発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様   作:神座鬼神

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第29話:来月の買物メモ(最終話)

1. ガラスケースの魚と、新しい遮光瓶

 

 上陸四十二日目のあの初仕事から、数週間が過ぎた。

 海から吹きつける風は依然として冷たく、研究所の窓ガラスをガタガタと鳴らす真冬の日々が続いている。

 

 けれど、部屋の中は違った。

 鋳鉄のストーブからはパチパチと薪が爆ぜる快い音が響き、柔らかな熱気が室内を隅々まで満たしている。

 

 部屋の中央にある大きな作業台の端には、埃ひとつなく磨かれたガラスケースが静かに鎮座していた。

 中に入っているのは、白く透き通るような骨が完璧な均整を保って組み合わされた、深海魚の完全骨格標本だ。

 

 春の学会のためにテオドールが半年かけて仕上げ、薬代のために手放したあの標本である。老漁師から仕入れた雑魚の干物とサメ皮の売上から、残額の銀貨四枚を無事に支払い、先週ようやく手元へ引き取ってきたのだ。

 

「……うん、やっぱり実物があると迷わずに書けるよ」

 

 テオドールはケースの横に以前のスケッチを広げ、細い羽ペンで鰭の付け根の微小な突起の角度を書き足していた。

 止まっていた研究の続きを、手元の骨と照合しながら嬉しそうに進めている。その穏やかな横顔を、私はマグカップの白湯を啜りながら眺めていた。

 

 作業台の隅には、もう一つ新しいものが置かれている。

 青褐色の小さな遮光硝子瓶だ。

 湾岸水産試験場のヴァルターへ手紙を出したあと、継続して注文できる価格と、港の定期船を使った受け取りの手順が決まり、代金を支払って届いた二本目のルピス乳剤だった。

 

「ローナ、服薬の時間だよ」

 

 テオドールがペンを置き、銀の匙に乳白色の液体を一滴落として差し出してくる。

 二日おきの、すっかり日常となった習慣。

 私は口を開け、匙から舌の上へ苦い一滴を受け止めた。

 

「……ん、やっぱり苦いわね」

 

「声も足取りも、何一つ変わっていないよ。順調だね」

 

 テオドールが匙を布で拭きながら微笑む。

 四十一日目を越え、五十日、六十日と日が重なっても、私の二本の脚はしっかりと床を踏みしめ、声も元のままだった。身体を繋ぎ止める薬は、生活の確かな一部として定着していた。

 

 

2. 日誌の勘定と、いつもの干し棚

 

 テオドールは日誌を開き、ここ数週間の勘定欄に視線を落とした。

 

「今週の乾物屋からの支払いは、銀貨三枚と銅貨が十二枚。家具職人の親方からも、追加のサメ皮の代金が入っているね」

 

「おじさんへの取り分はもう渡したの?」

 

「うん、昨日の朝に寄ってくれたときにね。使った粗塩の代金もちゃんと引いてあるよ」

 

 日誌の紙面には、入ってきた売上と、出ていった支出が几帳面な文字で並んでいる。

 老漁師との取引は、無理のない一籠ずつのペースで淡々と続いていた。

 薬種商へ払った標本の残金、ヴァルターへ支払ったルピス乳剤の代金、そして日々の塩代とおじさんの取り分。それらをすべて差し引いても、二人の手元には次の生活を支えるための銀貨が、確実に残るようになっていた。

 

 南東の岩場にある干し棚へ魚を運ぶのも、今では二人の決まった仕事だ。

 作業が長引いて足の裏がだるくなった日には、玄関に置いてある麻の背負い帯でテオドールに背負ってもらいながら、私たちは無理のない歩幅でこの生活を回していた。

 

 

3. 来月の買物メモ

 

 夕暮れ時。

 海が群青色に沈み、机の上のランプに黄色い火を灯した。

 私は作業台の前に座り、厚手のざらざらした紙の上にペンを走らせていた。

 

 初めてこの部屋へ運ばれた日、人間の文字はただの黒い虫の足跡のようにしか見えなかった。

 けれど、夜の食卓でテオドールに少しずつ教わり、今では自分の手で紙の上に言葉を並べることができる。

 

 私が今書いているのは、数日後に町へ出るための「来月の買物メモ」だ。

 

 ・羊の厚切り肉(脂の多いところ、二塊)

 ・豚の塩漬け肉(一塊)

 ・テオドール用の乾燥豆とお芋(一袋)

 ・干物用の粗塩(二袋)

 ・スケッチ用の厚手の紙と黒インク

 ・ストーブ用の固い薪(半束)

 

 インクを吸わせたペン先を紙から離し、私はふうと息をついた。

 少し角ばっているけれど、一文字ずつ丁寧に並んだ自筆の文字を見下ろす。

 

「ローナ、お茶が入ったよ」

 

 テオドールが湯気の立つカップを二つ運び、私の肩越しに紙を覗き込んだ。

 

「……ふふ、やっぱり肉の欄が一番長いね」

 

「当たり前じゃない」

 

 私は胸を張って、テオドールを振り返った。

 

「春まではまだ風が冷たいんだから、しっかり脂を食べて身体を温めなきゃ駄目よ。寒さに震えながらじゃ、いい仕事もできないんだから」

 

「ごもっともだね」

 

「それに、ほら。テオのお芋と豆も、スケッチの紙とインクも、ちゃんと忘れずに書いたでしょう?」

 

 紙の真ん中を指差すと、テオドールは目を細めて嬉しそうに頷いた。

 

「うん、ありがとう。薬代とおじさんの取り分を取り置いても、このメモの分なら全部ちゃんと買えるよ」

 

「ふふん、誰が勘定したと思ってるのよ」

 

 私が鼻を鳴らすと、テオドールが声を立てて笑った。

 

 

4. 温かい鍋と、続く食卓

 

 ストーブの上で、大小二つの鍋がコトコトと小気味のいい音を立て、湯気を上げていた。

 私は書き終えた買物メモをインク壺の脇にそっと置き、椅子を引いて立ち上がった。

 

 魚の骨からとった濃厚な出汁と羊の脂が溶け合う大鍋から、私の分として肉とスープを深皿へ先によそう。その出汁を小鍋に取り分け、お芋と乾燥豆を柔らかく煮崩したのがテオドールの分だ。

 

 湯気の立つ二枚の木の皿を、向かい合わせに机へ並べた。

 

「テオ、煮えたわよ。冷めないうちに食べましょう」

 

「うん、いただきます」

 

 向かい合って椅子に腰を下ろし、スプーンを手にする。

 熱いスープを一口啜ると、骨の髄から出た濃厚な旨みと塩気が、喉を通って胃袋をじんわりと温めた。続けて肉の塊を口へ運び、噛み締める。閉じ込められていた甘い脂がじゅわりと舌の上に広がり、思わず頬が緩んだ。

 

 向かいの席では、テオドールがふうふうと息を吹きかけながら、熱いお芋を口へ運んでいる。

 

「どう、美味しい?」

 

「とても美味しいよ。お芋にも出汁がよく染みている。……明日の朝の分も、まだ鍋に残っているかい?」

 

「残っているわよ。たっぷり作ったんだから。明日の朝も温め直して、また食べましょう」

 

「そうだね」

 

 テオドールが嬉しそうに頷くのを見て、私はもう一口、スープをすくって口へ運んだ。

 

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