発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様 作:神座鬼神
1. 届いた返信と、能動的な仕掛け
上陸二十六日目の昼前。
崖の上の研究所の扉を叩いたのは、港町での仕入れを終えて麓の漁村へ戻る途中の魚商人だった。
「テオドール先生、港の薬種商から預かりもんだ。今朝一番に先生の手紙を受け取って、大急ぎで返事を認(したた)めて持たせてくれたぜ」
テオドールが受け取ったのは、上等な羊皮紙を厚紙で挟んだ一通の手紙だった。
魚商人に礼を言って見送ると、テオドールは暖炉脇の丸机へ戻り、ペーパーナイフで封を切った。机の向かいに座る私も、身を乗り出して手紙を覗き込む。
昨日の午後から声は少しずつ出るようになっていたが、まだ喉の奥には乾いた掠れが残り、立ち上がれば膝が頼りなく震える。それでも、手紙の行方を知りたい一心で視線を走らせた。
「……何て書いてあるの?」
「……非常に筋の通った、商売の返事だよ」
テオドールは手紙の文面をなぞりながら、要点を声に出して読んだ。
「先日お預けした深海魚の完全骨格標本は、確かに店主の手元で保管されている。正式な買戻し金額は、ベルヘ草のチンキの代金から前払いの二枚を差し引いた、**銀貨六枚**だ」
「六枚……」
「そして、来月末まで他者への売却を保留し、確実に僕たちのために取り置きするための条件として――三日以内に**手付金として銀貨二枚**を届けること。期限内に手付金を受け取れば、王立学会の大会前まで誰の手にも渡さないと約束する、とある」
法外な吹っかけでも、秘密を探るような下心でもない。
珍しい標本を店に留め置き、他の買い手を断るための、商人として至極真っ当な条件だった。
だが、問題はその手付金だ。
テオドールが机の上に革の財布を傾けると、転がり出たのは数枚の銅貨と、細かな釣り銭だけだった。全部合わせても、**銀貨一枚にすら届かない**。
「手付金の二枚すら、今の僕たちにはない……」
テオドールが眉間を押さえた。
私は腕を組み、唇を尖らせた。
「私が今すぐ海へ潜って、大きくて珍しい魚を獲ってくれば――」
「駄目だよ、ローナ。声は戻りかけているけれど、足首の強ばりも完全には取れていないし、お腹の熱だって燻っている。そんな身体で真冬の荒波に飛び込んだら、二度と浮き上がってこられない」
テオドールにきっぱりと止められ、私はぐっと言葉を詰まらせた。
悔しいけれど、彼の言う通りだ。寝台から台所まで歩くだけで息が乱れる今の身体では、海底の岩棚まで潜ることなどできっこない。
けれど、ここで手付金を諦めれば、あの標本はどこかの金持ちの手に渡ってしまう。
「……潜るのが無理なら、別の方法で稼げばいいのよ」
「別の方法?」
「海にいた頃、人間の漁船を底から眺めてたことがあるの。漁師たちは底網を引き上げた時、見たこともない気味の悪い魚や棘だらけのやつが混ざってると、毒があるかどうかも分からないからって、悪態をつきながら桟橋に放り出して捨ててたわ」
私は丸机を手のひらでトンと叩いた。
「あの人たち、海の中のことは網にかかる獲物しか知らないのよ。でも、私はどこにどんな魚が棲んでて、どこが食えてどこが役に立つか知ってる。あんたは陸の人間がそれをどう使うか知ってるでしょ? 捨てられるはずの魚を私たちが預かって、価値をつけて売ればいいのよ!」
テオドールは目を丸くし、それから眼鏡の奥でハッと息を呑んだ。
「……なるほど! 漁師にとって無価値な混獲物を、僕たちの知識で商品に変えるのか」
私たちはすぐに行動を起こした。
テオドールが手早く紙に伝言を書き、坂道を下っていく郵便配達の少年に小銭を握らせて麓の漁村へ託したのだ。
『網にかかった正体不明の獲物や、市場で値がつかず処分に困っている魚があれば、捨てる前に崖の上の研究所へ持ち込んでほしい。適正な値をつけて売り捌く手伝いをする』――と。
2. 持ち込まれた「海の厄介者」
伝言の効果は、その日の午後に現れた。
坂道を登ってきたのは、顔の皺を潮風に刻んだ麓の老漁師だった。背負った木桶からは、重い潮の匂いと泥の匂いが漂っている。
「先生、伝言を見たぞ。……今朝、沖合の深みに仕掛けた底網に、こんな気味の悪いのがかかりやがったんだ。網を破るわトゲは刺さるわ、魚市場に持っていっても『油臭くて食えん』と叩き出されちまった。捨てるくらいなら、先生のところで何かの役に立たんかと思ってよ」
老漁師が木桶の蓋を外した。
桶の底には、分厚い氷とともに、一匹の異様な魚が横たわっていた。
体長は二尺ほど。平たい胴体は灰褐色の分厚い鮫肌のような皮で覆われ、背中と腹びれには太く鋭い棘が何本も突き出している。口は不気味に大きく裂け、ぎょろりとした白濁した目が上を向いていた。
テオドールが腰を浮かせ、ピンセットを手にして覗き込む。
私は寝台の端からそろそろと歩み寄り、その魚の頭と尾ひれを一目見て、ふんと鼻を鳴らした。
「これ、沖の底冷えする深み――切り立った岩棚の裂け目に潜んでる魚よ」
「知ってるのかい、ローナ?」
「ええ。冷たい潮がぶつかる深い崖の隙間にじっとしてるやつよ。肉は蝋みたいな油が強すぎて、人間が食べたら腹を下すわね。でも、毒じゃないわ。この魚、凍えるような深海の冷たさに耐えるために、腹の中にものすごく大きな肝臓を抱えてるの。それから、浮袋の皮がものすごく分厚くて頑丈なのよ」
私の言葉を聞いて、テオドールが手帳を開き、魚の鰭やトゲを観察しながら頷いた。
「……トゲカワウオの仲間だね。文献で読んだことがある。ローナの言う通り、寒冷な深海に適応した種なら、内臓のほとんどを占めるほど巨大な含油肝臓を持っているはずだ。この規模の肝油なら、極低温でも固まらない高級な機械油や船具の防水塗料の原料になる。それに頑丈な浮袋は、煮詰めれば最上質の膠(にかわ)や薬用ゼラチンとして高値で買い取られるよ」
老漁師は目を丸くして、私とテオドールを交互に見つめた。
「へえ……! このゴミ同然の化け物が、そんな高級品になるのかい!?」
「ええ。ですが、そのままでは誰も買ってくれません」
テオドールが居住まいを正し、老漁師に向き直った。
「明日の朝、港町から海産原料の問屋が買い付けに来る予定があります。僕たちがこの魚の品質を保証し、適切な用途を提示して買い手と交渉します。売れた代金は、あなたと僕たちで半分ずつ折半しませんか。捨ててしまえば一文にもなりませんが、僕たちに任せていただければ、確実に銀貨が手に入ります」
老漁師は頭を掻き、木桶の中の魚を見下ろした。
「半分か……。捨てるはずだったもんだ、銀貨が一枚でも入るなら御の字だ。頼んだぞ、先生!」
「ありがとうございます。明朝の買い手の希望を確認してから、油を絞るか浮袋を分けるか決めますので、今夜はこのまま冷水につけて鮮度を保っておきます」
契約は成立した。
老漁師が帰った後、研究所の土間に冷たい海水を入れたタライを用意し、魚を沈めた。
あとは明日、この魚をいかに高く買い手に売り込むかだ。
3. 丸ごと売りたい買い手 vs 記録を残したい学者
翌朝――上陸二十七日目の午前。
約束通り、港町から定期的に巡回している海産原料問屋の買付人が、助手を連れて研究所を訪れた。
土間に置かれたタライの中の魚を見た瞬間、肥えた体躯の買付人は足を止め、眼鏡を直して身を乗り出した。
「……ほう! これは珍しいトゲカワウオじゃないか。しかも、傷一つない極上の鮮度だ」
「ええ。沖の深い岩棚から揚がったばかりの個体です」
私は少し嗄れる喉を抑えながら、昨日テオドールと打ち合わせた通りに口を開いた。
「冬の冷たい潮の中にいたから、肝臓の油の乗りが一番いい時期よ。浮袋の皮も傷んでないわ。油を絞って革の手入れに使うのにも、上等な膠を作るのにも最適よ」
「いやいや、お嬢さん、とんでもない!」
買付人は両手を振って、丸々と太った魚体をしげしげと眺め回した。
「油や膠に加工して売るなんて勿体ない! これほど傷のない立派な成体、港の富豪の博物蒐集家か剥製師に持ち込めば、丸ごとの観賞用標本として倍以上の値がつくぞ! よし、この魚、丸ごと引き取らせてくれ。**銀貨四枚**出そう!」
銀貨四枚。
思わず私の胸が跳ね上がった。
漁師と折半しても、私たちの取り分は銀貨二枚。手付金にちょうど届く金額だ。
「決まりね! 銀貨四枚で――」
私が即座に手を打とうとした、その時だった。
「――あの、少し待ってください」
横から、テオドールがおずおずと手を挙げた。
その視線はタライの中の魚に釘付けになり、学者の未練が隠しようもなく顔に出ていた。
「丸ごと引き渡す前に……頭骨と胸鰭の軟骨だけ、こちらで解剖して手元に残すことはできませんか? 東部海域では極めて稀少な記録なんです」
買付人は呆れたように苦笑した。
「先生、刃物を入れて骨を抜いちまったら、剥製にも観賞用にもならんよ。一文も出せなくなっちまう」
「う……ですが、この骨格を逃すと、次の機会がいつになるか……」
本気で悩み始めたテオドールに、私は呆れて彼の外套の袖を引いた。
「テオ。……**あの骨を取り戻すために、また別の骨を抱え込む気? 今は売るのよ**」
「うっ……! そ、それはそうなんだけどね、ローナ……」
「また海へ潜れるようになったら、私がいくらでも見つけてきてあげるわよ。今は手付金が先でしょ」
小声で突っ込まれたテオドールは、観念したように息を吐いた。
けれど、ただ項垂れて引き下がる彼ではなかった。
テオドールは眼鏡の位置を直し、学者としての執念を眼前の買付人へとぶつけた。
「……分かりました。丸ごとお譲りします。ただし、条件があります」
「条件?」
「あなたが港へ戻る出発の刻限まで、**二時間だけ僕に時間をください**。この魚の頭骨と鰭条の精密な外部測定を行い、縮尺図のスケッチを完成させます。その代わり、港までの輸送中に魚体が傷んだり乾燥したりしないよう、冷たい海水で湿らせた麻布の二重巻きと木箱の梱包は、僕が責任を持って完璧に施します。……それでどうですか!」
買付人は驚いたようにテオドールを見つめ、やがて豪快に笑った。
「なるほど、解剖学者の梱包なら乾燥で皮が縮む心配もねえな。いいだろう、二時間待つ! その代わり、完璧に包んでくれよ」
テオドールは自分の研究への未練をただの愚痴で終わらせず、自らの手で記録の機会と安全な引き渡し条件をもぎ取ったのだ。
4. 途切れた声と、二人の勝利
商談がまとまり、テオドールが急いで測定器とスケッチ帳を取りに走った。
私は買付人と土間の腰掛けに並び、契約の細部を詰めようとした。
「……じゃあ、代金の支払いは、スケッチと梱包が終わった後……ゴホッ……」
言葉の途中で、喉の奥がチクチクと痛み、急激に息が詰まった。
昨日の今日で、戻りかけたばかりの仮設声帯だ。
熱心に魚の説明をし、商談で話し続けたことで、喉の粘膜が限界を迎えていた。無理に声を出そうとしても、カサカサとした枯れ葉の擦れる音しか出ない。
「……ッ、……」
焦りが胸を突く。
さらに、暖炉の熱と興奮のせいで、下腹部の奥の火種がじわりと熱さを増していた。首筋や二の腕の皮膚がチリチリと引きつり、隣に座る買付人の外套の擦れが、不快な刺激となって肌を刺し始める。
私は痛みを避けるため、無意識に腰掛けを少し後ろへと引いた。
「おや、お嬢さん、大丈夫かい?」
買付人が不審そうに覗き込んできた。
声が出ない。このままでは怪しまれてしまう――。
その時、すっと私の前に湯気の立つマグカップが差し出された。
「ローナ、ぬるめの白湯だよ。少し喉を休めておいで」
測定器を抱えたテオドールが、私の背中にそっと手を添えてくれた。
そして、自然な動作で私の前に立ち、買付人に向き直った。
「失礼しました。連れは少し喉を痛めておりましてね。……商談の続きは僕が引き受けます。魚の引き渡し確認書と、受取証の作成に入りましょう」
テオドールが流暢に、そして堂々とした態度でペンを走らせ、買付人と契約を取り交わしていく。
私は壁際に腰を下ろし、白湯を口に含みながら、彼の背中を見つめていた。
――悔しい。
声が戻ったと喜んでいたけれど、少し長く喋っただけで掠れてしまい、熱が上がれば人から身を引かなければならない。
無人の部屋で数言呟くだけなら耐えられても、こうして人間社会の中で人と交渉し、仕事を最後までやり遂げるには、今の身体ではまるで足りないのだ。
(……次は、受取証を書くところまで、私も全部自分で話をつけたいわ)
温かい白湯を飲み干しながら、私は胸の奥で強く誓った。
二時間後。
テオドールは驚異的な集中力で何枚もの細密なスケッチと測定記録を仕上げ、魚を冷たい海水麻布で丁寧に梱包した。
買付人は満足そうに頷き、机の上にずしりと重い**銀貨四枚**を並べた。
「見事な仕事だ、先生。いい買い物ができたよ。……これから夕方まで漁村の網元をいくつか回って仕入れをするから、港へ戻る時にまたこの前の坂道を通るよ。もし港へ託す手紙や荷物があれば、その時に預かろう」
買付人はそう言い残し、助手とともに木箱を荷車へ積み込んで坂道を下っていった。
テオドールはすぐに麓の老漁師の家へ走り、約束通り**銀貨二枚**をきっちりと手渡してきた。老漁師は「本当に銀貨になりやがった!」と大喜びしたという。
そして、夕暮れ時。
丸机の上には、私たちの取り分である**銀貨二枚**が、夕日に照らされて鈍く輝いていた。
テオドールが持っていた小銭と合わせれば、手元には銀貨三枚弱の価値がある。
「……できたね、ローナ」
「ええ。私たちの力で稼いだ銀貨よ」
喉を休めて少し落ち着いた声で、私は笑った。
テオドールは机の引き出しから上等な封筒を取り出し、稼いだばかりの銀貨二枚をことりと中へ収めた。
そして、薬種商の店主へ宛てた手紙を添えて、しっかりと封蝋を施す。
『深海魚骨格標本の取り置き手付金として、銀貨二枚を同封いたします。来月末の受け取りまで、よろしくお取り計らい願います』
「約束通り、夕方の戻り便に寄ってくれた買付人に、手紙と銀貨を預けてきたよ。明日の昼には薬種商の手元に届くはずだ」
「ありがとう、テオ。……これで、あの骨は誰にも渡らないわ」
手付金は送り出された。
手元に残ったのは、再び**銀貨一枚弱**のささやかな小銭だけだ。
けれど、私たちの胸には、失いかけた看板標本を自らの手で守り抜いたという、確かな手応えが残っていた。
窓の外を見上げると、冬の夕暮れが海を茜色に染めていた。
上陸して二十七日目が終わる。
人間の姿でいられる四十日の期限まで、残り十三日。
声の限界も、熱の戻りも、まだ解決したわけじゃない。
けれど、次に向かうべき道ははっきりと見えていた。
ただ息をして生き延びるためじゃない。この陸の上で、人と話し、働き、暮らしを最後まで楽しむための時間を勝ち取るために――私たちは、次なる検証へと足を踏み出そうとしていた。