発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様   作:神座鬼神

36 / 36
第11話:潮騒の受胎と、敗北者の帳簿

1. 河口デルタの廃番屋、二十一日目の熱波

 

 ――ザザァァン……、ザザァァン……。

 重く冷たい北海の白波が、果てしない泥の干潟を洗っていた。

 

 帝都の暗渠を抜け、無人の平底小舟でヴェルナー川の濁流を下ること六日。

 変態開始から二十一日目――一八五三年十月二十三日の夜。

 川幅が数マイルに広がり、泥水が完全に冷たい海水のうねりへと溶け合う、ヴェルナー川河口の広大な感潮デルタ地帯。二人は、引き潮の砂嘴(さし)に傾くように建つ、古いニシン漁の廃番屋へと辿り着いていた。

 

 隙間風が吹き抜ける、板張りの荒れ果てた小屋の中。

 外は冷たい秋の嵐が吹き荒れ、打ち寄せる高波が番屋の床下を激しく揺らしていた。

 

 だが――その凍てつく冷気の中で、小屋の奥の暗がりだけが、異常な熱気に満ちていた。

 

「ハァッ……ハァッ……! あぁぁっ……、あつ、い……ッ!」

 

 敷き藁の上に倒れ伏したクラウディアが、自らの胸元をかきむしり、激しい苦悶の声を漏らしていた。

 濡れたウールのスカートははだけ、青真珠色の肌は全身が沸騰したように紅潮している。首筋から太ももにかけて、びっしりと玉の汗が噴き出し、小屋の中に濃密な――甘く狂おしい、揮発性の潮のフェロモンが充満していた。

 

 変態開始から二十一日目。

 手記に記されていた、あの最も危険な瞬間――『急性排卵サージ(狂乱ショック)』の直撃だった。

 

 脳下垂体からの爆発的なホルモン放出により、血中エストロゲン値が通常の百倍以上に跳ね上がり、直腸温は三十八度を超えている。

 触覚の閾値は完全に焼き切れ、皮膚の一筋に風が触れるだけで、全身を甘い電気のような知覚過敏が駆け抜ける。

 理性の皮膜はもはや残されていなかった。

 下腹部――閉ざされていた生殖スリットの奥深くで、子宮が狂ったように収縮を繰り返し、オスの種を、生殖のスイッチとなる精漿タンパクを、骨の髄まで渇望して叫んでいた。

 

「……ヴィンセント……っ! どこだ……サル……ッ! 身体が……ちぎれちゃうよ……っ!」

 

 瞳孔が猫のように縦に裂け、野生の光を宿した碧い瞳が、暗闇の中に立つ男を捉えた。

 クラウディアは四つん這いになり、土踏まずのない平らな足底で床板を蹴り、ヴィンセントの足元へと這い寄った。

 水かきのある白い手が、男のズボンを掴み、狂乱した力で引き倒す。

 

「どさっ」とヴィンセントが敷き藁の上に押し倒された。

 クラウディアは彼の胸元に馬乗りになり、鋭い円錐歯を剥き出しにして喉笛へと顔を寄せた。

 荒い熱い息が、ヴィンセントの首筋を焼く。

 

「……お前の、におい……! 種を……よこせ……ッ! 私の中に……全部、よこせ……ッ!!」

 

 掠れた、けれど耳膜を直接震わせるような超音波を孕んだ叫び。

 彼女の爪が、ヴィンセントのシャツをバリバリと引き裂いた。

 

 

2. 最後の貸借、すべてを差し出す男

 

 馬乗りになったクラウディアの全身は、まるで燃え盛る火薬のように熱かった。

 皮膚と皮膚が触れ合うたび、彼女の身体がビクンと小さく痙攣し、甘い熱気がヴィンセントの理性を内側から激しく揺さぶる。

 

 かつてなら――。

 エルンスト港の保税倉庫にいた頃なら、ヴィンセントは即座にピストルを構え、麻縄で彼女を縛り上げていただろう。

 受胎させれば、彼女の二肢は失われ、人間の女として運ぶ計画は破綻し、金貨五百枚の取引が消し飛ぶからだ。

 

 だが――。

 ヴィンセントは、暗闇の天井を見上げた。

 

 モルガン商会での取引は完全に破綻した。

 連合海運商会の帳簿の穴も、亡父の遺した負債も、もはや清算する道はない。帝都全土に手配書が回り、彼の社会的な人生はすでに完全に破産していた。

 そして何より――。

 マウラーの手記にあった、あの冷酷な記述。

 『未受胎のまま変態期間を越えた検体は、陸上で組織の退縮が破綻し、自己融解を起こして白濁した液と海の泡になって崩壊する――』

 

 いま、ここでこの娘を拒めばどうなるか。

 クラウディアは狂乱の熱発の中で理性を焼き切られ、やがて冷たい海の泡となって崩壊して死ぬ。

 

(……拒む理由など、もうどこにもない)

 

 ヴィンセントの乾いた唇から、微かな自嘲の笑みが漏れた。

 彼はコートの内ポケットから、残り二発の弾丸が入った小型ピストルを取り出すと、無造作に暗い小屋の隅へと投げ捨てた。

 カラン、と乾いた金属音が響く。

 

「……おい、クラウディア」

 

 ヴィンセントは両手を伸ばし、狂乱して爪を立てる彼女の青真珠色の頬を、しっかりと両の手のひらで包み込んだ。

 男の冷たく乾いた掌に触れられた瞬間、クラウディアの全身がビクリと跳ね、碧い瞳が驚愕に見開かれた。

 

「……サル……?」

 

「全部持って行け」

 ヴィンセントの声は、静かで、冷徹なほどに澄んでいた。

「私の金も、身分も、未来も、帳簿も、すべて破産した。……残っているのは、この命と、身体だけだ」

 

 彼はネクタイを引き抜き、自らのシャツの胸元を大きく押し開いた。

 

「私のすべてを代価にして、お前の海へ帰れ」

 

「……っ!」

 

 その言葉が引き金だった。

 クラウディアの瞳から、ポロポロと大粒の涙が零れ落ちた。

 野生の飢渇と、抗えない繁殖本能。そして、すべてを差し出して自分を受け止めた男への、言葉にならない感情の激流。

 

「ヴィンセント……ッ!」

 

 クラウディアは泣き叫ぶように男の唇を貪り、自らのすべてを重ね合わせた。

 

 外の嵐が、屋根を激しく叩きつける。

 冷たい潮風の吹き込む暗闇の中、二人は激しく肌を重ね合い、クラウディアはすべてを差し出した男の熱を、自らの胎内深くへと迎え入れた。

 

 ドクン……ドクン……!

 生命のスイッチとなる種が、子宮の奥深くへと注ぎ込まれた、その瞬間だった。

 

 ――キィィィィィン……!!

 

 クラウディアの喉の奥から、人間の耳には聞こえないほどの超高周波のソナー音が響き渡った。

 精子の侵入によって、卵子の減数分裂なき卵割スイッチが作動したのだ。

 父親の遺伝子は瞬時に分解・排除され、母親の完全なクローンを育むための、猛烈な内分泌の逆変態が開始された。

 

「……あ、あぁぁぁぁぁッ!!」

 

 クラウディアの全身の骨がきしり、皮膚の組織が激しい再編成を始めた。

 二本の脚。

 内腿の皮膚が溶け合うように引き寄せられ、皮下組織の結合組織が急速に再癒合していく。太ももから膝、ふくらはぎ、そして足先へ。

 二本の脚が一つに束ねられ、滑らかな無毛の青真珠色の皮膚が全体を包み込み、足先は扇のように大きく広がる、力強い水平尾ひれへと再構築されていく。

 

 同時に――喉の奥で、仮設声帯の軟骨組織が急速に収縮・退縮を始めた。

 人間の言語を模倣していた空気呼吸用の声帯が消え去り、元の水棲ソナー器官へと戻っていく。

 

「……ヴィ……ン……セン……ト……」

 掠れた、最後の人の言葉。

 それが、彼女の唇から零れ落ちた最後の人間の声だった。

 

 あとは、言葉にならない、澄んだイルカのような鳴き声だけが、暗い小屋の中に優しく木霊していた。

 

 

3. 北海の冷たい波、人魚の帰海

 

 夜が明けた。

 嵐は去り、東の地平線から鈍色の朝光が差し込んでいた。

 

 満潮の波が、砂嘴の廃番屋の床下を洗っている。

 ヴィンセントは目を覚まし、ゆっくりと身を起こした。

 

 その腕の中にいたのは――もはや二本の脚を持つ少女ではなかった。

 

 腰から下を、息を呑むほど美しい、青真珠色に輝く強靭な水平尾ひれへと戻した、完全なる人魚の姿だった。

 銀青色の濡れた髪が朝日に透き通り、滑らかな尾ひれが、無意識の律動で敷き藁の上をバタン、バタンと叩いている。

 

 クラウディアが目を開けた。

 その碧い瞳には、昨夜までの狂乱の熱は欠片もなかった。

 澄み渡る深海の静寂と、子を宿した母なる野生の威厳。

 

「……キュ……ルル……」

 彼女は喉を鳴らし、水かきのある白い手を伸ばして、ヴィンセントの頬にそっと触れた。

 爪は引っ込められ、指先は柔らかかった。

 言葉はもう出ない。だが、その瞳は雄弁に語っていた。

 

 彼女は上半身を起こし、腕の力で床板を這い、壊れた扉の外――すぐ足元まで押し寄せてきている北海の白波を指差した。

 そして、ヴィンセントの手を強く引き、海へ共においでと、首を傾げて促した。

 

 尾を取り戻した彼女の遊泳力なら、人間の一人くらい背に乗せて、外洋の孤島や未知の海域へ運ぶことなど容易いことだった。

 

 だが――。

 ヴィンセントは、静かに首を横に振った。

 

「……行けないよ、クラウディア」

 

 ヴィンセントは、彼女の濡れた銀髪を優しく撫でた。

 

「私は人間だ。エラもなければ、泳ぐヒレもない。冷たい海に入れば、数分で凍え、息が絶えて沈むだけだ」

 

「……ピュ……ゥ……」

 クラウディアの瞳に、哀切の影が差した。

 陸と海。

 変態の魔法が解けた今、二人の世界を隔てる境界線は、二度と越えられない絶対の壁となっていた。

 

 その時――。

 遠くの干潟の砂州から、激しい馬蹄の音と、犬の吠え声が風に乗って届いた。

 オズワルド司祭と、帝都憲兵隊の騎兵たちだった。有線電信の網を辿り、ついにこの河口の番屋へと追いついたのだ。

 

「行け、クラウディア」

 ヴィンセントは彼女の肩を押し、海へと促した。

「追手が来た。お前がここにいれば、再び檻に入れられ、切り刻まれるぞ」

 

 クラウディアは遠くの騎兵を見やり、そしてヴィンセントを見つめた。

 彼女の碧い双眸から、一筋の涙が頬を伝って零れ落ちた。

 言葉を失った彼女は、最後にヴィンセントの額に自らの額をコツンと押し当て、熱い吐息を吹きかけた。

 

 そして――。

 

 ザバァァァッ!!

 

 力強い尾ひれの一撃が、番屋の床板を蹴った。

 クラウディアのしなやかな身体が宙を舞い、白波逆巻く北海の冷たい海水の中へと飛び込んだ。

 

 水飛沫が朝日にキラキラと輝く。

 海に入った瞬間、彼女のスピードは陸上の鈍重さとは比較にならなかった。

 美しい水平尾ひれが海面を鋭く切り裂き、時速数十キロの圧倒的な推進力となって、波間を跳躍する。

 沖合数十ヤードの波頭の上で、彼女は一度だけ振り返り、水かきのある手を高く掲げた。

 

 そして、冷たく深い北海の蒼茫たる闇の中へと、音もなく潜航していった。

 

 彼女は還ったのだ。

 人間の金も、帳簿も、神の教義も届かない、永遠の自由の海へと。

 

---

 

 やがて、番屋の朽ちた扉が荒々しく蹴破られ、銃声と怒号が冷たい潮風を切り裂いた。

 踏み荒らされた敷き藁の上に、水浸しになった黒革の帳簿が、ただ一冊、泥にまみれて転がっていた。

 

 ――後に、あの計理士が北洋の断崖牢獄で生涯を終えたとも、あるいは波間の泡となって消え去ったとも伝わるが、確かなことは誰も知らない。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。