発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様 作:神座鬼神
1. 朝の欲張りと、二度目の覚悟
上陸二十八日目の朝。
崖の上の研究所の窓からは、冬の澄み切った青空が広がっていた。
朝食の丸机には、昨日テオドールが分けてくれた塩豚の残りと、温かい豚骨スープが並んでいた。
フォークを手にしたテオドールが、どこか誇らしげな笑顔で私を見た。
「昨日の夕方、買付人に預けた手紙と手付金の銀貨二枚は、今日の昼には港の薬種商へ届くはずだ。……君の機転のおかげで、最初の危機を乗り越える算段がついたよ」
「ええ。無事に届いてくれるといいわね」
私はスープを一口すすりながら頷いた。
けれど、その唇には少しだけ不満げな尖りが残っていた。テオドールが不思議そうに首を傾げる。
「どうしたんだい? まだ何か心配事でもあるの?」
「心配じゃないわ。……悔しいのよ」
「え?」
「昨日は嬉しかったわよ。あんたが機転を利かせてスケッチの時間も取れたし、銀貨も稼げた。……でもね、次は途中で席を譲りたくないの。値段を決めて、受取証を書いて、握手して見送るところまで、自分の口でやり遂げたいのよ」
テオドールを責めているわけでも、一人で何もかも抱え込みたいわけでもない。
ただ、人間社会の中で人と話し、働き、暮らしを楽しむ手応えを知ってしまったからこそ、途中で声が嗄れて身を引く悔しさが胸に残っていたのだ。
テオドールは呆れたように目を丸くし、それからふっと柔らかな笑みを零した。
「欲張りだね、ローナは」
「欲張って何が悪いのよ。人間になって美味しいものを食べて、あんたと一緒に暮らしたいんだから、もっと欲張るに決まってるでしょ」
私が胸を張ると、テオドールは机の引き出しから、あの深い琥珀色の小瓶――ベルヘ草のチンキを取り出した。
黒い封蝋の削り屑が微かに机に落ちる。
「……昨日の悔しさを晴らすなら、今日試してみるかい?」
小瓶を見た瞬間、私の喉仏がごくりと音を立てて動いた。
二十四日目の夜。あの一滴の希釈液を口にした翌朝、声が枯れ葉のように擦れ、膝が棒切れのように固まったあの恐怖が、鮮やかに蘇る。
テオドールの指先も、小瓶の首を掴んだまま、微かに強ばっていた。
「……あの時は、一滴をスープで薄めたもののうち、ひと匙まるごと飲ませてしまった。それでは作用が強すぎて、声帯や脚を支える力まで一緒に落としてしまったんだ。……でも、時間が経って薬が抜けていく途中、君は声が出せるのに、まだ触れても痛まない時間があった」
「ええ。覚えてるわ」
「今回は、最初からあの時よりもずっと弱い作用を狙ってみようと思う。同じようにスープで薄めたものを、さらに半匙……いや、スプーンの先に数滴乗せる程度に留めるんだ。……どうだろう」
「……怖いわね」
私が正直に呟くと、テオドールもまっすぐに私の目を見つめ返した。
「うん。僕も怖いよ。また君の声を奪ってしまったらどうしようと、手が震える」
「……やりましょう。あんたがついてるんだから」
「ああ。僕も、君の隣にいるよ」
テオドールは冷ましたスープの深皿へ、スポイトで極小の一滴を落とし、丁寧に混ぜ合わせた。
そして木のスプーンを取り、その薄いスープを、ほんのわずか――匙の先に数滴すくい取った。
私はスプーンを受け取り、躊躇いを振り切るように口に含んだ。
舌先に広がる、かすかな苦味と樟脳の香り。前回よりもずっと淡い刺激が、喉の奥へと滑り落ちていった。
2. 二時間のスケッチと、海の記録
飲んでから、すぐに何かが起きるわけではない。
ただじっと寝台に座って時計を見つめていれば、恐怖ばかりが膨らんでしまう。
「テオ、あれをやりましょうよ。昨日、二時間かけて描いた魚の絵」
「ああ、トゲカワウオのスケッチだね」
テオドールは机の上に、昨日買付人を待たせる間に描き上げた羊皮紙を広げた。
そこには、精緻な線で描かれた魚の全身図や、トゲの拡大図、頭骨の比率を測った無数の数字が並んでいた。
「形は十分に書き留められたけれど、生きていた時の様子は僕には分からない。王立学会の論文に添えるなら、生態についての記述も欠かせないんだ」
「任せなさいよ。私が海で見てきたことを全部教えてあげるわ」
私たちは机を挟んで向かい合い、インク壺とペンを用意した。
テオドールがペン先をインクに浸し、スケッチの余白を見つめる。
「まず、生息水深だ。底網にかかった場所からして、沖合の岩礁棚……水深はおよそ百尋(ひろ)から百五十尋あたりだろうか」
「そうね。太陽の光なんて届かない、真っ暗で氷みたいに冷たい底よ。でもね、砂地にはいないの。切り立った岩壁の、横に走った裂け目にへばりついてるわ」
「へばりついている? 腹びれを使って吸着しているのかい?」
「違うわ。胸びれの頑丈なトゲを岩肌の隙間に突っ込んで、身体を固定してるのよ。潮の流れがものすごく速い場所だから、そうしてないと流されちゃうの」
テオドールが感嘆の声を漏らしながら、さらさらと流麗な文字を走らせていく。
「なるほど……! 胸鰭の第一鰭条が太く肥大化していたのは、遊泳のためではなく、岩肌へ身体を固定するためのアンカーだったのか。……捕食行動はどうだい? 獲物を追いかけるのか?」
「まさか! あんなのろまな魚、魚を追いかけ回せるわけないじゃない。岩の割れ目でじっとしてて、潮に乗って流れてくるエビや死んだ小魚が口の前に来たら、喉を大きく広げて水ごと丸呑みにするのよ」
「……『潮流に逆らわず静止し、水圧を利用した受動的吸い込み捕食を行う』……と。素晴らしいよ、ローナ。これだけで論文の一節が書ける」
テオドールが顔を上げ、手帳を読み上げて聞かせてくれた。
私は腕を組み、得意げに頷きながらも、一箇所だけ首を振る。
「あ、そこは少し違うわ。『静止』じゃなくて、潮が渦を巻くたびに、尾びれを少しだけ揺らして体の傾きを調整してたわよ」
「そうか、潮流に対する姿勢制御か。修正するよ」
テオドールが楽しそうにペンを走らせる。
私が海の記憶を語り、彼がそれを陸の学術の言葉へと紡ぎ直していく。
部屋の中には、暖炉のパチパチという心地よい爆ぜる音と、二人の声だけが穏やかに響き合っていた。
3. 「暮らせる状態」と、振り子時計
気づけば、窓から差し込む日差しが高くなり、昼を回っていた。
港から戻ってきた魚商人が坂道で声をかけてくれ、買付人に託した手紙と手付金が無事に薬種商へ届き、骨格標本が奥の戸棚に取り置かれたことを知らせてくれた。
テオドールが立ち上がり、安堵の息をつきながら暖炉の鍋から温かいスープと刻んだ肉を皿によそってくれた。
「そろそろ昼食にしよう。話に夢中で、時間を忘れていたね」
「本当ね。お腹が空いたわ」
机の上に並んだ昼食をつつきながら、私たちはなおも魚の話を続けていた。
トゲカワウオの硬い鮫肌の皮をどう剥ぐか、港の職人が使う膠の製法はどうなっているか。スプーンを口に運び、肉を噛み締めながら、当たり前のように言葉を交わす。
ふと、スープを飲み干したところで――私は自分の喉元に、そっと手を当てた。
「……テオ」
「ん? 肉が固かったかい?」
「ううん。……私、朝から今まで、ずっと喋ってるわ」
テオドールがスプーンを止め、目を丸くした。
「あ……」
自分の喉の奥に意識を集中してみる。
カサカサとした枯れ葉の擦れる音も、チクチク刺すような痛みもない。
朝にスープを飲んでから、スケッチの清書をし、昼食を食べ終えるまでの数時間、私の声は一度も途切れることなく、澄んだ音を響かせ続けていたのだ。
「声が……掠れていないね」
「ええ。痛くもないわ」
私は恐る恐る、自分の下腹部に手を当ててみた。
奥底にあったあの火種は、消え失せてはいなかった。
炭火のような温かい脈動がそこにあり、首筋には微かな上気がある。テオドールに触れたい、もっと近くに行きたいという身体の奥のざわめきも、確かに息づいていた。
けれど――それは、脳を焼き尽くすような凶暴な熱狂ではなかった。
麻布が擦れて激痛にのたうつこともなく、息が詰まるような焦燥感に支配されることもない。
私は机越しに右手を伸ばし、テオドールの素肌の手の甲の上に、そっと自分の手のひらを重ねた。
「……あっ」
テオドールが息を呑んだ。
けれど、私は手を引かなかった。
痛まない。針で刺されるような過敏さはなく、ただ彼の手のひらの温もりと、骨の硬さが心地よく肌に伝わってくる。
衝動に呑まれることなく、自分の意志で、彼の温もりを確かめることができる。
立ち上がって足元を確かめてみる。
陸に上がった人魚特有の、土踏まずのない平らな足裏の歩きにくさは相変わらずだった。
けれど、あの朝のような鉄の棒のような強ばりや、膝折れは起きていない。支えがなくても、自分の足でしっかりと床を踏みしめて立っていられた。
「……成功だ」
テオドールの瞳が、歓喜に見開かれた。
「熱を無理に消し去ることなく、声も脚も落とさずに維持できている……! ローナ、脈拍を測らせておくれ。それから発声の振動数を――」
研究者としての興奮に火がついたテオドールが、慌てて手帳をめくり、ペンを握り直そうとした。
私は思わず笑ってしまい、彼の手首をきゅっと握りしめた。
机を回り込み、彼のすぐ隣の椅子へと腰を下ろす。
「テオ。もう魚の記録はおしまいよ」
「え? あ、でも、今の状態の変化曲線を記録しておかないと……」
「記録は後でいいわ。せっかく痛くないんだから、もっと近くでお話ししましょ」
私が彼の腕に自分の腕を絡めると、テオドールは虚を突かれたように瞬きをし、それから苦笑した。
彼は手帳から指を離し、自分から机の上にカチャリとペンを置いた。
そして、私の手を温かく握り返してくれた。
当たり前の接触。穏やかな時間。
けれど――会話の合間、テオドールの視線が、壁に掛かった振り子時計の文字盤へチラリと泳ぐのを、私は見逃さなかった。
この楽な状態が、何分、何時間続くのか。学者としての好奇心と心配が、どうしても頭をもたげてしまうのだろう。
その不器用な横顔が可笑しくて、私は吹き出しそうになりながら、彼の手をもう一度ぎゅっと握り直した。
4. 手に入れた午後と、四十日目の先
夕暮れが近づくにつれて、穏やかな午後はゆっくりと幕を引き始めた。
部屋の中に差し込む光が橙色から薄紫へと変わり、外の風が冷たさを増していく。
下腹部の奥にあった温かい火種が、徐々に熱さを取り戻し始めていた。
首筋や二の腕の皮膚がチリチリと引きつり始め、麻布の擦れがわずかに痛みを帯びてくる。極微量に抑えた薬の作用が、夕暮れの訪れとともに静かに引いていくのだ。
「……熱が、戻ってきたかい?」
私の表情のわずかな曇りに気づき、テオドールが静かに尋ねてきた。
「ええ。少し熱くなってきたわ。……でも、声はちゃんと出るわよ」
私は喉仏を鳴らし、自分の声がまだしっかりと部屋に響くことを確かめた。
あの朝のように突然声が途切れることも、脚が動かなくなることもなかった。
魚のスケッチを清書し、昼食を食べ、夕暮れまで机を並べて話し続けることができたのだ。
私は寝台に腰を下ろし、シーツの端を握りしめながら、深く心地よい息を吐き出した。
「……あれくらいなら、明日も欲しいわ」
「ああ。……僕もだよ」
テオドールが私の隣に座り、少し距離を保ちながら、優しく微笑んでくれた。
「明日も、明後日も作ろう。今日試した量を基準にして、君の身体に過度な負担をかけないよう、少しずつ調整していくんだ」
窓の外を見上げると、冬の夕暮れが海を深く染め上げていた。
上陸して二十八日が過ぎた。
人間でいられる四十日の期限まで、残り十二日。
痛みに怯えず、人と話し、仕事をして笑い合える時間を、私たちは自分たちの手で一度つかみ取った。
けれど、静まり返る部屋の中で、二人の胸には同じ思いが静かに灯っていた。
――この午後を、四十日目の先にも持っていきたい。
残り十二日。
私たちが掴み取った小さな午後は、次なる未来を切り拓くための、揺るぎない足場となっていた。