発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様   作:神座鬼神

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第4話:秋霧の街道と、羊脂の軟膏

1. 外郭関門の偽装

 

 カタトコ、カタトコ、と二頭立ての黒塗り幌馬車が、石畳の轍(わだち)を刻んでいた。

 北海自由通商港エルンストを囲む、重厚な花崗岩の外郭城壁。

 夜明け前の鈍色の霧が立ち込める中、前方にガス灯の淡い光と、税関・港湾警察の『第一検問所』が見えてきた。

 

「クラウディア、フードを深く被れ。決して顔を上げるな」

 

 馬車の座席の向かい側で、ヴィンセントが低く命じた。

 クラウディアはウールマントのフードを両手で引き下げ、眉まで隠れるほど目深に覆う。

 濡れていた銀青色の髪は、乾いたマントの下で少しずつ水分を失い、青真珠色の肌には冷たい空気が張り付いていた。

 

「いいか。口を利くな。お前は重い肺の病で声が出ない、私の病弱な妹だ。……咳き込むふりくらいなら許すが、言葉を発するな」

 

「……わかってるよ。サルの前で余計なおしゃべりなんてしない」

 

 クラウディアは小さな声で返し、改造ブーツの爪先をぎゅっと丸めた。

 馬車が軋んだ音を立てて停止する。外から、重い長靴の足音と、ランタンの光が窓硝子を照らした。

 

「止まれ! 総督府税関および警備隊だ。身分証の提示を!」

 

 ヴィンセントは落ち着いた手つきで窓のカーテンを半分だけ引き下げ、コートの内ポケットから商会の公式渡航許可証と、港湾検品員の身分証を差し出した。

 

「連合海運商会、第三保税工区主任のヴィンセント・クラインだ。帝都の商工中央会議所へ、年次決済書類の提出に向かう」

 

 警備隊の伍長が書類を受け取り、ランタンの光に透かして印章を改めた。

 本物の身分証と、商会の正規の公印。そこに落ち度はない。だが、伍長の鋭い視線が、奥の座席で丸まっているクラウディアへと向けられた。

 

「……そっちの連れは誰だ? 顔を見せろ」

 

「妹のエミリアだ」

 ヴィンセントは淀みなく、平然とした声で答えた。

「重い胸膜炎を患っており、寒風に当たると喀血する。帝都の慈善療養所へ入院させるため、急ぎ馬車を仕立てた。……顔を見せても構わないが、病原菌が飛沫となって貴方の肺へ飛び込むかもしれんぞ」

 

「う……」

 伍長が怯んだ。

 クラウディアはその空気を敏感に察知し、マントの奥から「ケホッ、ゴホッ……!」と痛々しげに掠れた咳の音を漏らした。仮設声帯の擦れたハスキーな響きが、真に迫った重病人の喘鳴(ぜんめい)となって車内に響く。

 

「おい、もういい、通せ! 書類に不備はない。病人を長引かせて死なれちゃ寝覚めが悪い」

 伍長は顔をしかめて書類をヴィンセントへ突き返し、遮断桿(しゃだんかん)を上げるよう門番に怒鳴った。

 

「感謝する、伍長。良き朝を」

 

 ヴィンセントは会釈し、カーテンを閉めた。

 ギィィ……と重い鉄の遮断桿が持ち上がり、御者が鞭を鳴らす。

 パカラン、パカランと馬蹄の音が加速し、馬車はエルンスト港の外郭関門をすり抜けて、朝靄の中央街道へと滑り出した。

 

 

2. 内陸の風と、乾く皮膚

 

 関門を抜けてから、二時間が経過した。

 窓の外の景色は、赤煉瓦の倉庫街から、秋の枯れ草が広がるなだらかな丘陵地帯へと移り変わっていた。

 雨は止み、乾いた秋の北風が馬車の隙間から吹き込んでいる。

 

「……ん……っ、う……」

 

 馬車の揺れの中、向かいの座席から、落ち着かない身じろぎの音が漏れ始めた。

 ヴィンセントが帳簿から視線を上げると、クラウディアは座席の上で身を縮め、自らの首筋や腕を服の上からしきりに擦り合わせていた。

 

「どうした、クラウディア」

 

「……なんか、肌が……突っ張って、痒いんだよ。パリパリして……落ち着かない」

 

 彼女は袖口をまくり、不快そうに眉をひそめていた。

 青真珠色に滑らかだったクラウディアの前腕は、海から離れて乾いた空気に晒されたことで、うっすらと粉を吹いたように白くカサつき始めていた。海棲哺乳類特有の、角質層の薄い滑らかな皮膚。冷たい海水や湿気の中で生きる身体にとって、内陸の乾いた風は、肌の表面をつっぱらせて乾燥させるのだ。

 

「掻くな。擦りむけるぞ」

 

「……痒いんだよ……っ! 潮水があれば……こんなの、すぐ治るのに……!」

 

 ヴィンセントは座席の下のトランクから、小さな陶器の小壺を取り出した。

 蓋を開けると、白濁した油脂の香りが車内に漂う。

 

「……なに、それ? 羊の匂い……?」

 

「精製した羊脂(ヘット)の軟膏だ。北洋の船乗りや港の荷役が、冷たい風で肌が荒れた時によく使っている」

 ヴィンセントは木匙で適量をすくい、自らの掌に取った。

「角質が薄く皮脂の少ない肌には、動物性の脂を薄く塗ってやれば水分の蒸発を防げる」

 

「脂を……塗るの?」

 

「袖をまくれ。首筋もだ」

 

 

3. 羊脂の温もりと、甘い疼き

 

 ヴィンセントは両の手のひらを擦り合わせ、自らの体温で白濁した羊脂を滑らかに温め溶かすと、彼女の腕へと手を伸ばした。

 

「……っ、触るな……ッ! サル、何する気だ!」

 

 男の温かい掌が肌に触れた瞬間、クラウディアはびくりと肩を跳ね上げ、身を引こうとした。

 

「じっとしていろ。乾燥を放置して皮膚が裂ければ、出血と感染症で商品価値が落ちる」

 

「……っ、いた……くないけど……なんか、変な感じ……」

 

 ヴィンセントは構わず、ゆっくりと手のひらで羊脂を塗り伸ばしていった。

 手首から前腕、そして首筋から鎖骨の窪みへ。

 ヴィンセントの指先が温もりをもって滑るたびに、突っ張っていた皮膚がしっとりと油分を吸い込み、粉を吹いていた肌が、真珠のようなみずみずしい滑らかさを取り戻していく。

 

「……ん……っ、……あ……」

 

 クラウディアの唇から、小さく吐息が漏れた。

 不快だったカサつきがすっと和らぎ、皮膚が柔らかく落ち着いていく心地よさ。

 だが――それと同時に、男の生きた体温が直接皮膚に擦り込まれる感触。

 

 彼女のうなじから耳たぶにかけて、みるみるうちに淡い桜色の火照りが広がっていった。

 下腹部――閉ざされた生殖スリットの奥深くで、あの自然の火が、ズキンと甘く重い脈動を打ち始めたのだ。

 

(……あ、たま……ぼーっとする……。なにこれ……男の手が、熱くて……)

 

 変態開始から十一日目。

 海を離れ、全身の感覚が研ぎ澄まされつつあるクラウディアにとって、至近距離で男の手から直接体温を注ぎ込まれる感触は、種族の繁殖本能を無意識に揺さぶっていた。

 クラウディアは座席のクッションに爪を立て、喉の奥を苦しげに鳴らした。

 

「太ももの外側も突っ張るか?」

 

「……っ、そ、そこは……触るなっ……!」

 

 クラウディアが身を引こうとしたが、露出した膝から太ももの青真珠色の外皮へ、ヴィンセントの掌が滑り込んだ瞬間だった。

 

「……っ、ひゅ……ッ、あ……っ!」

 

 クラウディアの背筋が激しく跳ねた。

 男の体熱が直撃した瞬間、理性の防壁が内側から焼き切られ、抗えない繁殖衝動が全身を駆け巡ったのだ。

 彼女は水かきのある手でヴィンセントの腕を乱暴に掴み、男の胸板へと額を押し付けるようにして荒い呼気を吐き散らした。

 碧い瞳は潤み、微かに熱を帯びた呼気とともに、甘い潮の香りがふわりと車内に漂う。

 

 ヴィンセントの喉仏が、ゴクリと動いた。

 

(……手記にあった通りだな。『観察所見:接触に対して強い親和と紅潮を示し、雄へ身を寄せる行動が顕著となる』……)

 

 美しい異形の娘が、熱発した顔で縋り付いてくる生々しい感触。

 男としての理性が揺らぎかけたが――ヴィンセントは奥歯を噛み締め、手早く残りの脂を伸ばし切ると、強引に彼女の肩を押して両手を引き離した。

 

「……よし、これで十分だ。乾燥は治まっただろう」

 

 ヴィンセントは手拭いで自分の指先の脂を拭い、努めて淡々とした冷淡な声を作って告げた。

 

「……っ、ハァッ……ハァッ……!」

 

 押し戻されたクラウディアは、座席の上で荒い肩呼吸を繰り返しながら、顔を真っ赤にしてヴィンセントを激しく睨みつけた。

 敵である男の体温に身体が勝手に反応し、あられもなく胸元に縋り付いてしまった自分自身の浅ましさに対する、強烈な屈辱と怒り。

 

「……な、何するんだよ……ッ! 変な脂、塗りたくりやがって……!」

 

「商会の寄託貨物のメンテナンスをしただけだ。文句があるなら、自分で掻きむしって血を流すがいい」

 

「……誰が、文句なんか……っ!」

 

 クラウディアは乱暴に袖を引き下ろし、膝を抱え込んで座席の隅へと身を引いた。

 だが、肌の突っ張りや痒みはすっかり消え去り、下腹部の奥には、男の体温の残響だけが重く燻り続けていた。

 

 

4. 消えた潮騒と、人魚の戦慄

 

 昼過ぎ、馬車は街道沿いの宿場町へと差し掛かった。

 ヴィンセントは馬車を裏手の馬繋ぎ場に停めさせると、宿の厨房へ赴き、銀貨数枚を払って食材を仕入れて戻ってきた。

 広げられた油紙の上には、焼き立ての牛脂、香ばしく炙った豚のバラ肉、そして肉骨から取った濃厚な熱いスープの水筒。

 穀物は一切ない。完全肉食の人魚のための、純粋な高エネルギー食だった。

 

「ほら、食え」

 

「お肉……!」

 クラウディアの瞳が輝いた。

 彼女は夢中になって炙り肉を口に運び、強酸性の胃袋を良質な動物性タンパクと脂質で満たしていった。一口ごとに喉が鳴り、全身に生気がみなぎっていく。

 

 だが――肉を平らげ、温かいスープを飲み干したクラウディアが、ふと馬車の窓の外へ目を向けた時だった。

 

「……?」

 

 クラウディアの表情が、不意に強張った。

 彼女は身を乗り出し、窓のカーテンを少し押し開けて、外の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

 

 何もない。

 耳を澄ませても、聞こえてくるのは枯れ葉を揺らす風の音と、小鳥のさえずりだけ。

 鼻を抜けるのは、乾いた土と針葉樹の青臭い匂いだけだった。

 

「……おい、ヴィンセント」

 クラウディアの声が、微かに震えていた。

「海は……どこだ? 波の音が、全然聞こえないぞ……」

 

「聞こえるはずがないだろう」

 ヴィンセントは帳簿にペンを走らせたまま、事も無げに答えた。

「エルンスト港を出てから、馬車は中央街道を南東へ進んでいる。ここは内陸の大森林地帯だ」

 

「な……内陸……!?」

 

「帝都へ向かう最短ルートだ。海岸線を通れば教会の哨戒網に引っかかる。だから内陸の街道を選んだ。……外海からは、すでに五十マイル以上離れている」

 

「ごじゅうまいる……!?」

 

 クラウディアの顔から、急速に血の気が引いた。

 

 彼女の企み――「馬車で外海の海岸線まで行かせ、隙を見て海へ飛び込む」という脱出計画が、最初から完全に崩壊していたのだ。

 歩いて戻れる距離ではない。

 土踏まずのない平らな足で、五十マイルもの乾いた山道を歩いて海へ戻ることなど、絶対に不可能だった。

 

「お、お前……! 私を、海から遠ざけてるのか……!?」

 

「言ったはずだ、帝都へ向かうと」

 ヴィンセントは帳簿をパタンと閉じ、静かに彼女を見据えた。

「お前を海へ逃がす気など最初からない。お前は私の金貨五百枚だ。帝都の王立解剖学会へ納品するまで、私の手元から逃げられると思うな」

 

「っ……!」

 

 クラウディアは奥歯をギリリと鳴らし、ヴィンセントを睨みつけた。

 頼みの綱である海は遥か彼方へと遠ざかり、周囲には乾いた陸の大地だけが果てしなく広がっている。

 

(この男……! 最初から、私が海へ逃げられないように……!)

 

 乾いた大陸の奥深くへと、馬車は進んでいく。

 退路を断たれた人魚と、算盤を弾く帳簿係。

 閉ざされた車内の中で、二人の息詰まる心理戦が、新たな局面へと突入した。

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