発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様 作:神座鬼神
1. 降り注ぐ探針、死角の密着
ギギギギ……ガタン!
頭上の重い木製ハッチが跳ね上げられ、秋の冷たい夜風とともに、眩いランタンの光が底倉の闇を切り裂いた。
「おい、そこから照らせ! 探針(プローブ)を降ろせ!」
税関吏の野太い怒声が、狭い船倉に反響する。
ヴィンセントの判断は一瞬だった。
ピストルを外套のポケットへ滑り込ませると、クラウディアの手首を掴んだ。
樫の肋材に結ばれた足首の麻縄は二ヤードある。奥の死角まで届く。
「息を殺せ。肋材(ろくざい)の隙間に滑り込め!」
囁き声と同時に、ヴィンセントはクラウディアを石炭の斜面の最深部――船腹の湾曲と太い樫の肋材が作り出す、三角形の隙間へと押し込んだ。
ザシュッ!!
頭上の石炭の山に、一本の鋭利な鉄槍が突き刺さった。
河川税関が用いる全長三ヤードを超える鍛鉄の探針だった。
先端が錐のように尖った鋼鉄の棒が、硬い石炭の塊を砕きながら、底板へ向けて力任せに突き立てられる。
ザシュッ! ガキィン! ザシュッ!
一本、また一本。
ハッチの上から、三人の税関吏が無造作に探針を突き下ろしてくる。
もし一歩でも外にいれば、背骨を一撃で貫かれて床板に縫い止められていた。
「くっ……!」
ヴィンセントはクラウディアの上に自らの身体を覆いかぶせ、外套の裾を広げて黒い石炭の粉塵ごと彼女を包み隠した。
狭い肋材の窪み。
二人の身体は、胸と胸、腹と腹、太ももと太ももが、布一枚を挟んで完全に密着していた。
――ズスッ!!
ヴィンセントの背中、わずか数寸の距離に探針が突き刺さり、耳をつんざくような火花を散らした。砕けた石炭の破片がヴィンセントの頬をかすめ、一筋の血が滴り落ちる。
だが、男は眉一つ動かさず、身じろぎも息もせず、石像のようにクラウディアを押し包んでいた。
2. 甘い潮の毒、狂い咲く本能
クラウディアの視界は、ヴィンセントの胸板と、石炭の粉に塗れた外套で塞がれていた。
頭上で鋼鉄の槍が唸りを上げて突き刺さる恐怖。
だが――彼女の身体を支配していたのは、死の恐怖だけではなかった。自分を押し潰すように圧し掛かってくるオスの強烈な存在感だった。
ドクン……ドクン……ドクン……。
布越しに直に伝わってくる、ヴィンセントの重く規則正しい心拍。
極限の緊張下で研ぎ澄まされた男の筋肉の硬さ。
そして、首筋から漂う乾いた人間の皮膚の匂いと、頬から流れる鉄錆のような血の香り。
(……あ、息が……)
死の恐怖と、密着する男の体温。全身の血管に激しい熱が駆け巡り、下腹の奥底から甘く重い疼きが湧き上がった。
「……んっ……」
かすかな吐息が、クラウディアの唇から漏れかけた。
その瞬間――ヴィンセントの手が、クラウディアの口元を上からしっかりと覆い塞いだ。
「静かにしろ」
耳元に落ちてきたのは、冷徹な囁きだった。
「声を漏らせば、二人とも串刺しだ」
ヴィンセントの手のひらには、皮手袋の匂いと頬の血が混じっていた。
唇を強く押さえつけられる感触。
首筋に触れるヴィンセントの荒い呼気。
薄い皮膚を通して、オスの体熱が血液の中へ染み渡っていく。
爪を立てて背中を引き裂きたいのか、それともこのまま腰を押し付け、そのすべてを胎内に迎え入れたいのか――狂気すれすれの衝動が、クラウディアの理性を揺るがしていた。
ヴィンセントもまた、腕の中に抱きすくめたクラウディアの身体が、異常な熱を帯びて小刻みに震え、甘い潮の匂いを放っているのを感じ取っていた。
喉が渇き、奥歯を強く噛み締める。
抱きしめているのは金貨五百枚の積荷であり、油断すれば喉笛を引き裂く危険な生き物だ。
冷たい理性の算盤で、腕の中から湧き上がる衝動を必死に抑え込んだ。
3. 張り詰めた麻縄と、狂乱の牙
頭上の甲板で、船長の甲高い叫び声が響いた。
「お役人様! 手加減してくだせえ! 底板に穴が開いたら、この重い石炭船は沈んじまいますぜ!」
「ええい、うるさい! ……おい、手応えはあるか!」
探針を握っていた税関吏が怒鳴り返した。
「ありませんぜ! どこを突いても石炭ばかりだ! 樽や木箱の手応えは微塵もねえ!」
「……チッ、空振りか。探針を収めろ! ハッチを閉めろ、次の船へ移るぞ!」
ギギギ……バタン!!
重い木製ハッチが乱暴に閉じられ、外から鉄の閂(かんぬき)が落とされた。
続いて、横付けされていた税関の巡視艇がエンジンを噴かし、引き波を立てて離れていく振動が伝わってきた。
嵐のような危機は去った。
その瞬間――クラウディアの理性の糸が、張り詰めた極限から弾け飛んだ。
(……オスだ……!)
死の恐怖の反動と、至近距離で浴び続けたオスの体熱、首筋の汗、裂けた頬の血の匂い。
第2期にある人魚の身体にとって、それは本能を完全に暴走させる刺激だった。
いま、この男を組み伏せ、その剛直なすべてを胎内に迎え入れて種を貪り尽くす――それ以外の思考が吹き飛んでいた。
「ギシャァッ……!!」
クラウディアは八重歯を剥き出しにし、鋭い爪を振り上げ、ヴィンセントの胸元へと猛然と跳びかかった!
「しまっ……!?」
ヴィンセントの顔色が変わった。
口を塞いでいた手を跳ね除けられ、喉笛を狙う爪が迫る。
ヴィンセントは反射的に床板を蹴り、石炭の斜面を転がるようにして後ろへ身を投げた。
その刹那――。
――バツンッッ!!
底倉の暗闇に、太いマニラ麻ロープが限界まで張り詰める激しい軋み音が鳴り響いた。
「ぎゃっ……!?」
跳びかかったクラウディアの身体が、空中で強く引き戻された。
左足首。
樫の木の太い肋材に結びつけられていた、二ヤードの船舶用ロープ。
幾重にも撚り合わされた太い繊維と当て革が、クラウディアの足首を容赦なく引き止め、前進を断ち切ったのだ。
シャッ!
クラウディアの爪先はヴィンセントの喉元には届かず、あと数インチのところで空を切り、転がったヴィンセントの外套の胸元とベストをバリバリと引き裂いた。
ズザザザーッ!
ヴィンセントは石炭の山を滑り落ち、間一髪で二ヤードの間合いの外へと脱出した。
心臓が激しく跳ねる中、ポケットからピストルを引き抜き、両手で構えて撃鉄を起こした。
カチリ。
冷たい金属音が響く。
「動くなッ! クラウディア!!」
銃口の先で、クラウディアは足首を縄に引かれたまま、四つん這いで石炭の上に突っ伏していた。
乱れた銀髪の隙間から覗く碧い瞳は、瞳孔が縦に細まり、野生の光を宿している。
白い肩を激しく上下させ、口元からは熱い呼気が漏れていた。
「ハァ……ッ、ハァ……ッ、あああぁっ……! サル……っ、その種を……私に寄越せ……ッ!!」
掠れた叫び。
ヴィンセントは銃口を据えたまま、荒い息を整えた。
(……危ないところだった)
もし避難する際、足首の縄を解いていたら――。
今頃自分は、この暴走した人魚に組み敷かれ、無理やり種を奪われていただろう。
受胎した人魚は脚を失い、帝都への計画は崩壊、自分は全損して破滅していた。
彼を救ったのは、「二ヤードの拘束を維持した」徹底したリスク管理だった。
「……落ち着け、クラウディア」
ヴィンセントは冷徹な声で言い放った。
「二ヤード以上、お前は動けない。……飛びかかれば、撃つぞ」
「うぐぅ……っ、ハァッ、ハァッ……!」
クラウディアは縄に引かれた左足首を押さえ、石炭に爪を立てて身悶えした。
やがて、銃口の死の気配と、届かない距離の前に、内分泌の昂ぶりが徐々に引いていった。
瞳孔がゆっくりと丸みを取り戻し、人間の悔しさと屈辱の色が戻ってくる。
「……クソッ……! この縄さえ……なければ……っ!」
クラウディアは膝を抱え込み、激しい自己嫌悪に震えながら奥歯を噛み鳴らした。
男の体温に当てられて理性を失い、衝動のままに襲いかかってしまった自分自身の浅ましさに、彼女は唇を噛んでそっぽを向いた。
「……買い手への引き渡し額から、破かれた外套の修繕費を差し引いておく」
ヴィンセントは破れた胸元を見やり、冷ややかに告げると、ピストルを構えたまま石炭の斜面へと腰を下ろした。
4. ヴェルナー川の夜明け、迫る帝都
それから、丸一日あまりの航行が過ぎた。
変態開始から十三日目(十月十五日)を水上で丸一日過ごし、十四日目(十月十六日)の朝が訪れた。
平底石炭船は、ヴェルナー川の豊かな水流に乗り、下流へと順調に進み続けた。
底倉の中では、常に二ヤードの距離が保たれていた。
ヴィンセントは足首の麻縄を決して解かず、夜間もピストルを指先のかかる位置に置き続けた。クラウディアもまた、あの日以来、縄の長さを超えて飛びかかることはしなかった。
だが、二人の間に漂う空気は、単なる「監視者と囚人」のそれではなくなっていた。
互いに相手がどれほど危険で、どれほど手強く、そして自分の生存に不可欠であるかを理解した者同士の、張り詰めた沈黙だった。
「……食え」
ヴィンセントが、残り少なくなった塩漬けマトンの干し肉をクラウディアに投げ渡した。
「……ん」
クラウディアは受け取り、前歯で小さく噛みちぎった。
その顔色は数日前に比べて青白く、だが唇と頬だけが微かな熱を帯びていた。
完全肉食の高代謝に対し、手持ちの干し肉だけではカロリーも水分も不足していた。
「足の腫れは引いたな」
「……うん。もう、普通に歩ける」
クラウディアは改造ブーツのつま先を小さく動かした。
足首の鬱血は消えていた。
だが――彼女は言わなかった。足首の痛みが引いた代わりに、下腹の奥が熱く疼き続けていることを。
ゴォォォォ……。
不意に船底を打つ水音が変わり、遠くから巨大な街の地鳴りのような喧騒が届き始めた。
無数の工場の汽笛、汽車の走る轟音、人々のざわめき。
頭上のハッチの隙間から、船長が小声で怒鳴ってきた。
「おい、旦那! 着いたぜ! 帝都の外郭河港――上流河川埠頭だ!」
ヴィンセントの瞳に、鋭い光が宿った。
懐中時計を取り出し、カチリと蓋を開ける。
変態開始から十四日目、午前十時。
ついに、目的地である帝国の心臓部――帝都の外郭へと到達したのだ。
ヴィンセントは懐から革断ち小刀を取り出し、クラウディアの足首に巻きつけていた麻縄の結び目を手早く切り解いた。
「クラウディア、フードを深く被れ。船を下りるぞ」
ヴィンセントが立ち上がり、外套の埃を払った。
「ここから帝都の中央銀行街までは馬車で一時間だ。……買い手であるモルガン商会の代理人と落ち合う」
「……ふん。やっと、あの冷たくて暗い檻から出られるわけだ」
クラウディアは立ち上がり、煤だらけの麻袋を頭から被った。
彼女の碧い瞳の奥に、決意の炎が宿る。
(帝都……ここが、あいつの言う人間の巨大な巣……)
川はここまでだ。
だが、船を下りれば、港には無数の船と水路がある。
そして――自分の身体に残された猶予は、もう長くない。
(理性を焼き尽くす狂乱の熱が来る前に……手遅れになる前に、絶対にすべてを終わらせる)
互いに最後の切り札を隠し持った二人は、帝都の巨大な門前へと、足を踏み出していった。