発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様 作:神座鬼神
観察日誌:一八四九年十月二十二日(収容第11日)
観測場所:沿岸博物学研究所・地下測定室
観察・記録:主任研究員 アルベルト・マウラー
助手:カール・ヘンペル
被験体:所属未詳水生動物(検体A-01)
生体兆候:直腸温三十六度六分、体重五十六・二キログラム、脈拍毎分七十二回
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1. 肉体の変化と歩行試験装置
地下測定室の床には、歩行の軌跡を観察・計測するための白木板が十メートルにわたって敷き詰められていた。
天井からは滑車と重りを備えた革製の吊り下げハーネスが吊るされ、被験体の体重の一部を吊り上げて負荷を軽減できるよう調整されている。
水槽から引き揚げられ、濡れた厚手の布を腰に巻かれた検体A-01は、車椅子の上に腰掛けていた。
収容第十一日。
肉汁による定時給餌が功を奏し、削げていた頬には肉が戻り、青白かった肌にも一定の張りが戻っていた。銀緑色の長髪は乾くと微かな波を打ち、肩を覆っている。
だが、その腰から下――二本に分かれた脚は、人間のそれとは明らかに異なる筋緊張を保っていた。
「両脚の分離面における組織の癒合と上皮化を確認。搬入初日には関節の嵌まりが緩く立つことすら不能と判断したが、深部の骨と筋肉の支持力は明らかに増している。……カール、吊り下げハーネスを装着しろ。体重の七割を吊り上げて補助した状態から、直立および歩行動作の観察を行う」
マウラーはノギスと巻尺を手に持ち、淡々と命じた。
「先生……本当に歩かせるのですか?」
カールが検体A-01の脇下に革ベルトを通しながら、小声で尋ねた。
「彼女の脚、筋肉の付き方が人間とはまるで違います。いくら傷が塞がったとはいえ、本当に重力に逆らって歩けるのでしょうか……」
「海に棲むものが陸上でしか機能しない脚を形成したのだ。移動に用いられると考えるのが自然だ。ただし、どの程度の重さを支え、何歩進めるかは、推測ではなく実測によってしか確かめられん」
マウラーは検体A-01の前に立った。
「ハーネスを接続しろ。補助七割、本人の負担三割から開始する」
車椅子から抱き起こされた検体A-01は、天井からの革ベルトに支えられながら、白木板の上に両足の裏を降ろした。
「……っ」
足底が板の冷たさに触れた瞬間、彼女の背筋がピンと強張った。
二本に分かれた脚。
太腿からふくらはぎにかけての筋肉は、海中を泳ぐための強靭な肉の塊である。足首から先には人間の直立歩行を支える土踏まずが存在せず、平らな足裏の指間には薄い水かきの痕跡が残っていた。
「吊り上げの補助を徐々に減らす。補助五割……補助三割……」
マウラーが重りの目盛りを読み上げ、彼女自身の脚にかかる重みを増やしていった。
「あ……っ、く……!」
検体A-01の膝が、小刻みに震え始めた。
自らの体重が、容赦なく二本の脚にのしかかる。
「前へ一歩踏み出せ、検体A-01」
マウラーが冷徹に命じる。
人魚は唇を強く噛み締め、右足を前に出そうとした。
足首が不自然に外側へ傾きかけ、上半身が揺らぐ。革ベルトが軋む。
しかし――。
「……っ、ふ……うぅぅっ……!」
彼女は倒れなかった。
強い大腿の筋肉と体幹を使い、足の指で白木板をぎゅっと掴むようにして踏みとどまったのだ。
そして、重心を左右に小刻みに揺らしながら――ペタッ、ペタッと、小さな歩幅で右足、左足を交互に前へと繰り出した。
「歩いた……! 先生、歩いています!」
カールが驚きの声を上げた。
人間のような大股で流れるような足取りではない。
土踏まずがないため、平らな足裏を擦るようにして、左右に身体を揺らしながら進む独特のぎこちない歩行。
だが、それは紛れもなく、自らの筋肉で重力を支えた二足歩行だった。
「補助を完全に解除しろ。自力で立たせる」
「えっ、完全にですか!?」
「外せ」
カチリ、と背中の留め具が外された。
完全に自身の脚のみで板の上に立った人魚は、ふらつきながらも両手を広げてバランスを取り、そのまま四歩前進し――白木板の中央で、ピタリと自力で立ち止まってみせた。
肩で荒い息を吐きながら、人魚はマウラーを振り返った。
その額には汗が浮かんでいたが、濃紺の瞳には、冷酷な観察者に対して自らの適応力を証明してみせた誇らしさと、鋭い反抗の光が宿っていた。
「……どう、マウラー。……歩いて、みせたわよ」
掠れたハスキーな声が、室内に響いた。
「自力での直立、および連続歩行を確認」
マウラーは一切の感情を交えず、淡々と帳面に数値を書き留めた。
「歩幅は約三十五センチメートル。補助を減らしながら四歩、解除後に四歩、計八歩。土踏まずを欠くため大股での速歩や長距離の移動には適さないが、平坦な陸上において自立移動を行うには十分な運動能力だ。搬入初日の『起立不能』という観察をここで訂正する。……カール、車椅子へ戻せ。休息させる」
2. 姿見鏡と自己の姿への言及
続いて、マウラーは部屋の隅に置かれていた大型の姿見鏡を検体A-01の前へと移動させた。
表面を覆っていた灰色の布が取り払われる。
「――っ!?」
鏡の前に据えられた検体A-01の全身が、ビクリと硬直した。
そこには、銀緑色の髪を肩に垂らし、陶器のように白い肌を持ち、二本に分かれた脚を投げ出して車椅子に座る、一人の「女」の姿が鮮明に映し出されていた。
人魚は、鏡の中の像を凝視した。
敵と誤認して牙を剥くことも、鏡の裏を覗き込もうとすることもしなかった。
彼女はゆっくりと自らの右手を持ち上げた。
その指先は、鏡のガラスに向かうのではなく――**自らの額**へと伸び、濡れた銀緑色の髪を掻き上げ、首筋の拘束痕をそっと撫でた。
それから、二本に分かれた脚の皮膚に手を伸ばし、自らの指でその感触を確かめ、再び鏡の中の像を見つめ直した。
「自らの外観を注視し、身体の各部を手で確かめる動作を確認。鏡像を他個体と混同せず、自己の投影像として正しく認識している」
マウラーは帳面に筆を滑らせた。
「わたし……」
人魚の唇が、震えた。
彼女は鏡の中の自分の姿を、まるで自らの陸上の形態を初めて客観的に目の当たりにしたかのように、じっと見つめ続けていた。
暗い海の中では、自らの全体像をこうして見ることはなかったのだろう。
鏡の中に映っていたのは、人間女性に酷似しながらも、どこか人ならざる凄絶な気配を湛えた姿だった。
銀緑色の長髪、青白い素肌、細い鎖骨、そして愁いを帯びた濃紺の瞳。
古来より船乗りたちが魂を奪われ、歌声に狂って海へ身を投げたという、伝説の姿そのものだった。
「……マウラー」
人魚は鏡から視線を外し、車椅子の横に立つ生物学者を見上げた。
その声音には、冷たい皮肉と挑発が混ざり合っていた。
「……あなたには、これが見えているの? 陸の男たちが命を投げ出して焦がれるという……わたしたちの姿が」
マウラーはペンを走らせる手を止め、眼鏡の奥の冷淡な双眸で、人魚の姿を一瞥した。
「見えているとも」
マウラーの声には、色香に惑わされる気配など微塵もなかった。
「皮膚の白さ、顔立ちの均整、身体の曲線。……陸上の人間を惹きつけるための形態的特徴として、極めて興味深い。もしこれが他者を誘引するための適応であるならば、合理的と言えるな」
「合理的……」
人魚の瞳が、屈辱に細められた。
自分の問いも、拘束された姿も、この男にはただの「合理的な形」なのだ。人魚は鏡の中の首枷を見つめ、唇を引き結んだ。
3. 燻る熱感と観察間隔の短縮
「……マウラー」
人魚が低く呟いた。
「あなたには、心がないのね。血の代わりに、冷たい海水でも流れているんじゃないかしら」
「感情で自然を観察すれば、客観性が濁る。無駄なノイズだ」
マウラーの表情には、怒りも動揺も浮かばなかった。
「君が私をどれほど憎悪しようと、君の骨格は変化せず、君の身体は自然の法則に従って作用し続ける。私の心など、この調査において最も無価値な変数だ」
人魚は額に手を当て、疲れたように目を閉じた。
「また、熱い……」
「どうした。痛みか?」
マウラーが目を細める。
「身体の奥が、ずっと熱いの。水に入っても、消えない」
答えた額には汗が浮いていた。人魚は肩に掛けられた布を握り直した。
「体温測定。皮膚温三十七度一分。発汗あり」
マウラーは帳面に素早くメモを取った。
「下腹部の熱感と過敏さは、搬入当初から継続して観察されているな。歩行が可能になり、体力が戻った現在も、この局所的な興奮は鎮静していない」
マウラーは淡々と懐中時計を確かめた。
「先生、この熱や興奮は、この先どうなるのでしょうか」
カールが心配そうに尋ねた。
「分からん。自然に収まるのか、あるいはさらに激化するのか、前例がない以上は推測にすぎん。だが――」
マウラーは人魚の荒い呼吸を凝視した。
「ここ数日、発汗と不眠の傾向が強まり、夜間に落ち着きを失う頻度が増している。この変化がどのような経過を辿るのか、注意深く見届ける必要がある。明日から監視の間隔を短縮し、日誌の記録回数を増やせ」
「承知いたしました」
車椅子が水槽室へと押し戻されていく。
人魚は振り返り、冷たい測定室の真ん中に立つマウラーを、恐怖と憎悪の籠もった瞳で見つめ続けていた。
マウラーはこの先の経過を知らないまま、観察の記録だけをさらに細かく刻もうとしていた。