発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様 作:神座鬼神
1. ガラスケースの魚と、新しい遮光瓶
上陸四十二日目のあの初仕事から、数週間が過ぎた。
海から吹きつける風は依然として冷たく、研究所の窓ガラスをガタガタと鳴らす真冬の日々が続いている。
けれど、部屋の中は違った。
鋳鉄のストーブからはパチパチと薪が爆ぜる快い音が響き、柔らかな熱気が室内を隅々まで満たしている。
部屋の中央にある大きな作業台の端には、埃ひとつなく磨かれたガラスケースが静かに鎮座していた。
中に入っているのは、白く透き通るような骨が完璧な均整を保って組み合わされた、深海魚の完全骨格標本だ。
春の学会のためにテオドールが半年かけて仕上げ、薬代のために手放したあの標本である。老漁師から仕入れた雑魚の干物とサメ皮の売上から、残額の銀貨四枚を無事に支払い、先週ようやく手元へ引き取ってきたのだ。
「……うん、やっぱり実物があると迷わずに書けるよ」
テオドールはケースの横に以前のスケッチを広げ、細い羽ペンで鰭の付け根の微小な突起の角度を書き足していた。
止まっていた研究の続きを、手元の骨と照合しながら嬉しそうに進めている。その穏やかな横顔を、私はマグカップの白湯を啜りながら眺めていた。
作業台の隅には、もう一つ新しいものが置かれている。
青褐色の小さな遮光硝子瓶だ。
湾岸水産試験場のヴァルターへ手紙を出したあと、継続して注文できる価格と、港の定期船を使った受け取りの手順が決まり、代金を支払って届いた二本目のルピス乳剤だった。
「ローナ、服薬の時間だよ」
テオドールがペンを置き、銀の匙に乳白色の液体を一滴落として差し出してくる。
二日おきの、すっかり日常となった習慣。
私は口を開け、匙から舌の上へ苦い一滴を受け止めた。
「……ん、やっぱり苦いわね」
「声も足取りも、何一つ変わっていないよ。順調だね」
テオドールが匙を布で拭きながら微笑む。
四十一日目を越え、五十日、六十日と日が重なっても、私の二本の脚はしっかりと床を踏みしめ、声も元のままだった。身体を繋ぎ止める薬は、生活の確かな一部として定着していた。
2. 日誌の勘定と、いつもの干し棚
テオドールは日誌を開き、ここ数週間の勘定欄に視線を落とした。
「今週の乾物屋からの支払いは、銀貨三枚と銅貨が十二枚。家具職人の親方からも、追加のサメ皮の代金が入っているね」
「おじさんへの取り分はもう渡したの?」
「うん、昨日の朝に寄ってくれたときにね。使った粗塩の代金もちゃんと引いてあるよ」
日誌の紙面には、入ってきた売上と、出ていった支出が几帳面な文字で並んでいる。
老漁師との取引は、無理のない一籠ずつのペースで淡々と続いていた。
薬種商へ払った標本の残金、ヴァルターへ支払ったルピス乳剤の代金、そして日々の塩代とおじさんの取り分。それらをすべて差し引いても、二人の手元には次の生活を支えるための銀貨が、確実に残るようになっていた。
南東の岩場にある干し棚へ魚を運ぶのも、今では二人の決まった仕事だ。
作業が長引いて足の裏がだるくなった日には、玄関に置いてある麻の背負い帯でテオドールに背負ってもらいながら、私たちは無理のない歩幅でこの生活を回していた。
3. 来月の買物メモ
夕暮れ時。
海が群青色に沈み、机の上のランプに黄色い火を灯した。
私は作業台の前に座り、厚手のざらざらした紙の上にペンを走らせていた。
初めてこの部屋へ運ばれた日、人間の文字はただの黒い虫の足跡のようにしか見えなかった。
けれど、夜の食卓でテオドールに少しずつ教わり、今では自分の手で紙の上に言葉を並べることができる。
私が今書いているのは、数日後に町へ出るための「来月の買物メモ」だ。
・羊の厚切り肉(脂の多いところ、二塊)
・豚の塩漬け肉(一塊)
・テオドール用の乾燥豆とお芋(一袋)
・干物用の粗塩(二袋)
・スケッチ用の厚手の紙と黒インク
・ストーブ用の固い薪(半束)
インクを吸わせたペン先を紙から離し、私はふうと息をついた。
少し角ばっているけれど、一文字ずつ丁寧に並んだ自筆の文字を見下ろす。
「ローナ、お茶が入ったよ」
テオドールが湯気の立つカップを二つ運び、私の肩越しに紙を覗き込んだ。
「……ふふ、やっぱり肉の欄が一番長いね」
「当たり前じゃない」
私は胸を張って、テオドールを振り返った。
「春まではまだ風が冷たいんだから、しっかり脂を食べて身体を温めなきゃ駄目よ。寒さに震えながらじゃ、いい仕事もできないんだから」
「ごもっともだね」
「それに、ほら。テオのお芋と豆も、スケッチの紙とインクも、ちゃんと忘れずに書いたでしょう?」
紙の真ん中を指差すと、テオドールは目を細めて嬉しそうに頷いた。
「うん、ありがとう。薬代とおじさんの取り分を取り置いても、このメモの分なら全部ちゃんと買えるよ」
「ふふん、誰が勘定したと思ってるのよ」
私が鼻を鳴らすと、テオドールが声を立てて笑った。
4. 温かい鍋と、続く食卓
ストーブの上で、大小二つの鍋がコトコトと小気味のいい音を立て、湯気を上げていた。
私は書き終えた買物メモをインク壺の脇にそっと置き、椅子を引いて立ち上がった。
魚の骨からとった濃厚な出汁と羊の脂が溶け合う大鍋から、私の分として肉とスープを深皿へ先によそう。その出汁を小鍋に取り分け、お芋と乾燥豆を柔らかく煮崩したのがテオドールの分だ。
湯気の立つ二枚の木の皿を、向かい合わせに机へ並べた。
「テオ、煮えたわよ。冷めないうちに食べましょう」
「うん、いただきます」
向かい合って椅子に腰を下ろし、スプーンを手にする。
熱いスープを一口啜ると、骨の髄から出た濃厚な旨みと塩気が、喉を通って胃袋をじんわりと温めた。続けて肉の塊を口へ運び、噛み締める。閉じ込められていた甘い脂がじゅわりと舌の上に広がり、思わず頬が緩んだ。
向かいの席では、テオドールがふうふうと息を吹きかけながら、熱いお芋を口へ運んでいる。
「どう、美味しい?」
「とても美味しいよ。お芋にも出汁がよく染みている。……明日の朝の分も、まだ鍋に残っているかい?」
「残っているわよ。たっぷり作ったんだから。明日の朝も温め直して、また食べましょう」
「そうだね」
テオドールが嬉しそうに頷くのを見て、私はもう一口、スープをすくって口へ運んだ。