発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様 作:神座鬼神
1. 河口デルタの廃番屋、二十一日目の熱波
――ザザァァン……、ザザァァン……。
重く冷たい北海の白波が、果てしない泥の干潟を洗っていた。
帝都の暗渠を抜け、無人の平底小舟でヴェルナー川の濁流を下ること六日。
変態開始から二十一日目――一八五三年十月二十三日の夜。
川幅が数マイルに広がり、泥水が完全に冷たい海水のうねりへと溶け合う、ヴェルナー川河口の広大な感潮デルタ地帯。二人は、引き潮の砂嘴(さし)に傾くように建つ、古いニシン漁の廃番屋へと辿り着いていた。
隙間風が吹き抜ける、板張りの荒れ果てた小屋の中。
外は冷たい秋の嵐が吹き荒れ、打ち寄せる高波が番屋の床下を激しく揺らしていた。
だが――その凍てつく冷気の中で、小屋の奥の暗がりだけが、異常な熱気に満ちていた。
「ハァッ……ハァッ……! あぁぁっ……、あつ、い……ッ!」
敷き藁の上に倒れ伏したクラウディアが、自らの胸元をかきむしり、激しい苦悶の声を漏らしていた。
濡れたウールのスカートははだけ、青真珠色の肌は全身が沸騰したように紅潮している。首筋から太ももにかけて、びっしりと玉の汗が噴き出し、小屋の中に濃密な――甘く狂おしい、揮発性の潮のフェロモンが充満していた。
変態開始から二十一日目。
手記に記されていた、あの最も危険な瞬間――『急性排卵サージ(狂乱ショック)』の直撃だった。
脳下垂体からの爆発的なホルモン放出により、血中エストロゲン値が通常の百倍以上に跳ね上がり、直腸温は三十八度を超えている。
触覚の閾値は完全に焼き切れ、皮膚の一筋に風が触れるだけで、全身を甘い電気のような知覚過敏が駆け抜ける。
理性の皮膜はもはや残されていなかった。
下腹部――閉ざされていた生殖スリットの奥深くで、子宮が狂ったように収縮を繰り返し、オスの種を、生殖のスイッチとなる精漿タンパクを、骨の髄まで渇望して叫んでいた。
「……ヴィンセント……っ! どこだ……サル……ッ! 身体が……ちぎれちゃうよ……っ!」
瞳孔が猫のように縦に裂け、野生の光を宿した碧い瞳が、暗闇の中に立つ男を捉えた。
クラウディアは四つん這いになり、土踏まずのない平らな足底で床板を蹴り、ヴィンセントの足元へと這い寄った。
水かきのある白い手が、男のズボンを掴み、狂乱した力で引き倒す。
「どさっ」とヴィンセントが敷き藁の上に押し倒された。
クラウディアは彼の胸元に馬乗りになり、鋭い円錐歯を剥き出しにして喉笛へと顔を寄せた。
荒い熱い息が、ヴィンセントの首筋を焼く。
「……お前の、におい……! 種を……よこせ……ッ! 私の中に……全部、よこせ……ッ!!」
掠れた、けれど耳膜を直接震わせるような超音波を孕んだ叫び。
彼女の爪が、ヴィンセントのシャツをバリバリと引き裂いた。
2. 最後の貸借、すべてを差し出す男
馬乗りになったクラウディアの全身は、まるで燃え盛る火薬のように熱かった。
皮膚と皮膚が触れ合うたび、彼女の身体がビクンと小さく痙攣し、甘い熱気がヴィンセントの理性を内側から激しく揺さぶる。
かつてなら――。
エルンスト港の保税倉庫にいた頃なら、ヴィンセントは即座にピストルを構え、麻縄で彼女を縛り上げていただろう。
受胎させれば、彼女の二肢は失われ、人間の女として運ぶ計画は破綻し、金貨五百枚の取引が消し飛ぶからだ。
だが――。
ヴィンセントは、暗闇の天井を見上げた。
モルガン商会での取引は完全に破綻した。
連合海運商会の帳簿の穴も、亡父の遺した負債も、もはや清算する道はない。帝都全土に手配書が回り、彼の社会的な人生はすでに完全に破産していた。
そして何より――。
マウラーの手記にあった、あの冷酷な記述。
『未受胎のまま変態期間を越えた検体は、陸上で組織の退縮が破綻し、自己融解を起こして白濁した液と海の泡になって崩壊する――』
いま、ここでこの娘を拒めばどうなるか。
クラウディアは狂乱の熱発の中で理性を焼き切られ、やがて冷たい海の泡となって崩壊して死ぬ。
(……拒む理由など、もうどこにもない)
ヴィンセントの乾いた唇から、微かな自嘲の笑みが漏れた。
彼はコートの内ポケットから、残り二発の弾丸が入った小型ピストルを取り出すと、無造作に暗い小屋の隅へと投げ捨てた。
カラン、と乾いた金属音が響く。
「……おい、クラウディア」
ヴィンセントは両手を伸ばし、狂乱して爪を立てる彼女の青真珠色の頬を、しっかりと両の手のひらで包み込んだ。
男の冷たく乾いた掌に触れられた瞬間、クラウディアの全身がビクリと跳ね、碧い瞳が驚愕に見開かれた。
「……サル……?」
「全部持って行け」
ヴィンセントの声は、静かで、冷徹なほどに澄んでいた。
「私の金も、身分も、未来も、帳簿も、すべて破産した。……残っているのは、この命と、身体だけだ」
彼はネクタイを引き抜き、自らのシャツの胸元を大きく押し開いた。
「私のすべてを代価にして、お前の海へ帰れ」
「……っ!」
その言葉が引き金だった。
クラウディアの瞳から、ポロポロと大粒の涙が零れ落ちた。
野生の飢渇と、抗えない繁殖本能。そして、すべてを差し出して自分を受け止めた男への、言葉にならない感情の激流。
「ヴィンセント……ッ!」
クラウディアは泣き叫ぶように男の唇を貪り、自らのすべてを重ね合わせた。
外の嵐が、屋根を激しく叩きつける。
冷たい潮風の吹き込む暗闇の中、二人は激しく肌を重ね合い、クラウディアはすべてを差し出した男の熱を、自らの胎内深くへと迎え入れた。
ドクン……ドクン……!
生命のスイッチとなる種が、子宮の奥深くへと注ぎ込まれた、その瞬間だった。
――キィィィィィン……!!
クラウディアの喉の奥から、人間の耳には聞こえないほどの超高周波のソナー音が響き渡った。
精子の侵入によって、卵子の減数分裂なき卵割スイッチが作動したのだ。
父親の遺伝子は瞬時に分解・排除され、母親の完全なクローンを育むための、猛烈な内分泌の逆変態が開始された。
「……あ、あぁぁぁぁぁッ!!」
クラウディアの全身の骨がきしり、皮膚の組織が激しい再編成を始めた。
二本の脚。
内腿の皮膚が溶け合うように引き寄せられ、皮下組織の結合組織が急速に再癒合していく。太ももから膝、ふくらはぎ、そして足先へ。
二本の脚が一つに束ねられ、滑らかな無毛の青真珠色の皮膚が全体を包み込み、足先は扇のように大きく広がる、力強い水平尾ひれへと再構築されていく。
同時に――喉の奥で、仮設声帯の軟骨組織が急速に収縮・退縮を始めた。
人間の言語を模倣していた空気呼吸用の声帯が消え去り、元の水棲ソナー器官へと戻っていく。
「……ヴィ……ン……セン……ト……」
掠れた、最後の人の言葉。
それが、彼女の唇から零れ落ちた最後の人間の声だった。
あとは、言葉にならない、澄んだイルカのような鳴き声だけが、暗い小屋の中に優しく木霊していた。
3. 北海の冷たい波、人魚の帰海
夜が明けた。
嵐は去り、東の地平線から鈍色の朝光が差し込んでいた。
満潮の波が、砂嘴の廃番屋の床下を洗っている。
ヴィンセントは目を覚まし、ゆっくりと身を起こした。
その腕の中にいたのは――もはや二本の脚を持つ少女ではなかった。
腰から下を、息を呑むほど美しい、青真珠色に輝く強靭な水平尾ひれへと戻した、完全なる人魚の姿だった。
銀青色の濡れた髪が朝日に透き通り、滑らかな尾ひれが、無意識の律動で敷き藁の上をバタン、バタンと叩いている。
クラウディアが目を開けた。
その碧い瞳には、昨夜までの狂乱の熱は欠片もなかった。
澄み渡る深海の静寂と、子を宿した母なる野生の威厳。
「……キュ……ルル……」
彼女は喉を鳴らし、水かきのある白い手を伸ばして、ヴィンセントの頬にそっと触れた。
爪は引っ込められ、指先は柔らかかった。
言葉はもう出ない。だが、その瞳は雄弁に語っていた。
彼女は上半身を起こし、腕の力で床板を這い、壊れた扉の外――すぐ足元まで押し寄せてきている北海の白波を指差した。
そして、ヴィンセントの手を強く引き、海へ共においでと、首を傾げて促した。
尾を取り戻した彼女の遊泳力なら、人間の一人くらい背に乗せて、外洋の孤島や未知の海域へ運ぶことなど容易いことだった。
だが――。
ヴィンセントは、静かに首を横に振った。
「……行けないよ、クラウディア」
ヴィンセントは、彼女の濡れた銀髪を優しく撫でた。
「私は人間だ。エラもなければ、泳ぐヒレもない。冷たい海に入れば、数分で凍え、息が絶えて沈むだけだ」
「……ピュ……ゥ……」
クラウディアの瞳に、哀切の影が差した。
陸と海。
変態の魔法が解けた今、二人の世界を隔てる境界線は、二度と越えられない絶対の壁となっていた。
その時――。
遠くの干潟の砂州から、激しい馬蹄の音と、犬の吠え声が風に乗って届いた。
オズワルド司祭と、帝都憲兵隊の騎兵たちだった。有線電信の網を辿り、ついにこの河口の番屋へと追いついたのだ。
「行け、クラウディア」
ヴィンセントは彼女の肩を押し、海へと促した。
「追手が来た。お前がここにいれば、再び檻に入れられ、切り刻まれるぞ」
クラウディアは遠くの騎兵を見やり、そしてヴィンセントを見つめた。
彼女の碧い双眸から、一筋の涙が頬を伝って零れ落ちた。
言葉を失った彼女は、最後にヴィンセントの額に自らの額をコツンと押し当て、熱い吐息を吹きかけた。
そして――。
ザバァァァッ!!
力強い尾ひれの一撃が、番屋の床板を蹴った。
クラウディアのしなやかな身体が宙を舞い、白波逆巻く北海の冷たい海水の中へと飛び込んだ。
水飛沫が朝日にキラキラと輝く。
海に入った瞬間、彼女のスピードは陸上の鈍重さとは比較にならなかった。
美しい水平尾ひれが海面を鋭く切り裂き、時速数十キロの圧倒的な推進力となって、波間を跳躍する。
沖合数十ヤードの波頭の上で、彼女は一度だけ振り返り、水かきのある手を高く掲げた。
そして、冷たく深い北海の蒼茫たる闇の中へと、音もなく潜航していった。
彼女は還ったのだ。
人間の金も、帳簿も、神の教義も届かない、永遠の自由の海へと。
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やがて、番屋の朽ちた扉が荒々しく蹴破られ、銃声と怒号が冷たい潮風を切り裂いた。
踏み荒らされた敷き藁の上に、水浸しになった黒革の帳簿が、ただ一冊、泥にまみれて転がっていた。
――後に、あの計理士が北洋の断崖牢獄で生涯を終えたとも、あるいは波間の泡となって消え去ったとも伝わるが、確かなことは誰も知らない。