発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様 作:神座鬼神
観察日誌:一八四九年十一月八日(収容第28日)
観測場所:沿岸博物学研究所・地下水槽室
観察・記録:主任研究員 アルベルト・マウラー
助手:カール・ヘンペル
被験体:所属未詳水生動物(検体A-01)
生体兆候:直腸温三十六度四分、脈拍毎分五十八回(徐脈・微弱)、自発呼吸数毎分十回(浅表性)
観察所見:口唇および眼瞼結膜の著しい蒼白、前腕・大腿内側に点状出血斑、自力起立不能
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1. 狂乱の余波と白蝋の肢体
地下水槽室の空気は、一週間前の暴力的な熱気を失っていた。
かつて部屋中に充満していた濃密な芳香は換気によって薄れ、代わりに漂っていたのは――微かな薬品の臭気と、生き物の血肉が内側から静かに摩耗していく特有の沈鬱な気配だった。
石造水槽の脇に据えられた検査台の上に、検体A-01が横たえられていた。定時測定のため、水槽から一時的に引き揚げられたのだ。
助手カールが差し出したガラス試験管の中の血液は、健康な鮮紅色ではなく、どこか黒ずんで粘度を失っていた。
「前腕および大腿内側の皮膚に、無数の小さな点状出血斑を確認しました。採血した針穴からの小出血も、圧迫してもなかなか止まりません」
カールの声は沈み、指先は微かに震えていた。
「口唇および結膜の蒼白が著しい。脈も極めて微弱だ」
マウラーは鋼ペンを走らせ、淡々と数値を帳面に書き込んだ。
「第二十一日に始まった激しい興奮と高熱が約一週間にわたって持続した。雄と交わり受胎に至らぬまま強い繁殖状態が続いたことで、彼女の身体は内側から著しい損傷を受け、血の巡りや活力が著しく損なわれているようだ。血を作る働きそのものが衰えている疑いもある」
「先生、これは命に関わる異常事態です! 激しい熱の毒に当てられ、彼女の身体は限界を迎えています! 測定はもう十分です、早く水槽へ戻して休ませましょう! ……いえ、今すぐ海へ移送すべきです!」
「海へ戻すことはせん」
マウラーは冷ややかに眼鏡の奥の鋼色の瞳を上げた。
「繁殖の熱に耐えきれず衰弱していく過程もまた、重要な観察記録だ。無用な同情で記録を中断するな」
2. 知性の残光と海の記憶
検査台の上で、検体A-01は静かに横たわっていた。
一週間前、格子の向こうから熱と苦痛を訴え、助けを求めていた声は、今は静まっていた。
銀緑色の長髪は艶を失い、乾いた海藻のように台の上へ広がっている。
陶器のようだった白い肌は、血の気を完全に失って白蝋のように透き通り、鎖骨の浮き上がった胸元が、浅く、途切れ途切れの呼吸とともに微かに上下していた。
二本に分かれた脚は力なく投げ出され、その青白い皮膚には、紫色の微小出血斑が散らばっている。
マウラーが台の前に立つと、彼女の長い睫毛がかすかに震えた。
そして、ゆっくりと――濃紺の瞳が開かれた。
濁っていた熱の膜は引き、深海の氷底のように透き通った光が、そこに戻っていた。
激しい消耗の果てに、嵐のような興奮が一時的に晴れ上がり、自らの命の傾きを悟った知性体特有の、研ぎ澄まされた静寂が訪れていた。
「……マウラー」
掠れた、だが信じられないほど静かな声が、乾いた唇の隙間から漏れ出た。
哀願でも、威嚇でもなかった。
ただ、自らを標本として見つめ続ける男の名を呼ぶ、純粋な音だった。
「意識レベル清明。発声機能の回復を確認」
マウラーは手帳を取り出し、記録を始めた。
「検体A-01。自覚症状は?」
「……身体が、冷たいわ」
人魚は薄い唇をわずかに動かし、自らの細い指先を見つめた。
「手足の先が……氷の底に沈んでいるみたい。息を吸っても、吸っても……空気が、胸の奥まで届かないの」
「息切れと重度の疲弊だな」
「そう……」
彼女は小さく息を吐いた。
そして、マウラーの冷淡な灰色の双眸を、まっすぐに見据えた。
「ねえ、マウラー。……あなたは、海を知っているの?」
「海洋博物学者だ。北海の潮流、塩分、深度別の分布を記録している」
「違うわ」
人魚は弱々しく首を横に振った。
その瞳の奥に、遠い記憶の残照が浮かび上がっていた。
「数字のことじゃない。……冬の夜、海面が氷で閉ざされた時の……あの深い、どこまでも青い静寂を知っている? 何マイルも離れた場所から、母や姉妹たちの歌が……氷の天井に反響して、身体の芯まで響いてくるの。……海はね、寒くて、暗いけれど……孤独じゃなかった」
人魚は胸元を押さえ、微かに目を伏せた。
「陸のサルたちは……あなたたちは、こんな狭い石の部屋に閉じこもって、お互いの身体を縛り、ノートに文字を書き込んで……そんなことのために生きているのね。……可哀想な人」
3. 客観性の砦とカールの反発
「可哀想、か」
マウラーの表情は、ピクリとも動かなかった。
「感情による価値判断だな。自然界において、主観的な幸福や孤独など何の意味も持たん。君がどれほど海を懐かしもうと、君の肉体は自然の成り行きに従って衰退している。陸上に上がりながら交尾もできず、海へも帰れなければ自滅する――その脆い限界を抱えているのは君の身体そのものだ。私はただ、その経過を記録しているにすぎん」
「自然の成り行きですって……?」
人魚の口元に、冷たい、哀しい笑みが浮かんだ。
「わたしを海から引き離し、水へ帰る道を塞ぎ、冷たい目で見つめ続けているのは……あなたよ、マウラー。刃物で喉を裂かれるより、よっぽど冷酷な殺し方だわ」
「先生ッ!!」
背後で、助手カールが耐えきれなくなったように叫んだ。
「もうやめてください! 彼女の言う通りです! 早く水槽へ戻し、そして海へ移送してください! このままでは、彼女は衰弱して死んでしまいます!」
「黙れ、カール。観察を中断して海へ逃がせば、この先の経過を記録できなくなる」
マウラーは冷然と言い放ち、検体を水槽のスロープへと戻させた。
海水に下半身を浸した瞬間、人魚の浅かった呼吸がわずかに深くなり、強張っていた首筋の緊張が一時的に和らいだ。水中の浮力と冷涼さが、彼女の消耗した身体を微かに支えたのだ。
だが、その安らぎも長くは続かなかった。
4. 観察台への移送と浸水の拒絶
――それから四日が経過した。
一八四九年十一月十二日。収容第三十二日の午後。
マウラーはカールに命じ、検体A-01を水槽から完全に引き揚げさせ、室内に特設された傾斜観察台の上へ拘束させた。
「ギ……ッ……」
台の上で、検体A-01が苦しげに下腹部を押さえ、二本に分かれていた脚を小さく痙攣させていた。
「……あ……痛い……」
彼女の額に、冷たい汗の粒が浮き上がる。
「足元の状態を記録しろ」
マウラーが命じた。
カールは唇を噛み締めながら、彼女の脚の寸法を測った。
「両脚の間隔が、昨日より明らかに狭まっています。……膝から下、内側の皮膚が引き寄せられ、赤紫色に癒着し始めています」
「ほう」
マウラーの灰色の瞳に、鋭い学術的好奇心の光が閃いた。
「激しい熱感は退潮を見せ、両脚が中央へ寄り始めている。……再癒着の兆候だ。彼女が話した、海の姿へ戻る変化なのかもしれん」
「脚が……再び一本にくっつこうとしている……!?」
「そのように見える。姿勢を変えるたびに痛みを訴えることと、皮膚が繋がり始めた位置を記せ」
人魚は歯を食いしばり、細い手でシーツを強く握りしめた。
短い咳の後、口元を拭った布に血がついた。
カールは布を見つめ、それから彼女の顔へ視線を戻した。喉にも異常が生じているのかもしれない。だが、どこからの出血かは見通せなかった。
「声の掠れ、および口腔内の点状出血を確認。仮設の発声器官もまた、衰退の過程に入ったな」
その時、カールが進み出て叫んだ。
「先生! 前に水槽へ戻した時は呼吸が静まりました! もう一度、水へ戻しましょう! 水に浸かれば、身体を休めることができます!」
「水の下へ隠せば、どこから皮膚が繋がるのか分からなくなる」
マウラーは即座に切り捨てた。
「それを確かめるために、ここへ置くのですか!?」
「そのための観察台だ」
「ここへ縛りつけたのは自然ではありません! あなたが水槽から引き揚げ、水へ戻すことを拒み、彼女を殺しているんだ!」
カールの怒りの叫びが、地下室に響き渡った。
しかし、マウラーは眉一つ動かさなかった。
「脚が寄り、皮膚が繋がり始め、声が衰えていく。……水中に戻せば、この連続的な変化を見失う。これより、台の上での継続観察へ移行する」
十一月十三日以降、マウラーは濡れ布で体表の過度な乾燥を抑える以上の浸水を一切拒否した。
水槽という逃げ場を奪われ、重力と乾燥に晒された観察台の上で、人魚の肉体はいよいよ不可逆な終末へと傾いていった。