発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様 作:神座鬼神
1. 蒸気と煤煙の帝都、熱い牛脂の蘇生
――フォォォォォン……!!
重厚な蒸気船の汽笛が、冷たい秋の川風を震わせて幾重にも木霊していた。
北海自由通商港エルンストを出てから三日。
変態開始から十四日目――一八五三年十月十六日の午前十時。
ヴェルナー川の泥水を行き交う数百隻の艀(はしけ)と蒸気タグボートの波立ちを抜け、平底石炭船はついに帝都の外郭河港――上流河川埠頭(アッパー・リバー・ワーフ)の巨大な木製桟橋へと横付けされた。
石炭船の底倉からハッチを押し開けて甲板へ這い出た瞬間、クラウディアの喉がヒュッと小さく鳴った。
「……っ、なに、これ……」
彼女の碧い双眸が、驚愕と眩暈に見開かれた。
視界を埋め尽くしていたのは、彼女が生涯で一度も目にしたことのない、人工の怪物の群れだった。
空を覆い尽くす鈍色の重い雲。そこに突き刺さるように林立する、何十本もの巨大な赤煉瓦の工場煙突。そこから吐き出されるコールタールと硫黄の混じった黒煙が、帝都の空を鉛色に濁らせている。
川の上に架かる巨大な錬鉄の鉄道橋の上を、黒鉄の蒸気機関車が白い蒸気と火花を撒き散らしながら、轟音を立てて車列を牽引していく。
桟橋には何千人もの人足や商人、制服を着た税関吏が蟻のように蠢き、水圧クレーンが鋼鉄の爪で積荷の木箱を吊り上げるたびに、けたたましい蒸気の排気音が耳朶を打った。
海にも、北海の荒涼とした港町エルンストにすら存在しなかった、近代資本主義の圧倒的な熱量と質量。
鋭敏な嗅覚を持つクラウディアにとって、石炭の煙、機械油、鉄の錆、そして無数の人間たちの汗と排泄物の臭気は、脳髄を直接殴りつけられるような強烈な暴力だった。
「圧倒されている暇はない。足を動かせ」
背後から、低く鋭い声が落ちてきた。
ヴィンセントだった。外套の襟を立て、煤で黒く汚れた顔のまま、油断なく周囲の視線を警戒している。
足首の麻縄を切られたクラウディアは、頭から被った麻袋の裾を掴み、ヴィンセントの外套の裾に縋り付くようにして桟橋へ足を踏み出した。
ペタ、ペタ。
平らな足底で踏みしめる木板の感触。
底倉で冷やしたおかげで右足首の腫れは引いていたが、硬い地面に体重を乗せるたび、土踏まずのない足の裏にじんわりとした重力がのしかかる。
だが、クラウディアは二度と転ばなかった。二ヤードの狭い石炭倉で生き延びるために培ったバランス感覚が、彼女の小股歩行を確実に陸の生き物のそれへと近づけていた。
ヴィンセントは河岸の雑踏を縫うように歩き、桟橋の裏手に立ち並ぶ水運荷役向けの安宿街の一軒――『錨と歯車亭』の裏木戸を潜った。
帳場の親父に銀貨一枚を放り投げ、奥の個室付きの蒸気浴場兼休憩室を二時間分買い取る。
「……顔と手足を洗え。石炭の煤を落とさねば、街の辻馬車にも乗せてもらえん」
ヴィンセントが冷たい井戸水の桶と手拭いを差し出した。
クラウディアは麻袋を脱ぎ捨てると、桶の水を手ですくい、夢中で顔を擦った。
黒い煤が洗い流されると、その下から、北海の氷を溶かし込んだような青真珠色の滑らかな肌と、濡れた銀青色の長い髪が露わになった。
だが――その肌は以前よりも白く、頬は微かにこけていた。
手持ちの乾いた塩漬け肉だけでは、海棲捕食者の強烈な基礎代謝を支えきれず、飢餓感が限界に達していたのだ。
ぐうぅぅ……ッ。
クラウディアの下腹から、激しい飢餓の鳴動が響いた。
彼女はペタンと床にへたり込み、濡れた前髪の隙間から、恨めしそうにヴィンセントを見上げた。
「……お腹が、裂けそうだよ……。あんな塩の塊の干し肉じゃ、ちっとも力が出ない……! 肉を……火の通った、温かい肉をよこせ……ッ!」
仮設声帯から漏れる声は掠れ、喉の奥がカラカラに渇いていた。
完全肉食の海棲哺乳類にとって、飢餓は知性と体力を急速に削ぎ落とす猛毒だった。
「分かっている。動くな」
ヴィンセントは部屋を出ると、十分と経たずに戻ってきた。
その両手には、宿の厨房から調達してきた深皿と、熱い湯気を上げる鉄鍋が抱えられていた。
部屋の中に満ちたのは――濃厚な、動物性の脂の匂いだった。
牛の肩肉の塊を骨髄とともに長時間煮込み、粗塩と黒胡椒、少量の香草だけで仕立てた、荷役用の濃厚な牛煮込み(シチュー)だった。パンや芋などの穀類は一切除かせ、純粋な肉塊と黄色く透き通る牛脂のスープだけをたっぷりと張らせてある。
「……っ!?」
クラウディアの瞳孔が、獲物を見定めた肉食獣のようにカッと見開かれた。
喉仏が激しく上下し、口内に唾液が溢れ出す。
「食え。純粋な牛の肉と脂だ。穀物は入っていない」
ヴィンセントが鉄鍋を木樽の机の上に置くや否や、クラウディアは飛びついた。
木匙など目もくれず、水かきのある白い手で熱い肉塊を掴み取ると、鋭い八重歯で一気に食いちぎった。
「あむっ……! んぐ、んっ……!」
ジュワリと溢れ出す、熱い肉汁と濃厚な牛脂の甘み。
強酸性の胃袋へ熱い塊が落ちていくたび、チリチリと凍えていた内臓が歓喜の悲鳴を上げ、全身の末梢血管へと急速に熱量が送り届けられていく。
彼女は夢中になって肉を貪り、骨の髄を吸い、両手で鍋を持ち上げて黄金色の熱い牛脂スープを最後の一滴まで飲み干した。
「……ぷはぁぁぁっ……!」
鍋を乱暴に置いたクラウディアは、脂で濡れた唇を舌先でペロリと舐め、大きく息を吐き出した。
その効果は劇的だった。
こけていた頬にみるみるうちに桜色の艶やかな血色が戻り、碧い瞳には爛々とした野生の光が蘇る。肌の表面からは、冷たい潮風の代わりに、生き生きとした体温が立ち上り始めていた。
「……生き返ったぁ……! ふん、陸のサルどもも、この肉の煮込みの腕前だけは認めてやってもいいよ」
満足そうに腹をさすり、八重歯を覗かせて得意げに胸を張るクラウディア。
先ほどまでの衰弱した遭難者の姿はどこにもなく、そこには無類の愛嬌と傲慢さを同居させた、美しい野生の娘の姿があった。
「立ち直りが早くて結構なことだ」
ヴィンセントは手拭いを放り、淡々と算盤を弾くような目で彼女を見下ろした。
「肉の代金は銀貨三枚。これまでの治療費、衣服代、交通費と合わせて、帳簿上の貸付金は銀貨百八十枚に達した。……帝都の買い手に金貨五百枚を満額支払わせねば、完全に採算割れだ」
「相変わらず、可愛げのない計算ばかり! ……で、これからどこへ行くんだよ?」
「中央銀行街だ。帝都の資本が集まる心臓部で、お前の買い手――モルガン商会の代理人と落ち合う」
ヴィンセントは予備のウールマントを彼女の頭から被せ、フードを深く引き下げさせた。
2. 電信線の空と、二人の打算
河港を出た二人は、石畳の広い大通りで辻馬車を拾った。
エルンスト港で乗った幌馬車とは異なり、帝都の辻馬車は黒光りするエナメル塗装と真鍮のランタンで磨き上げられ、車内には清潔な革張りの座席が設えられていた。
パカラン、パカランと二頭の栗毛馬が蹄の音を響かせ、帝都の大動脈である『皇帝大通り』を南へと進む。
クラウディアは窓のカーテンを少しだけ指で押し開き、食い入るように外の景色を眺めていた。
歩道を行き交う、シルクハットにフロックコートを着た紳士たちや、幅広のドレスを着た貴婦人たち。
等間隔に並ぶ緑青色のガス灯の柱。
そして――彼女の視線は、建物の屋根伝いに、果てしなく張り巡らされた無数の『黒い線』へと吸い寄せられた。
「……ねえ、ヴィンセント。あれは何?」
クラウディアが細い指先で窓の外の空を指した。
「屋根の上の柱から柱へ、黒い細い糸がいっぱい伸びてる。……空を切り裂く、巨大な蜘蛛の巣みたいで気味が悪い」
「有線電信線(テレグラフコード)だ」
ヴィンセントは手帳を開いたまま、視線を上げずに答えた。
「銅の線の中に微弱な電流を通し、符号の断続によって文字を伝える。馬車なら一週間、早馬でも三日かかる通信を、あの鉄線はわずか数分で帝都の端から端へ――いや、帝国の全都市へと届かせる」
「……数分で?」
クラウディアは眉をひそめた。
「声も出さないのに? 紙も運ばないのに?」
「そうだ。近代の神は、教会の祭壇ではなく、あの銅線の中を走る電気信号と、銀行の地下金庫に眠る金塊に宿っている」
ヴィンセントは手帳をパタンと閉じ、冷徹な灰色の瞳を彼女に向けた。
「電信によって、遠隔地との相場差が一瞬で消滅し、資本は光の速度で移動する。……私がこの密輸に賭けたのも、その資本の力だ。金貨五百枚があれば、亡父の負債をすべて完済し、商会の横領分を埋め戻した上で、誰の指図も受けない独立した投資家として自立できる」
クラウディアは唇を尖らせ、つまらなそうに鼻を鳴らした。
「ふん。結局お前も、あの紙切れと数字に縛られた囚人じゃないか。海の中にいれば、負債も電信線も何もないのにさ」
「海の中には飢えと凍える潮水しかないだろう」
「自由があるよ!」
クラウディアは即座に言い返した。
「自分のヒレでどこまでも泳げて、好きな時に魚を獲って、誰にも命令されない自由がね。……お前は私を売って自由になるつもりかもしれないけど、私は絶対に、あの冷たい海へ帰ってみせるから」
その言葉には、決して折れない野生の誇りが宿っていた。
だが――そう言い放った直後、クラウディアの身体がビクリと震えた。
「……っ……ん……」
彼女は膝をぎゅっと合わせ、座席の上でもじもじと身をよじった。
馬車の揺れと、向かいに座るヴィンセントの男の体温。
牛脂と肉でエネルギーを満たされたことで、内分泌の活動が一気に活性化し、下腹部の奥深く――閉ざされた生殖スリットの奥で、甘く重い熱が再びズキンと脈打ち始めたのだ。
変態開始から十四日目。
第2期(安定発情期)の終盤。
手記に記されていた、第二十一日の「急性排卵サージ(狂乱ショック)」に向けて、彼女の肉体は確実に、オスの種を求める臨界点へとカウントダウンを進めていた。
(……また、お腹が熱い……。あいつの匂いを嗅ぐと、頭がぼーっとしてくる……)
クラウディアは顔を赤らめ、ヴィンセントから視線を逸らすように窓の外へ顔を向けた。
敵である男の体温に身体が勝手に反応することへの苛立ちと、抗えない生物学的衝動。
ヴィンセントはその紅潮した横顔と、車内に漂い始めた微かな甘い潮の香りに気づいていたが、何も言わずにピストルの撃鉄の感触をコート越しに確かめた。
やがて馬車は速度を落とし、巨大な石造りの列柱が立ち並ぶ『中央銀行街』へと滑り込んだ。
3. モルガン商館の密室、氷の査定人
重厚な花崗岩のファサードに金文字で刻まれた看板――『モルガン・アンド・カンパニー商会 帝都特命支店』。
正面玄関ではなく、ヴィンセントは馬車を裏手の馬車回しに停めさせ、通用口の守衛に暗号の記された羊皮紙を見せた。
守衛は無言で頷き、二人を地下の重厚なオーク材の扉で閉ざされた、防音仕様の秘密応接室へと案内した。
部屋の中には、高価なペルシャ絨毯が敷き詰められ、壁には精密な世界航路図と、ガラスケースに入った珍奇な海洋生物の骨格標本が並んでいた。
暖炉の前、革張りのアームチェアに腰掛けていた一人の男が、ゆったりと立ち上がった。
「……待っていたよ、ヴィンセント・クライン君。エルンスト港からの連絡が途絶えていたので、時化にでも呑まれたかと心配していたところだ」
男の名はユルゲンス。
五十がらみの細身の紳士で、仕立ての良い黒のフロックコートに金の懐中時計鎖を垂らし、片眼鏡(モノクル)の奥から冷酷で知性的な眼光を放っていた。英国系の巨大投資商会モルガン社の特命代理人であり、帝都の王立解剖学会の大口資金源でもある男だ。
「少々、街道で予定外の障害がありましてね。ですが、契約の期日内には間に合わせました」
ヴィンセントは一礼し、背後のクラウディアを手招きした。
「ほう……これが例の『品目コードB-17』かね」
ユルゲンスの目がギラリと細まった。
「フードを取りたまえ」
ヴィンセントが目配せすると、クラウディアは警戒を露わにしながら、ウールマントのフードをゆっくりと跳ね上げた。
「……っ!」
ユルゲンスが小さく息を呑んだ。
部屋のガス灯の光の下に晒されたのは、息を呑むほど整った造形と、夜の北海を思わせる銀青色の髪、そして青真珠色の肌。
「素晴らしい……。ミイラや剥製ではない、正真正銘の生体だ。……肌を見せてもらおう」
ユルゲンスは白手袋をはめ、無造作にクラウディアへと歩み寄った。
そして、値踏みするように彼女の顎を掴み、唇を指で押し広げて歯列を確認した。
「尖鋭な円錐歯……肉食の歯並びだ。喉頭組織の変態も確認できるな。……声を出してみたまえ」
「……さわるな、気色の悪いサル」
クラウディアが低く唸り、鋭い八重歯を剥き出しにして威嚇した。
仮設声帯のハスキーで透明な響きが、密室に美しく反響する。
「驚異的だ! 真に空気伝播用の声帯を形成している!」
ユルゲンスは興奮の色を隠さず、今度は彼女のロングスカートの裾を無作法に捲り上げようとした。
「下肢の分化はどうだ? 骨盤骨と大腿骨の癒合状態を――」
バシィィッ!!
鋭い破裂音が響いた。
クラウディアが水かきのある爪を振るい、ユルゲンスの白手袋の手を容赦なく叩き落としたのだ。
「ふざけるなッ! これ以上触ったら、その薄汚い目を爪で抉り出してやる!!」
クラウディアの碧い瞳が殺意に染まり、全身の毛を逆立てるようにしてユルゲンスを睨みつけた。
だが、ユルゲンスは怒るどころか、薄気味悪い笑みを口元に浮かべた。
「気性が荒いのも結構。……足底の完全な平坦化、趾間膜(水かき)の残存。マウラー手記の記述と完全に一致する。……王立解剖学会の教授連中が狂喜乱舞する姿が目に浮かぶよ」
ユルゲンスは手拭いで手首を払い、値踏みするようにクラウディアの全身を眺め回した。
「二足歩行と発声を司る脳室の変態過程、生殖器の内部構造、そして四十日目の組織崩壊の生化学的解明……。生きたまま頭蓋を開き、各器官を摘出してホルマリン漬けの完全標本に仕上げれば、帝国の博物学界における不滅の金字塔となる」
――生きたまま、頭蓋を開く。
その言葉の冷酷な響きに、クラウディアの全身が凍りついた。
目の前の男は、自分を「生き物」としてすら見ていない。知性も感情も無視し、ただ切り刻んで瓶に詰めるための「肉塊」として見定めているのだ。
海底のおばばの口伝にあった、陸のサルの真の残酷さ。
剥き出しの戦慄が、クラウディアの背筋を駆け抜けた。
「……査定は十分でしょう、ユルゲンス代理人」
冷ややかなヴィンセントの声が、二人の間に割り込んだ。
ヴィンセントはクラウディアの前に立ち塞がり、彼女を自らの背後へと隠した。
「品目コードB-17は契約通りの最高品質の生体です。……約束の金貨五百枚、為替手形の発行手続きに入っていただけますか」
「もちろんだとも、ヴィンセント君」
ユルゲンスは机へ戻り、引き出しから帝国中央銀行の公認為替手形を取り出した。
「納品場所は、帝都北郊外にある王立解剖学会の附属実験棟だ。今夜十時、実験棟の地下搬入口へ彼女を送り届けてくれたまえ。現物の引き渡しと引き換えに、この金貨五百枚の確定裏書手形を君に渡そう」
ペンにインクを浸し、ユルゲンスが手形に署名を走らせようとした――その時だった。
4. 電信速報(テレグラム)の炸裂と、逃走の銃声
コン、コン、コン!
激しいノックとともに、応接室の扉が乱暴に押し開けられた。
飛び込んできたのは、息を切らした商館の若い通信書記だった。
「だ、代理人! 至急電です! 帝都中央電信局から、最優先通信(プライオリティ・テレグラム)が入りました!」
「無作法だぞ。商談中だと言ったはずだ」
ユルゲンスが眉をひそめた。
「ですが……! エルンスト港湾総督府および大聖堂異端審理局の連名による、帝国全土への緊急指名手配電報です! 内容が……!」
書記が差し出した黄色い電信用紙。
ユルゲンスは片眼鏡を直しながら、不機嫌そうにその文面に目を落とした。
その瞬間――ユルゲンスの表情から、一切の笑みが消え失せた。
片眼鏡の奥の瞳が、凍りついたように見開かれる。
「……ヴィンセント・クライン」
ユルゲンスの低く冷え切った声が、部屋の空気を一変させた。
「君は、連合海運商会から銀貨百五十枚を横領した容疑で告発されているそうだな」
「……」
ヴィンセントの眉が、わずかにピクリと動いた。
「それだけではない。エルンスト港の大聖堂が、君を『背教および悪魔崇拝の生体密輸犯』として帝国憲兵隊司令部に告発した。……電信によれば、帝都大聖堂の武装衛兵と憲兵隊が、すでに市内の全検問所と主要商館へ向けて緊急出動している」
有線電信(テレグラフ)。
あの空に張り巡らされた鉄の線が、馬車や川船の速度を遥かに凌駕し、オズワルド司祭の執念の告発状を、一瞬にして帝都の心臓部へと叩きつけたのだ。
「……チッ」
ヴィンセントの奥歯が微かに鳴った。
街道と河川の追跡は完璧に断ち切った。だが、近代の情報網という目に見えない速度までは計算しきれなかった。
「残念だよ、クライン君」
ユルゲンスは手形をデスクの引き出しへ戻し、鍵をかけた。
「モルガン商会は合法的な投資会社だ。教会の異端審理と憲兵隊に追われる重罪人の貨物を買い取り、商会の信用を地に堕とすわけにはいかない」
ユルゲンスは机の横の呼び鈴の紐を強く引いた。
ジリン、ジリン、ジリン! と甲高い警報ベルが館内に鳴り響く。
「衛兵! 部屋を封鎖しろ! 憲兵隊に通報し、この男と化け物を拘束するんだ!」
「動くな!」
応接室の扉が蹴破られ、回転式拳銃(リボルバー)と警棒を手にした二人の私設警備員が雪崩れ込んできた。
「ヴィンセントッ!」
クラウディアが叫んだ。
だが――ヴィンセントの思考は、破滅の淵にあっても冷徹に回転していた。
彼は懐の帳簿を指先で弾き、氷のような声で言い放った。
「ユルゲンス代理人。私の父が破産する直前、貴方の商会が北洋航路の保険金を不正に二重請求していた帳簿の裏控え――その原本が、帝都公証人役場の時限信託(エスクロー)金庫に預託されているのをご存知ですか?」
「な……何だと!?」
ユルゲンスの顔から血の気が引いた。
「私が本日正午までに公証人役場へ生存確認の受領印を押さねば、その帳簿は帝国大蔵省査察部へ自動送達される手はずになっている。……私を憲兵に引き渡せば、モルガン商会も道連れだぞ」
「お、おのれ……金の亡者の小倅が……ッ!」
ユルゲンスが激昂した瞬間――。
「シャアアッ!!」
クラウディアが跳んだ。
彼女は二本の脚で絨毯を強く蹴り、目の前のマホガニーの重い応接テーブルを、驚異的な脚力でユルゲンスと警備員へ向けて蹴り倒した!
ドガァァン!!
テーブルが警備員の一人を押し潰し、書類とインク瓶が宙を舞う。
さらにクラウディアは、壁のガス灯の真鍮パイプを水かきの爪で力任せに引き千切った!
プシューーーッ!!
高圧の生ガスが室内に噴き出し、暖炉の火に引火した。
ボッッ!!
激しい炎と黒煙が部屋を満たし、火災報知器のベルが狂ったように鳴り響く。
「ぐわっ!? 撃て、撃つな、火を消せ!」
混乱する警備員たちの間を縫い、ヴィンセントはクラウディアの腕を強く引いた。
「走れ、クラウディア! 勝手口から裏路地へ抜けるぞ!」
「言われなくても走ってるよッ!」
二人は黒煙渦巻く商館の廊下を駆け抜け、非常階段を蹴破って外へと飛び出した。
バタン! と重い鉄扉が閉ざされた瞬間、外の冷たい秋の雨が二人の顔を打った。
そこは、中央銀行街の裏手に広がる、狭く入り組んだ赤煉瓦の路地裏だった。
遠くの大通りから、けたたましい憲兵隊の馬車の警笛と、教会の衛兵たちの怒号が響いてくる。
空を見上げれば、雨に濡れる無数の電信線が、まるで二人を捕獲するための網のように、暗い空を縦横に切り裂いていた。
「はぁっ……はぁっ……!」
路地の壁に背を預け、クラウディアが肩で息をしながらヴィンセントを睨みつけた。
雨に濡れた銀青色の髪が、頬に張り付いている。
「……買い手はおじゃん、街中が敵だらけ! どうするんだよ、帳簿係! お前の金貨五百枚の計算は、完全に大赤字じゃないか!」
ヴィンセントはコートの雨水を払い、懐中時計を取り出してカチリと蓋を開けた。
午後一時。
変態開始から十四日目の、冷たい雨の午後。
「赤字の取引は、帳尻が合うまで終わらせない主義だ」
ヴィンセントはピストルの撃鉄を静かに戻し、冷笑を浮かべた。
「電信で先回りされたなら、電信の届かない場所へ潜るまでだ。……帝都の地下には、ヴェルナー川と繋がる広大な旧式下水道と、廃水路の迷宮がある」
「地下水路……? 水があるの?」
クラウディアの碧い瞳が、雨の中で怪しく光った。
「ああ。追手を撒くには十分な濁流だ。……行くぞ、クラウディア。ここからが本当の密輸だ」
電信の網が張り巡らされた帝都の闇の中へ、二つの影が雨煙る路地へと駆け出していった。