発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様 作:神座鬼神
1. 朝食と、干し棚の相談
上陸三十七日目の朝。
机の上の木製カレンダーには、はっきりと『三十七』という数字が刻まれていた。
人魚が陸にいられるとされる四十日の期限まで、残り三日。
ストーブの上では、一昨日仕込んだ羊肉と牛骨のスープが、静かに湯気を立てている。昨日、老漁師と交渉しながら飲んだ残りだが、煮詰まった脂の甘い匂いは部屋いっぱいに満ちていた。
「ローナ、薬の時間だよ」
テオドールが銀の小さな匙と遮光瓶を手に歩み寄ってきた。
私は椅子に深く腰掛けたまま、静かに口を開ける。匙の先から、ルピス乳剤が直接舌の奥へ一滴だけ落とされた。苦味と甘みが混ざり合った独特の刺激が喉を通り抜けていく。
一昨日の町歩きで軋んだふくらはぎの張りはまだ少し残っているけれど、声も足裏の形も崩れる気配はない。薬の支えは確実に私の輪郭を保っていた。
「……ありがとう、テオ」
「うん、声の響きもいい。薬はまだ十分あるけれど、次も分けてもらえるか、今のうちに聞いておこう」
テオドールは瓶を棚へ戻すと、机に向かって手早く短い手紙を認めた。近隣の湾岸水産試験場にいる研究官ヴァルターへ宛てた、乳剤の追加供給の可否と条件を尋ねる実務的な手紙だ。秘密の解剖記録や私の身体の詳細は添えず、手早く封を蝋で固める。
「午前中のうちに、港の定期便へ渡してくるよ」
「ええ。手紙は早いほうがいいわ」
スープ皿にスプーンを入れながら、私は立ち上がろうとするテオドールを見上げた。
「ねえ、テオ。五日後に老漁師さんが魚を持ってくる前に、干し棚を作る場所を決めておきたいの」
「干し棚かい?」
「ええ。内臓を抜いて塩を振った魚を、海風で干すって約束したでしょう? どこに棚を組むかで、風の通りも乾き具合も全然違ってくるのよ。研究所の周りを少し歩いて、場所を確かめたいわ」
テオドールは少し心配そうに眉を寄せた。
「君は一昨日の買い出しで、まだ足腰が張っているだろう。無理に出歩かなくても、僕が見てくるよ」
「駄目よ、私の目で風と潮を見なきゃ。魚の干物は、日当たりだけじゃなくて、風の抜け方と潮飛沫の届き具合で決まるんだから。……もし歩いて疲れたら、テオが背負ってくれればいいじゃない」
私が少しからかうように言うと、テオドールは困ったように、けれど真面目な顔で考え込んだ。
「背負うのは構わないけれど、腕だけで君の体重を支え続けると、僕の方も長くは持たないんだ。特に崖の上の起伏を歩くならね」
テオドールは棚の奥へ向かい、一本の幅の広い麻布を手に取って戻ってきた。両手で広げると、大人の帯ほどの幅がある頑丈な織布だった。
「何かしら、それ?」
「背負い帯だよ。これで君の身体を僕に固定すれば、僕の腕の負担も減るし、君もずり落ちずに楽に乗っていられる。……出かける前に、寝台のそばで少し試してみよう」
2. 背負い帯の実演と、密着のハプニング
寝台の前に立ち、テオドールが背中を向けて腰を落とした。
私はその背中に体重を預け、首の後ろに腕を回す。
「どう? 重くない?」
「大丈夫、普段の君の重さだ」
テオドールが立ち上がると、厚手のウール越しに彼の背中の温もりが伝わってきた。
テオドールは広げた麻の背負い帯を後ろ手に回し、私の腰の下から自分の胸へと斜めに掛け渡して、ぐっと引き締めた。
「腕を楽にしてごらん。帯が支えてくれるはずだから」
言われた通り、太ももや腰に込めていた力をふっと抜いてみる。
帯がしっかりと私の体重を受け止め、テオドールが腕で抱え込まなくても、身体が安定した。
「あら……本当に楽ね。腕が疲れないわ」
「うん、これなら僕の腕も――」
テオドールが結び目をしっかり固定しようと、帯の端をもう一段階、きゅっと引き絞った。
――その瞬間だった。
私の胸と腹が、テオドールの逞しい背中に、隙間なくぴったりと押し付けられた。
「あ……」
息が止まりそうになった。
ルピス乳剤によって穏やかに底上げされていた身体の熱が、密着したテオドールの体温と匂いに触れて、胸の奥でトクンと跳ねた。
肌と肌の近さが驚くほど心地よく、甘い痺れのような感覚が首筋へと駆け上がってくる。
急な密着の気恥ずかしさと熱さに耐えかねて、私は反射的にテオドールの首筋にしがみつくように腕に力を込めていた。
「ローナ、力を抜いて」
「脚は抜いてるわよ!」
「……首の方も、少し緩めてくれないか。息が詰まる」
テオドールの苦しげな声に、私はハッとして慌てて腕を緩めた。
テオドールが「大丈夫かい?」と首を巡らせてこちらを振り返る。
そのせいで、彼の鼻先と私の唇が、触れ合いそうな至近距離でぶつかり合った。
「……っ!」
今度はテオドールが息を呑み、手がピタリと止まった。
琥珀色の瞳が見開かれ、耳たぶがあっという間に真っ赤に染まっていく。彼の熱い呼気が、私の頬に直接吹きかかった。
「……痛むかい?」
「痛くない! 薬もちゃんと効いてるわよ! ……だから、いちいちこっちを向かないで!」
顔から火が出るほど照れくさくて、私はテオドールの背中に額を押し当てて顔を隠した。
テオドールは照れ隠しのように小さく咳払いをし、結び目を直そうと腰の後ろへ手を回した。けれど、手元が見えない彼の大きな手のひらが、私の腰骨や太ももに触れるたび、私の身体がくすぐったさでビクッと跳ねてしまう。
「ひゃっ……どこ触ってるのよ!」
「動かないでくれ、手元が見えないんだ!」
「くすぐったいの! もういいから一回降ろして!」
「待って、帯の端が君の服に巻き込まれて――」
身をよじった私のスカートと帯が絡まり、二人は身動きが取れなくなった。
結局、テオドールがよろよろと後退し、二人重なった格好のまま、寝台の縁へドサリと腰を下ろす羽目になった。
「……ふう」
「……もう、ひどい目に遭ったわ」
寝台の上で寄り添いながら、テオドールが慎重に帯の絡まりを解いていく。
赤くなった顔を見合わせながら、どちらからともなく小さく笑い声が漏れた。
「でも……これなら確かに楽ね。テオの腕も疲れないし、少し遠くまで出かけられそうだわ」
「ああ。これなら僕一人でも、君をしっかり支えて歩けるよ」
他愛のない失敗のあとに残ったのは、確かな使い心地の良さと、二人の距離が少し縮まったような温かい手応えだった。
3. 近場で干し棚の場所を確かめる
私たちは外套を羽織り、研究所の外へ出た。
冷たい潮風が吹き抜けるが、研究所の周囲を歩くだけなら足腰への負担も少なくて済む。
テオドールがまず指差したのは、作業場の裏手にある石壁の脇だった。
「ここはどうだろう。作業場の勝手口からすぐだし、道具や塩を運ぶのも楽だ。壁に支柱を固定すれば、頑丈な棚がすぐに作れる」
確かに、作業する人間にとっては一番便利で歩く距離も短い。
けれど、私は壁の影と風の流れを見て首を振った。
「ここは駄目よ、テオ。石壁が風を遮るから空気が澱むわ。それに屋根の影が落ちて日当たりも悪い。トゲ魚みたいに脂の多い魚をこんな湿っぽい場所に吊るしたら、乾く前に腹の脂が酸化して酸っぱくなっちゃう」
「なるほど……。風通しと日当たりが最優先なんだね」
テオドールは納得して頷き、今度は崖の突端に近い開けた草地を指差した。
「それなら、あそこはどうだい? 遮るものが何もないから、一日中日が当たるし、風も吹き抜ける」
私は崖下を見下ろし、波の砕ける白い泡と、風に乗って舞い上がる霧のような飛沫を見て眉をひそめた。
「ううん、あそこも駄目。崖に近すぎるわ。波が岩にぶつかった時、細かい潮飛沫が風で巻き上げられてるでしょう? 干物に塩水がずっと吹き付けられたら、魚の表面が乾かずにベタベタのまま腐っちゃうのよ。干物に必要なのは、乾いた強い風なんだから」
「近すぎても、風が強すぎても駄目なのか。干物作りも一筋縄ではいかないな」
テオドールは感心したように顎に手を当て、陸の地形を見渡した。
「……それなら、南東側のあの岩場はどうだろう? あそこなら崖の肩が風除けになって潮飛沫を遮ってくれるし、地面がしっかりした岩盤だから柱を割れ目に打ち込める。午前中の日当たりもいい」
私は言われた岩場へ歩み寄り、風に顔を向けた。
崖下からの飛沫は届かず、草地を抜けてきた乾いた冷たい海風が、気持ちよく吹き抜けている。
「……ええ、ここなら完璧よ! 飛沫も当たらないし、風が真っ直ぐ抜けていくわ。テオ、ここに棚を作りましょう」
「よし、決まりだ。明日あたり、研究の合間に支柱になる木材を運んでおこう」
二人の知恵を持ち寄って、干し棚の場所がすっきりと定まった。
岩場に立ち、ふと視線を落とすと、冬の冷たい海が灰色のうねりを上げて広がっていた。
四十日の期限まで、残り三日。
テオドールが私の隣に立ち、静かに呟いた。
「……あの背負い帯があれば、もし君の脚が重くなっても、僕一人で君を浜まで連れていくこともできるよ」
海への退路。その言葉に、胸の奥がきゅっと締まり、私は一瞬だけ言葉を失った。
沖合の冷たい海には、仲間たちがいて、水中の言葉を交わす群れがある。今ならまだ、あの水へ戻る道はある。
けれど、私は首を振って、テオドールを見上げた。
「……その前に、この干し棚まで何度も私を運んでもらうわよ。五日後に魚が来たら、何回も往復して干さなきゃいけないんだから」
テオドールは一瞬驚いたように目を瞬かせ、それから、嬉しそうに口元を綻ばせた。
「ああ、もちろん運ぶよ。何度でもね」
4. 同じ暮らしの支度
研究所に戻ると、ストーブの温もりと羊肉スープの匂いが、冷えた身体を温かく迎え入れてくれた。
私たちは外套を脱ぎ、暖炉の火に手をかざす。
テオドールは作業台に向かい、予備の鋭利な解剖刀を取り出して油布で丁寧に刃を拭き始めた。魚の腹を割くための道具だ。塩を量る木枡の埃を払い、干し網を棚に固定するための頑丈な麻紐を揃えていく。
私はその横で、先ほど試した麻の背負い帯を手に取った。
幅の広い頑丈な布地。私の身体をテオドールの背中にしっかりと結びつけてくれた帯だ。
膝の上でシワを伸ばし、端と端をきっちりと揃えて、丁寧に四角く畳んでいく。
作業台の隅に、手入れの終わった解剖刀と木枡が置かれ、そのすぐ隣に、私が畳んだ背負い帯がことりと重ねられた。
海へ行くための道具でも、どこか遠くへ逃げるための備えでもない。
この崖の上の部屋で、二人で魚を捌き、干し棚へ運び、これからの暮らしを続けていくための道具たち。
「五日後ね。おじさん、どんな魚を背負って上がってくるかしら」
「トゲカサゴと銀鮫だったね。解剖の手順で手早く内臓を抜くよ。君が選んでくれたあの岩場なら、いい干物になるはずだ」
ストーブの上の鍋が、コトコトと心地よい音を立てていた。
机の上のカレンダーの数字は三十七を示し、期限の日は確実に近づいている。
けれど、畳んだ帯と道具が並んだこの部屋には、確かな今日の手応えと、五日後の仕事を楽しみに待つ二人の時間が、静かに流れていた。