発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様   作:神座鬼神

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第4話:顕微鏡のプレパラートと、三日間の猶予

1. プレパラートと学者の眼差し

 

 西の干潟から標本室へ戻った時、外の空はすでに夕暮れの茜色に染まりかけていた。

 

 テオドールは上着を脱ぐのももどかしそうに、作業場の大きな木製デスクへ直行した。

 棚から取り出されたのは、真鍮の鏡筒が鈍く光る大型の光学顕微鏡。

 彼は採集瓶からあの半透明の皮膚片をピンセットで慎重に引き上げると、真新しいスライドガラスの上に乗せ、研ぎ澄まされたカミソリで極薄の切片を切り出した。グリセリンを一滴垂らし、カバーガラスを空気が入らないよう斜めから滑らせて密着させる。

 

「よし……プレパラートの作成、完了だ」

 

 テオドールはランプの反射鏡の角度を調整し、接眼レンズに片目を押し当てた。

 ピント調整のダイヤルを指先でミリ単位で回す。

 カチ、カチ、カチと微小な金属音が静かな作業場に響いた。

 

 私は作業台から少し離れた暖炉の前に腰掛け、手足の先を温めながら、その様子をじっと伺っていた。

 下腹部の奥には、今朝から続く小さな炭火のような微熱が、まだ微かに燻っている。

 けれど今の私を支配していたのは、甘い疼きなどではなく、冷や汗が止まらないほどの強い緊張感だった。

 

(あんな小さな皮切れから、どこまで分かるっていうのよ……)

 

 祈るような思いで見つめる私をよそに、テオドールは手元の観察日誌にペンを走らせ始めた。

 

「……扁平上皮細胞が多層に重なっているな。角質層は人間の皮膚と比べてもかなり薄い。少なくともこの切片の範囲には、毛根や毛包は見当たらない」

 

「毛がない……の?」

 

「ああ。この組織片の表面には体毛が見当たらないということだよ。もちろん、全身が無毛なのか、それとも一部の無毛部位なのかは、これだけでは判断できないけれどね」

 

 テオドールはレンズから目を離さず、淡々と観察事実を口にした。

 

「表皮と真皮の境界付近に、微小な管状の分泌組織が規則正しく並んでいるのが見える。魚類の一般的な鱗や骨質板は見当たらないな。……ここまでは、顕微鏡で確認できる純粋な客観的事実だ」

 

「そ、そう……。じゃあ、何の生き物かは分からないのね?」

 

 私がすかさず探りを入れると、テオドールはふっと息を吐き、顕微鏡から顔を上げた。

 眼鏡を外し、指先で眉間を強く揉む。

 

「断定はできないよ。ただ、幾つかの仮説は立てられる」

 

 テオドールは日誌のスケッチを指先でトントンと叩いた。

 

「この分泌組織は、水流抵抗を減らす特殊な粘液か、あるいは海水による脱水を防ぐ保護脂質を分泌している可能性がある。角質化した多層上皮を持つ以上、魚類というよりは四肢動物……海棲に適応した未知の大型動物の皮膚組織かもしれない。ただ、棚にあるクジラやアザラシ、あるいは海牛類の比較標本と照合して、既存種の特異な変異組織でないか詳しく確かめてみる必要があるね」

 

(う……)

 

 私の喉が微かに鳴った。

 人魚だとは断定していない。けれど、魚でも普通のアザラシでもない「未知の水生動物」という仮説に向けて、彼は着実に歩を進めていた。

 

「明日、ヴォルフさんと帝立大学の博物学部へ第一報の手紙を送ろうと思うんだ。三日前の深海クラゲの標本で、ヴォルフさんから高く評価してもらえたところだからね。ここでこの組織片の存在を報告できれば、標本室の存続に向けて大きな弾みがつく」

 

 テオドールが机を整えながら、前向きな口調で言った。

 

 

2. 蝋封の手紙と、二人の衝突

 

(報告……!? 大学に……!?)

 

 心臓が早鐘を打った。

 そんな報告を大学や商人に送られたらどうなる?

 帝都から調査団が押し寄せ、港の海中に網が何重にも張り巡らされる。同族たちの棲み処が脅かされるだけでなく、足に水かきがあり、土踏まずがなく、異様な喉を持つ私自身の正体など、一瞬で暴かれてしまう!

 

「だ、ダメよ、テオ! 報告なんて、絶対にダメ!」

 

 私は思わず立ち上がり、作業台のテオドールの前へ詰め寄った。

 

「え……? どうしてだい、ローナ?」

 

「どうしてって……こんな薄っぺらい皮切れ一枚で報告する気!? 既存の標本との比較も終わっていないのに、ヴォルフさんに『人魚かもしれない』なんて匂わせたらどうなると思うの? ヴォルフさんは商人よ。あっという間に街中に言いふらして、一攫千金を狙った荒くれ者の船乗りや、見世物小屋の連中が港に押し寄せて、海中を銛や網で引っ掻き回すに決まってるじゃない! あなたが守りたいって言った生き物は、保護されるどころか殺されちゃうわよ!」

 

 私の厳しい言葉に、テオドールの表情が引き締まった。

 彼は唇を真一文字に結び、机の端に置かれていた一通の封書を指差した。

 

 厚手の封筒。

 そこには、帝立大学博物学部の紋章が刻まれた、赤い蝋封が割られた跡があった。

 

「……僕だって、軽率に騒ぎ立てたいわけじゃないんだ、ローナ」

 

 テオドールの声は低く、どこか張り詰めていた。

 

「これを見てくれ。先月、帝都の指導教授から届いた通達状だ。『半年以内に特筆すべき研究業績、または新種記載標本の提出がなき場合、次年度の標本室維持予算および助手の俸給支給を停止する』と書いてある」

 

「半年以内……」

 

「期限まではまだ数ヶ月ある。でも、学術的な成果を形にするには時間がかかるんだ。僕は大学にいた頃、古い分類学に異を唱えてこの僻地の標本室へ追いやられた。三日前のクラゲの成功でようやく小さな一歩を踏み出せたけれど、それだけで安心できる状況じゃないんだ。ここで確たる業績を積み上げられなければ、予算を打ち切られて標本室は閉鎖されてしまう。……君に温かい食事を食べさせてあげることだって、できなくなるんだよ」

 

 テオドールの瞳には、学者として正当に評価されたいという思いと、研究の場を守りたい切実な責任感が滲んでいた。

 

「それに、港ではすでに噂が立ち始めている。僕が正式な手順を踏んで学会に報告を上げなければ、無知な連中に先を越されて、それこそ生き物が傷つけられてしまう。だからこそ、僕が先手を取って調査の主導権を握りたいんだ」

 

「テオ……」

 

 私は言葉を詰まらせた。

 この男は、ただ功名に浮かれていたわけではなかったのだ。

 自分の研究を守るため、そしてこの生活を維持するために、先を見据えて必死に動いていたのだ。

 

 けれど――だからといって、はいそうですかと同族と自分を危険に晒すわけにはいかない。

 私は小さく息を吸い、冷静に頭を回転させた。

 彼の言い分ももっともだ。ならば、真っ向から否定するのではなく、テオドールにとっても利点のある取引を持ちかけるしかない。

 

 

3. 三日間の取引と、小さな合意

 

「……分かったわ、テオ。あなたの立場は理解したわ」

 

 私は作業台に両手をつき、まっすぐにテオドールの瞳を見つめた。

 

「でもね、だからこそ、中途半端な手札で動いちゃダメなのよ」

 

「中途半端……?」

 

「そうよ。この通達状を出した教授は、あなたのことが気に食わないんでしょ? そんな人たちが、皮切れ一枚の不確かな報告書を見て素直に認めてくれると思う? 『比較標本との照合も不十分な、ただの漂着物の破片だ』って鼻で笑われて却下されるのがオチよ」

 

 テオドールが痛いところを突かれたように、ぐっと言葉を詰まらせた。

 

「教授たちをぐうの音も出ないほど納得させたいなら、もっと確実なデータを揃えなきゃ。ヴォルフさんや大学には、明日の段階ではこう報告するの。『沖合の漂着物から未同定動物の組織片を回収したが、既存種との比較同定中であり、種を特定できる段階にはない』って。干潟で見つけたことも、人魚の噂との関連も、絶対に伏せておくの」

 

「伏せる……? いつまでだい?」

 

「三日後の大潮の夜までよ」

 

 私は指を三本立ててみせた。

 

「三日後の引き潮に合わせて、もう一度あの干潟の周辺を調べるの。それまでの三日間、私が覚えている海のことから、その生き物がどんな潮に乗って漂着しやすいか、観察ポイントを絞り込むのを手伝ってあげる。そうして追加の物証や周辺環境のデータが取れるか確かめてから、報告書の文面を再検討しましょ」

 

「三日後……次の大潮の調査が終わるまで、か……」

 

 テオドールは腕を組み、真剣な顔で考え込んだ。

 部屋の中に、暖炉の薪が爆ぜるパチパチという音だけが響く。

 やがて、彼は深いため息をつき、私を見て小さく微笑んだ。

 

「……分かったよ、ローナ。君の言う通りだ。比較同定も中途半端なまま急いで報告書を出せば、教授に粗探しをされて終わりだね。三日間、既存の標本との照合を進めながら、君の知恵を借りて調査ポイントを整理しよう。報告内容を公表するかどうかは、三日後の大潮の調査結果を見てから判断する。……約束するよ」

 

「決まりね!」

 

 テオドールが差し出してきた右手を、私は両手でぎゅっと握りしめた。

 交渉成立だ。

 ひとまず、最悪の事態は回避できた。三日間の猶予を手に入れたのだ。

 

 

4. 冷えた夜のスープと、肩のマフラー

 

 激しい議論が終わった後、テオドールは再び机に向かい、既存の組織図譜を広げて顕微鏡スケッチとの照合作業に没頭し始めた。

 時計の針はすでに夜の九時を回っていた。

 

 私は台所へ行き、暖炉の鉄鍋に残っていた昨夜の肉骨スープを小鍋に移して火にかけた。

 白濁したスープが温まり、黄金色の豚の脂が溶け出して、作業場に香ばしい肉の匂いが漂う。

 陶器の深皿にたっぷりとスープを注ぎ、スプーンを添えてお盆に乗せる。

 

 作業場に戻ると、テオドールはペンを握ったまま、机に突っ伏して微かな寝息を立てていた。

 昼間の干潟歩きと、顕微鏡での長時間の観察、そして私との議論で、疲労が限界に達していたのだろう。

 机の上のランプの灯りが、彼の疲れた寝顔を柔らかく照らしていた。

 

「……もう。こんなところで寝たら、風邪を引くわよ」

 

 私は静かに歩み寄り、お盆を机の端に置いた。

 夜の冷気が、換気窓の隙間から作業場に忍び込んできている。

 私は自分の首に巻かれていた、テオドールのチャコールグレーのマフラーをそっと外した。

 昼間、寒がりな私に彼が巻いてくれた、厚手のウールマフラー。

 それを広げ、机に突っ伏すテオドールの細い肩の上から、ふわりと掛けてあげた。

 

 ――ん。

 

 テオドールが微かに身じろぎをし、ゆっくりと目を開けた。

 眼鏡の奥の眠たげな茶色い瞳が、至近距離にいる私を捉える。

 

「……ローナ……?」

 

「起きた? スープ、温め直したわよ。少しでもお腹に入れてから寝なさい」

 

 テオドールは自分の肩に掛けられたマフラーにそっと触れ、それから湯気を立てるスープを見て、驚いたように目を瞬かせた。

 先刻まで机を挟んで互いに譲らず、声を張って激論を交わしていたときの張り詰めた空気が、まだ部屋の隅に微かに残っている。彼もその余韻を思い出したのか、少し照れくさそうに、けれどほどけたような笑みを浮かべた。

 

「あ……ありがとう、ローナ。……あんなに激しく言い合った後なのに、君から温かいスープをもらえるなんて思わなかったよ。なんだか、今日は僕が世話を焼かれる番だね」

 

「世話じゃないわよ。助手が倒れたら、明日の朝ごはんを作る人がいなくなるからよ。ほら、冷めないうちに早く飲みなさい。さっきから頭ばかり使って、お腹空っぽなんでしょ」

 

 私がそっぽを向いて口を尖らせると、テオドールは「そうだね、一本取られたな」と嬉しそうに目を細め、深皿の両脇にそっと手を添えた。

 スープの器を受け取る際、テオドールの指先が私の手の甲にふと触れる。

 

「――っ」

 

 テオドールの指先の温もり。

 その瞬間、私の下腹部にきゅんと甘い熱が走り、知覚過敏になった背筋に微かな戦慄が抜けた。

 けれど、手を引っ込めることはしなかった。

 テオドールは両の掌で大切そうに陶器の温もりを包み込み、ふう、と深く息を吐き出して顔を綻ばせている。激しい議論を交わし終えた後に、こうして同じ熱を分かち合えていることそのものを、噛み締めているような仕草だった。

 胸の奥がぎゅっと締め付けられるような、痛がゆい温もり。

 お互いに何も言わず、ただ湯気の上で視線が交わる。

 

「美味しいよ、ローナ。……本当に、身体の芯まで温まる」

 

「……当たり前でしょ。温め直したんだから」

 

 テオドールが微笑みながらスープを飲み干す。

 だが、空になった器を置いた後、彼はふと真顔になり、机の上の顕微鏡をじっと見つめた。

 

「ねえ、ローナ。三日後の大潮の調査のために、君に一つ考えてほしいことがあるんだ」

 

「……なに?」

 

 テオドールはプレパラートを指差し、真剣な眼差しで私を見上げた。

 

「この皮膚の切片からね、海水の匂いに混ざって、微かに独特の甘い香油のような匂いがするんだ。もしこれが同種を引き寄せるフェロモンのような分泌物なら、これに反応する別の個体をおびき寄せたり、痕跡が集まりやすい場所を特定できるかもしれない」

 

「――っ!」

 

「ローナ、君が覚えている海のことから考えて……この生き物が惹きつけられるような『匂いや音』、あるいは好む『餌』に、何か心当たりはあるかい?」

 

「…………っ」

 

 私の呼吸が、ピタリと止まった。

 

 同種を引き寄せる匂い。

 惹きつけられる音。

 餌。

 

 それはまさに、私たちが海の中で交わす超音波の歌声であり、仲間たちが群れで好む高脂質な深海魚や、冷えた身体を温めるための肉そのものだった。

 

(どうするのよ……これ……)

 

 正直に答えれば、テオドールは確実に人魚をおびき寄せる罠の条件を絞り込んでしまう。何より、私自身の好みや特徴と、その生き物の生態が完全に重なってしまう。

 けれど、適当な出鱈目を教えて見当違いな場所を張らせれば、三日後の調査は空振りに終わり、テオドールの研究に弾みをつける手伝いができないのだ。

 

「ローナ? 何か思い当たるかい?」

 

 テオドールの曇りのない瞳が、まっすぐに私を見つめていた。

 全幅の信頼を寄せてくる青年学者を前に、私は喉の奥がカラカラに渇くのを感じながら、ただ曖昧に頷くことしかできなかった。

 

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