発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様   作:神座鬼神

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第3話:肉汁の給餌と最初の問答

観察日誌:一八四九年十月十八日(収容第7日)

観測場所:沿岸博物学研究所・地下水槽室

観察・記録:主任研究員 アルベルト・マウラー

助手:カール・ヘンペル

被験体:所属未詳水生動物(検体A-01)

環境条件:槽内海水温八・〇度、比重一・〇二五、室温十五度

生体兆候:直腸温三十四・九度(給餌前)、呼吸数毎分十六回、心拍毎分六十八回

 

 

1. 絶食七日目の限界と給餌の準備

 

 午前七時。地下水槽室の冷え切った空気に、微かな獣脂と香味野菜の香りが漂っていた。

 助手カールが両手で抱えて運んできたのは、二重底の湯煎鍋である。中には、牛すね肉の赤身と香味野菜を十時間以上かけて弱火で煮出し、丁寧に余分な油脂を濾過して澄ませた、琥珀色の肉汁が入っていた。

 

「先生、指示通り塩分を微量に調整し、液温を約三十八度に保った肉汁です」

 カールが鍋を器具台の上に置き、息を吐いた。

 

「よろしい」

 マウラーは作業用エプロンを着け、ガラス製のピペットと深型の真鍮製スプーンをトレイに並べた。

「検体A-01の様子は?」

 

「収容以来の絶食は七日目に入っています。直腸温は三十四・九度まで低下。……皮下組織の消耗が見られ、肋骨の輪郭が目立ってきました」

 

「成体の水生哺乳類であれば一定の絶食には耐えうるが、これ以上の飢餓は観察の継続を危うくする。今日中に何らかの栄養を摂取させる必要がある」

 

 マウラーは水槽の観察窓へと歩み寄った。

 水槽のスロープの上で、検体A-01は力なく横たわっていた。

 収容以来の乾燥と海水浸漬によって、あの陶器のようだった白い皮膚はカサつき、額には薄い角質片が浮いていた。折り畳まれた二本の後肢は組織の分離が進み、初日よりも明確に太腿と脛の境界を窺わせていたが、筋力は極度の低体温と飢餓によって衰えきっていた。

 

「首枷を引き揚げろ。スロープの上段に頭部を固定する」

 

「はい」

 カールが滑車を回し、真鍮のチェーンを巻き上げた。

 検体A-01は首枷に引っ張られるまま、力なく頭部を木枠の上に預けた。濃紺の双眸には薄い曇りが生じ、マウラーを見上げる視線にも、数日前のような激しい威嚇の光は失われていた。

 ただ、渇いた唇の隙間から、細く乾いた呼気が微かに漏れるだけである。

 

 

2. 温かい肉汁への反応

 

 鍋の蓋が開くと、人魚の鼻先が動いた。

 それまで曇っていた瞳が、湯気の立つ肉汁を追う。

 

「匂いに反応した」

 マウラーは帳面を開いた。

「生魚を拒んだ時とは違う。まず少量からだ」

 

 カールが唇を湿らせる程度の肉汁を与えた。

 彼女は一度ためらい、それから飲み込んだ。次に顔を上げた時、目には涙がたまっていた。

 

「……あたたかい」

 

 カールの手が止まった。

 人魚は匙と彼の顔を交互に見た。

 

「もっと。それを、ちょうだい」

 

 聞いた単語をなぞっただけではなかった。今そこにある食物を指し、相手に求める言葉だった。

 

「十五ミリリットルずつ。間隔を置いて与えろ」

 マウラーが命じた。

 

 カールは頷き、匙を差し出した。人魚は今度は自分から顔を寄せ、ゆっくり飲んだ。

 一口ごとに肩のこわばりが緩み、青白かった頬へ赤みが戻っていく。

 

 カールは彼女が食べ終わるまで、匙を持つ手を動かさずに待った。

 その横で、マウラーは摂取量を数えていた。

 

 

3. 摂取後の身体反応

 

 計七十五ミリリットルの肉汁を摂取し終えた後、検体A-01はスロープの上に突っ伏し、荒い息を吐きながら全身を微かに震わせていた。

 その表情には、空腹を満たした生物の安堵と、拘束された身で施しを受けたことへの屈託が入り混じっていた。

 

「直腸温の測定。……三十六度三分。一・四度の上昇を確認」

 マウラーは寒暖計を引き抜き、数値を記録した。

 

「すごい……! 温かい肉汁を与えただけで、ここまで急速に体温が回復するなんて!」

 カールが感嘆の声を漏らした。

 

「温かい液体の直接的な熱移動に加え、消化器が活動を始めたことによる熱産生だろう」

 マウラーは淡々と器具を拭った。

 

「先生、これならパンや粥などを与えてもいいのではありませんか? もっと手軽に滋養をつけられますよ」

 

「軽率だな」

 マウラーは冷ややかにカールを一瞥した。

「海棲の完全肉食動物の消化管が、陸上の穀類を消化できる保証はどこにもない。急激に未知の食物を胃袋に詰め込めば、消化不良や激しい下痢を起こしてかえって脱水を招く恐れがある。生魚とこの肉汁では、温度も、匂いも、煮汁としての成分も同時に変わってしまった。何が摂食を促したのかを慎重に見極める必要がある。今後の給餌は、十分に加熱し濾過した動物性の肉汁を中心に慎重に進める」

 

 

4. 構文発話の確立と最初の問答

 

 マウラーが帳面を整理していると、背後から静かな、だが極めて明瞭な声が室内に響いた。

 

「……マウラー」

 

 ペンの先が止まった。

 マウラーがゆっくりと振り返る。

 

 水槽のスロープの上で、検体A-01が濡れた銀緑色の長髪をかき上げ、上半身を起こしていた。

 その濃紺の瞳は、もはや濁っていなかった。深海の水底のように澄み渡り、冷徹な光を湛えてマウラーの眼鏡の奥を射抜いている。

 そして、その口唇から――掠れを含みながらも、整ったドイツ語の文が紡ぎ出された。

 

「……わたしを、いつまで……ここに縛りつけておくつもり?」

 

 カールの息が止まった。

 単語の真似ではない。主語と述語を備えた、完全な問いかけだった。

 

「ひ、先生……! 言葉を……完全に自分の文で話しています!」

「静かにしろ」

 マウラーは立ち上がり、水槽の観察窓の前へと歩み寄った。

 

 小さな観察窓を隔てて、人間と人魚の視線が交錯する。

 人魚は両手首の真鍮の鎖をわずかに持ち上げ、マウラーに向かって言葉を重ねた。

 

「わかるよ。……あなたが、わたしを何だと思っているか。……魚でも、人間でもない……ただの、珍しい肉の塊。……そうでしょう、マウラー?」

 

 その声音には、悲哀も怒りも押し殺されていた。

 ただ、自らの置かれた立場を客観的に認識した者特有の、研ぎ澄まされた静けさがあった。

 

「驚くべき言語の習得速度だな」

 マウラーは一切の感情を交えず、淡々と応じた。

「音の反復にとどまらず、文を組み立てて自らの意志を伝達する段階に達したか。外部の音声を拾い上げて自らの発声へと変換する能力は、極めて優れている」

 

「……質問に、答えて」

 人魚が、冷たくマウラーを見据えた。

「わたしを、殺すの? それとも……海へ帰すの?」

 

 マウラーは懐中時計を取り出し、時間を確認した。

 そして、氷のような灰色の双眸で、人魚の顔を見下ろした。

 

「どちらでもない」

 マウラーは事務的な調子で告げた。

 

「殺すつもりはない。だが海へ帰すこともない。君の肉体に起きたこの奇妙な変化が、この先いかなる経過を辿るのか――歩行ができるようになるのか、声はどう変わるのか、そしてどのような結末に至るのか。それをこの実験室で見届け、記録し尽くす。それが君をここに留め置く理由だ」

 

 人魚の瞳が、わずかに揺れた。

 唇を強く噛み締めた彼女の口端から、一筋の血が滲んだ。

 

「……悪魔」

 低く、呪詛のような囁きが漏れた。

 

「悪魔ではない。私は比較解剖学者だ」

 マウラーは静かに帳面を閉じ、ペンを収めた。

 

「カール、今日の記録を締めろ。一八四九年十月十八日午前八時。

 検体A-01において、濾過肉汁の摂取成功、および明確な構文発話の成立を確認」

 

 マウラーは助手に背を向け、出口の扉へと歩き出した。

 

「明日以降は、二肢の支持力と動作の観察を進める。歩行試験の準備を整えておけ」

 

 扉が閉ざされ、地下水槽室に冷たい海水の水音だけが戻った。

 水槽の中で、自分の言葉で訴えた人魚は、閉ざされた扉から目を離さなかった。

 

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