発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様   作:神座鬼神

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第20話:手に入れた午後と、四十日目の先

1. 朝の欲張りと、二度目の覚悟

 

 上陸二十八日目の朝。

 崖の上の研究所の窓からは、冬の澄み切った青空が広がっていた。

 

 朝食の丸机には、昨日テオドールが分けてくれた塩豚の残りと、温かい豚骨スープが並んでいた。

 フォークを手にしたテオドールが、どこか誇らしげな笑顔で私を見た。

 

「昨日の夕方、買付人に預けた手紙と手付金の銀貨二枚は、今日の昼には港の薬種商へ届くはずだ。……君の機転のおかげで、最初の危機を乗り越える算段がついたよ」

 

「ええ。無事に届いてくれるといいわね」

 

 私はスープを一口すすりながら頷いた。

 けれど、その唇には少しだけ不満げな尖りが残っていた。テオドールが不思議そうに首を傾げる。

 

「どうしたんだい? まだ何か心配事でもあるの?」

 

「心配じゃないわ。……悔しいのよ」

 

「え?」

 

「昨日は嬉しかったわよ。あんたが機転を利かせてスケッチの時間も取れたし、銀貨も稼げた。……でもね、次は途中で席を譲りたくないの。値段を決めて、受取証を書いて、握手して見送るところまで、自分の口でやり遂げたいのよ」

 

 テオドールを責めているわけでも、一人で何もかも抱え込みたいわけでもない。

 ただ、人間社会の中で人と話し、働き、暮らしを楽しむ手応えを知ってしまったからこそ、途中で声が嗄れて身を引く悔しさが胸に残っていたのだ。

 テオドールは呆れたように目を丸くし、それからふっと柔らかな笑みを零した。

 

「欲張りだね、ローナは」

 

「欲張って何が悪いのよ。人間になって美味しいものを食べて、あんたと一緒に暮らしたいんだから、もっと欲張るに決まってるでしょ」

 

 私が胸を張ると、テオドールは机の引き出しから、あの深い琥珀色の小瓶――ベルヘ草のチンキを取り出した。

 黒い封蝋の削り屑が微かに机に落ちる。

 

「……昨日の悔しさを晴らすなら、今日試してみるかい?」

 

 小瓶を見た瞬間、私の喉仏がごくりと音を立てて動いた。

 二十四日目の夜。あの一滴の希釈液を口にした翌朝、声が枯れ葉のように擦れ、膝が棒切れのように固まったあの恐怖が、鮮やかに蘇る。

 テオドールの指先も、小瓶の首を掴んだまま、微かに強ばっていた。

 

「……あの時は、一滴をスープで薄めたもののうち、ひと匙まるごと飲ませてしまった。それでは作用が強すぎて、声帯や脚を支える力まで一緒に落としてしまったんだ。……でも、時間が経って薬が抜けていく途中、君は声が出せるのに、まだ触れても痛まない時間があった」

 

「ええ。覚えてるわ」

 

「今回は、最初からあの時よりもずっと弱い作用を狙ってみようと思う。同じようにスープで薄めたものを、さらに半匙……いや、スプーンの先に数滴乗せる程度に留めるんだ。……どうだろう」

 

「……怖いわね」

 

 私が正直に呟くと、テオドールもまっすぐに私の目を見つめ返した。

 

「うん。僕も怖いよ。また君の声を奪ってしまったらどうしようと、手が震える」

 

「……やりましょう。あんたがついてるんだから」

 

「ああ。僕も、君の隣にいるよ」

 

 テオドールは冷ましたスープの深皿へ、スポイトで極小の一滴を落とし、丁寧に混ぜ合わせた。

 そして木のスプーンを取り、その薄いスープを、ほんのわずか――匙の先に数滴すくい取った。

 私はスプーンを受け取り、躊躇いを振り切るように口に含んだ。

 舌先に広がる、かすかな苦味と樟脳の香り。前回よりもずっと淡い刺激が、喉の奥へと滑り落ちていった。

 

 

2. 二時間のスケッチと、海の記録

 

 飲んでから、すぐに何かが起きるわけではない。

 ただじっと寝台に座って時計を見つめていれば、恐怖ばかりが膨らんでしまう。

 

「テオ、あれをやりましょうよ。昨日、二時間かけて描いた魚の絵」

 

「ああ、トゲカワウオのスケッチだね」

 

 テオドールは机の上に、昨日買付人を待たせる間に描き上げた羊皮紙を広げた。

 そこには、精緻な線で描かれた魚の全身図や、トゲの拡大図、頭骨の比率を測った無数の数字が並んでいた。

 

「形は十分に書き留められたけれど、生きていた時の様子は僕には分からない。王立学会の論文に添えるなら、生態についての記述も欠かせないんだ」

 

「任せなさいよ。私が海で見てきたことを全部教えてあげるわ」

 

 私たちは机を挟んで向かい合い、インク壺とペンを用意した。

 テオドールがペン先をインクに浸し、スケッチの余白を見つめる。

 

「まず、生息水深だ。底網にかかった場所からして、沖合の岩礁棚……水深はおよそ百尋(ひろ)から百五十尋あたりだろうか」

 

「そうね。太陽の光なんて届かない、真っ暗で氷みたいに冷たい底よ。でもね、砂地にはいないの。切り立った岩壁の、横に走った裂け目にへばりついてるわ」

 

「へばりついている? 腹びれを使って吸着しているのかい?」

 

「違うわ。胸びれの頑丈なトゲを岩肌の隙間に突っ込んで、身体を固定してるのよ。潮の流れがものすごく速い場所だから、そうしてないと流されちゃうの」

 

 テオドールが感嘆の声を漏らしながら、さらさらと流麗な文字を走らせていく。

 

「なるほど……! 胸鰭の第一鰭条が太く肥大化していたのは、遊泳のためではなく、岩肌へ身体を固定するためのアンカーだったのか。……捕食行動はどうだい? 獲物を追いかけるのか?」

 

「まさか! あんなのろまな魚、魚を追いかけ回せるわけないじゃない。岩の割れ目でじっとしてて、潮に乗って流れてくるエビや死んだ小魚が口の前に来たら、喉を大きく広げて水ごと丸呑みにするのよ」

 

「……『潮流に逆らわず静止し、水圧を利用した受動的吸い込み捕食を行う』……と。素晴らしいよ、ローナ。これだけで論文の一節が書ける」

 

 テオドールが顔を上げ、手帳を読み上げて聞かせてくれた。

 私は腕を組み、得意げに頷きながらも、一箇所だけ首を振る。

 

「あ、そこは少し違うわ。『静止』じゃなくて、潮が渦を巻くたびに、尾びれを少しだけ揺らして体の傾きを調整してたわよ」

 

「そうか、潮流に対する姿勢制御か。修正するよ」

 

 テオドールが楽しそうにペンを走らせる。

 私が海の記憶を語り、彼がそれを陸の学術の言葉へと紡ぎ直していく。

 部屋の中には、暖炉のパチパチという心地よい爆ぜる音と、二人の声だけが穏やかに響き合っていた。

 

 

3. 「暮らせる状態」と、振り子時計

 

 気づけば、窓から差し込む日差しが高くなり、昼を回っていた。

 港から戻ってきた魚商人が坂道で声をかけてくれ、買付人に託した手紙と手付金が無事に薬種商へ届き、骨格標本が奥の戸棚に取り置かれたことを知らせてくれた。

 テオドールが立ち上がり、安堵の息をつきながら暖炉の鍋から温かいスープと刻んだ肉を皿によそってくれた。

 

「そろそろ昼食にしよう。話に夢中で、時間を忘れていたね」

 

「本当ね。お腹が空いたわ」

 

 机の上に並んだ昼食をつつきながら、私たちはなおも魚の話を続けていた。

 トゲカワウオの硬い鮫肌の皮をどう剥ぐか、港の職人が使う膠の製法はどうなっているか。スプーンを口に運び、肉を噛み締めながら、当たり前のように言葉を交わす。

 

 ふと、スープを飲み干したところで――私は自分の喉元に、そっと手を当てた。

 

「……テオ」

 

「ん? 肉が固かったかい?」

 

「ううん。……私、朝から今まで、ずっと喋ってるわ」

 

 テオドールがスプーンを止め、目を丸くした。

 

「あ……」

 

 自分の喉の奥に意識を集中してみる。

 カサカサとした枯れ葉の擦れる音も、チクチク刺すような痛みもない。

 朝にスープを飲んでから、スケッチの清書をし、昼食を食べ終えるまでの数時間、私の声は一度も途切れることなく、澄んだ音を響かせ続けていたのだ。

 

「声が……掠れていないね」

 

「ええ。痛くもないわ」

 

 私は恐る恐る、自分の下腹部に手を当ててみた。

 奥底にあったあの火種は、消え失せてはいなかった。

 炭火のような温かい脈動がそこにあり、首筋には微かな上気がある。テオドールに触れたい、もっと近くに行きたいという身体の奥のざわめきも、確かに息づいていた。

 

 けれど――それは、脳を焼き尽くすような凶暴な熱狂ではなかった。

 麻布が擦れて激痛にのたうつこともなく、息が詰まるような焦燥感に支配されることもない。

 私は机越しに右手を伸ばし、テオドールの素肌の手の甲の上に、そっと自分の手のひらを重ねた。

 

「……あっ」

 

 テオドールが息を呑んだ。

 けれど、私は手を引かなかった。

 痛まない。針で刺されるような過敏さはなく、ただ彼の手のひらの温もりと、骨の硬さが心地よく肌に伝わってくる。

 衝動に呑まれることなく、自分の意志で、彼の温もりを確かめることができる。

 

 立ち上がって足元を確かめてみる。

 陸に上がった人魚特有の、土踏まずのない平らな足裏の歩きにくさは相変わらずだった。

 けれど、あの朝のような鉄の棒のような強ばりや、膝折れは起きていない。支えがなくても、自分の足でしっかりと床を踏みしめて立っていられた。

 

「……成功だ」

 

 テオドールの瞳が、歓喜に見開かれた。

 

「熱を無理に消し去ることなく、声も脚も落とさずに維持できている……! ローナ、脈拍を測らせておくれ。それから発声の振動数を――」

 

 研究者としての興奮に火がついたテオドールが、慌てて手帳をめくり、ペンを握り直そうとした。

 私は思わず笑ってしまい、彼の手首をきゅっと握りしめた。

 机を回り込み、彼のすぐ隣の椅子へと腰を下ろす。

 

「テオ。もう魚の記録はおしまいよ」

 

「え? あ、でも、今の状態の変化曲線を記録しておかないと……」

 

「記録は後でいいわ。せっかく痛くないんだから、もっと近くでお話ししましょ」

 

 私が彼の腕に自分の腕を絡めると、テオドールは虚を突かれたように瞬きをし、それから苦笑した。

 彼は手帳から指を離し、自分から机の上にカチャリとペンを置いた。

 そして、私の手を温かく握り返してくれた。

 当たり前の接触。穏やかな時間。

 けれど――会話の合間、テオドールの視線が、壁に掛かった振り子時計の文字盤へチラリと泳ぐのを、私は見逃さなかった。

 この楽な状態が、何分、何時間続くのか。学者としての好奇心と心配が、どうしても頭をもたげてしまうのだろう。

 その不器用な横顔が可笑しくて、私は吹き出しそうになりながら、彼の手をもう一度ぎゅっと握り直した。

 

 

4. 手に入れた午後と、四十日目の先

 

 夕暮れが近づくにつれて、穏やかな午後はゆっくりと幕を引き始めた。

 部屋の中に差し込む光が橙色から薄紫へと変わり、外の風が冷たさを増していく。

 

 下腹部の奥にあった温かい火種が、徐々に熱さを取り戻し始めていた。

 首筋や二の腕の皮膚がチリチリと引きつり始め、麻布の擦れがわずかに痛みを帯びてくる。極微量に抑えた薬の作用が、夕暮れの訪れとともに静かに引いていくのだ。

 

「……熱が、戻ってきたかい?」

 

 私の表情のわずかな曇りに気づき、テオドールが静かに尋ねてきた。

 

「ええ。少し熱くなってきたわ。……でも、声はちゃんと出るわよ」

 

 私は喉仏を鳴らし、自分の声がまだしっかりと部屋に響くことを確かめた。

 あの朝のように突然声が途切れることも、脚が動かなくなることもなかった。

 魚のスケッチを清書し、昼食を食べ、夕暮れまで机を並べて話し続けることができたのだ。

 

 私は寝台に腰を下ろし、シーツの端を握りしめながら、深く心地よい息を吐き出した。

 

「……あれくらいなら、明日も欲しいわ」

 

「ああ。……僕もだよ」

 

 テオドールが私の隣に座り、少し距離を保ちながら、優しく微笑んでくれた。

 

「明日も、明後日も作ろう。今日試した量を基準にして、君の身体に過度な負担をかけないよう、少しずつ調整していくんだ」

 

 窓の外を見上げると、冬の夕暮れが海を深く染め上げていた。

 上陸して二十八日が過ぎた。

 人間でいられる四十日の期限まで、残り十二日。

 

 痛みに怯えず、人と話し、仕事をして笑い合える時間を、私たちは自分たちの手で一度つかみ取った。

 けれど、静まり返る部屋の中で、二人の胸には同じ思いが静かに灯っていた。

 

 ――この午後を、四十日目の先にも持っていきたい。

 

 残り十二日。

 私たちが掴み取った小さな午後は、次なる未来を切り拓くための、揺るぎない足場となっていた。

 

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