発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様 作:神座鬼神
1. 三十八日目――干し棚作りと、落ち着かない確認
上陸三十八日目。
木製カレンダーの数字が一つ進み、期限とされる四十日までの残りは、二日となった。
昨日飲んだルピス乳剤の支えは今日も安定していて、私たちは昨日決めた南東側の岩場へ出ていた。
四十二日目に老漁師が持ってくる魚を迎えるための、小さな試作の干し棚を組むためだ。
海風は冷たいけれど、突き出た崖の肩が潮飛沫を遮ってくれているおかげで、岩場を吹き抜ける風は乾いて澄んでいた。
「よいしょ……っ」
テオドールが木槌を振るい、岩盤の割れ目に削り出した樫の角材を打ち込んでいく。
私は日当たりのいい平らな石に腰掛け、膝の上で麻紐を手繰りながら、干し網の四隅を結び合わせる作業をしていた。
三日前の町歩きの疲労はすっかり抜け、足腰に重みはない。声も喉の奥でしっかりと響いている。
コン、コン、とテオドールの木槌の音が響く。
私が結び目の数を頭の中で数えようと、ふと口を閉ざした、その時だった。
「――ローナ、声は出るかい?」
木槌の手を止め、テオドールが弾かれたように振り返った。
私は眉をひそめて、呆れたように息を吐き出す。
「結び目を数えてるのよ! 話しかけられたら、いくつまで数えたか分からなくなるでしょう!」
「あ……すまない。急に静かになったから、喉が塞がったのかと思って」
「さっきから十分おきに聞いてるじゃないの。平気よ、どこも痛くないわ」
「うん、そうだね。……悪かったよ」
テオドールは決まり悪そうに頭を掻き、再び角材に向き直った。
けれど、彼の落ち着きのなさを笑い飛ばしながらも、私自身、胸の奥がそわそわと落ち着かないのを誤魔化しきれずにいた。
「ねえテオ、あのトゲ魚の干物って、市場で買う人たちはどんな料理に使うのかしら」
「え? うーん、酒場の汁物の出汁や、煮込みの具にすることが多いんじゃないかな」
「なら、塩をきつくしすぎたら出汁の味が濁っちゃうわね。皮の裏の脂の甘みを活かすなら、薄塩で風をしっかり当てる方がいいわ。それから、鮫の皮のヤスリだけど、木工職人さんは目の細かさも気にするのかしら――」
気づけば、私は自分でも驚くほど休む間もなく喋り続けていた。
雲の形、風の吹き抜ける音、今朝のスープの味。なんでもない言葉を次から次へと並べ立てては、テオドールに返事を求め、自分の喉から鈴のような澄んだ声が鳴り続けていることを、耳で確かめずにはいられないのだ。
テオドールが私の他愛のない話にいちいち相槌を打ってくれるたび、可笑しさと、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
昼過ぎには、大人が手を広げたほどの小さな干し棚が、岩場の上にしっかりと組み上がった。
まだ魚は一匹も干されていない。けれど、四本足の木枠が海風を浴びて凛と立っている姿は、私たちのこれからの仕事を約束する、確かな実物だった。
2. 三十九日目――いつもどおりの一滴が、怖くなる
上陸三十九日目の朝。
カレンダーの『三十九』の文字を見た瞬間、心臓がトクンと小さく跳ねた。
残り、一日。
ストーブの上の鍋には、昨日市場から届けてもらった新しい根菜と、骨から削ぎ落とした肉のスープが温められている。
湯気の中で、テオドールが銀の匙と遮光瓶を手にして歩み寄ってきた。
「ローナ、薬だよ」
いつもどおりの朝の光景。
匙の先には、乳白色のルピス乳剤が一滴、こんもりと乗っている。量を増やしたわけでも、飲み方を変えたわけでもない。
けれど――私は匙を受け取ろうとして、指先を止めてしまった。
喉が渇いたように乾き、口を開けるのをためらう。
今日まで飲んできた一滴は、すべて「今日を楽に過ごすための一滴」だった。
けれど、今この匙に乗っている一滴は違う。
この一滴が身体を支えている間に、あの古くから教わってきた、人魚の陸棲形態の限界――『およそ四十日』の時期がやってくるのだ。
その未知の扉を自ら押し開けるのだと思うと、銀の匙が途方もなく重いものに見えた。
テオドールは匙を持ったまま、私の躊躇いに気づいて静かに待っていた。
「……今日まで、君の声も脚も、ちゃんと保てている」
テオドールは匙を引かず、穏やかな声で言った。
「けれど、この薬で四十日を越えた先も同じように保てるかは、僕たちが調べた資料にもないし、僕にもまだ言い切れない」
「……分かってるわ」
私は小さく息を吸い、テオドールの琥珀色の瞳を見つめ返した。
「だから、ちょっと待ってるのよ。息を整えてるだけ」
誰かに無理強いされて飲むんじゃない。
自分の足でここにいるために。
私はテオドールの手から匙を受け取り、舌の奥へ、その一滴を落とした。
苦味と甘みが混ざり合った独特の味が、身体の芯へと染み渡っていく。
「……ごちそうさま。スープを温め直しましょう」
匙を机に置き、私たちはいつもどおりに椅子を引いて、朝食の湯気を分け合った。
3. 三十九日目の夕方――「明日はどうする」を話す
日中は、干し棚の紐を締め直したり、作業台で文字の練習をしたりして、静かに時間を過ごした。
身体には何の異変も起きなかった。足の指は動き、喉に痛覚の棘が刺さることもない。
やがて日が傾き、窓の外が青紫色の薄闇に包まれ始めた頃、テオドールが台所で塩の壺を引き寄せた。
「明日の朝の肉、今夜のうちに塩をしておこうか」
「ええ。朝起きたら、焼くだけにしておいて」
私が答えると、包丁を握っていたテオドールの手が止まった。
まな板の上の羊肉を見つめたまま、彼はゆっくりと振り返った。
「……ローナ。明日も、ここで朝を迎えるつもりなんだね」
明日になれば、上陸四十日目。おばばから教わった、人魚が陸にいられる『およそ四十日』の時期に入る。
「当たり前じゃない」
私は机に肘をつき、テオドールをまっすぐに見上げた。
「三日後には、おじさんが魚を一籠背負って上がってくるのよ。干し棚だって作ったし、背負い帯だってあるわ。今さら海へ戻るわけがないでしょう」
「……魚の約束があるから、無理をして留まるんじゃないかい?」
「違うわ」
私は首を横に振った。
「魚の約束があるから残るんじゃないの。残りたいから、約束したのよ」
テオドールが息を呑んだ。
私は立ち上がり、台所のテオドールのそばへ歩み寄った。
「あの老漁師さんに言ったのも、干し棚を作ったのも、全部私がここで暮らしたいからよ。テオに解剖学者でいてほしいから、標本を買い戻すお金を稼ぎたい。ここで温かいスープを飲んで、字を書いて、テオと話していたい。そのために仕事を引き受けたの。誰かに義理立てするためじゃないわ」
テオドールは包丁を置き、濡れた手を布巾で拭った。
その指先が、微かに震えているのが見えた。
「……僕もだよ、ローナ」
テオドールは掠れた声で言った。
「僕も、明日の朝、君とここで朝食を食べたい。……それが僕自身の強い願いだからこそ、怖いんだ。君の身体の小さな異変を見落として、自分に都合よく『まだ大丈夫だ』と判断してしまうんじゃないかと」
彼が恐れているのは、私を失うことだけではない。私と一緒にいたいと願うあまり、研究者としての目が曇り、私の異変を見過ごしてしまうことなのだ。
「それなら、約束しましょう」
私はテオドールの服の袖をきゅっと引いた。
「私は、痛くなくても、少しでも痺れたりおかしいと思ったら絶対に隠さない。……テオも、何か気づいたら、私が嫌がりそうなことでも遠慮せずに言って」
テオドールが目を見開いた。
「二人ともここに残りたいからこそ、都合の悪いことも全部話すのよ。私も一緒に確かめるわ。テオ一人で、大丈夫かどうか決めなくていいのよ」
テオドールはしばらく私の顔を見つめていたが、やがてこわばっていた肩の力を抜き、深く頷いた。
「……そうだね。君の言う通りだ。隠さず、誤魔化さず、二人で確かめよう。……明日の朝も、ここで迎えよう」
4. 明日の分を用意する
方針が決まると、台所にはいつもの生活の空気が戻ってきた。
「じゃあ、肉を切るよ」
「私の分、少し厚めにしてね」
「これくらいかい?」
「ううん、もうちょっと。……そう、その筋のところまで!」
テオドールが切り分けた二枚の肉を、私はすかさず覗き込んだ。
私の皿に乗った肉は、どう見てもテオドールの分より指一本分ほど分厚い。
「明日の分まで遠慮する気はないわよ」
「今夜もしていなかったと思うけれどね」
テオドールが苦笑しながら、肉の両面に白い塩をすり込んでいく。
戸棚から出した二枚の深皿に肉を載せ、朝すぐに取り出せるよう、冷気の通る棚の冷暗所へ収めた。
明日の朝食の仕込み。
その何気ない作業の一つひとつが、私たちを確かに明日へと繋ぎ止めていた。
夕食を終えた後、テオドールはストーブの前にしゃがみ込み、薪箱から一番太い樫の薪を取り出した。
赤々と燃える熾火の上に太い薪をくべ、空気窓を少しだけ絞る。
夜の間に火が立ち消えたりせず、朝までじんわりと部屋を暖め続けるための工夫――消さない火の仕込みだった。
「おやすみ、ローナ。もし声が出なくなったら、石板を叩いて音を立ててくれ。すぐに起きるから」
「ええ。おやすみなさい、テオ」
寝台に入り、毛布を引き寄せる。
枕元のサイドテーブルには、黒い石板と白蝋石が置かれていた。
窓の外からは、遠い波の音が低く聞こえてくるけれど、部屋の中はストーブの薪がパチリと爆ぜる音と、確かな温もりに満たされていた。
夜中に、ふと目が覚めた。
寒さのせいでも、身体の痛みでもない。ただ、自然と意識が浮上しただけだった。
足の指を動かしてみると、毛布の中でしっかりと指先が曲がる。喉にも異物感はない。
薄暗い部屋の扉の隙間から、細い灯火の光が漏れていた。
隣の実験室で、テオドールがまだ起きている。
カリカリと、硬いペン先が紙を引っ掻く音。時折、木製の椅子がギシリと軋む気配。
彼はまだ日誌をつけているのだ。
私は寝台から、小さく息を吸い込んだ。
「……テオ」
呼ぶと、ペンの音がピタリと止まった。
一秒も置かずに、扉の向こうから、低く穏やかな声が返ってきた。
「起きているよ、ローナ。どこか痛むかい?」
「ううん。どこも痛くないわ」
「そうか。……なら、よかった」
声は出た。
そして、呼べばすぐに答えてくれる人が、すぐそこにいる。
「……もう寝るわね」
「おやすみ。火はちゃんと保っているからね」
私はもう一度毛布を顎まで引き上げ、目を閉じた。
声が届くこと、テオドールの返事があること、そしてストーブの薪が静かに爆ぜていること。その確かな温もりに包まれながら、私は再び安らかな眠りへと落ちていった。