発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様 作:神座鬼神
1. 八日目の朝と、燻る微熱
上陸して、八日目の朝。
尾ひれから分かれた二本の脚は、室内ではかなり歩き慣れてきていた。
土踏まずがないため大股で歩くことはできないものの、腰を左右に小さく振るペンギン歩きなら、絨毯の上だけでなく木の床でもほとんど音を立てずに素早く移動できる。
仮設声帯の調子も上々で、喉の奥のヒリつきは消え、鈴を転がすような透明な声で人間と淀みなく会話ができるようになっていた。
――けれど、別の問題が身体の奥で静かに首をもたげていた。
(……ん……なんか、下腹が落ち着かないわね……)
暖炉の前で爪先を温めながら、私はシーツ越しに下腹部をそっと撫でた。
痛むわけではない。
ただ、身体の芯に小さな炭火を埋め込まれたように、じんわりとした熱が燻っているのだ。
長老のおばばの口伝を思い出す。
上陸して一週間を過ぎると、人魚の身体は**第2期(陸上浸透期)**と呼ばれる状態に入る。脚と声帯が安定する代わりに、血中の発情ホルモンが高まり、全身の皮膚が敏感になって、雄への本能的な関心が強くなる時期だという。
(まあ、海水をがぶ飲みしたくなるような激しい熱じゃないし……美味しいものを食べていれば平気平気)
私は気楽に首を振り、台所の方向へ鼻を向けた。
それよりも今朝の重大事は、朝食のメニューだ。
三日前の深海発光生物の標本作りで、テオドールは銀貨三枚の報酬を得た。私の機転によって、その一部が安くて滋養のある「端肉と豚骨」に化けたおかげで、ここ二日間の食卓は天国そのものだった。
「ローナ、おはよう。……朝食の前に、ちょっとこの海図を見てくれないかい?」
作業場から出てきたテオドールが、机の上に大きな羊皮紙の海図をバサリと広げた。
眼鏡の奥の瞳は、寝不足のせいか少し充血している。
「海図……?」
「ああ。ヴォルフさんが話していた『謎の水生霊長類』の件だよ」
ぎくり、と心臓が跳ねた。
テオドールは真剣な顔で、羽ペンを海図の南側に走らせた。
「過去三ヶ月の船乗りの日誌を調べ直してみたんだ。目撃証言のほとんどは、この南の沖合――水深が急に落ち込む『黒岩礁』の近海に集中している。嵐の夜、船の周りを泳ぎ回る白い影が見えたそうだ。だから、まずは南の入り江に小舟を出して、岩礁帯の生態調査をしてみようと思うんだが……どう思うかい?」
(南の黒岩礁……!?)
私の背筋に冷や汗が流れた。
そこは、まさに私たちの群れが外海から港へ近づく際の、本命の回遊ルートだった。
そんな場所にテオドールを連れて行ったら、夜間に呼吸のために浮上してくる同族と鉢合わせしてしまうかもしれない。
それだけは絶対に阻止しなければならなかった。
「だ、ダメよ、テオ! 南の黒岩礁なんて、見当違いもいいところだわ!」
「えっ……? 見当違いかい?」
「そうよ!」
私は腕を組み、もっともらしい顔を作って海図の真ん前へ身を乗り出した。
適当な嘘をついても、この鋭い学者にはすぐ見抜かれる。海を知る者ならではの、説得力のある「半真実」を混ぜて誘導しなければならない。
「テオ、あなた、大型の水生哺乳類がどうやって生きているか考えたことある? 南の黒岩礁は、潮流が激しくて波が荒すぎるのよ。それに南の航路は、石炭を焚いて走る大型船や漁船がひっきりなしに通るでしょ? 水の中にいる生き物にとって、船のスクリュー音やエンジンの振動は、耳元で鐘をガンガン叩かれているようなものよ。そんな落ち着かない場所に、賢い生き物が長居するわけないじゃない」
「船の音響ストレス……! 確かに、鯨類が人工の水中音を嫌って航路を避けるという論文を読んだことがある……!」
テオドールがハッと息を呑んだ。食いついてきた。
「じゃあ、どこに潜んでいるというんだい?」
「西よ。西の古い廃船干潟の奥よ」
私は海図の西端――港の発展とともに打ち捨てられた木造船が沈み、遠浅の泥干潟が広がる一帯を指差した。
「あそこは遠浅で大きな船が入ってこないから、とても静かなの。それに海底の砂利の隙間から、冷たい山の湧水が湧き出している場所があるでしょ? 外海の冷たい水に慣れた生き物なら、ぬるい港の浅瀬じゃなくて、あの冷たくて静かな泥干潟の奥で身体を休めるはずよ」
「西の廃船干潟……! 湧水による局所的な低水温域と、音響遮断された閉鎖環境か!」
テオドールは感嘆の声を漏らし、それからふと手を止めて、不思議そうに私を見つめた。
「……ねえ、ローナ。君はこのあたりの海岸を知っているのかい? 航路や干潟の深さだけじゃなく、海底の湧水のことまで……まるで実際に見たことがあるみたいに詳しいね」
「――っ」
心臓が跳ね上がった。しまった、あまりにも自然に口にしすぎた。
私は慌てて視線を逸らし、困惑したように眉を寄せた。
「え、ええと……自分でもよく分からないの。海図やこの海を見ていると、水の下の景色や地形の記憶だけが、頭の中にすっと浮かんでくるのよ。でも……自分がどこで生まれ育ったのか、家族や家がどこにあったのかは、やっぱり思い出せなくて」
「……そうか」
テオドールは私の表情を見て、少し申し訳なさそうに眼鏡のブリッジを押し上げた。
「ごめんよ、無理に思い出させようとするつもりじゃなかったんだ。地形や海の記憶が残っているなら、君はこの近海の漁村か、船乗りの家の出身なのかもしれないね。……遭難した時のことや失った家を思い出すのは、きっとつらいだろう。今は焦らなくていいよ」
「……ありがとう、テオ」
心の中で冷や汗を拭いながら、私は安堵の息を吐いた。
テオドールは再び海図に目を落とし、ペンで勢いよく印をつけた。
「よし、それなら君の感覚を信じよう。目撃証言が南に多いのは、単に人間の船が南を通るからであって、生物本来の休息場は西の干潟のほうかもしれない! 午前中の引き潮に合わせて、西の干潟へ調査に行こう!」
「ええ、そうしましょ!」
私は心の中で、小さく胸を撫で下ろした。
西の干潟なんて、泥深くて小魚もおらず、泥臭いスナガニくらいしか棲んでいない。人魚にとっては何の旨味もない場所だ。
あそこなら、同族と出くわす心配もなければ、人魚の痕跡なんて見つかるはずもない。
適当に泥の上を散歩して、「何もいなかったわね」と言って帰ってくれば、調査は空振りに終わり、私の平穏な生活は守られる――そう踏んでいた。
2. 石畳の市場と、羊肉パイの洗礼
干潟へ向かう前に、標本採集用のガラス瓶や長靴を調達するため、私たちは港町の市場へと立ち寄った。
私にとって、これが初めての本格的な「人間の街」への外出だった。
「うわぁ……っ」
港町の目抜き通りに出た瞬間、私は足を止めて周囲を見回した。
石畳の両脇にずらりと並ぶ、レンガ造りの商店や木製の屋台。
馬車の車輪が立てる重々しい音、行商人の野太い呼び声、鉄工所の火花、そして鼻をくすぐるパンの焼ける匂い。
海の中の静寂とは何もかもが違う。すべてが騒がしく、雑多で、圧倒的な生命の熱気に満ち溢れていた。
「ローナ、足元に気をつけて。石畳は濡れていて滑りやすいから」
テオドールが私の半歩先を歩きながら、何度も後ろを振り返って気遣ってくれた。
私のよちよちとしたペンギン歩きは、人間の大股歩きに比べれば半分ほどの速度しかない。けれど彼は一度も先を急ぐことなく、自然に私の歩幅に合わせて歩いてくれていた。
「平気よ、このくらい……きゃっ!?」
濡れた敷石に足を取られ、足首がぐらりと傾いた。
転びそうになった瞬間――。
「危ない!」
テオドールが素早く腕を伸ばし、私の腰を抱き寄せるようにして支えてくれた。
――トンッ。
男の胸板に、私の身体が預けられる。
テオドールの逞しい腕の力と、厚いウール越しに伝わってくる人間の体温。
その瞬間。
(――ッッ!?)
背骨を、電流のような痺れが駆け抜けた。
腰に触れられた皮膚がカッと熱くなり、下腹部の奥がきゅんと甘く痙攣する。
知覚過敏になった全身の毛穴が開き、鼻腔の奥にテオドールの清潔な石鹸と乾いた皮膚の匂いがダイレクトに飛び込んできた。
「ひゃっ……!」
私は反射的にテオドールの胸を手で押し返し、パッと二歩後ずさった。
「わっ……!? ご、ごめん! どこか痛かったかい!?」
テオドールが慌てて両手を引っ込め、心配そうに眉を寄せた。
「あ……う、ううん! 痛くないわ! ちょっと……びっくりしただけ!」
私は手で自分の頬を押さえた。
熱い。耳の裏まで真っ赤になっているのが自分でも分かった。
心臓が早鐘を打っている。
(な……何なのよ、今の!?)
ただ支えられただけだ。
なのに、どうして下腹があんなに疼いて、腰が抜けそうになるのか。
テオドールへの好意?
いや、違う。これは間違いなく、身体の奥に刻まれた『発情期の雄に対する本能反応』だ。
目の前にいる無防備な人間の男の温もりに、私の野生の肉体が勝手に反応してしまったのだ。
(落ち着きなさい、ローナ……! この男はただの便利な同居人よ! 交尾なんてしたら海へ強制送還なんだから、変な気ィ起こしちゃダメよ!)
私が必死に胸を押さえて深呼吸をしていると、海からの冷たいビル風が通りを吹き抜けた。
「――っくしゅん!」
思わず小さなくしゃみが出た。
冷えた空気が、薄手の寝間着の上に借り物のカーディガンを羽織っただけの私の首元を容赦なく冷やす。
「やっぱり寒かったかい? ……はい、これを巻いて」
テオドールが首から外したのは、彼が普段から使っているチャコールグレーの毛糸のマフラーだった。
彼の手が伸びてきて、私の首元にマフラーがふわりと丁寧に巻き直される。
「え……テオは寒くないの?」
「僕は平気だよ。君は本当に寒がりだからね。風邪を引かれたら、助手がいなくなって僕が困る」
照れ隠しのようにそう言いながら、テオドールはマフラーの端を整えてくれた。
首元を包み込む、ぶ厚い毛糸の温もり。
そこには、テオドールの体温と、どこか落ち着く紙とインクの匂いが残っていた。
じんわりと胸の奥が温かくなる。
(……口うるさいくせに、こういうところは本当に優しいんだから)
ただの打算で居座っているはずなのに、彼の不器用な気遣いに触れるたび、胸の奥がくすぐったいような、奇妙な心地よさに包まれるのを止められなかった。
「あ、テオ! あれ! あの湯気が出てるやつは何!?」
気恥ずかしさを誤魔化すように、私は通りの角にある屋台を指差した。
鉄板の上で、黄金色に焼き上げられた手のひら大のパイが、香ばしい油の匂いを漂わせている。
「ああ、あれは港名物の羊肉(マトン)のミートパイだよ。……お腹が空いたのかい?」
「うん! お肉の匂いがする!」
私が目を輝かせると、テオドールは苦笑いしながらポケットから銅貨を取り出し、焼きたてのパイを一つ買って紙に包んで手渡してくれた。
「熱いから気をつけて食べなよ」
「いただきます!」
両手でパイを持ち、ハフハフと息を吹きかけながら端っこにかじりつく。
サクッ――ジュワァッ!!
「――ッッ!?」
パイ生地の香ばしいバターの風味の奥から、粗挽きにされた羊肉の力強い肉汁と、炒めたタマネギの甘みが口いっぱいに弾け飛んだ。
ピリリと利いた黒胡椒が、脂の濃厚さを引き締めている。
熱い。旨い。噛むたびに溢れる肉汁が、冷えた身体の内側から火を灯していく。
「んんんんっ……! おいしい……っ! テオ、これすっごく美味しいわ!」
「はは、口の端にパイくずがついてるよ。本当に君は、美味しそうに食べるね」
テオドールが指先で私の口元のパンくずを優しく拭い取ってくれた。
その穏やかな笑顔を見つめながら、私は羊肉の熱い脂を飲み下した。
羽毛布団、暖炉の火、そしてこの焼きたての肉パイ。
陸の文明は、知れば知るほど底なしの魅力に満ちている。
絶対に海へなんて帰らない。この男の隣で、この温かい暮らしを絶対に手放してたまるものか――私は改めて、強く心に誓ったのだった。
3. 西の干潟と、潮溜まりの漂着物
市場を抜けて西へ歩くこと半時間。
私たちは、人気のない西の廃船干潟へとたどり着いた。
ちょうど潮が引ききった時間帯だった。
見渡すかぎり広がる、黒っぽい泥の干潟。あちこちに朽ち果てた木造船の竜骨が、巨大な鯨の肋骨のように泥の中から突き出している。
海風は冷たいが、波の音は遠く、港の喧騒もここまでは届かない。
「確かに、静かな場所だね……」
テオドールは長靴で泥を踏みしめながら、首から提げた双眼鏡で周囲を見渡した。
私は膝までの長靴を履いて、ペタペタと泥の上を歩いた。
水たまりに手を入れてみる。
海底から湧き出す地下水のせいで、海水は肌を刺すように冷たい。
(うん、やっぱり。こんな泥深くて餌もいない場所に、人魚が来るわけがないわ)
私は心の中でほくそ笑んだ。
目撃証言のあった南の海域からテオドールを遠ざける作戦は、大成功だ。
適当に泥の上を歩き回って、「やっぱりここにもいなかったわね」と言って帰れば、今日の調査は無事に空振りで終わる。
「テオ、やっぱりここにも何もいないみたいよ? 寒くなってきたし、そろそろ――」
「待ってくれ、ローナ」
テオドールが干潟の中央、座礁した古い大型船の残骸の前で足を止めた。
残骸の周囲には、何本もの流木や千切れた海藻、漂流ゴミが吹き溜まりになって引っかかっていた。
「ここ数日の風向きは南西だった。もし沖合の黒岩礁付近で何らかの大型生物の活動や損傷があったとすれば、比重の軽い浮遊物は潮流に乗って、この廃船の吹き溜まりに押し流されてくるはずだ」
「え……?」
テオドールはピンセットを手に、膝をついて流木の根元のゴミをかき分け始めた。
学者の真剣な眼差し。
彼はただ闇雲に探しているのではない。風向と潮流のベクトルを計算し、漂着物が集まる特異点を正確に割り出していたのだ。
「そんなの、ただのゴミと海藻しか……」
「――ローナ。これを見てくれ」
テオドールの声が、不意に低く上ずった。
彼が流木の裂け目から慎重にピンセットで引き抜いたもの。
それを見た瞬間――私の心臓が、凍りついたように止まった。
「な……に、それ……?」
「剥落した……表皮の組織片だ」
ピンセットの先で、冷たい海風に揺れていたのは――。
掌の半分ほどの大きさの、半透明で濡れた、薄い膜のような肉片だった。
魚の硬い鱗ではない。
クジラやアザラシのような、分厚い皮下脂肪のついた獣の皮でもない。
半透明で、驚くほど薄く滑らかな皮膚の膜。無毛で、表面にはぬめり気のある薄い粘液が残っている。
そして何より――。
海水の塩気に混ざって、微かに漂う、どこか潮風の香油のような甘い匂い。
(う……嘘でしょ……!?)
私の喉が、音もなく引きつった。
魚でも獣でもない、人間のように柔らかい皮膚膜。
まさか……八日前の嵐の夜、大波に呑まれて岩肌に激突した時に剥がれ落ちた、私の皮膚片……?
それとも、この近くまで上がってきていた別の同族のもの……!?
(まさか……本当に『人魚』の痕跡が、こんなところに流れ着いてるなんて……!)
「鱗がない……。魚類でも、クジラやアザラシのような剛毛も脂肪層も見当たらない。無毛で、驚くほど組織が薄いんだ。……まるで、人間の表皮のように繊細なのに、明らかに海棲生物の粘膜をまとっている……!」
テオドールは採集用のガラス瓶を取り出し、震える手でその組織片をアルコール液の中へ滑り込ませた。
彼の眼鏡の奥の瞳が、学者としての狂おしいほどの興奮で燃え上がっていた。
「ローナ! ここへ来た甲斐があったよ! この閉鎖された干潟の吹き溜まりに、確かに未知の水生生物の痕跡が流れ着いていたんだ! 今すぐ標本室へ戻ろう! 薄片を作って、顕微鏡で組織や細胞を詳しく調べれば……この生物の正体に手が届くかもしれない!」
「あ……あは……あははは……」
私は引きつった笑みを浮かべ、首元のマフラーをぎゅっと握りしめた。
テオドールを遠ざけようとしたはずの機転が、まさか自分自身の生体痕跡を引き当てる結果になるなんて。
「よかったわね、テオ……手がかりが見つかって……」
「ああ! 君のおかげだよ、ローナ!」
無邪気に私の手を取って喜ぶテオドール。
その温かい手のひらに、私の下腹部がまたきゅんと小さく熱を帯びた。
けれど今の私の背中には、氷水を浴びせられたような冷や汗が滝のように流れていたのだった。