発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様 作:神座鬼神
1. 朝の匂いと、焼きすぎた肉
上陸四十日目の朝。
目が覚めたとき、私の意識を最初に捉えたのは、自分の身体の調子ではなく、台所から漂ってきた香ばしい匂いだった。
ジュウ、と油が弾ける小気味のいい音。
羊の脂が熱せられ、焦げた塩と混ざり合う、あのたまらない匂い。
私は毛布を跳ね除け、板の間に足を下ろした。
土踏まずのない足裏は、朝の冷えた床板の感触をいつもどおりに受け止め、ふくらはぎの筋肉が私の体重を支える。痛くもなければ、急に軽くなっているわけでもない。いつもの私の身体だった。
パタパタと素足で台所へ向かうと、ストーブの前にテオドールが立っていた。
昨夜のうちに切り分けて冷暗所に収めておいた、あの分厚い羊肉を鉄のフライパンで焼いているところだった。
「テオ、脂のところが焦げそうよ! もっと火から離しなさいな」
私が背中越しに声をかけた、その瞬間だった。
左手でフライパンの柄を握り、右手で肉をひっくり返そうとしていたテオドールの手が、ピタリと止まった。
一拍、二拍。
パチパチと油が跳ねる音だけが響く中、テオドールはゆっくりとこちらへ顔を向けた。
「ちょっと、テオ! 本当に焦げちゃうじゃない!」
私は慌てて駆け寄り、柄を握るテオドールの手に自分の手を重ねて、フライパンを火の真上から脇の鉄板へと引きずらさせた。
ジュウ、と立ち上っていた煙が引いて、穏やかな微かな音へと落ち着く。
「……もう、何ぼんやりしてるのよ。せっかく厚く切った肉なのに」
文句を言いながら顔を上げたとき、私の言葉は喉の奥で止まった。
2. 怖かった、と言える朝
テオドールが、私の顔をじっと見つめていた。
驚きというよりは、確かめるような目だった。私の目、鼻、唇を、一つひとつ確かめるように見つめている。
「……なによ」
私はいつもの調子を保とうとして、唇を尖らせた。
「……昨日の肉、食べられなかったら嫌だと思ってたのよ」
食い意地を張った冗談で誤魔化そうとした。
けれど、テオドールが浅く息を吸い、何も言い返してこないのを見た瞬間、胸の奥がきゅうと締まった。
言葉が続かなくなった。
私はたまらなくなって、テオドールの胸元へ一歩踏み出し、その厚いウールの外套に顔をうずめた。
「……ローナ」
テオドールが木べらを台の上に置き、私の背中に両腕を回した。
ぎゅう、と強い力で抱きしめられる。
いつもなら「苦しいわよ」と小突くはずの強さだったけれど、私は彼の服の背中の生地を両手で固く握りしめたまま、指を緩めることができなかった。
テオドールの胸が、大きく、ゆっくりと上下している。
彼の首筋のあたりから、微かに震える温かい息が私の髪に吹きかかった。
「……テオ」
「うん」
「……怖かったわ」
掠れた声だったけれど、私の口からこぼれ落ちた。
テオドールは私の背中を抱いたまま、深く、長い息を吐き出した。
「……僕もだよ。君の声を聞くまで、こんなに怖かったんだって、分からなかった」
彼の大きな手のひらが、私の背中をそっと包み込む。
冷めかけたフライパンの前で、私たちはしばらくの間、互いの重みと体温を確かめ合っていた。
テオドールの心臓の音が外套越しに規則正しく伝わってきて、ぎゅっと握りしめていた私の指先から、ようやく強張りが解けていった。
3. 四十一日目のいつもどおり
「……お腹が空いたわ」
「そうだね。温め直そう」
テオドールがようやく腕を緩め、照れくさそうに笑った。
フライパンを再びストーブの火の上に押し戻す。
少し焦げ目のついた羊肉が再びパチパチと音を立て、二枚の深皿に取り分けられた。
机に向かい合って座り、フォークで肉を口に運ぶ。
肉の繊維を噛み締めると、閉じ込められていた脂の甘みと塩気が、じゅわりと舌の上に広がった。熱いお茶を啜り、胃袋が温かく満たされていく。昨夜、二枚の皿を用意したときの約束が、ちゃんと果たされていた。
四十日というのは、おばばたちから教わったおよその目安だ。その日、私たちは普段どおりに一日を過ごした。テオドールは日誌を整理し、私は文字の練習をしながら、時折足を伸ばして身体の感覚を確かめた。
そうして四十日目の夜が静かに更け、やがて四十一日目の朝がやってきた。
「ローナ、薬の時間だよ」
二日おきの、いつもの朝の服薬。
テオドールが差し出した銀の匙には、乳白色のルピス乳剤が一滴、いつもと変わらぬ姿で乗っていた。
私は迷うことなく口を開け、その一滴を舌の上で受け止める。
喉を通る甘苦い刺激に、思わず顔をしかめた。
「……うん、やっぱり苦いわね」
「声も澄んでいるし、指先の動きも安定しているね」
テオドールの観察に、私は小さく頷いた。
四十一日目になっても、声も足裏も、いつもどおりに保たれていた。
無理に走れば足腰は痛むし、長く歩けば疲れる。けれど、自分の意志で立ち上がり、椅子へ歩き、テオドールと言葉を交わすための身体は、何一つ崩れていなかった。
4. 明日の魚の取り分
四十一日目の夕暮れ時。
窓の外の海が茜色から深い藍色へと染まっていく中、私たちは部屋の中央にある大きな木製作業台の前に立っていた。
これまでは解剖学の専門書や骨格のスケッチが山積みになっていた台の上を、二人で手分けして片付け、広く空けたのだ。
明日は、上陸四十二日目。
老漁師が、底網にかかった雑魚を一籠背負って上がってくる、あの約束の日だった。
「テオ、念のために言っておくけれど」
私は空いた台の上に両手を突いて、隣のテオドールを見上げた。
「明日は、一匹ずつじっくり観察してたら日が暮れちゃうわよ。鮮度が落ちる前に内臓を抜いて、塩をして干し棚へ運ばなきゃいけないんだから」
テオドールが苦笑し、メガネの位置を直した。
「加工する前に、構造を確かめておきたい部分はあるんだけれどね。特に銀鮫の皮膚の断面と、トゲカサゴの背びれの基部は……」
「だから、調べる魚は最初に一匹だけ選んでおいてって言ってるの。その一匹をテオが調べている間に、残りはどんどん捌いて塩を振るんだから」
「分かっているよ。標本として詳しく調べるのは、見立ての段階で決めた一匹だけにする。残りは手早く内臓を抜いて、すぐに君へ回すさ」
「本当でしょうね? 夢中になって手が止まったら、背中を小突くわよ」
「手加減してくれると助かるな」
作業台の端に、砥石で研ぎ澄ました解剖刀と木枡を並べ、拭き清めたばかりの広いまな板を中央に据える。
平らに削られた木肌を撫でると、乾いた確かな感触が手のひらに伝わってきた。
明日の昼過ぎ、ここに一籠の魚が乗る。
私たちは道具を整え終えた台を見つめ、静かに夕餉の支度へと取りかかった。