発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様 作:神座鬼神
1. 雨水枡の闇と、暗視の先導
――ピピピピピィィッ……!!
けたたましい真鍮の警笛が、冷たい秋雨に煙る帝都の裏路地に反響していた。
大通りを疾走する二頭立ての憲兵隊馬車。車輪が石畳の水たまりを跳ね上げ、鉄張りの長靴で駆け抜ける武装衛兵たちの怒号が、すぐ一区画先まで迫っている。
頭上を見上げれば、雨に濡れる無数の有線電信線が、蜘蛛の巣のように黒く空を切り裂いていた。オズワルド司祭の打電した指名手配電報は、すでに帝都中の詰所と検問所へ行き渡り、地上の脱出路は完全に遮断されていた。
「こっちだ、急げ!」
ヴィンセントはクラウディアの手首を掴み、赤煉瓦のゴミ捨て場と倉庫の隙間に挟まれた、袋小路の奥へと身を滑り込ませた。
二人の服は、先ほどのモルガン商館での騒乱で煤煙と雨水に塗れていた。
「ヴィンセント! 行き止まりだよ! あいつら、すぐそこまで来てる!」
クラウディアが雨に濡れた銀青色の髪を払い、尖った八重歯を剥き出しにして小声で叫んだ。
路地の出口を、ランタンの黄色い光芒が横切っていく。
「声のトーンを落とせ」
ヴィンセントは膝をつき、ゴミの山の下に埋もれていた四角い鋳鉄の格子蓋――旧式の雨水枡(マンホール)を指先で探り当てた。
泥と錆で固着した鉄蓋の隙間に、懐から引き抜いた小型ピストルの頑丈な銃身をテコのように差し込む。
「ふん……っ!」
全体重をかけて押し下げると、ガギィッ! と重い金属の軋み音が鳴り、錆びついた鉄蓋がわずかに持ち上がった。
隙間から、冷たく饐(す)えた泥水と、腐敗した有機物の混じる地下の臭気が吹き上がってくる。
「持ち上げろ、クラウディア!」
「……っ、ふんっ!」
クラウディアが水かきのある指を鉄格子の隙間に引っ掛け、驚異的な腕力で一気に引き上げた。
ガチャン、と鈍い音を立てて蓋が外れ、垂直に落ち込む暗黒の竪穴が口を開けた。壁面には、泥に塗れた鉄の足掛けが下へと伸びている。
「入れ! 足を滑らせるな!」
「わ、わかってるよ!」
クラウディアはロングスカートの裾をたくし上げ、土踏まずのない平らな足底を鉄の足掛けに慎重に乗せながら、闇の中へと降りていった。
ヴィンセントも即座に後に続き、頭上の鉄蓋を内側から引き戻して元の位置へと嵌め込んだ。
ガタン。
鉄蓋が閉ざされた瞬間、地上の冷たい雨音と警笛の響きが、遠く籠もった音へと遠ざかった。
そして――完全な暗黒が、二人を呑み込んだ。
カチ、カチとヴィンセントが外套の内ポケットを探る。
だが、手持ちのマッチ箱は先ほどの雨で湿り、何本擦っても小さな煙を吹くだけで火は灯らなかった。
仮に火がついたとしても、下水道の暗渠でランタンを掲げれば、通気孔から漏れる光で追手に位置を教える標的になるだけだった。
「……くそ、何も見えん」
ヴィンセントは湿ったレンガの壁に手をつき、足を止めた。
足元からは、ドス黒い水流がごうごうと流れる重い音が響いている。一歩足を踏み外せば、どこまで深い濁流へと滑落するか判別がつかない。
「……おい、サル。足が止まってるぞ」
暗闇の奥から、クラウディアの呆れたような声が届いた。
「見えないんだ。この暗渠は古い。足場のキャットウォークがどこで崩落しているか分からん」
「はぁ? 足元にレンガの縁が続いてるじゃないか。……あんな薄暗い海の中で暮らしたこともないのかよ」
ギュッ、と冷たく細い手が、ヴィンセントの濡れた手首を掴んだ。
クラウディアの手だった。
彼女の網膜には、深海の微光環境に適応した高密度の桿体細胞が密集していた。人間には一寸先も見えない完全な暗黒の中でも、わずかな明暗の差と輪郭を鋭敏に捉え、濡れたレンガの継ぎ目や、足元の水面の揺らぎを鮮明に見分けていた。
「捕まりたいのか? ぐずぐずしないで、私の後ろをついてきな!」
クラウディアはヴィンセントの手を強く引き、迷いのない足取りで暗闇の中を一歩踏み出した。
2. 汚水と冷気、破綻した算盤
ジャバ……ジャバ……。
足首から膝下までを浸す、冷たい泥水の感触。
帝都の地下深くに穿たれた、赤煉瓦造りの巨大な旧式暗渠(クローアカ)。
頭上数ヤードの厚い天井からは、地上の馬車の地鳴りがかすかに響いている。
空気は重く冷え切り、石炭の粉塵と産業廃水、そして家庭の汚水が混ざり合った饐えたガスが充満していた。
ゴホッ、ケホッ……!
ヴィンセントとクラウディアの口から、同時に小さく咳き込む音が漏れた。
人魚といえども、彼女は鰓呼吸でも皮膚呼吸でもない。海棲哺乳類として肺で呼吸する生き物だ。濃密な下水道ガスと湿気は、人間のヴィンセントと同じように、彼女の呼吸器官にとっても激しい刺激物だった。
「……っ、息が、苦しい……。喉がヒリヒリするよ」
クラウディアは片手で口元を押さえ、眉をひそめた。
「有毒なメタンや硫化水素が溜まっている区画がある。できるだけ姿勢を低くして、外套の布越しに息を吸え」
ヴィンセントは手拭いを水で濡らし、彼女の口元へ押し当てさせた。
だが、呼吸の苦しさ以上に過酷だったのは、足元の悪さだった。
水底には滑りやすいヘドロと瓦礫が堆積している。
土踏まずのない平らな足底のクラウディアにとって、水流の抵抗を受けながら泥の上を踏ん張ることは極めて難しかった。
二肢の筋肉はまだ陸上の重力と足場の悪さに完全に適応しておらず、水かきを収めた改造ブーツの中で、足指が小刻みに悲鳴を上げていた。
「……きゃっ……!?」
クラウディアの足先が泥に滑り、身体が大きくバランスを崩した。
ザシュッ!
濁流へと転落しかけた彼女の華奢な肩を、ヴィンセントの両腕が間一髪で抱き止めた。
「無茶をするな。水深が深くなれば流されるぞ」
「……っ、わ、分かってるよ……!」
クラウディアはヴィンセントの濡れたウールコートに爪を立て、必死に姿勢を立て直した。
転倒の恐怖に心臓が早鐘を打つ。
もしこの深い濁流に流されれば、今の二本の脚では尾ひれのような推進力など欠片もない。水中の浮力で流木や崩れた鉄杭に叩きつけられ、骨を砕かれて溺死するのが関の山だった。
だが――立ち直ろうと男の胸板に身を預けた瞬間。
クラウディアの身体が、ビクンと小さく痙攣した。
「……んっ……あ……っ」
濡れそぼった外套越しに、男の生きた体温が直接皮膚へ染み込んでくる。
冷たい汚水に浸かり、全身の皮膚が凍えそうになっているにもかかわらず――。
その接触の瞬間、彼女の下腹部――閉ざされた生殖スリットの奥深くで、あの甘く重い熱が、ズキンと激しく疼き跳ねたのだ。
変態開始から十四日目の夜。
第2期の終盤。
迫り来る第二十一日の極大発情(排卵サージ)を前に、肉体はオスの存在に対して限界まで知覚を過敏に研ぎ澄ませていた。
極限の逃亡ストレスと冷気。それに対する反動のように、男の体温、首筋の匂い、心臓の鼓動が、抗いがたい繁殖衝動となって彼女の内分泌を激しく刺激する。
(……冷たい水の中にいるのに……なんで、こんなにお腹が熱いんだよ……っ!)
クラウディアは奥歯をギリリと噛み締め、ヴィンセントの胸元から強引に顔を背けた。
男の温もりを求めて縋り付きそうになる野生の身体を、自らの爪を手のひらに食い込ませることで無理やりねじ伏せる。
「……立てるか」
ヴィンセントの低い声が落ちてきた。
彼もまた、腕の中の娘の身体が異常な熱を帯びて小刻みに震えているのを感じ取っていたが、表情を硬く引き締めたまま、彼女の腰を支えて歩調を合わせた。
「……立てるよ。触るな」
クラウディアは掠れた声で毒づいた。
そして、暗闇の中で濁流を踏みしめながら、悔しさを紛らわせるように口を開いた。
「……おい、帳簿係」
「なんだ」
「金貨五百枚はどうなった? あの大商人サマの、完璧な計算とやらはどこへ消えたんだよ」
挑発するような、けれどどこか自嘲の混じった問い。
「……だいたい、なんで私を連れて逃げてるんだよ。あの商館で私を突き出して一人で路地へ逃げれば、こんな泥水をすする羽目にならなかったんじゃないのか」
暗闇の中、ヴィンセントは短く息を吐いた。
その声には、エルンスト港にいた頃の尊大な冷徹さは微塵もなかった。
あるのは、泥水をすするリアリストの、乾ききった現実認識だけだった。
「……全損だ」
「へえ?」
「買い手であるモルガン商会は裏切り、商会への横領は告発され、帝都全土に手配書が回った。……私の手元に残っているのは、ポケットの中の銀貨数枚と、装填数二発のピストルだけだ。帳簿上の純資産は完全なマイナス。……私は破産したよ」
淡々と、自らの破滅を数字のように告げるヴィンセント。
そして、彼は冷たい暗渠の壁に視線を向け、言葉を継いだ。
「それに、お前を置いて一人で逃げるなど、最悪の悪手だ。電信の手配書には私の名が主犯として刻まれている。お前を差し出したところで、オズワルド司祭が追跡をやめるはずがない」
「あの灰の匂いの司祭……そこまでお前を恨んでるのかよ」
「私個人の恨みだけではない。あの男にとって、この一件は人生のすべてを賭けた聖戦だ」
ヴィンセントの声は低く、冷徹に敵の急所を分析していた。
「蒸気と資本が支配するこの近代において、教会の権威は地に堕ち、異端審理局は商人の金と契約書に頭を押さえつけられている。……だが、もし『港の奥に潜んでいた海の悪魔を生け捕りにし、強欲な密輸商人どもを自らの手で裁いた』となればどうなる? 失墜した異端審理局の権力は一気に頂座へ返り咲き、神の法が再び俗世を支配する。奴は何としても自らの手で私たちを火刑台へ送り、手柄を握らねばならないのだ」
「……狂ったサルだね。どいつもこいつも」
クラウディアが忌々しそうに吐き捨てた。
「狂っているからこそ、容赦がない。……そして現実として、お前の暗視と爪がなければ、私はあの商館で即座に射殺され、この暗渠でも最初の一歩で首の骨を折っていた。お前を捨てることは、自ら目を潰して銃を捨てるのと同義だ」
ヴィンセントは暗闇の中でクラウディアの横顔を見据えた。
「何より――貸借対照表の帳尻を合わせず、借りを抱えたまま無様に夜逃げするなど、破産して獄死した私の無能な父親と同じだ。私はまだ、自分の命まで差し押さえられる気はない」
その声音の奥に、凍てつくような硬い鋼の意志が宿っていた。
「この暗渠の先は、ヴェルナー川の本流へと繋がる帝都外郭の旧運河だ。そこへ出れば、川を下って外海へ抜ける小舟も手に入る。……帝都の包囲網を脱出し、生き延びる。それだけが、私の帳簿に残された唯一の損益分岐点だ」
「……ふん」
クラウディアは口元を緩めた。
「最初からそう言えばいいんだよ。小難しい紙切れの計算なんかより、ずっと分かりやすいじゃないか」
商人としての虚勢を脱ぎ捨てた男と、生き残るために爪を研ぐ人魚。
二人の足音は、濁流を蹴立てて暗渠の奥へと加速していった。
3. 水門の検問と、暗渠の強行突破
どれほど泥水の中を歩いただろうか。
やがて、アーチ型の天井が広がり、前方の暗闇の奥に、ゆらゆらと揺れる黄色いカンテラの光が見えてきた。
「……止まれ」
クラウディアがヴィンセントの腕を引っ張った。
彼女の暗視が、百ヤード前方の光景を正確に捉えていた。
「光がある。……鉄の格子が下りてて、人間が三人いる」
ヴィンセントは壁の窪みに身を潜め、目を凝らした。
そこは、暗渠の濁流がヴェルナー川へと吐き出される直前の主要水門――『第十二排水吐口』だった。
分厚い樫の木と鉄骨で組まれた巨大な落とし格子が水路を完全に塞ぎ、その手前の石造りの足場に、カービン銃を抱えた帝都下水道警備隊の男二人と、胸に銀十字を下げた教区の武装衛兵が一人、カンテラを掲げて陣取っていた。
「チッ……こんな地下の排水門にまで先回りしているのか」
ヴィンセントは奥歯を噛み締めた。
有線電信の速度は、下水道の出口すら網羅していたのだ。
「どうするの? あの格子、太い鉄でできてて私の爪じゃびくともしないよ。……引き返す?」
「引き返せば、背後から捜索隊に挟み撃ちだ。退路はない」
ヴィンセントは冷徹な目で、光に照らされた水門の周囲の構造を観察した。
港湾で保税倉庫や水門設備を検品してきた彼の知識が、レンガ壁の陰に隠された一つの機械仕掛けを捉えた。
「……あそこを見ろ、クラウディア。右側のレンガ壁、水面から五フィートほどの位置に、鉄の歯車と大きなレバーがあるはずだ」
「レバー……? あ、ある! 錆びた鉄の棒が壁から生えてる!」
「水圧式土砂排出バイパス(フラッシュ・ゲート)の操作レバーだ」
ヴィンセントは囁いた。
「大雨の際、格子にゴミが詰まって下水道が逆流するのを防ぐため、水圧を利用して側面のバイパス水路を一気に開放する緊急弁だ。あのレバーを引き落とせば、格子の横にある迂回扉が開き、溜まっていた水が一気に噴出する」
「でも、あのレバーの根元に、太い鉄のピンが刺さってるよ。鎖で巻かれてて動かないみたい」
「誤作動防止の割りピンだ。……クラウディア、お前の爪なら、あの錆びたピンを叩き折れるか?」
クラウディアは口元に獰猛な笑みを浮かべ、水かきのある爪をギラリと擦り合わせた。
「馬鹿にしないで。あんな腐りかけた鉄の棒、一撃でへし折ってやるよ」
「よし。私が囮になって奴らの視線を引きつける。お前は暗闇の中を壁伝いに忍び寄り、レバーを落とせ」
「了解!」
ヴィンセントは深呼吸し、懐の小型ピストルを握りしめると、水しぶきをわざと激しく立てて濁流の中へ歩み出た。
「誰だッ!?」
水門の警備兵が叫び、カンテラの光が一斉にヴィンセントを捉えた。
「動くな! 両手を上げろ!」
衛兵がカービン銃の撃鉄を起こし、銃口を向ける。
「……撃つな! 私は迷い込んだただの保税倉庫の事務員だ!」
ヴィンセントは両手を広げ、怯えたように声を震わせてみせた。
「事務員だと? 馬鹿を言え、手配書のヴィンセント・クラインだな! 悪魔の女はどこだ!」
衛兵たちが色めき立ち、足場から身を乗り出して銃口を向けた。
その瞬間――。
衛兵たちの意識が完全にヴィンセントへ集中した背後の暗闇から、一つの影が疾風のように跳躍した。
クラウディアだった。
彼女はレンガ壁の突起を足場に駆け上がり、レバーの基部へと飛びついた。
そして、水かきのついた両手で鉄の割りピンを掴むと、全身の背筋と握力を爆発させた!
「ふんぬらばぁぁぁッ!!」
バキィィィンッ!!
乾いた金属の破壊音が、暗渠の天井に木霊した。
長年の湿気で腐食していた鉄のピンが、人魚の凶悪な力によって真っ二つにへし折られたのだ。
「な、何だ!?」
衛兵が振り返った時には、クラウディアは全体重をかけて巨大な鉄レバーにぶら下がっていた。
ギギギギ……ガタンッ!!
ドォォォォォォンッ!!
凄まじい地鳴りとともに、水門側面のバイパス鉄扉が勢いよく跳ね上がった。
暗渠内に堰き止められていた何十トンもの濁流が、轟音を立ててバイパス水路へと一気に雪崩れ込んだ!
「うわぁぁぁっ!?」
鉄砲水のような激流が足場を洗い流し、警備兵三人は足元をすくわれてカンテラごと濁流へと呑み込まれた。
カンテラの火がジュッと音を立てて消え、水門一帯は再び完全な暗闇へと包まれる。
「今だ、走れッ!」
ヴィンセントが叫び、開いたバイパス水門の狭い縁へと飛びついた。
クラウディアもレバーから飛び降り、濁流の縁を小股で必死に駆け抜けた。
二人は暗渠の濁流を背に、轟音を立てて開いた闇の裂け目へと飛び込んでいった。
4. 夜明け前の廃船溜まり、逃亡の航路へ
冷たい風が、二人の濡れた顔を激しく叩いた。
ドサリ。
泥だらけの岸辺に這い上がった二人は、肩で激しく息を乱しながら、濡れた地面に崩れ落ちた。
そこは、暗渠の吐口の先――帝都下町の外郭、古い石炭工場と皮革鞣し工場に挟まれた『旧運河の船溜まり』だった。
雨はいつの間にか上がり、東の空が鈍い群青色から薄っすらと白み始めていた。
運河の水面には、打ち捨てられた木造の平底ボートや石炭運搬用の廃船が、朝靄の中に無言で浮かんでいる。
「……ゲホッ、ハァ……ハァッ……!」
ヴィンセントは冷たい泥壁に背を預け、震える手で濡れた外套の襟をかき合わせた。
暗渠の冷水に長時間浸かっていたせいで、体温が急速に奪われ、唇は紫色に変色し、歯の根が合わないほど激しくガチガチと鳴っていた。極度の低体温症の兆候だった。
その隣で、クラウディアもまた、泥まみれのスカートを抱え込んで座り込んでいた。
海棲皮膚の彼女にとって冷水そのものは耐えうるものだったが、濁流の抵抗を受け続けた二本の脚は限界に達し、膝が頼りなく震えていた。
さらに、激しい運動によるエネルギー消費が、胃袋を内側から焼き焦がすような飢餓感を呼び起こしていた。
「……おい、ヴィンセント。大丈夫かよ」
クラウディアが覗き込んだ。
「……問題、ない……」
ヴィンセントは震える指先で、濡れそぼったコートの内ポケットを探った。
取り出されたのは、革の財布に入っていたわずか数枚の銀貨と、ずっしりと重い二連発ピストル。
大聖堂やモルガン商会を屈服させるような都合の良い切り札など、どこにもない。
あるのは、泥にまみれた身体と、冷たい銃と、目の前に広がる川だけだった。
「……ふっ、大赤字だな」
ヴィンセントの紫の唇から、自嘲の笑みが漏れた。
「父の負債も、商会の金も、何一つ清算できなかった。……残ったのは、帝国中の警察から追われる、ただの賞金首の身一つだ」
「何言ってんだよ」
クラウディアは泥のついた顔を拭い、八重歯を覗かせて不敵に笑った。
「生きてるじゃないか。あの鉄の槍からも、犬からも、電信線とやらからも逃げ延びたんだ。……私の群れじゃ、生き残った奴が一番強いんだよ」
クラウディアは立ち上がり、運河の先を見つめた。
その碧い瞳に、朝霧を切り裂く微かな川風が吹き抜ける。
運河の先には、雄大なヴェルナー川の本流が広がっていた。
帝都を貫き、北の海へと注ぐ大動脈。
「見ろよ、ヴィンセント。あのボート……櫂(オール)がついてる」
クラウディアが指差したのは、船溜まりの杭に繋がれた、小さな無人の平底小舟だった。
「川を下れば……海へ出られるんだろ?」
ヴィンセントはゆっくりと顔を上げた。
灰色の瞳に、冷たい算盤の光が再び宿る。
「……ヴェルナー川の川幅は、帝都を下ればさらに広がる。流れに乗って二日漕ぎ下れば、河口の干潟と北海の外海へ出る。……帝都の包囲網も、川の真ん中までは届かない」
「決まりだね」
クラウディアはヴィンセントに手を差し伸べた。
水かきのある、泥に汚れた白い手。
「行こう、帳簿係。私の海まで連れてってやるよ。……海の中なら、誰もその小難しい紙切れを奪いに来やしないし、数字なんてなくても腹いっぱい魚が食えるんだからさ」
ヴィンセントはその手を掴み、力を込めて立ち上がった。
もはやそこに、商人(監視者)と商品(囚人)の境界はなかった。
冷たい近代の軛(くびき)から逃れ、自らの足と意志で未来を掴み取ろうとする、二人の共犯者たちの姿があった。
薄明かりの運河へ向け、小舟の舫い綱が静かに解かれた。