発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様   作:神座鬼神

22 / 50
第21話:産ませる知恵と、居座る覚悟

1. 薬種商の添え状と、朝の出立

 

 上陸二十九日目の朝。

 崖の上の研究所の丸机の上には、昨日届いた薬種商からの受領証とともに、もう一枚の薄い羊皮紙が広げられていた。

 

 手付金の銀貨二枚を送り出した際、テオドールは手紙の末尾に短い照会を書き添えていたのだ。

 ――『比較生理学の観点から、寒冷海域の生物や家畜において、生殖状態の活性を維持・補助する手法を研究している専門家をご存じないでしょうか』と。

 薬種商の店主から返ってきた添え状には、簡潔な文字でこう記されていた。

 

『湾岸の水産試験場に、魚類の人工採卵と北方種畜の繁殖誘導を共同で手掛けているヴァルターという研究官がいる。頑固な男だが、生殖状態の誘導や維持製剤については界隈で最も詳しい。訪ねてみるとよい』

 

 机の上の小さな木製カレンダーを見つめる。

 上陸して二十九日。四十日の期限まで、残り十一日。

 もう、紹介を待ったり研究所の中で話し合ったりして日数を費やす余裕はなかった。

 

「すぐに行こう、ローナ。馬車を手配するよ」

 

「ええ。昨日の午後みたいに、ちゃんと話せる状態にしてから行きましょ」

 

 テオドールが一滴のチンキを溶かした豚骨スープから、スプーンの先に数滴だけすくい取ってくれた希釈液を、私は躊躇うことなく口に含んだ。

 昨日掴んだ、あの「声を失わずに過ごせる穏やかな半日」を再現するための服用だ。

 喉の奥にわずかな渋みが滑り落ち、下腹部に居座る熱の火種が、じんわりと穏やかな温かさへと落ち着いていく。

 

 研究所の前を通る定期の乗り合い馬車を呼び止め、私たちは港の先にある湾岸地区へと向かった。

 冬の海岸沿いの街道は、馬車の車輪が石を跳ね上げるたびにガタゴトと激しく揺れた。

 下腹部の奥には第3期の重い熱感が確かに残っており、麻布の擦れや揺れによる刺激には常に気を配らなければならない。

 テオドールが私の隣に腰掛け、肩と腰をそっと支えて揺れを逃がしてくれた。

 平らな足裏を床に踏ん張り、彼の腕の温もりを感じながら、私は流れていく冬の灰色の海を窓から見つめていた。

 

 

2. 湾岸試験場と、目的の食い違い

 

 馬車に揺られること一時間あまり。

 潮の匂いと泥炭の混ざり合う湾の入り江に、石造りの頑丈な建物が並ぶ一角が現れた。湾岸水産試験場だ。

 案内された奥の標本室兼実験室には、無数の硝子瓶と乾燥した海藻の標本が壁一面に並び、革のエプロンを着けた白髪交じりの老人が、天秤で灰色の粉末を測り取っていた。

 

「……薬種商の紹介で来た、崖の上の若造かい」

 

 老人は天秤から目を離さず、塩枯れた低い声で言った。

 彼が主任研究官のヴァルターだった。手の甲には幾重もの擦り傷と魚の鱗がこびりつき、長年現場で冷たい海水と向き合ってきた実務肌の学者の空気を漂わせていた。

 

「テオドール・ヘラーです。こちらは助手のローナ。……先生が内陸の種畜研究所と共同で、寒冷海域の魚類や家畜の生殖誘導製剤を研究されていると伺い、教えを請いに参りました」

 

 テオドールが会釈し、私も彼の腕を支えにしながら軽く頭を下げた。

 ヴァルターは粉末を薬包紙に包み、ようやく眼鏡の奥から鋭い視線を私たちに向けた。

 

「ふん。解剖学者が何の用だ。うちでやってるのは、北方の冷たい海で育つ魚や、寒冷地の種羊・種牛を、人間の手で確実に交配・産卵させるための実用研究だ。解剖して骨を磨くような優雅な学問じゃないぞ」

 

「僕が伺いたいのは、まさにその『繁殖状態の誘導と維持』についてです」

 

 テオドールは慎重に言葉を選びながら、問いを切り出した。

 

「生殖期に入った個体が示す一時的な形態変化や、旺盛な活力……そうした状態を、交配や受胎に至らせることなく、その手前の段階のまま長く維持することは可能なのでしょうか」

 

 ヴァルターは怪訝そうに眉をひそめ、鼻を鳴らした。

 

「……はあ? 受胎させずに維持だと? そんな奇妙なことを調べてどうする。魚なら卵を産ませ、家畜なら種をつけさせて次世代を増やす。そのために成熟を促すんだ。戸を開けたまま部屋に入らず、入り口で突っ立っているような真似に何の意味がある」

 

 ヴァルターの関心は「産ませて増やすこと」にあり、私たちの目的は「受胎せずに脚と声を保ち続けること」にある。

 根本的な目的の食い違いが、初めの会話から浮き彫りになっていた。

 

 

3. 記録の分類と、混在する効き目

 

「理論上の比較研究です」

 

 テオドールはたじろぐことなく、冷静に言葉を継いだ。

 

「生殖期に発現する特殊な生理機能が、どのような刺激によって下支えされているのか。それを知ることは、繁殖誘導の制御技術にとっても無益ではないはずです」

 

 ヴァルターは値踏みするようにテオドールを見つめ、それから不機嫌そうに机の上の分厚い日誌の束を引っ張り出した。

 

「……理屈屋め。ならこれを見てみろ。内陸の牧場と共同で進めている、**『ルピス乳剤』**の直近の試験記録だ」

 

 机の上に広げられた紙面には、細かな観測データがびっしりと書き込まれていた。

 ルピス乳剤――寒冷海域に棲む特定の海生腺組織から抽出した脂質と、北方原産の自生薬草を調合した、繁殖誘導用の試験製剤だという。

 

「海産魚の親魚にも、北方の試験種羊にも投与した。だが、芳しくない。発情や成熟の兆候が現れた直後に、餌食いが急激に落ちて動かなくなり、衰弱して死んだ例が何件も出ている。『投与失敗』として廃棄したロットの記録だ」

 

 ヴァルターが指差した頁を、テオドールが身を乗り出して覗き込み、低く読み上げる。

 

「……『魚種、シモフリキツネダラ。投与後、摂食停止、活動低下、死亡』……とあるね」

 

 私も横から机を覗き込み、手帳に記された水槽のスケッチに目を留めた。

 

「……ねえ、ヴァルターさん。このキツネダラ、餌を食べなくなった後、どこにいたの?」

 

 私が尋ねると、ヴァルターは眉をひそめ、不審そうに私を見た。

 

「どこにいたかだと? 水槽の隅の、暗い岩棚の隙間だ。底に腹をつけて全く動かなくなった。だから衰弱と判断したんだ」

 

「食べなくなって暗がりに隠れるのは、海でも見たわ」

 

 私は水槽のスケッチを指先でなぞりながら言った。

 

「産卵前のキツネダラはそうやって胃袋を空にして、岩の裂け目でじっとしてるのよ。身体が繁殖に入る前の自然な行動だわ。それを弱ったと思って無理に明るい場所へ追い立てたり、餌を撒いたりしたら、それだけで弱って落ちちゃう」

 

 ヴァルターが息を呑み、怪訝そうに記録を見直す。

 テオドールがすかさず日誌をめくり、個体ごとの経過の記録を比較した。

 

「……先生、この記録の三番と五番の個体を見てください。摂食停止の記録の後も、二日間にわたって体色の鮮やかさと鰭の張りが保たれていたとあります。一方で、七番と八番は投与から数時間で急激に平衡を失って横転している。……同じ『死亡』としてまとめられていますが、そこに至る経過の違う二群に分かれています」

 

 テオドールがペン先で記録の日時と数値を指し示した。

 

「三番と五番は、投与後すぐに急変したわけではない。もし自然な繁殖行動の最中に別の刺激が重なって落ちたのだとしたら、七番や八番の急激な虚脱とは別の経過を辿っていた可能性があります」

 

 ヴァルターは眼鏡を押し上げ、手元の引き出しから別の綴り――水槽間の個体移送記録を引き抜いて指でなぞった。

 

「……待て。三番と五番は、摂食停止を確認した翌朝、採卵用の別水槽へ移した記録があるな。網で掬い上げて別の水に入れた際の刺激が重なっていたのか……」

 

 さらにヴァルターは立ち上がり、戸棚の奥から、彼だけが持っている内陸の牧場との共同研究記録――種羊への投与日誌を引っ張り出してきた。

 

「羊の試験でも、似たような経過の割れ方があったんだ。発情の兆候が現れてから食欲が落ちて衰弱した群と、投与直後に激しい虚脱を起こした群だ。……すべてを単なる製剤の毒性死として片付けていたが、お前たちの言う通り、死亡までの経過は一様じゃない。繁殖を促す作用と生体への過剰な負荷が、記録の中で絡み合っていたのか。これなら、もう一度見直すべき例がいくつかあるぞ」

 

 死因がその場で完全に解明されたわけではない。原因の証明がついたわけでもない。

 けれど、闇雲に「失敗」と片付けられていた記録の中に、三人だからこそ辿り着けた新しい見方が持ち込まれたのだ。

 ルピス乳剤には、繁殖状態を促す確かな力がある。しかし同時に、生体に強い負荷をかける危険も依然として潜んでいる。

 効果への期待と、未知の負荷への緊張が、同時に私たちの胸を走った。

 

「……面白いな」

 

 ヴァルターが手帳を閉じ、私とテオドールをまっすぐに見つめた。その瞳には、先ほどの尊大な警戒心はなく、対等な研究者への敬意が宿っていた。

 

「海での現場の目を持つ娘と、経過の違いを分ける解剖学者か。……ただの素人客ではないな、お前たち」

 

 

4. 小瓶の重みと、居座る企み

 

 ヴァルターは奥の薬品庫へ向かい、やがて頑丈な木箱と、一冊の薄い調合帳を持って戻ってきた。

 

「ルピス乳剤の調合比率と、これまでの経過観察の全記録だ。書き写していくといい。それから――」

 

 ヴァルターは木箱の中から、親指ほどの大きさの小さな遮光瓶を取り出した。中には、乳白色のわずかに粘り気のある液体が満たされている。

 

「先週作った試験用の現物だ。一瓶だけ分けてやる。……だが、忠告しておくぞ」

 

 ヴァルターは瓶を机に置き、テオドールを厳しい目で見据えた。

 

「この製剤は、親魚や家畜を交配直前のピークまで引き上げるためのものだ。その状態のまま交配も産卵もさせず、何週間も引き延ばすような試験は、家畜でも一度もやったことがない。もしそんな無理な維持をやれば、生体にどれほどの負荷がかかるか……命を削ることになりかねんぞ」

 

「……重々、承知しています」

 

 テオドールは深く頭を下げ、その小瓶と記録の写しを両手で受け取った。

 その横顔には、新たな手がかりを得た学者の高揚と、未知の危険を引き受ける緊張が色濃く刻まれていた。

 

 夕暮れ時。

 私たちは研究所へ戻る帰りの馬車に揺られていた。

 窓の外では、港の明かりが遠ざかり、荒涼とした冬の崖道が夕闇に沈んでいく。

 

 テオドールは外套のポケットに手を入れ、持ち帰った調合帳の数字を頭の中で反芻しているようだった。

 下腹部の奥には、夕暮れとともに戻り始めた熱感が再び脈打ち始めている。

 けれど、私の心は朝よりもずっと熱く、激しく波打っていた。

 

 私はコートのポケットの中で、冷たい遮光瓶の丸みを指先で撫でた。

 ヴァルターの言葉が、耳の奥に残っている。

 ――交配も産卵もさせず、引き延ばした例はない。

 

(ふふ……当たり前よ)

 

 私は窓の外の暗い海を見下ろしながら、胸の奥でひとり、不敵に笑った。

 人間たちは、子供を産ませて家畜や魚を増やすために、この薬を作ったのだ。

 卵を産ませ、種をつけさせ、人間の役に立つ獲物を増やすための知恵。

 

(でも、私たちは違うわ)

 

 子供を産ませるための技術を使って、私は子供を産まない。

 受胎して海へ帰る代わりに、私はこの二本の脚で立ち、この澄んだ声で喋り、テオドールの隣に居座り続けるために、この薬を使うのだ。

 

「産ませるためのものを、居座るために使うのよ」

 

「……え? 何か言ったかい、ローナ?」

 

 テオドールが顔を上げ、私を覗き込んできた。

 

「ううん。何でもないわ」

 

 私は小さく笑って、彼の腕をぎゅっと抱き寄せた。

 上陸して二十九日目が暮れていく。

 期限まで、残り十一日。

 熱を抑えるベルヘ草と、繁殖を促すルピス乳剤。

 二つの武器を揃えた私たちは、四十日という定めの壁を突き破るための、次なる危険な賭けへと手を伸ばしていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。