発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様 作:神座鬼神
1. 掠れた声と、途切れた熱
上陸三十三日目の朝。
机の上の小さな木製カレンダーには、三十三という数字が刻まれていた。
四十日という期限まで、残り七日。
窓から差し込む冬の光を浴びながら、私は丸机に向かい、テオドールが昨夜書いてくれた紙の文字を声に出して読んでいた。
昨日の夕方、自分の意志で書き上げた『海 陸 魚』に加えて、新しく教わった単語だ。
「……うみ、りく、さかな、ふ――」
四つ目の単語を読もうとした瞬間、喉の奥がふっと空回りした。
声がかすれ、乾いた息の音だけが唇から抜ける。
「ふ……ね……っ、こほっ」
小さく咳き込み、私は喉を押さえた。
喉が腫れて締め付けられているわけではない。けれど、声帯の膜が急に薄くなって、うまく合わさらなくなったような頼りなさだった。
「……あれ? おかしいわね。昨日、文字が書けたのが嬉しくて喋りすぎたかしら」
私は苦笑いしながら水差しから冷たい水を一口含み、皿の上に残っていた塩漬けの干し肉を小さく千切って口に運んだ。
肉を噛みしめれば、いつものように身体の底から活力が戻ってくる――そう思っていた。
けれど、いつもの時刻を過ぎても、身体の奥が静まり返っていた。
普段ならこの時間になると、下腹部の奥で炭火のようにじわりと燻り始めるあの独特の熱感が、待てど暮らせど湧いてこないのだ。
お湯を沸かそうと、椅子の背に手をかけて立ち上がろうとした。
足裏を木の床につけ、体重を乗せる。
その瞬間、膝の奥からふっと踏ん張りが抜け、足首が頼りなく沈み込んだ。
「……っ」
思わず机の端を掴んで、椅子へと座り直す。
激痛が走ったわけではない。あの失敗の時のように、脚が固まって動かなくなったわけでもない。
ただ、この一ヶ月間、私を陸の上で支え続けてくれていた『内側の弾力』のようなものが、静かに潮が引くように薄れていた。
机の向かいで書類を整理していたテオドールが、即座に手を止めて立ち上がった。
彼は慌てる風もなく、けれど一切の迷いのない足取りで、机の上の小さな鏡とランプ、そして服用日誌を抱えて私の隣へやってきた。
「ローナ、口を開けて。……喉頭の粘膜を見せてごらん」
言われるままに口を開けると、テオドールは小さな鏡を滑り込ませ、ランプの光を当てて慎重に観察した。
それから私の手首を取り、懐中時計を見つめながら脈を数える。
「……仮設声帯の縁が、わずかに萎縮しかけている。脈もいつもより遅いね」
「……昨日の夕方に飲んだベルヘ草が、まだ強く残りすぎているのかしら?」
「日誌を見る限り、昨日の夕方に飲んだのはほんの数滴だ。今までの経過なら、朝にはもう切れているはずの時間だよ。……それに、ルピスを最後に試した三十日目の朝からも、丸三日が経っている。薬の残効だけじゃない。君自身の身体の、自然な繁殖の働きそのものが、下がり始めているんだと思う」
テオドールの声は低く、落ち着いていた。
上陸してひと月を過ぎれば、やがて波が引いていく。いつかは来ると覚悟していたその時が、大騒ぎするような劇的な破綻としてではなく、こうして静かな朝の違和感として訪れたのだ。
テオドールは日誌を閉じ、机の上の小さな遮光瓶――ルピス乳剤を見つめた。
「……使おう。今度は、暴走する熱を抑えるためじゃない。落ちてきた働きを、下から支えるために」
私たちは視線を交わし、二人で頷き合った。
テオドールが銀の匙の先へ、乳白色の雫をほんの一滴だけ取り分ける。
二人でその一滴の量を目で確かめ、私は躊躇うことなく、舌の上へと迎え入れた。
2. 戻った温もりと、二日間の確かめ
今回は、ベルヘ草の希釈液を用意する必要はなかった。
抑え込まなければならないほどの過剰な熱が、もともと身体の中にないからだ。
ルピス乳剤を含んでから二時間ほどが経った頃、下腹部の奥に、途絶えていた小さな温もりがじんわりと灯り始めた。
三十日目の夕方のような、理性を塗りつぶす激しい波ではない。冷えかけていた暖炉に薪が一本くべられたような、穏やかで確かな熱だった。
「……あ」
喉に手を当てて小さく声を漏らすと、かすれが消え、いつもの鈴を転がすような声がすんなりと響いた。
椅子から立ち上がってみる。
足裏が床を捉え、膝の奥にしっかりとした弾力が戻っていた。
そして――身体の奥が温まるにつれて、テオドールの側にいたい、彼の温もりに触れたいという衝動も、静かに目を覚ました。
彼を大切に思う気持ちは、薬の有無に関係なくずっと私の胸の中にあったものだ。けれど、その想いに呼応するように、身体が素直に肌の触れ合いを欲しがる感覚が、生活を邪魔しない穏やかな波として戻ってきたのだ。
私は歩み寄り、机に向かうテオドールの肩へ、そっと自分の肩を触れ合わせた。
それだけで満ち足りた吐息が漏れる。袖を掴んで離せなくなったり、文字を書くのを放り出したりすることはない。椅子に座って、向かい合って話ができる。
翌日――三十四日目も、私たちは経過を観察した。
この前の試験で確かめた通り、ルピス乳剤の作用は一日を越えて長く体内に留まりやすい。三十四日目の夜になっても、声がかすれたり足が崩れたりすることはなく、安定した状態が続いていた。
「やはり、まる一日以上しっかりと下支えが続いているね」
三十四日目の夜、テオドールが手帳に観察記録を書き込みながら言った。
「毎朝飲む必要はない。こうして二日ほど間隔を空けて、身体が落ちかける前に微量を補っていけば、衰えを補いながら日常生活を維持できるはずだ」
テオドールの言葉を聞いた瞬間、私の胸の中で、ずっと温めていた欲張りが顔を出した。
「……ねえ、テオドール」
「何だい、ローナ?」
「もし明日も身体が保てていたら……お願いがあるの」
私は彼の手の上に、自分の手を重ねた。
「肉屋へ行きたいの。……ずっとあんたに買ってきてもらっていたけれど、久しぶりに、自分の目で見て選びたいわ」
テオドールは驚いたように瞬きし、それから柔らかく目を細めて笑った。
「わかった。明日の朝、予定通りもう一度同じ少量を補って、足が確かだと確認できたら、一緒に行こう」
3. 港町の肉屋と、限られた銀貨
上陸三十五日目の朝。
二日間の間隔を空け、私たちは再び銀の匙の先からルピス乳剤を一滴取り分け、私が口に含んだ。
声にも足裏にも、衰えの影はない。
午前中の定期馬車に乗り、私たちは崖の道を下って港町の市場へと向かった。
潮の匂いと石炭の煙が混ざり合う、活気に満ちた港の通り。馬車を降りると、テオドールが私の右腕をしっかりと抱え、身体を支えてくれた。
土踏まずのない足裏で、小股によちよちと石畳を踏みしめる。
久しぶりに外の空気を吸いながら歩く通りは、研究所の窓から眺めるよりもずっと色鮮やかで、賑やかだった。
目指す肉屋は、市場の角にあった。
店先には大きな木の作業台が置かれ、鉄の鉤に吊るされた羊や牛の半身が並んでいる。乾いた獣脂と生肉の匂いが漂い、私の人魚としての嗅覚が猛烈に刺激された。
「いらっしゃい! おや、崖の上の先生じゃないか。……珍しい連れ合いだな」
分厚い前掛けをした赤ら顔の店主が、肉切り包丁を手にしたまま声をかけてきた。
私はコートのポケットの中で、小さな巾着を握りしめた。
中に入っているのは、小銀貨一枚と、銅貨が数枚。生活費から取り分けた、今日使える限られた予算だ。
「店主さん、あそこの羊の肩肉を見せてちょうだい」
私が指差すと、店主は意外そうに眉を上げた。
「肩肉かい? ありゃ赤身が筋張ってて、脂ばっかりだぞ。こっちの腿肉の方がずっと柔らかくて上等だがね」
「いいえ、その脂身がいいのよ」
私は身を乗り出し、吊るされた肉の断面を鋭く見定めた。
「白くて厚い脂がしっかり乗ってるわ。でも店主さん、その端っこの骨の周り、筋が多くて薄くなってるから、そのままじゃ売り物にしにくいでしょう?」
「おいおい、嬢ちゃん、いきなり買い叩く気かい? うちの羊は北方のいい牧草で育ってんだ、脂だって甘くて上等なんだぞ」
「買い叩くつもりなんてないわよ。正当な相談よ」
私はふふんと胸を張り、隣の棚に積まれていた白い牛骨の山を指差した。
「その肩肉の脂が多いところを端っこごと切り落として、この小銀貨一枚と銅貨二枚で売ってちょうだい。その代わり、あのスープ用の骨も一緒に引き取るわ。骨の周りの削り残し、放っておいたら乾いて捨てるだけになるでしょ?」
店主は目を丸くし、肉包丁を止めて私と骨の山を見比べた。
「……へえ、よく見てるな。骨のガラまで引き取るってのかい?」
「ええ。この人が煮込んでいいスープを作るのよ。無駄にはさせないわ」
「チッ、口の達者な嬢ちゃんだ。だが、その組み合わせならこっちも棚が片付く。……よし、銅貨三枚だ。骨のガラもたっぷり袋につけてやる」
「銅貨二枚よ。それ以上出したら、帰りの馬車代がなくなっちゃうの」
私がまっすぐに店主を見つめると、店主は一瞬呆気にとられ、それから豪快に吹き出した。
「ガハハ! 参ったな、先生、この連れ合いには敵わねえや! いいだろう、小銀貨一枚と銅貨二枚! 骨も大盛りにしとくよ!」
「ありがとう、店主さん!」
分厚い油紙に包まれた羊肉の包みと、麻袋に詰められたずっしりと重い牛骨が、作業台の上に差し出された。
テオドールが苦笑しながら財布から小銭を取り出して払い、重い骨の麻袋を腕に抱え直した。
「……すごい交渉術だったけれど、これだけ立派な骨があると、研究所の一番大きな鍋でも足りないかもしれないよ」
「ふふん、骨を叩き割って鍋に放り込めばいいのよ。あんたの仕事でしょ、解剖学者さん」
「手厳しいな。でも、いいスープが取れそうだ」
店主が豪快に笑い、私は脂身のたっぷり乗った羊肉の包みを、両手で大事に抱き上げた。
誇らしげに鼻を鳴らす私の隣で、テオドールは骨の重さに苦笑しながらも、とても嬉しそうに目を細めていた。
4. 抱えた包みと、三十五日目の夜
帰りの乗り合い馬車の中。
テオドールが足元に骨の麻袋を置き、私は膝の上に、油紙で包まれた羊肉をしっかりと抱え込んでいた。
紙越しに、冷たい肉の感触と脂の匂いが伝わってくる。
窓の外では、港の町並みが遠ざかり、冬の夕暮れに染まる灰色の海が広がっていた。
「……ふふ、勝ったわ」
「ああ。君のおかげで、しばらく肉には困らないよ」
テオドールが私の肩を抱き寄せ、揺れる車内で支えてくれた。
その温もりに寄りかかりながら、私は満ち足りた息を吐き出した。
誰かに与えられるのを待つのではなく、自分の足で町へ行き、自分の鼻と目で肉を選び、自分の言葉で掛け合って手に入れた。
私がこの陸で欲しかった暮らしは、まさにこういう時間だったのだ。
けれど、研究所の玄関をくぐり抜けた途端、全身から急速に力が抜けていった。
靴を脱いで板の間に上がると、足首とふくらはぎが鉛のように重く、腰の奥が軋むように痛んだ。
テオドールが荷物を冷暗所へと運んでいく足音を聞きながら、私は這うようにしてベッドへとたどり着いた。
「ローナ、大丈夫かい? 服を着替えて、何か温かいものを――」
「……ううん……いま、ちょっとだけ……」
外套のボタンを外す気力すら残っていなかった。
私は毛布を引っ張り上げ、枕に顔を埋めたまま倒れ込んだ。
声は出ている。足の形も保たれている。けれど、一歩一歩を踏みしめて外を歩いた身体には、ずっしりとした重い疲労が沈殿していた。
テオドールがそっとベッドの縁に腰掛け、私の外套のボタンを丁寧に外して、厚い毛布を首元まで掛け直してくれた。
その優しい手の温もりを感じながら、私は深く目を閉じた。
テオドールが静かに立ち上がり、机の上の木製カレンダーへ歩いていく気配がする。
カチャリ、と三十五という数字の札が動く乾いた音が、微睡みの耳に届いた。
上陸して三十五日が過ぎた。
四十日という期限まで、残り五日。
自然な繁殖の衰えが始まっても、私たちは身体を支え、欲しかった一日を自分たちの手で掴み取ることができた。
布団の上から掛け直されたテオドールの手の温もりを感じながら、私は深い安心感の中で、静かに意識を手放した。