発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様   作:神座鬼神

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第7話:石炭船倉の寝息と、真夜中の銃口

1. 泥煙の船着き場と、銀貨十枚の密航

 

 ヴェルナー川の川岸に広がる、巨大な材木と石炭の集積所。

 無骨に組まれた丸太の桟橋には、何十隻もの巨大な平底帆船(艀)が黒い水煙を上げて係留されていた。

 水運人夫たちの荒々しい怒号と、滑車が巨大な積荷を吊り上げる甲高い軋み音が、朝の川霧の中に木霊している。

 

「……おい、親方。話がある」

 

 山積みの石炭の前で煙管(きせる)を吹かしていた大柄な船長に、ヴィンセントが声をかけた。

 ヴィンセントの顔と服は、炭焼き小屋で手に入れた煤で黒く汚れ、一見すればどこにでもいる零細な荷受人にしか見えなかった。

 その背後には、同じく顔中を煤だらけにし、麻袋を作業着代わりに羽織ったクラウディアが、痛む足を庇いながら俯いて控えている。

 

「ああん? なんだい兄ちゃん。積荷の割り込みならお断りだぜ。うちはこれから帝都の外郭河港まで、冬用の石炭を運ぶんで手一杯――」

 

 船長が邪険に手を振ろうとした瞬間、ヴィンセントの指先が、男の太い手のひらへと滑り込んだ。

 チャリン、と重々しい銀の鳴る音がした。

 

「……っ!?」

 船長の目の色が変わった。

 手のひらに握らされたのは、エルンスト自由通商港が鋳造した特製の純銀貨――それも五枚。

 

「帝都まで、船倉の隅に二人分の寝床を作ってもらいたい。……訳あって街道の借金取りに追われている。帝都の河港へ無事着いたら、降りる際にもう五枚支払おう」

 

 ヴィンセントの声は低く、淡々としていたが、裏取引に慣れた説得力があった。

 船長は周囲を油断なく見回すと、銀貨を素早くチョッキのポケットへと滑り込ませた。

 

「……帝都までなら二日余りの船旅だ。だが、途中の第三水門には教会の監視所がある。怪しい荷は臨検されるかもしれねえぞ」

 

「構わない。船倉の奥、石炭の山の下に潜り込む。食事は自分たちの手持ちで済ませるし、水夫たちにも一切顔を見せない。……あんたはただ、余計な荷物が二つ転がっているのを見落とせばいい」

 

「へっ、話が早くて助かるぜ。……おい、坊主。足を引きずってるじゃねえか。落っこちて川の藻屑になりたくなけりゃ、さっさと底倉へ潜り込みな」

 

 船長が顎で指し示したのは、船尾の甲板に開けられた、真っ暗なハッチだった。

 

 

2. 底倉の暗闇と、足首の麻縄

 

 ギィィィ……バタン!

 頭上の重い木製ハッチが閉じられ、閂(かんぬき)が下ろされると、底倉の中は完全な暗黒に包まれた。

 

 むせ返るような石炭の粉塵の匂い。

 湿った川水の冷気。

 ゴゴゴゴ……と鈍い振動を響かせながら、平底船が岸を離れ、ヴェルナー川の力強い本流へと滑り出していくのが足裏の振動で分かった。

 

「……ふぅ」

 ヴィンセントは石炭の山の窪みに腰を下ろし、ランタンの灯芯を小さく絞って床に置いた。

 薄ぼんやりとした微光の中に、クラウディアの煤けた顔が浮かび上がる。

 

「座れ、クラウディア。足を見せろ」

 

「……触るな。自分でできる」

 クラウディアは口を尖らせたが、右足首は腫れ上がって熱を持ち、ブーツの中で悲鳴を上げていた。

 ヴィンセントは彼女の反抗を構わず、膝を引き寄せると、手際よく改造ブーツの紐を解いた。

 

「っ……!」

 ブーツを脱がされた瞬間、クラウディアは痛みに息を呑んだ。

 土踏まずのない平らな足底から足首にかけて、赤黒い鬱血が広がり、水かきの付け根の薄い皮膚が擦れて充血していた。

 ヴィンセントは水筒から冷たい川水を布に含ませると、手際よくその腫れ上がった患部に当ててやった。

 

「冷やせば炎症は引く。……お前が歩けなくなっては困るからな」

 

「……どうせ、金貨五百枚の減価償却だろ。聞き飽きたよ」

 クラウディアは言い返したが、男の冷たい手当てがもたらす心地よさに、思わず小さく吐息を漏らした。

 だが――ヴィンセントは手当てを終えると、鞄から太い船舶用のマニラ麻ロープを取り出した。数千ポンドの牽引力に耐えるよう幾重にも強靭に撚り合わされた、親指ほどの太さがある頑丈な船具だ。

 

 キュッ、と硬い結び目が作られる。

 ヴィンセントは当て革を噛ませた上から、ロープの一端をクラウディアの左足首へ二重に巻きつけ、もう一端を船倉の太い樫の木の肋材(ろくざい)に頑丈に括り付けた。

 

「おい……っ! 本当に縛る気か!?」

 クラウディアが碧い瞳を吊り上げて睨みつけ、水かきのある爪を結び目に掛けた。だが、太く硬い繊維は爪先をわずかに毛羽立たせるだけで、引き千切れる気配すらない。無理に削り落とそうとすれば、繊維の擦れる耳障りな音を立てて即座に男に気づかれるだけだった。

 

「無駄な爪を使うな。船舶用のマニラ麻だ。何十分もかけて爪で削れば切れるかもしれんが、その音を立てた瞬間に私が目を覚ますぞ」

 ヴィンセントは淡々と告げた。

「約束だ。お前の足首には二ヤードの猶予しか与えない。この狭い船倉の中を動く分には足りるが、梯子を登って甲板へ出ることも、船腹の通気孔から川へ飛び込むことも不可能だ」

 

「……信用がないね、大商人サマ」

 

「人魚の言葉を信用する商人がいたら、そいつは三日で破産する。……お前も、私を信用などしていないだろう」

 

 ヴィンセントは淡々と縄の結び目を締め直すと、石炭の斜面に背中を預けた。

 二人の距離は、わずか一メートル。

 石炭の山の窪みの中で、男と人魚は、互いの吐息が届く距離で身を寄せ合う形になっていた。

 

 

3. 川波の揺りかごと、忍び寄る睡魔

 

 昼が過ぎ、夕暮れが訪れ、やがて川面を覆う空気は深い夜の冷気へと変わっていった。

 

 ザザザ……ザザザ……。

 船底を絶え間なく叩く川波の音。

 巨大な平底船は、風と水流に押され、一定の規則正しいリズムで揺れ続けている。

 

 クラウディアは石炭の山に背を預けながら、向かいに座るヴィンセントをじっと観察していた。

 彼には、確実に疲労が蓄積していた。

 前日未明の保税倉庫脱出から、採石場での戦闘、落石、夜を徹した山越え。昨夜の廃坑で短い仮眠を取ったとはいえ、神経を張り詰め通しの男の顔には濃い影が落ち、眼窩の奥は充血していた。

 

 ヴィンセントは睡魔を払うように頭を振ると、コートのポケットの中に手を入れた。

 そこには、昨夜見せていた小型二連発ピストルの硬い真鍮の感触があるはずだった。撃鉄に指をかけ、意識を繋ぎ止めているのだろう。

 

 だが、船底を揺らす規則正しい川波の揺らぎと、底倉を包む濃密な暗闇は、容赦なく男の体力を奪っていく。

 やがて――ヴィンセントの首が、こくりと前に傾いた。

 手元の緊張が緩み、吐き出される呼気が、深く規則正しいリズムへと変わっていく。

 

 ――スゥ……スゥ……。

 

 静かな寝息が、底倉に響き始めた。

 

(……寝た)

 

 暗闇の中、クラウディアの碧い瞳が――パチリと見開かれた。

 

 

4. 真夜中の暗闘、冷たい銃口

 

 人魚にとって、夜の暗闇は狩りの時間だ。

 深海適応の夜間視力が、石炭の奥で首を垂れて眠り込む男の無防備な姿を、青白く鮮明に捉えていた。

 さらに、彼女の全身の血管には、変態開始から十二日目の濃密な発情衝動が脈打っている。

 眠気など欠片もない。目の前の獲物を前にして、野生の捕食本能は極限まで研ぎ澄まされていた。

 

(来た……! 千載一遇の好機……!)

 

 クラウディアは息を殺し、足首の麻縄を引き寄せた。

 肋材に結ばれた縄の長さは二ヤード。

 ヴィンセントは、すぐ目の前で首を垂れて眠っている。飛びかかって組み伏せるには十分な間合いだった。

 

(まず首を押さえつけて声を封じる。……そして、あいつの腰にある革断ち包丁を奪う!)

 

 爪では容易に削れないあの太いロープも、刃物さえあれば一刀両断できる。

 不意打ちで組み敷き、爪で喉を制して種を搾り取る。

 そして種が胎内に注ぎ込まれたその瞬間、奪った包丁で足首の縄を断ち切り、川の濁流へと飛び込むのだ。

 水の中へ逃げ込みさえすれば、たとえ受胎によって脚が尾へと塞がり始めても、冷水と浮力の中で耐え抜くことができる。川底に潜れば、人間どもには手出しできない。

 

 下腹の奥で、ズキンと熱い痛みが脈打っていた。

 オスの匂い。乾いた人間の皮膚の熱。

 すべてが、変態中の身体にとって抗いがたい飢餓感を煽り立てていた。

 

(いただきだよ、帳簿係……!)

 

 クラウディアは音もなく石炭の上を滑り、鋭い水かきの爪を振り上げ、ヴィンセントの胸元へと一気に飛びかかった――!

 

 その刹那。

 

 ――カチリ。

 

 暗闇の中に、乾いた金属の噛み合う音が、極めて明瞭に響いた。

 

「……ッ!?」

 

 クラウディアの動きが、空中でピタリと凍りついた。

 飛びかかった彼女の眉間のど真ん中に――冷徹な鋼鉄の筒先が、寸分の狂いもなく押し当てられていた。

 

 ヴィンセントの右手が、コートのポケットから真っ直ぐに突き出されていた。

 握られていたのは、小型の二連発ピストル。撃鉄は完全に起こされ、引き金には太い指が重くかかっていた。

 

 そして――。

 眠っていたはずの男の灰色の瞳が、暗闇の中で冷酷にクラウディアを射抜いていた。

 充血した目。だが、そこには一握りの油断も存在しなかった。

 

「……言ったはずだ」

 ヴィンセントの声音は、川底の氷のように冷たかった。

「飛びかかってくれば、頭部を吹き飛ばすと」

 

 クラウディアの額から、タラリと冷たい汗が伝った。

 眉間に食い込む銃口の冷たさ。

 引き金を引かれれば、自分の頭蓋骨が砕け散る。捕食者としての本能が、絶対の死を告げていた。

 

「……寝て、なかったの……?」

 クラウディアの声が、微かに震えた。

 

「商人にとって、夜這いと不渡りは同義だ。……お前が不自然なほど素直に川船を提案した時から、この底倉で寝込みを狙うことなど、帳簿の上では完全に予測の範囲内だった」

 ヴィンセントは銃口をミリ単位もブラさず、冷ややかに告げた。

「動くな。爪を引っ込めろ。……二度目はないぞ、人魚。次に飛びかかってきたら、躊躇なく引き金を引いて、お前の死体を川へ投げ捨てる」

 

「……っ、チッ!」

 クラウディアは忌々しそうに爪を引っ込め、石炭の上へと身を引いた。

 完全な敗北だった。

 この男は、極限の疲労の中にありながら、自らを囮にしてクラウディアの襲撃を完璧に迎撃したのだ。

 

「……化け物め。お前、本当に人間かよ」

 

「ただの計理士だ。……だが、利益を守るためなら悪魔の手も握る」

 

 ヴィンセントがピストルを構えたまま、息を吐いたその時だった。

 

 

5. 抜き打ちの夜間臨検、冷たい鉄の探針

 

 ――ドォォォォン!!

 

 突然、船腹に激しい衝撃が走り、底倉全体が大きく軋んだ。

 別の船が、横付けされたのだ。

 

「……っ、うわっ!?」

 バランスを崩したクラウディアが石炭の山に転がる。

 

 バタバタバタ……! と頭上の甲板を無数の重い足音が走り回り、けたたましい警笛の音が夜の川面に鳴り響いた。

 

「停船せよッ! 帆を畳め!」

 甲板の上から、野太い役人の怒号が響いてきた。

「帝立ヴェルナー河川通関署、夜間水上監視隊である! 船長を出せ!」

 

 ヴィンセントの表情が一変した。

 銃口を下ろし、素早く懐中時計を確認する。

 

(……教会ではない。河川税関の夜間巡視艇か……!)

 

 甲板の上では、船長の慌てふためく声と、税関吏たちの冷酷なやり取りが筒抜けに響いてきた。

 

「へ、へい! お役人様、夜遅くまでご苦労様でさあ! うちは帝都へ向かうただの石炭船でして、怪しい荷なんて何一つ――」

 

「黙れ! 石炭船の底倉に密造蒸留酒や阿片の樽を埋め込むのは、貴様ら川船乗りの常套手段だろうが! 最近、上流からの脱税密輸が横行しているのだ!」

 税関吏の長靴が、甲板を激しく踏み鳴らした。

「ハッチを開けろ! おい、探針(プローブ)を持ってこい! 石炭の山を底まで突き刺して調べろ!」

 

 ヴィンセントの背筋に、冷たい悪寒が走った。

 

(……探針だと!?)

 

 河川税関が密輸摘発に用いる、三ヤードを超える長大な鉄の棒。先端が鋭利に尖ったその槍を、石炭の山の上から力任せに何十本も突き立て、隠された木箱や麻袋の手応えを探るのだ。

 教会ではないとはいえ、この底倉で密航者が発見されれば、密輸幇助の現行犯で即座に拘束され、領邦警備隊へ引き渡される。そうなれば大聖堂の手配書と結びつき、破滅することは確実だった。

 そして何より――石炭の山の中に身を潜めていれば、上から無数に突き下ろされる鉄の槍によって、生きたまま串刺しにされる!

 

 ギギギギ……と、頭上の重いハッチの閂が外される音が響いた。

 

 底倉の暗闇の中。

 ヴィンセントとクラウディアは、息を呑んで互いを見つめ合った。

 先ほどまで互いの喉元に銃と爪を突きつけ合っていた二人の頭上に、無情な鉄の槍が迫ろうとしていた。

 

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