発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様 作:神座鬼神
1. 朝の匂いと、明日の勘定
上陸三十六日目の朝。
崖の上の研究所の空気には、昨日市場で手に入れた羊の肩肉と牛骨を、ストーブの上でじっくりと煮立たせている濃密な匂いが満ちていた。
脂の甘い湯気を吸い込みながら、私は毛布から身体を起こした。
「……んっ」
思わず小さな呻き声が漏れる。
声は鈴のように澄んでいるし、喉にも足裏にも、変態が崩れるような嫌な気配はない。昨日――三十五日目の朝に飲んだルピス乳剤の支えは、丸一日が過ぎた今も、身体の奥にしっかりと残り続けている。
けれど、昨日の買い出しで自分の足を使って歩き回ったツケは、率直な筋肉と関節の重みとなって足腰に沈殿していた。
板の間に足を下ろすと、ふくらはぎが鉛のように重く、腰がギシギシと軋む。
「無理して起きなくていいよ、ローナ。スープはもうすぐ仕上がるからね」
ストーブの前で大きな木べらを持ったテオドールが、振り返って優しく声をかけてくれた。
私は椅子までよちよちと歩き、腰を下ろすと、膝の上に毛布を引き寄せた。
机の上の小さな木製カレンダーを見つめる。
三十六という数字が刻まれている。四十日の期限まで、残り四日。
昨日、自分の足で町へ行き、自分の言葉で肉を勝ち取った喜びは本物だった。少しも後悔はしていない。
けれど、熱いスープを一口含みながら、私の頭の中には別の冷徹な勘定が浮かび上がっていた。
「……ねえ、テオ」
「何だい?」
「昨日は楽しかったけれど……毎日あんな風に町へ通って稼ぐのは、無理ね。私の身体が先に参っちゃうわ」
テオドールがスープ皿を置き、頷いた。
「そうだね。君の足裏には土踏まずがないし、陸上の重力に耐える筋肉も、人間ほど発達していない。頻繁に長距離を往復するのは避けるべきだ」
「それだけじゃないわ」
私は机の隅に置かれた、あの親指ほどの遮光瓶に目を向けた。
中身はまだ数滴分残っている。けれど、これはヴァルターが好意と研究協力の対価として、一度だけ分けてくれた試験製剤に過ぎない。
「この薬が効いて、四十日目を無事に越えられたとして……次の瓶は、どうやって手に入れるの? ヴァルターさんがタダでくれるはずもないし、そもそも定期的に分けてくれるかどうかも、まだ分からないんでしょう?」
テオドールがわずかに言葉を詰まらせた。
「……それは、これから交渉するよ。僕たちの研究記録を添えて手紙を書けば、向こうだって実用データが手に入るんだから」
「手紙だけで済むかしら。お金を取られるかもしれないじゃない。それに、あの骨格標本を買い戻すための銀貨四枚だって、来月末には払わなきゃいけないのよ。食費だって、冬の薪代だって要るわ」
「ローナ、先のことを心配する気持ちはわかるけれど、まずは目前の四十日目を越えることが最優先だ。君の身体がどうなるかも分からないうちに、生活費や買い戻しの負担まで背負い込まなくても――」
「越えた翌日に、すっからかんになって困るのは嫌よ!」
私は身を乗り出し、机の上に両手を突いた。
「生き延びたはいいけれど、薬も買えない、標本も手放す、食べるものもない……そんなの、何のために居座ったのか分からないじゃない! 身体を守るだけじゃ、ここでは暮らせないのよ!」
テオドールが息を呑み、言葉を失った。
私の身体を何よりも守りたいテオドールと、その身体で生きる先の暮らしまで欲しがる私。
二人の真剣な視線が机の上でぶつかり合った、その時だった。
コン、コン、と研究所の頑丈な木の扉が、遠慮がちに叩かれた。
2. 崖の上の来訪者と、三匹の見本
テオドールと私は顔を見合わせ、それから玄関へと視線を向けた。
崖の上のこんな場所を訪ねてくる人間など、滅多にいない。
テオドールが警戒しながら閂を外し、扉を少しだけ開けた。
外に立っていたのは、塩飛沫を浴びて擦り切れたウールの外套を着た、白髪交じりの男だった。
先日、深海魚を持ち込み、売上の分け前を受け取った、港の老漁師だった。
「……先生、開けてくれ。下から登ってきたぜ」
「あなたは……港の漁師さんですね。どうしてここへ?」
テオドールが驚いて扉を開くと、老漁師は肩から下ろした小さな魚籠を床に置き、息を白く吐き出しながら部屋に入ってきた。
冷え切った漁師を気遣い、テオドールがストーブの鍋から熱いスープを小さな木椀によそって手渡す。
老漁師はそれを受け取ると、両手で包み込んで息を吹きかけ、一口啜って深く息をついた。
「……沁みるな。羊の肉と、牛の骨の濃い出汁か。港の薄っぺらい汁とはえらい違いだ」
「温まってください。それで、ご相談というのは?」
「おう。前にきっちり銀貨を払ってくれたからな。先生とこの嬢ちゃんなら、筋の通らない真似はしねえと思って、話を持ってきたんだ」
老漁師は丸机の前の空いた丸椅子に腰を下ろすと、背負ってきた小さな魚籠の蓋を開けた。
籠の底から取り出されたのは、厚い濡れ布に包まれた、わずか三匹の魚だった。
「……見本だ。こんなのが、沖の深場に仕掛けた底網によく引っかかるんだがね」
机の上に広げられた油紙の上に、三匹の奇妙な魚が転がされた。
一匹目は、赤黒いゴツゴツとした岩のような皮膚を持ち、鋭いトゲが背びれに並ぶカサゴの仲間。
二匹目は、白く半透明で、触ると水風船のようにぶよぶよと崩れそうな深海性の魚。
三匹目は、ヤスリのようにざらついた灰色の厚い皮を持つ、不気味な顔つきの小さな銀鮫だった。
「市場へ持っていってもな、見た目が悪りい、骨が硬い、水っぽくて煮崩れするってんで、二束三文にしかならねえ。競り落とされずに浜へ捨てちまうことも珍しくねえんだ。……だが、捨てるにゃ惜しい。前の魚みたいに、あんたたちなら何か見立てができるんじゃないかと思ってな」
老漁師は髭の伸びた顎を撫でながら、厳しい目を私たちに向けた。
「だが、俺も暇じゃねえ。毎回重い籠を背負って崖を登ってきて、『やっぱり売れませんでした』じゃ骨折り損でやってられねえんだ。……どうだ、見込みはあるかい?」
3. 三人の条件と、一籠の試行
「あるわよ! 網にかかったやつ、全部うちに持ってきなさいな!」
私は膝の上の毛布を跳ね除け、目を輝かせて身を乗り出した。
仕事が向こうから転がり込んできたのだ。願ってもない話だった。
けれど、隣からテオドールの静かな声が制止に入った。
「待ってくれ、ローナ」
テオドールは私を気遣うように肩に手を置き、それから老漁師をまっすぐに見据えた。
「僕たちも引き受けたい。けれど、毎日は無理です。午前中は、僕自身の骨格標本の研究と論文の執筆に使わなければならない。それに、彼女の身体にも長時間の作業はさせられません」
テオドールの言葉に、私はハッとして口を噤んだ。
そうだ。私はテオドールに解剖学者でいてほしいからこそ、あの骨格標本を買い戻そうと必死になっているのだ。私の生活のためにテオドールの研究時間を奪ってしまっては、本末転倒だった。
老漁師は眉を寄せ、椀を置いて腕組みをした。
「だがな、魚ってのは水揚げしたらすぐに捌かねえと、腹から傷んじまう。毎日持ってこねえで、どうやって持たせる気だ?」
「傷ませない魚だけを選べばいいのよ」
私は椅子に深く座り直し、毛布を膝に掛け直した。
立ち上がって気勢を上げる必要はない。座ったままでも、私の目と頭は十分に働く。
私は机の上の三匹の魚を指差した。
「まず、この水っぽいやつ。これは駄目よ。身のほとんどが水分で、煮ても焼いても縮んで形がなくなっちゃう。塩漬けにするにも塩が無駄になるわ。これは商品にならないから、網に入っても最初から海へ捨ててきなさい」
老漁師が目を丸くした。
「……ほう。一目でわかるのかい」
「当たり前よ。北の岩場にいた頃、浜に打ち上げられたのを嫌というほど見てきたから。……で、こっちのトゲトゲの赤いやつ。見た目は凶悪だけど、冬のこの時期は皮の裏に甘い脂が乗ってるの。小骨が多いから刺身には向かないけれど、内臓を抜いて塩を振って干物にすれば、すごく日持ちするし、いい出汁が出るわ。干物にして市場へ卸せば、汁物用の具としてちゃんと値がつくはずよ」
テオドールが続いて、三匹目の銀鮫に指を触れた。
「それに、この銀鮫です。身はアンモニアの匂いが出やすいですが、皮は非常に強靭で、乾燥させて砂を落とせば、木工職人や研磨用のヤスリとして高く売れます。肝臓の油も多く、精製すれば良質なランプ油になる」
老漁師の顔から不審な色が消え、目を見張っていた。
「……なるほどな。ただの生魚として売るんじゃなく、干物や皮、油に加工するってわけか」
「ええ。だから、毎日持ってこなくていいの」
私は自分の声がしっかりと通っていることを確かめながら、具体的な段取りを畳み掛けた。
「網を揚げた日の午後、水揚げしてすぐ、まだ生き腐れしていないうちに一籠だけ背負って上がってきなさい。午前のテオの研究が終わった時間なら、私たちが二人で迎えられるわ。持ってきた魚はその場で私が検品して、使えない魚はすぐ弾く。受けると決めた魚だけ、テオが手早く刃物で内臓を抜いて、二人で塩を振るの。この崖の上は海風が吹き抜ける絶好の場所よ。その日の夕方のうちに干し棚へ吊るせば、腐る前にしっかり乾いて極上の干物になるわ。干物や鮫皮にしてしまえば何日だって日持ちするんだから、市場へ売りに行くのは、まとまった時に週に一度で済むわ」
老漁師は感心したように髭を撫でたが、すぐに現実的な目を向けた。
「……筋は通ってる。だが、運搬の手間賃はどうなる? 市場で二束三文の雑魚とはいえ、重い籠を背負ってこの崖を登ってくるんだ。もし加工して売れなかったら、俺の登り損じゃねえか」
「買い取りの保証はできないわ。私たちの手元資金もギリギリだからね」
私は率直に告げた。安請け合いは絶対にしない。
「その代わり――あんたが魚を担いで登ってきたら、毎回、あのストーブで煮立ってる熱々の肉骨スープを、でかい深皿で山盛り一杯飲ませてあげる。今日飲んだやつよりずっと具沢山でね。冬の海帰りの冷え切った身体に、確実に温まるはずよ」
老漁師の目が丸くなり、それからストーブの上の湯気にチラリと視線を送った。港の屋台でも、肉骨をじっくり煮出した濃いスープは銅貨数枚の贅沢品だ。
「それに、売上の勘定よ。その魚は、市場じゃ買い手がつかずに海へ捨てるはずの雑魚でしょ? 仕入れ原価はあんたにとってもタダ同然。面倒な内臓抜きも、貴重な塩代も、干して鞣して市場で交渉する手間も、全部私たちが背負うわ。そうして加工して高く売れた代金は――前の深海魚と同じ、山分けの折半よ。あんたは捨てるはずの魚を運んできて温かいスープを腹に入れ、売れたら銀貨の半分を受け取る。どう? 損な話じゃないでしょう?」
老漁師は髭を撫でながら、じっとテオドールに視線を向けた。
「……嬢ちゃんは景気よく並べてくれたが、先生。あんたは本当にそれでいいのかい? さっきは研究があるから毎日は無理だと突っぱねてただろ」
私は思わずテオドールを横目で窺った。
私の勢いが先走って、またテオドールに無理を強いてしまっただろうか。
けれど、テオドールは少しも困った顔をせず、穏やかに、しかし確信を込めて頷いた。
「ええ。持ってくるのが午後の決まった時刻で、かつ一籠だけなら、僕の解剖用の器具を使えば二時間ほどで捌き切れます。皮の乾燥棚も、裏庭の標本枠を流用すればすぐに作れる。午前中の研究時間を削らない範囲なら、僕自身の仕事として引き受けますよ。……解剖の手順と同じですから、内臓を傷つけずに処理する技術なら、市場の魚屋にも負けません」
テオドールが自ら引き受けてくれた。
私の思いつきに流されたのではなく、自分の研究を守りつつ、これからの二人の暮らしを繋ぐために、自分の意志でその手を動かすと決めてくれたのだ。
胸の奥がじんわりと熱くなる。
「……どう、おじさん? 解剖学者が綺麗に内臓を抜いて、崖の上の海風で干した魚よ。市場の雑な干物より、ずっといい値がつくと思わない?」
沈黙が部屋を満たした。
コトコトと鳴るストーブの煮込み音だけが響く中、老漁師は太い指で机をトントンと叩き、勘定を弾いていた。
やがて太い息を吐き出すと、白い歯を見せてニヤリと笑った。
「……交渉成立だな、嬢ちゃん。先生もだ。いい商売人たちだぜ」
4. 六日後の約束と、四十二日目の予定
「よし、決まりだ」
老漁師は三匹の見本を魚籠に戻し、外套の襟を立てて立ち上がった。
「まずは一籠、試してみようじゃねえか。潮回りと沖へ網を出す日を考えると……次は六日後だな。六日後の昼過ぎに、干物向きのトゲ魚と鮫を一籠背負って上がってくるぜ」
六日後。
その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が張り詰めた。
テオドールが息を呑み、身体を硬直させたのが分かった。
今日が三十六日目。
六日後といえば――上陸四十二日目だ。
人魚が陸にいられる定めの期限、四十日を二日越えた日付。
テオドールが躊躇うように私を見た。その瞳には、約束してしまって本当に大丈夫なのかという動揺が走っていた。
けれど、私は目を逸らさなかった。
無責任に「絶対大丈夫よ」と笑い飛ばすような嘘はつかない。
「……引き受けられなくなったら、前の日までに知らせるわ」
私は老漁師をまっすぐに見つめて言った。
「下の波止場の酒場に言伝を残しておくわね。……でも、引き受けられるつもりで準備はしておくから。まずは一籠、見せてもらうわ」
老漁師は私の真剣な眼差しを受け止め、深く頷いた。
「おう、待ってるぜ。言伝がなけりゃ、昼過ぎに上がってくるからな」
老漁師は扉を開け、冬の冷たい潮風とともに去っていった。
バタン、と扉が閉まり、静寂が研究所に戻ってくる。
テオドールはしばらく扉を見つめていたが、やがてゆっくりと歩み寄り、机の上に広げられた予定日誌を開いた。
彼はペンをインク壺に浸し、わずかに震える指先を落ち着かせると、四十一日の次の頁――まだ何も書かれていなかった真っ白な日付の欄に、黒いインクで文字を走らせた。
『四十二日目:魚の見立て』
書き終えた文字を見つめながら、私たちは何も言わずに寄り添った。
ストーブの上では、昨日手に入れた骨と肉が、静かに、力強く煮立ち続けていた。