発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様 作:神座鬼神
1. 約束の一籠と、空になった背負い籠
上陸四十二日目の午後。
海からの風が少しずつ冷たさを帯び始めた頃、研究所の頑丈な木の扉が、ドンドンと遠慮のない強さで叩かれた。
「はい、開けるわよ」
私は台所から土間へ向かい、二本の足でしっかりと床を踏みしめて扉のかんぬきを外した。
外に立っていたのは、潮風に灼かれた赤黒い顔に、灰色の髭をたくわえた老漁師だった。背中には、泥と海藻の切れ端がついた使い古しの背負い籠を背負っている。
「今日はこのくらいだ。約束の一籠には収めてきたぞ」
老漁師は肩の縄を外し、ドスンと重みのある音を立てて籠を土間に下ろした。
仕事の約束を果たしに来た、その淡々とした様子が、私にはかえって嬉しかった。
「ご苦労さま。待ってて、いま温かいのを持ってくるわ」
私は台所のストーブの上でことこと煮立っていた小鍋から、深めの木の器へたっぷりと汁をすくい上げた。
昨夜の羊の骨と、今朝テオドールが下ろした魚の頭や骨を、弱火でじっくりと煮出してとった濃厚なスープだ。表面には金色の油が浮き、白い湯気とともに香ばしい匂いが立ち上っている。
「ほら、熱いうちに飲んで」
「おお、すまねえな」
老漁師は両手で器を受け取ると、ふうふうと息を吹きかけ、ずずっと音を立てて啜った。
「……あつ、うまいな。塩加減がいい。骨の髄までよく出てる。底網を引いて冷え切った腹の底に、じんわり染みるわ」
老漁師が器を傾けて喉を鳴らしている間に、奥から出てきたテオドールと二人で、手早く籠の中身を作業台用の浅い木箱へとあけた。
ゴロゴロと音を立てて移されたのは、市場では値がつかないと放り出される雑魚ばかりだ。鋭い棘を逆立てたトゲカサゴ、灰色のザラザラした小鮫、平たくてぬめりのある底魚。
空になった背負い籠の底を固く絞った布でさっと拭き、私は老漁師へ差し出した。
「はい、籠。持って帰るのに、軽いに越したことはないでしょう?」
「おお、気が利くな。崖を上り下りする身にはありがたい」
老漁師は空になった器を私に返し、軽くなった籠を片手で軽々と担ぎ上げた。
「中身の見立てはお前たちに任せるよ。また次の潮のあとにでも寄る」
それだけ言い残すと、老漁師は身軽になった足取りで、外の坂道を下りていった。
2. 解剖刀と木枡――入れ替わる視線
土間の扉を閉め、私たちは木箱を部屋の中央の大きな作業台へ運んだ。
昨日のうちに片付けておいた台の上には、砥石で研ぎ澄ましたテオドールの解剖刀、私が使う小刀、木枡に山盛りにした粗塩、そして縛り用の麻紐が整然と並んでいる。
「よし、まずは選別だね」
テオドールが腕まくりをし、魚を指先で検分し始めた。
「こっちのトゲカサゴと平たい底魚は干物に回すわ。小鮫は皮を剥いで研磨用に乾かして、頭や残りの骨はまた明日のスープの出汁ね」
私がてきぱきと仕分けをしていく横で、テオドールが一番大柄なトゲカサゴの一匹をまな板の真ん中に据えた。
メガネの奥の目が、研究者特有の鋭い光を宿している。
「……これは興味深いな。背びれの第三棘から第五棘にかけて、膜の付き方が通常の浅瀬のカサゴと明らかに異なっている。基部の担鰭骨が異常に発達しているよ」
テオドールは細い解剖刀の先を使い、魚の棘の根元を薄く開き始めた。
昨日の約束では「早くしなさいよ」と急かすはずだった。けれど、刀の先で器用にめくられた皮膚の下、半透明の筋肉と複雑に噛み合う小さな骨の連なりを見た瞬間、私の目はその手元に釘付けになった。
「……へえ。そこ、骨が二重になってるのね。海の中にいたときは、ただ鰭を動かしているだけだと思ってたけれど」
「そうなんだ。水流の抵抗を受けると、この小さな突起が突っ張り棒のようになって、棘を立てたまま固定できる仕組みになっているらしい。深海の強い水流に耐えるための適応だろうね」
「泳ぐときに無駄な力を使わずに済むのね。面白いわ」
私が感心して身を乗り出し、テオドールの肩越しに覗き込んでいると、テオドールがふと窓の外へ視線を向けた。
傾き始めた日差しが、ガラス窓を橙色に染め始めている。
「……あ、いや。感心している場合じゃないな」
テオドールがハッと我に返ったように解剖刀を置き、まな板の上の魚を私の方へ押しやった。
「続きは塩をしてからにしよう。日があるうちに下処理を終えないと、干す時間が足りなくなってしまう」
私は目を丸くし、それから思わず吹き出してしまった。
「ふふっ、テオの方からそんなこと言うなんて珍しいじゃない。いつもなら私が引っ張るまで本から顔を上げないくせに」
「君が日暮れまでにって言っていたからね。約束の仕事なんだから、遅れるわけにはいかないよ」
テオドールが照れくさそうに笑い、そこからは二人で一気に手を動かした。
テオドールは解剖刀の鋭さを活かし、カサゴや底魚のエラと内臓を手際よく掻き出していく。研究用に観察した一匹も、素早くスケッチを終えたあとは無駄なく処理へ回された。
私は木枡から粗塩を一掴み取り、身の厚みに合わせて腹の中と表面に擦り込んでいく。尾の付け根に麻紐を固結びで括り付け、吊るす準備を整える。小鮫は頭の付け根にぐるりと刃を入れ、滑りやすい皮を指先で掴んで一気に剥ぎ取った。
お互いの関心を邪魔することなく、息を合わせて手を動かすうちに、山積みだった木箱の魚はあっという間に下処理を終えていった。
3. 岩場の干し棚と、並んだ品物
作業台の上を水拭きし、生ごみを処理用の桶にまとめた後、テオドールは日誌の余白を開いて羽ペンを走らせた。
「使った塩は、二枡と半分。処理にかかった時間は、およそ一時間半だね」
「忘れずに書いておいてね。あとで計算するんだから」
テオドールが立ち上がり、玄関の壁に掛けてあった幅広の麻の背負い帯を手に取って、自分の肩に斜めに掛けた。
下処理を終えて塩の回った魚を浅い木箱に並べ、剥いだサメ皮と道具箱を抱えて、私たちは外へ出た。
向かったのは、岬の南東にある岩場だ。
四日前に二人で組んだ試作の干し棚が、岩の裂け目にしっかりと足を下ろして立っている。
ここは潮の直接の飛沫が届かず、海から吹き上げる乾いた風が絶え間なく通り抜ける場所だ。
「よし、吊るしていこう」
私たちは木箱から魚を取り出し、麻紐を竹竿に結びつけていった。
トゲカサゴ、底魚、開いた小魚。十数匹の魚が、風に揺れながら等間隔で行儀よく並んでいく。
夕方の冷たい風を受け、塩を打たれたばかりの身がキュッと引き締まり、透き通った飴色に輝いていた。
小鮫の皮は、持ってきた平らな木の板に広げ、四隅を小さな真鍮の釘でピンと引っ張りながら打ち付けた。布で余分なぬめりと水気を丁寧に拭き取ると、ヤスリのような細かな突起が均一に並んでいるのが手触りで分かる。
「綺麗に張れたわね。乾いたら、町の家具職人の親方のところへ持っていきましょう」
「そうだね。干物と皮が、それぞれいくらになるかね。そこから約束したおじさんの取り分と、使った塩の代金を考えよう」
「ええ。塩代を引いても、きっと次のお肉くらいは買えるはずよ」
目の前にずらりと並んだ魚と、板に張られたサメの皮を見上げながら、私は胸の奥がじんわりと満たされるのを感じていた。
テオドールと二人で手を動かし、風と塩を使って、売って確かめられる品物をここまで作り上げたのだ。
4. 麻の背負い帯と、夕暮れの帰り道
道具を片付け、木の板を風の当たらない岩棚の隙間に固定し終えたときだった。
立ち上がって踵に重心を乗せた瞬間、足裏とふくらはぎに、ずっしりとした重いだるさが押し寄せてきた。
「……あ」
思わず岩の角に手をついた。
午後ずっと作業台の前に立ち続け、冷えた岩場を歩いてきた足腰が、溜まった疲れを主張している。変態が崩れたわけでも、痛むわけでもない。土踏まずのない足で陸の重力に耐え、仕事をやり遂げたあとの、ごく当たり前の疲労だった。
息をついて足を揉もうとした私の前で、テオドールが肩から麻の背負い帯を外した。
「乗って。岩場を歩いて戻るのは大変だろう」
テオドールが私の前に背中を向けて屈み込む。
私は強がることもなく、素直に彼の広い背中に腕を回し、身を預けた。
テオドールは手慣れた動作で幅広の麻帯を私の腰と太ももの下に通し、自分の胸の前でしっかりと交差させて結び留める。
「よいしょ……痛くないかい?」
「平気よ。すっぽり収まってて、ちっとも苦しくないわ」
ぐっと身体が持ち上げられ、足が地面から離れる。
帯がしっかりと私の体重を支えてくれるおかげで、テオドールも腕だけで抱え込む必要がなく、足取りに余裕があるのが伝わってきた。
初めてここへ来た日、意識を失った私を、この人はこうして背負って崖の坂道を上がったのだと、後から聞かされた。
あの日のことは何も覚えていない。けれど、冷たく濡れてぐったりしていたはずの自分を想像すると、少しだけ胸がくすぐったくなった。
今は違う。
私は目をぱっちりと開け、揺れる背中の上で、今日の仕事の続きを話している。
頬を寄せると、テオドールのウールの外套から、潮の香りと干し草のような乾いた匂いがした。
外套越しに伝わってくる背中の温もりと、ザッ、ザッと砂利を踏みしめる規則正しい歩みの振動が、疲れた身体に心地よく響く。
「ねえテオ、夜のスープにはお芋を入れましょう。テオの分にはお芋を多めに入れて、私には身を多めに残しておいてね」
「あはは、分かったよ。お芋を煮崩れるくらい柔らかくしよう。身もたっぷり入れて温め直すさ」
テオドールの笑う声が、背中から胸へ、じんじんと直接伝わってきた。
紫色の夕暮れが岬を包み込む中、坂の上に見える研究所の窓には、私たちが干し棚へ出かける前に小さく絞っておいたランプの明かりが、温かく揺れていた。