発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様 作:神座鬼神
1. 焦る期待と、匙を置く手
上陸三十日目の朝。
崖の上の研究所の窓から差し込む冬の光は白く、机の上の木製カレンダーには、三十という数字が刻まれていた。
四十日の期限まで、残り十日。
丸机の上には、昨日湾岸の水産試験場から持ち帰った遮光瓶と、ヴァルターの調合帳を書き写した紙束が広げられていた。
テオドールの目元には、わずかに濃い隈が差している。昨夜、私が眠りについた後も、夜遅くまで記録を読み込んでいたのだ。
「ヴァルター先生の記録を見る限り、海産魚でも北方の種羊でも、繁殖状態の維持に最も安定した効果を示したのは、初期に極微量を単回投与した例だった。……ローナ、自然な繁殖の衰えが始まる前に、この薬がどう作用するのかを確かめておきたいんだ。もし組織を支える足場になるなら、その兆候だけでも今のうちに掴んでおきたい」
テオドールの声には、新しい仮説に手を伸ばす研究者特有の静かな熱がこもっていた。
彼は遮光瓶のコルクを抜き、瓶の口から銀の小さな匙の先へ、乳白色の液体をほんの一滴だけ取り分けた。
かすかに漂う、冷たい海の匂いと北方薬草の乾いた苦み。
「……試してみるかい?」
テオドールが匙を私の方へ差し出した。
けれど、その匙の上の白い雫を見つめた瞬間、私の喉が引きつるように強ばった。
脳裏をよぎったのは、二十一日目――あの第3期に入った初日の記憶だった。下腹部を焼き尽くすような熱、皮膚が擦れるだけで息が詰まるほどの疼き、理性が白く染まりそうになった恐怖。
あの嵐が、この一滴でまた目を覚ますのではないか。
私の肩が小さく固まり、視線が匙の先で縫い止められた。
テオドールの手が、ぴたりと止まった。
彼は私の顔を見つめ、それから自分の手元の匙を見下ろした。
言い訳も、無理な勧めもしなかった。
テオドールは息を静かに吐き出し、差し出しかけていた銀の匙を、机の上の白い小皿へカチャリと置いた。
「……すまない。僕が焦っていた」
彼はこめかみを押さえ、苦笑するように眉を下げた。
「記録の数字ばかり追いかけて、君を急かしてしまったね。昨日あれだけの長旅をして、身体も疲れているはずだ。今日、無理に試す必要はないよ」
匙を引いた彼の指先は穏やかで、無理強いの気配は微塵もなかった。
その動作を見た途端、胸の奥で固まっていた冷たい塊が、すうっと解けていくのが分かった。
私は小さく息を吐き、自分で自分の頬を両手で軽く叩いた。
「……もう、弱気にさせないでよ」
「え?」
「あんたがそんな顔したら、私がただの臆病者みたいじゃない。怖がってばかりじゃ、せっかく分けてもらった薬がただの飾りになっちゃうわ」
私は小皿の上の匙に手を伸ばし、それから机の隅を指差した。
「やるわよ。……その代わり、前に作った豚骨スープのベルヘ草の希釈液、すぐ飲めるようにそばに置いておいてちょうだいね」
テオドールは驚いたように目を丸くし、それから嬉しそうに頷いて、瓶に入った薄茶色のスープを引き寄せてくれた。
2. 欲しい暮らしと、身体の横槍
匙の先のルピス乳剤を口に含み、間髪を入れずに、スープで薄めたベルヘ草の希釈液をスプーンの先に数滴すくい取って、喉へと流し込んだ。
舌の上に残ったのは、わずかな油の膜のような濃厚さと、いつもの豚骨と薬草の馴染んだ渋みだった。
昼前、そして昼過ぎ。
身体の反応は、拍子抜けするほど穏やかだった。
ベルヘ草の抑えが効いているおかげで、下腹部の熱は心地よい微熱のまま落ち着いており、喉の奥にも張りや痛みは出ない。木製の床を踏む足裏の感覚も安定していた。
けれど、奇跡のような変化が起きたわけでもなかった。脚が急に人間のように大股で歩けるようになるわけでも、声が劇的に通るようになるわけでもない。もともと自然な繁殖の働きが十分に強い今の時期には、製剤を加えたからといって、身体の機能が急激に跳ね上がるようなことはなかった。
だが、夕暮れが近づくにつれて、空気が変わり始めた。
窓の外の冬の海が灰色から群青へと沈み、部屋の隅に薄暗い影が落ちる。
昨日と同じように、ベルヘ草の穏やかな鎮静は、半日ほどが過ぎると徐々に薄れていく。
問題は、その後にやってきた。
下腹部の奥深くから、じわりと、重く粘りつくような熱が湧き上がってきたのだ。
二十一日目の時のような、刃物を刺されるような痛みではない。呼吸を奪われるような窒息感でもない。骨も関節も軋んではいない。
けれど――無性に、肌が恋しい。
机の上には、テオドールが火を灯してくれた油ランプの光が揺れていた。
ストーブの上では、干し羊肉を脂身とじっくり煮込んだスープの鍋から、湯気とともに香ばしい匂いが立ち上っている。
私の前には、文字の練習のための粗い紙と木炭の鉛筆が置かれていた。
人間たちの使う『文字』。それを読めるようになりたい。テオドールが書く記録の意味を、もっと自分の頭で理解したい。そして、煮上がった温かいスープを、二人で机を囲んで食べたい。
それが、私の望んでいる暮らしだった。
なのに、手元が定まらない。
木炭を握る指先が落ち着かず、視線が紙の上から滑り落ちてしまう。
隣で帳簿をめくるテオドールの服の擦れる音、ランプの明かりに透ける彼の首筋、袖口からのぞく手首の血管――そうしたものばかりが、目と鼻に焼き付くように飛び込んでくる。
(……やめなさいよ、私。文字を書くのよ。今日は『海』と『山』を覚える約束でしょ)
心の中で強く念じ、木炭を紙に押し当てようとする。
けれど、下腹部の疼きが波のように押し寄せるたび、全身の皮膚がテオドールの温もりを渇望して粟立った。
気がつけば、私の左手は鉛筆を支えるのをやめ、机を越えて伸びていた。
ぎゅっ、とテオドールのウールの袖を掴んでしまう。
「……ローナ?」
テオドールが驚いてペンを止め、振り返った。
その顔を見た瞬間、我慢の糸がぷつりと切れた。
私は椅子から身を乗り出し、彼の腕にしがみつくと、額を彼の肩口にぐりぐりと押し当てていた。
ウールの服越しに伝わってくる、人間の男の体温と匂い。それだけで下腹部の熱が甘く疼き、ため息が漏れそうになる。
あまりに心地よくて、あまりに安心する。
けれど同時に、自分の意図とまったく違う行動を取らされている屈辱で、頭の中がかっかと燃え上がった。
「ローナ、熱があるのかい? 脈が――」
テオドールが慌てて私を支えようと背中に手を回す。
その温かい手のひらが背中に触れた瞬間、背筋がぞくぞくと震えた。
私は彼の袖を力任せに握りしめたまま、肩口に顔を埋めた状態で、叫ぶように文句を言った。
「……もう! 私はね、あんたに抱きつくためだけに、あの薬を探してきたんじゃないわよ!」
「えっ……? あ、いや……ローナ……?」
テオドールが息を呑み、耳まで真っ赤にして狼狽した。
「文字を書きたいの! スープも食べたいの! ちゃんと隣に座って、話しながら夜を過ごしたいの! ……なのに、なんで身体がこんなことばっかり要求してくるのよ……!」
悔しさと気恥ずかしさで、私は彼の胸元に顔を押し付けた。
テオドールは赤面したまま、私が椅子から落ちないよう片腕でしっかりと腰を抱き止め、もう片方の手で机の上の懐中時計を引き寄せた。
「脈拍は速いけれど、不整脈はない……呼吸は浅いが、喉頭の狭窄音は聞こえない。……脚の筋肉のこわばりも、出ていないね」
「こんな時にまで観察記録を取らないでよ!」
「す、すまない。でも、痛むわけではないんだね?」
「痛まないわよ! ただ、あんたから離れたくなくて気が散って仕方がないの! それが一番腹立たしいのよ!」
テオドールは困り果てたように眉を下げ、それから私の背中を、宥めるようにゆっくりと撫でてくれた。
その手の温もりに甘えながら、私は自分の身体のどうしようもない頑固さに、小さく舌打ちをした。
3. 二つの時計と、取り戻した文字
翌朝――三十一日目の朝になっても、昨夜の余波は完全には消えていなかった。
毛布の中で目を覚ました時、あの強烈なしがみつき衝動は治まっていたものの、下腹部の奥にはまだ重い熱感がじっと燻り続けていた。
テオドールはすでに起きており、机の上でヴァルターの日誌と、昨夜の私の状態を書き留めたメモを見比べていた。
「おはよう、ローナ。……体調はどうだい」
「……昨日の夕方よりはずっとマシよ。でも、まだ身体の奥が重いわ。昨日の薬、まだ残ってるのかしら」
私がベッドから足を下ろすと、テオドールが記録の紙を指先で叩きながら言った。
「確証はないけれど、可能性は高いと思う。君自身の身体が持つ繁殖の波もあるから一概には言えないけれど、ヴァルター先生の記録でも、ルピス乳剤を投与した家畜や魚は、二十四時間以上経過しても特有の落ち着きのなさが続いていたとある。……一方で、ベルヘ草の抑えは半日ほどで切れてしまう」
テオドールが椅子を回し、私の方を向いた。
「二つの薬は、身体の中で効いている時間が全く違うんだ。ベルヘ草は早く効いて早く抜け、ルピス乳剤は遅く長く居座る。だから、朝に同時に飲んで相殺しようとしても、夕方になればベルヘ草だけが先に消えて、ルピスの刺激がむき出しになってしまう」
「……同時に飲めば帳尻が合う、ってわけじゃないのね」
「ああ。それに、ルピスに対抗しようとしてベルヘ草の量を増やせば、以前のように声や脚の働きまで抑え込んでしまう危険がある。逆にルピスを毎日飲み続ければ、昨日みたいに君の生活そのものが振り回されてしまう」
私たちは顔を見合わせた。
二つの薬を手に入れたからといって、すべてが解決したわけではなかった。
強さも違えば、続く時間も違う。
その二つの時計のズレを計算して、私たちの暮らしに合わせた服用の組み立てを作らなければならないのだ。
私たちは相談を重ね、三十一日目と三十二日目にかけて、服用の方法を少しずつ変更していった。
まず、ルピス乳剤の投与は毎朝ではなく、間隔を空けることにした。まだ自前の繁殖の力が強い今の段階では、毎日補う必要はない。
そして、夕方にベルヘ草の抑えが切れてくる時間帯に合わせて、朝と同じように、陽が落ちる前の夕方にも、前に作った希釈液からスプーンの先に数滴だけを取り分けて補うことにした。一度に多く飲まず、飲む時刻を分けて時間のズレを埋める工夫だ。
その調整の成果は、三十二日目の夕方に現れた。
西の空が茜色から深い藍色へと移ろう頃。
ストーブの上では、干し魚をほぐして脂身と煮込んだ濃いスープが静かに煮立っていた。
私は夕方の希釈液をスプーンの先から口に含み、テオドールの隣の席に腰を下ろした。
下腹部の奥には、確かに温かい波がある。
隣に座るテオドールのウールの袖に、ふと指先を伸ばしたくなる衝動もゼロではない。
けれど――あの三十日目の夕方のような、理性を塗りつぶす激しい横槍は入らなかった。
私はテオドールの袖口に触れていた左手を、自分の意志で、そっと離した。
右手に持った木炭の鉛筆を、しっかりと紙の上に構える。
ランプの明かりの下、白い紙の上に、黒い線が引かれていく。
一本、二本。
テオドールが教えてくれた線の形を思い出しながら、慎重に手を動かす。
集中が途切れることはなかった。
やがて、紙の端までたどり着いた時、そこには歪ながらもはっきりと、一行の文字が並んでいた。
『海 陸 魚』
「……書けた」
思わず声が漏れた。
テオドールがペンを置き、目を見開いて私の紙を覗き込んだ。
「……すごいよ、ローナ。綺麗に書けている」
「ふふん、当たり前でしょ。誰の手習いだと思ってるの」
得意げに胸を張りながら、私は木炭を机に置いた。
そして、衝動に無理やり引きずられるのではなく、自分の意志で、彼の腕へことんと肩を預けた。
テオドールが驚いたように肩を揺らし、それから優しく笑って、私の頭にそっと手を添えてくれた。
袖を離すことができた。
文字を一列、最後まで書き終えることができた。
小さな、けれど確かな一歩だった。
薬に生活を奪われるのではなく、二つの薬の使い方を変えることで、私たちは自分たちの欲しい暮らしを、ほんの少しだけ取り戻したのだ。
4. 三十二日目の黄昏と、明日の不確かさ
三十二日目の夜が更けていく。
テオドールが机の上の木製カレンダーに手を伸ばし、小さな木の札を一つ動かした。
上陸して三十二日が経過した。
四十日という期限まで、残り八日。
窓の外を見下ろせば、冬の夜の海が黒々と広がり、寄せては返す白い波頭が、月明かりの下でかすかに明滅していた。
今の強すぎる繁殖の働きを抑えつつ、日々の暮らしを回す工夫は、ようやく形になってきた。
けれど、窓ガラスに映る自分自身の姿を見つめながら、私は毛布の下で静かに足の指を丸めた。
やがて、自然な繁殖の時期そのものが終わり始めたとき。
この小瓶の中の薬は、本当に私の二本の脚と、この声を支え切ってくれるのだろうか。
今の勢いを鎮めることと、消えゆく炎を燃やし続けることは、きっと同じではない。
それはまだ、誰にも分からなかった。
「……ローナ、冷えるよ。そろそろ休もう」
ストーブに薪を足したテオドールが、毛布を整えながら私を呼んだ。
「ええ、今いくわ」
私は窓辺を離れ、二本の足でしっかりと床を踏みしめて、暖かなベッドへと歩み寄った。
まだ分からないことばかりだ。
けれど、私たちはもう、暗闇の中でただ怯えているだけの二人ではなかった。
「おやすみ、テオドール」
「おやすみ、ローナ」
ランプの灯が静かに消え、研究所は穏やかな寝息と、海鳴りの音に包まれていった。