発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様 作:神座鬼神
観察日誌:一八四九年十一月二十日(収容第40日)
観測場所:沿岸博物学研究所・地下比較解剖室
観察・記録:主任研究員 アルベルト・マウラー
助手:カール・ヘンペル
被験体:所属未詳水生動物(検体A-01)
環境条件:室温十度、湿度六十五パーセント、採液用亜鉛漏斗トレイ設置
生体兆候:直腸温三十四度二分(低体温)、自発呼吸微弱(毎分四回)、心音極めて微弱
---
1. 失われた声と決裂の問答
酒精の匂いが満ちる地下比較解剖室で、鯨油ランプが傾斜した観察台を照らしていた。
その上に、検体A-01が横たわっている。
収容第四十日。
彼女はもう声を出せなかった。両脚は一つの尾へ戻りかけていたが、衰弱と乾燥の下で、その変化は滑らかに進んではいなかった。
濡れ布を取り替えても、身体は力なく横たわるばかりだった。
「先生……」
カールの目の下には、深い隈があった。
手に持った受器が、微かに震えている。
「海へ戻せば生きられたと、知っていたのですね」
マウラーは鋼ペンを止めた。
「彼女の話も、水中での容態も、その結論を支持していた」
「それでも、戻さなかった?」
「戻せば、この先を見届けられなくなる」
カールはしばらく何も言えなかった。
記録の不足でも、移送の困難でもなかった。目の前の男は、彼女がこの台の上で迎える経過を選んだのだ。
「死ぬまで観察するために……」
「海へ戻せば、その後の姿は水底へ消える。陸上に留まり続けた個体がどうなるか、誰が記録する」
「彼女は、帰りたいと言っていたでしょう」
「記録してある」
その一言に、カールの顔から最後の期待が消えた。
「……悪魔だ」
マウラーは返事をせず、懐中時計を見た。
「零時を過ぎた。前日からの崩れが広がっている。観察を続けろ」
2. 液化の記録と採取
人魚の輪郭が、静かに曖昧になっていった。
観察台には白濁した液と微細な泡が現れ、部屋には潮の匂いが残った。
「通常の腐敗と同じ経過には見えんな。悪臭は乏しい」
マウラーは時刻を書き留めた。
「原因については、今は決められん。受器を用意しろ」
カールは漏斗の下へ容器を置いた。
マウラーはガラス管で試料を別の受器へ分け、採取した時刻と外観を記録した。
「測定用は泡が落ち着くまで静置する。残りは酒精で固定しろ」
カールの手が動かなくなった。
目の前にいるのは、海へ帰してほしいと訴えた相手だった。その身体に付けた番号を、今は小さな瓶へ書かなければならなかった。
「カール、札を」
マウラーは声を荒らげなかった。それがかえって、助手には耐えがたかった。
3. 最期の視線と沈黙の終焉
検体A-01の瞳が、わずかに開いた。
その視線は、器具を持つマウラーを捉えた。
声はなかった。
濃紺の瞳にある静けさを、マウラーは見返していた。カールには、それが憎しみよりも深い、哀れみに見えた。
「……マウラー」
唇の形だけが、その名を伝えた。
彼女がこの地上に残した最後の呼びかけだった。
やがて瞳の光が失われ、人魚だったものの輪郭も消えた。
台の上には、白濁した液と泡、数片の骨が残っていた。
「午前零時四十二分」
マウラーは懐中時計の文字盤を読み、帳面に時刻を書いた。
「外形崩壊と液化の経過を終了。記録を締めろ」
カールは返事をしなかった。
受器を持ったまま台の縁に手をつき、肩を震わせていた。
> *一八四九年十一月二十日。収容第四十日。*
> *検体A-01。午前零時過ぎ、前日からの衰弱と形態の崩れに続いて、外形の急速な崩壊と液化を認めた。白濁液と残存骨片を採取。*
> *採取液は測定用を分取し、保存用に酒精を加えた。*
> *本記録は一個体を収容下に置いた経過である。水槽から移した後は観察台上で拘束を継続した。自然状態における寿命、および帰海後の詳細な経過は本観察の範囲に含まれない。*
筆記の音が止まった。
カールの目は、書き終えた最後の一行ではなく、海への扉に向けられていた。
4. エピローグ:知の墓標
翌朝。
助手カール・ヘンペルは、机の上に一枚の退職願を置き、誰にも別れを告げずに去っていった。
マウラーはその紙片を一瞥しただけで、引き出しの隅へと無造作に放り込んだ。
地下比較解剖室の机の上。
整然とした紙の束が、紐でしっかりと綴じられていた。
表紙には、黒々としたインクで表題が記されている。
> 『未同定水生動物における形態変化および陸上崩壊過程の比較解剖学的知見』
> 沿岸博物学研究所 主任研究員 アルベルト・マウラー 著
机の傍らの木製棚には、封蝋で密閉された三本のガラス瓶が収められていた。
中には、あの真夜中に採取された白濁した液体――酒精の中で沈殿し、沈黙を守り続ける標本。
マウラーは鋼ペンを置き、銀縁の眼鏡を外して眉間を軽く揉んだ。
地下室には、冷たい海水の給水管の音だけが、規則正しく響いている。
外の海では、今も冬の波が打ち寄せ、氷の下で名もなき群れたちが、失われた同胞の行方も知らぬまま、遠い歌を響かせ合っているのだろう。
だが、マウラーの心に去来するものは何もなかった。
後悔も、感傷も、勝利の美酒の味すらも。
ただ、自然界に潜んでいた一つの奇怪な現象を、客観的な記録として紙の上に閉じ込めたという、絶対的な静寂だけがそこにあった。
「ふむ」
マウラーは記録の束を小脇に抱え、鯨油ランプの火を吹き消した。
暗闇に沈む実験室。
冷酷なる生物学者は、一度も振り返ることなく、重い扉を開けて地上へと歩み去っていった。