酢酸、そして微かな磯の匂いが満ちていた。

 壁一面の棚には、魚や甲殻類の標本瓶が整然と並んでいる。

 

 中央の解剖台の上。

 木製の桶の中に、海水とともに鎮座していたのは――半透明の、奇妙な塊だった。

 

「これだよ。今朝の引き網漁で、水深二百メートルの岩礁帯から揚がったらしい」

 

 テオドールが困惑した顔で桶を覗き込んだ。

 桶の中には、青白く透き通った巨大なクラゲのような生物が横たわっていた。傘の中心部には細かな器官と、青い光彩を帯びた斑点が透けて見えている。

 だが、その身体はすでに自らの重みで崩れかけ、縁からドロドロと濁った液体が溶け出していた。

 

「外見からして、深海性ヒドロ虫類の未記載種だと思う。生きていれば全身が青く発光するはずなんだが……引き揚げられたショックで自家融解を始めている。通常のアルコール液に入れると、水分が一気に抜けて白く濁り、ボロボロに崩れてしまうんだ。どう固定すればいいのか見当もつかない……」

 

 テオドールは頭を抱え、作業日誌の余白をペンでカリカリと引っ掻いた。

 深海生物は陸の気圧と温度に耐えられず、数時間でただのゼリーの残骸になってしまうのだ。

 

 私は桶の縁に手をかけ、鼻を近づけてくんくんと匂いを嗅いだ。

 

(ああ、これ……)

 

 海の中にいた頃の記憶が、鮮やかに蘇る。

 新月の夜、光の届かない深い岩棚の割れ目で、青い星屑のようにぽうっと点滅していた生き物だ。近づくとチリチリと皮膚を刺す嫌な刺激があって、群れの仲間たちも「あいつに触ると痺れるから近づくな」と避けていた。

 

「テオ。これ、毒があるわよ」

 

「えっ? 毒?」

 

「うん。この傘の真ん中にある、黒っぽい筋。ここに強い毒が溜まってるの。触るとピリピリして痺れるやつよ。……この子、暗くてすごく冷たい水の中で、じーっと静かに漂ってるの。強い光に当てられたり、急にぬるい水に入ると、びっくりして毒の筋から汁を吹き出して、自分の身体を溶かしちゃうのよ」

 

「――ッ! 自家融解じゃなくて、環境ショックによる自家中毒なのか……!?」

 

 テオドールが目を見張り、身を乗り出してきた。

 学者の鋭い光が、彼の眼鏡の奥に宿る。

 

「なるほど……! 生息域の温度と照度の急変がトリガーになって、自らの刺胞毒を暴走させているんだな。ということは、まず刺激を与えずに毒嚢を切除しなければならない。そして、常温の固定液にいきなり浸けるのではなく、深海水温まで冷やした希釈液から段階的にアルコール濃度を上げていけば……組織の白濁と崩壊を防げるかもしれない!」

 

 テオドールは即座に処置の道筋を組み立てると、袖をまくり上げて解剖用ピンセットと極細のハサミを握った。

 

「ローナ、ランプの火を少し絞ってくれ! それから、傘が破れないように、このヘラで外縁部をそっと浮かせて支えられるかい?」

 

「任せて!」

 

 作業台の前に並び立つ。

 テオドールの手さばきは、普段の少し頼りない姿からは想像もつかないほど精密で素早かった。

 私が海中の姿勢を保つようにヘラで支える中、テオドールの刃先がミリ単位の狂いもなく半透明の膜を滑り、黒い極細の毒嚢を綺麗に遊離させていく。

 

「抜けた……! ローナ、地下室の氷水を桶の周りに!」

 

「はいっ!」

 

 毒嚢が取り除かれ、周囲を氷水で冷やした瞬間、ドロドロと崩れかけていたゼリーの溶解がぴたりと止まった。

 テオドールは慎重に、薄めた固定液を一滴ずつスポイトで注ぎ込んでいく。

 

 一時間後。

 白濁することなく、透き通った青い光彩を閉じ込めたまま、その深海生物は奇跡のように美しい姿でガラス容器の中に固定されていた。

 

「……できた。信じられない……生きたままのような発光標本だ……!」

 

 テオドールはガラス瓶を両手で掲げ、ランプの光に透かして息を呑んだ。

 その横顔には、少年のように純粋な歓喜が溢れていた。

 

(ふうん……)

 

 私は作業台に肘をつき、そんなテオドールを横目で見つめた。

 普段は薪代だの生活費だのとうるさい男だけれど、こうして自分の手で生物の謎を解き明かしている時の横顔は、なんだか頼もしい。

 ふと、テオドールが振り返り、私と目が合った。

 作業中に夢中になっていたせいで、お互いの肩が触れ合うほど顔が近づいていたことに、彼はようやく気づいたらしい。

 

「あ……えっと、その……ありがとう、ローナ。君が生態を教えてくれなかったら、僕一人じゃ絶対に解けなかったよ」

 

 テオドールが照れくさそうに頬を掻き、それから少し不思議そうに首を傾げた。

 

「でも、不思議だな。魚のことはこんなにも手にとるように分かるのに、どこで覚えたのかは思い出せないんだね」

 

「……え、ええ。頭で思い出そうとしても靄がかかったみたいだけど、身体が勝手に、そうするものだって覚えているのよ」

 

 咄嗟に取り繕うと、テオドールは納得したように優しく頷いた。

 

「なるほど……身体で覚えた技術や感覚の記憶は、来歴の記憶とは別だって本で読んだことがある。漁師の家で育ったとか、海に関わる暮らしをしていたのかな。無理に思い出そうとしなくていいよ。君の知恵が本物なのは確かだからね」

 

「ふふん、当然よ! 私の感覚と、あなたの腕前ね!」

 

 

3. 銀貨三枚と、賢い取引

 

 その日の午後。

 標本室の重い扉を叩く音が響いた。

 

「ごめんよ、テオドール君! 今朝の漁師から聞いたんだが、とんでもない珍品が揚がったらしいじゃないか!」

 

 入ってきたのは、立派な毛皮のコートを着た、港の標本仲買人ヴォルフだった。

 テオドールは作業台の上に、完成したばかりのガラス瓶と、精密な解剖スケッチを並べて見せた。

 

「こちらです、ヴォルフさん。深海性ヒドロ虫類の未記載種です。毒嚢を事前に摘出し、低温下で段階的固定を行いました。発光器官の微細構造も完全に残っています」

 

「な……なんだこれは……!?」

 

 ヴォルフは丸い眼鏡をかけ直し、ガラス瓶に顔を擦り付けるようにして見入った。

 

「素晴らしい……! 深海の発光生物は、帝立大学の博物学部が喉から手が出るほど欲しがっているんだ! 普通ならドロドロに溶けて終わりだというのに、これほど完璧な状態で固定するとは……! よし、買い取ろう! 大学への納品分として、前金も含めて**銀貨三枚**出そう!」

 

 チャリン、チャリン、チャリン。

 重々しい金属音を立てて、大ぶりの銀貨が三枚、作業台の上に置かれた。

 テオドールが「あ、ありがとうございます!」と頭を下げる。

 ヴォルフは満足そうに標本を木箱に納めると、ふと思い出したように声を潜めた。

 

「そうそう、テオドール君。君のその確かな腕を見込んで、もう一つ耳寄りな話があるんだ」

 

「耳寄りな話ですか?」

 

「ああ。最近、嵐の夜になると、この港の沖合や浅瀬で、船乗りたちから奇妙な報告が相次いでいてね。美しい声で歌い、夜の波間を自在に泳ぎ回るという……伝説の『人魚』に酷似した、未知の水生哺乳類の目撃談だよ」

 

「――っ!?」

 

 背後で棚を整理していた私の身体が、ピシリと凍りついた。

 

「帝都の中央学会が、その生物の正体を突き止めるために、高額な懸賞金をかけたんだ。確たる生態記録や痕跡標本を持ち帰った者には、銀貨百枚が支払われる。君のような新進気鋭の学者が調査に乗り出せば、大きな手柄になると思うんだがね」

 

「水生霊長類の……調査……」

 

 テオドールが息を呑む。

 ヴォルフは「まあ、考えてみてくれたまえ」と言い残し、上機嫌で標本室を去っていった。

 

 バタン、と扉が閉まる。

 作業台の上には、残された銀貨三枚。

 テオドールは銀貨を見つめ、真面目な顔で腕を組んだ。

 

「ローナ。この報酬だけどね、使い道をきちんと考えなきゃいけない」

 

「……ええ。もちろんよ」

 

 私は人魚の動揺を胸の奥に押し込め、平然を装って作業台に歩み寄った。

 

「テオ、あなたはどう配分するつもりなの?」

 

「まず、高純度の固定用アルコールとガラス瓶の補充で銀貨一枚。それから、木材屋へのツケの支払いと来月の部屋代で銀貨一枚。……これで二枚は消える。残りの一枚は、万が一の時のための予備費として貯金しておくべきだと思うんだ」

 

「待ちなさい、テオドール」

 

 私は腕を組み、学者のように人差し指を立ててみせた。

 叫んだり駄々をこねたりはしない。この真面目な男を動かすには、理詰めで交渉するのが一番だ。

 

「その残りの一枚を全部貯金するなんて、愚かな判断よ」

 

「えっ……? 貯金が愚かだって?」

 

「そうよ。今日、私が深海魚の生態を思い出して手伝えたのは、なぜだと思う? あなたが昨日、美味しいベーコンを食べさせてくれたからよ。もし今朝のように薄いパン一枚だけで私が飢えて倒れたら、次の標本が持ち込まれた時、誰があなたに海の中の知恵を教えるの?」

 

「う……それは、一理あるけれど……」

 

「それにね、さっき部屋の窓の外を行商人が通ったとき、市場で端肉の安売りが始まるって声を張り上げていたわ。正肉の切れ端や、骨付きの脂身なら、二束三文で山盛りに買えるはずよ。銀貨まるまる一枚を贅沢に使う必要なんてないのよ。銀貨の半分――小銀貨数枚分だけ肉屋に持っていけば、骨付きの肉と脂身が鍋いっぱいに買えるわ。骨はスープの出汁になるし、脂身は私の一番の好物よ。残りの半分を貯金に回せば、あなたの予備費だってちゃんと残るじゃない」

 

 テオドールはぽかんと口を開け、それから感心したように眼鏡を押し上げた。

 

「……なるほど。高価な正肉を買うんじゃなくて、安価な端肉や骨付き肉を活用して、栄養と満足度を最大化するわけか。おまけに予備費も残る……。君、記憶を失っている割に、やけに生活の知恵が回るね」

 

「ふふん、当たり前でしょ! その代わり、器具の洗浄と水汲みは、私が毎日きっちりやってあげるわ」

 

「……よし、一本取られたよ。その提案に乗ろう」

 

 テオドールは苦笑いしながら銀貨を一枚手に取り、買い物籠を提げて市場へと向かったのだった。

 

 

4. 豊かな夕食と、忍び寄る影

 

 その日の夕食は、実に満ち足りたものだった。

 

 暖炉の上でコトコトと煮込まれた鉄鍋から、暴力的なまでに芳しい湯気が立ち上っていた。

 骨から溶け出した濃厚な肉骨スープ。白濁したスープの表面には、黄金色の豚の脂が玉になって浮かび、柔らかく煮込まれた端肉とキャベツがどっさりと沈んでいる。

 皿には、カリッと炒められた脂身と、半熟の目玉焼き。

 パンはスープの熱い脂を吸わせるために小さくちぎって添えられているだけだが、完全肉食の私にはそれが最高だった。

 テオドールは革のエプロンで両手を拭いながら、私の前に深皿を置き、自分もテーブルの向かいに腰掛けた。

 骨を鉈で叩き割って骨髄を出し、アクを細かくすくい取っていた時からそうだったけれど、彼はさっきから妙に落ち着かない様子で、私の手元をじっと盗み見ている。眼鏡の奥の茶色い瞳が、私の最初の一口を固唾を呑んで待っていた。

 

「いただきます……!」

 

 スプーンで熱いスープを口に含む。

 ――ジュワァッ。

 豚骨の濃厚なコクと、熱々の脂の甘みが、冷えやすい身体の芯へと染み渡っていく。噛み締める端肉の弾力。とろりとした卵の黄身。

 

「んんん……っ! おいしい……っ! 身体が芯からポカポカするわ……!」

 

 私が両手を頬に当てて叫ぶと、テオドールは目に見えてほっと肩を撫で下ろし、それから嬉しそうに眼鏡のブリッジを押し上げた。

 

「よかった。骨の髄を割って強火で煮立ててから、とろ火で脂を馴染ませた甲斐があったよ。脂身もね、余分な油を落としながら表面だけを香ばしく焼いてみたんだ。……どうだい、塩気は足りているかい?」

 

「完璧よ! テオ、あなた案外料理にうるさいのね!」

 

「うるさいわけじゃないよ。ただ……せっかく手に入った食材なら、一番美味しく食べたいじゃないか。それに、君がそんなに美味しそうに食べてくれるなら、腕の振るい甲斐もあるというものだしね」

 

 照れくさそうに笑いながら、テオドールも自分のスープを匙で掬って口に運ぶ。

「本当だ、端肉も柔らかくて美味しいね」

 暖炉には新しい薪がくべられ、部屋は春のような暖かさに包まれていた。

 お腹はいっぱい。身体は温かい。

 自分の知恵と交渉で勝ち取った食事は、格別の味がした。

 

 もちろん、陸にいられる四十日の期限という問題は、まだ手つかずのままだ。

 けれど、今は先の心配よりも目の前の温かいスープとお肉だ。期限のことは追々考えるとして、まずは今日の居場所をしっかり守る。それが何より先決だった。

 

 だが――食後のミルクを飲んでいる時、テオドールが真剣な面持ちで口を開いた。

 

「ねえ、ローナ。さっきヴォルフさんが話していた『人魚』のことなんだけどね」

 

「……っ」

 

 私はカップを持つ手を止め、そっとテオドールを見つめた。

 

「懸賞金ももちろん魅力的だよ。でもね、僕が一番気になっているのは……もし本当にそんな未知の水生哺乳類が存在するなら、無知な船乗りや見世物小屋の連中に乱獲されたり、傷つけられたりする前に、学術的に正しい生態を記録して保護したいんだ」

 

 テオドールの声には、学者として功績を立てて研究費を得たいという功名心だけでなく、未知の生命をただの金儲けの犠牲にしたくないという、彼らしい真摯な倫理観が滲んでいた。

 

「港の連中は『男を惑わす魔物』なんて呼んでいるけれど、そんな迷信で怪物が仕立て上げられて、殺されてしまうのは耐えられない。……ローナ、君の海の知識を貸してくれないかい? 嵐の夜に近づきそうな浅瀬や、餌になる魚の群れのこと……何か心当たりはないかい?」

 

「…………」

 

 私は返答に詰まり、胸の奥がきゅっと冷たくなるのを感じた。

 

 テオドールは優しい。心からその生物を守りたいと思っている。

 けれど――もし調査が進めばどうなる?

 沖合にいる私の同胞たちの棲み処が暴かれるかもしれない。

 何より、テオドールが人魚の特徴を詳しく調べ始めれば……私の足指の水かき、土踏まずのなさ、異様に発達した喉の構造……そのすべてが、彼が追っている『未知の水生哺乳類』と一致することに、あの鋭い観察眼が気づかないはずがないのだ。

 

(どうするのよ……これ……)

 

 せっかく手に入れた、温かい部屋と美味しいご飯。

 この快適な暮らしを守るために立てた手柄が、巡り巡って、私自身の首を絞める罠になろうとしていた。

 

「ローナ? どうしたんだい、急に黙り込んで……」

 

「あ……ううん! なんでもないわ!」

 

 私は慌てて笑顔を作り、カップを置いた。

 

「海の浅瀬のことね……。うん、思い出せるか、考えてみるわ……」

 

 暖炉の火が、パチリと小さく爆ぜた。

 人間社会の快適さにしがみつきたい私の前に、早くも正体発覚という名の巨大な波が、静かに押し寄せ始めていた。

 

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