発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様 作:神座鬼神
第1話:若き船乗りと、ある人魚の二十一日間
1. 嵐のあとの拾いもの
北海の冷たい風が吹き荒れた嵐の翌朝、二十二歳の船乗りマティアスは、打ち上げられた流木や網の切れ端を探して、人気のない砂浜を歩いていた。
灰色の波が砕ける引き潮の岩礁。海藻がびっしりとこびりついた潮溜まりの窪みに、白いものが倒れていた。
「……人間か!?」
駆け寄って抱き起こした瞬間、マティアスは息を呑んだ。
布切れ一枚身につけていない、若い娘だった。
年の頃は十八か十九。濡れた銀青色の長い髪が、冷たく透き通るような白い肌にへばりついている。
だが、何よりも異様だったのはその脚だった。
太ももからふくらはぎにかけて、皮膚が内側から無理やり引き裂かれたような、痛々しい赤黒い鬱血が走っていた。両足の指の間には、水鳥のような薄い膜が張っている。
「おい、しっかりしろ! 聞こえるか!?」
マティアスが肩を揺すると、娘の濡れた睫毛が震え、うっすらと瞼が開いた。
息を呑むほど深い、海の底のような碧い瞳。
娘は何かを伝えようと必死に口を開いた。
「ひゅ……っ、……ぁ……」
しかし、そこから漏れ出たのは声ではなかった。
息の抜けるかすかな擦れ音と、喉の奥を小鳥が鳴らすような、低く震える奇妙な音だけだった。
娘は激痛に顔を歪め、両手で自分の太ももをぎゅっと抱え込んだ。爪が皮膚に食い込み、震える足の指が砂を掻く。
ただ倒れているのではない。彼女の体の中で、今まさに何かが無理やり作り変えられている最中であるかのような、おぞましい苦悶がそこにあった。
「足が痛むのか……? とにかく、ここじゃ凍え死んじまう」
沖で難破した外国船の船客か何かが、荒波に服を剥ぎ取られてこの岩礁に打ち上げられたのだろう――マティアスはそう推測した。
口が利けないのも、冷たい海水を大量に飲んで喉を痛めたか、あるいは恐ろしい遭難のショックで記憶を失い、一時的に言葉を失ってしまった(失語症)に違いない。
マティアスは急いで自分の羊毛の外套を脱ぎ、裸の娘の体を包み込んだ。
抱き上げると、濡れているのに驚くほど軽い。まるで鳥の骨を抱いているかのようだった。
マティアスは彼女を背負い、港町の裏通りにある粗末な下宿部屋へと駆け戻った。
2. 奇妙な同居人
下宿のベッドに寝かせた娘は、最初の三日間、水を打ったように動かなかった。
ただ、下腹部と脚の激痛に魘され、シーツを固く握りしめて脂汗を流していた。
マティアスは井戸から冷たい水を汲み、手拭いで彼女の火照った額や身体を拭き続けた。
「大丈夫だ。ここは安全な港町だぞ」
「俺の名はマティアスだ。お前はどこの船に乗っていたんだ? 自分の名前はわかるか?」
少しでも記憶の糸口になればと、マティアスは看病しながら優しく、何度も何度も同じ言葉を語りかけ続けた。娘は冷たい手拭いが肌に触れると、喉をかすかに震わせて安らかな顔をした。
四日目の朝、マティアスが目を覚ますと、部屋の空気が変わっていた。
ベッドの端に、娘がちょこんと腰掛けていたのだ。
「あ……気がついたか! 気分はどうだ?」
マティアスが声をかけると、娘はびくりと肩を跳ねさせ、まじまじとマティアスの顔を見つめた。
そして、マティアスの口元を指差し、自らの喉に手を当てた。
「……ま、てぃ……あ、す……?」
「え……?」
マティアスは息を呑んだ。
鈴を転がすような、かすかに掠れた透明な声。
三日間、一度も声を出せなかった娘が、マティアスが呼びかけ続けていた自分の名前を、正確になぞったのだ。
「声が出たのか……! よかった、ショックから立ち直って言葉を思い出したんだな!」
マティアスは安堵のあまり相好を崩し、身を乗り出した。
「お前の名前は? 家族のいる街を覚えているか?どこの港から船に乗ったんだ?」
早く家族の元へ帰してやりたいと、マティアスは矢継ぎ早に尋ねた。
だが――娘の反応は、マティアスが予想していた「記憶喪失の遭難者」のそれとは、明らかに違っていた。
記憶を失った人間なら、「思い出せない」と不安そうに頭を抱えたり、怯えて混乱したりするはずだ。
しかし娘は、一切の不安も浮かべず、ただ純真無垢な瞳でじっとマティアスの唇を凝視していた。
まるで言葉の意味など最初からひとつも理解しておらず、ただマティアスが発した「音」の物理的な響きだけを、獲物を狙う鷹のように観察しているようだった。
そして娘は、自分の喉を指先でトントンと叩き、マティアスの唇の形をそのまま模倣するように口を開いた。
「……な、ま、え……? ……か、ぞ、く……?」
「……え?」
「……ふ、ね……? ……まてぃあす……?」
娘はオウムのように、マティアスが言った単語をそのままオウム返しに繰り返した。
その瞳には、失われた記憶を探す影など微塵もなかった。
あるのは、空っぽの器に初めて水が注ぎ込まれた時のような、無邪気で底知れない好奇心の輝きだけだった。
(……待て。記憶をなくしたんじゃない……?)
マティアスの背筋を、奇妙な悪寒が駆け抜けた。
(この娘……言葉を『思い出した』んじゃない。生まれて初めて人間の言葉を耳にして、赤ん坊のようにゼロから覚えようとしているのか……!?)
成人の肉体を持ちながら、人間の言葉をまったく知らない娘。
その異常な事実にゾッとしたものの、マティアスに彼女を追い出すことなどできなかった。名前がないというので、彼女の瞳が海の色に似ていることから、暫定的に『マリーナ』と呼ぶことにした。町の人々には「遭難のショックで記憶を失い、口も不自由になった可哀想な娘」と説明して納得させた。
そしてマリーナの言語の学習速度は、マティアスの背筋の寒気を確信へと変えていった。
彼女はマティアスが喋る言葉を、乾いた砂が海水を吸い込むように吸収していった。
五日目には「水がほしい」「寒い」といった意志を伝え、十日目が過ぎる頃には、日常の会話に何ひとつ不自由しないほど流暢に言葉を紡ぎ出すようになっていたのだ。わずか十日あまりで、赤ん坊から大人の言語能力を獲得してしまう異常な適応力だった。
しかし、彼女の暮らしぶりには、どうしても人間の娘とは思えない奇妙な歪みがあった。
まず、歩き方だった。
マティアスが古着屋で買ってきた革靴を履かせようとすると、マリーナは「痛い、脱がせて」と嫌がり、部屋の中を素足で歩きたがった。
彼女の足の裏には、人間にあるはずの窪み――土踏まずがまったくなかった。
床に足の裏全体をペタペタと打ち付け、膝をほとんど曲げずに左右に腰を揺らして歩く。
まるでペンギンか水鳥が陸の上を散歩しているようなその「よちよち歩き」は、港の男たちや魚屋のおかみさんたちを大いに和ませたが、マティアスには彼女の足が、陸の地面を踏むために作られていないように見えてならなかった。
そして、最もマティアスを困惑させたのは「食事」だった。
ある晩、マティアスは給金が入った祝いに、街で評判のパン屋から焼きたての大きな白パンを買ってきた。
「ほらマリーナ、白パンだぞ。街の金持ちしか食えない上等なやつだ」
マリーナは鼻をひくつかせ、パンをちぎって口に入れた。
その瞬間、彼女の瞳が大きく見開かれた。
「あ、まい……! ふわふわして……あったかい……!」
マリーナは夢中になってパンを口に詰め込んだ。
だが――半分ほど食べたところで、突然、彼女の手が止まった。
「……う……ぁ……っ」
「マリーナ?」
見ると、マリーナの顔がカッと林檎のように真っ赤に染まっていた。
額からボタボタと大粒の汗が吹き出し、息がゼイゼイと荒くなる。
彼女は胸元を押さえ、床の上にどうと倒れ込んだ。
「あたまが……ぐるぐるする……! お腹が、焼けるみたい……苦しい、マティアス、助けて……!」
「お、おい! どうしたんだ!?」
マリーナは激しく嘔吐した。
食べたばかりのパンをすべて吐き戻し、荒い息を吐きながら床をのたうち回った。
酒など一滴も入っていないただのパンだ。腐ってもいない。
それなのに、彼女はまるで強烈な毒酒を煽ったかのように、目を血走らせ、ふらふらと手足を痙攣させていた。
マティアスは慌てて彼女を抱き上げ、冷たい水を飲ませ、夜通し背中を擦り続けた。
翌朝、青白い顔で目を覚ましたマリーナは、机の上に残っていたパンの欠片を指差し、心底から怯えた声で震えていた。
「……あの白いかたまり……悪魔の泥よ……。あんな恐ろしい毒、二度と口に入れたくない……!」
その一方で、マリーナが猛烈な食欲を見せたのは、豚の脂身の塩漬けと、魚のアラを何時間も煮込んだ濃厚なスープだった。
マティアスが鍋いっぱいに作った肉の煮込みを、彼女は骨の髄まで綺麗にしゃぶり尽くし、スープの一滴まで残さず飲み干した。野菜には目もくれず、動物の脂と肉だけを腹に収めたマリーナは、さっきまでの青白さが嘘のように肌を艶やかに輝かせ、満足そうに喉を鳴らした。
肉しか食べず、パンを毒と恐れ、ペンギンのように歩く不思議な娘。
日増しに伸びて背中を覆う銀青色の長い髪が邪魔そうだったため、マティアスが港の小間物屋で買った青い髪紐を渡すと、マリーナは目を輝かせて喜び、不器用な手つきで嬉しそうに髪を一つに束ねるようになった。
夕暮れにマティアスが船の仕事を終えて帰ってくると、彼女はその青い紐を揺らしながら窓から顔を出し、満面の笑みで手を振って玄関までよちよちと駆け寄ってくれた。
孤独な下宿部屋に灯った温もりに、マティアスが心を奪われるのに、時間はかからなかった。
3. 二十一日目の夜
マリーナを拾ってから二週間が過ぎた頃から、部屋の中に奇妙な匂いが漂い始めていた。
潮風の匂いではない。熟れきった百合の花を煮詰めたような、重く甘い、吸い込むだけで頭の芯が痺れるような匂いだった。
匂いの元は、マリーナの身体だった。
彼女の皮膚は常にうっすらと桜色に火照り、首筋や胸元から、絶え間なく熱い湯気が立ち上っていた。
「マティアス……最近ね、お腹の底がずっと暴れてるの」
夜、並べた毛布の上で、マリーナが首筋に手を当てながら呟いた。
その首筋には、無意識に掻いた痕が赤く残っていた。
「痛いの? 医者を呼ぼうか」
「ううん……痛いのと、痒いのと……熱いのが、混ざってるの。マティアスが部屋に入ってくると、ここが……キューッて締め付けられて、頭がおかしくなりそうなの……」
マリーナの潤んだ瞳が、獲物を求める獣のようにマティアスを見つめていた。
マティアスは生唾を飲み込み、必死に目を逸らした。
身寄りのない娘だ。記憶が戻るまでは手を出してはならない――そう自分に言い聞かせていた。
だが、運命の**第二十一日の夜**。
その理性を、人間の常識では測れない暴力的な生体の嵐が粉々に打ち砕いた。
その晩は、雲ひとつない満月だった。
深夜、マティアスはベッドがきしむ凄まじい音と、布が裂ける音で跳ね起きた。
「……ッ、……あああああっ! あつい、熱い……! 誰か……消してぇぇっ!!」
月明かりの下、マリーナは狂乱していた。
着ていた古着のワンピースの襟元を自ら引き裂き、首筋や胸元を爪で激しく掻きむしりながら床を転げ回っていた。
部屋中に、あの甘い百合の花の匂いが充満し、息をするだけで喉が焼けそうだった。
「マリーナ! しっかりしろ!」
マティアスが飛び起き、彼女の肩を掴んだ瞬間――。
バチン、と火花が散ったような衝撃が走った。
マリーナの背中が弓なりに跳ね上がった。
見開かれた彼女の碧い瞳には、もはやマティアスという男を認識している理性の光はなかった。
ただ、何千年も海の底で繰り返されてきた、抗うことのできない剥き出しの本能――飢えと渇きに狂った獣の眼差しだった。
「マティアス……マティアスッ……!」
マリーナはマティアスに飛びついた。
その力は、普段の華奢な娘のものとは思えないほど強靭だった。
マティアスのシャツを掴み、首筋に噛みつくように唇を押し当ててくる。熱い吐息が皮膚を焼く。
「お願い……助けて……! あついの……焼け死んじゃう……! マティアス……この熱を止めてぇぇっ……!」
「マリーナ、待て! 落ち着け!」
「落ち着けないの……! お願い……お願いだから……!」
マリーナは涙をボロボロとこぼしながら、必死にマティアスに縋り付いた。
苦痛に喘ぐ彼女の顔は、懇願というよりは、溺れる者が息を求めて叫んでいるようだった。
理性を失った衝動であると分かりながらも、目の前で悶え苦しむ彼女を突き放すことなど、マティアスにはできなかった。
「……くっ、マリーナ……!」
マティアスは彼女の熱い身体を強く抱き寄せた。
激しい熱気と本能の渦に呑まれるようにして、二人は肌を重ねた。それが正常な判断によるものではないと知りながらも、マティアスは彼女の激しい熱情を受け止め、その夜、二人は深く結ばれた。
激しい嵐のような時間が過ぎ、夜明けの直前。
張り詰めていたマリーナの全身の強張りが、ふっと解けた。
彼女の碧い瞳から涙が引いていき、その顔に、生まれて初めて見るような深い、深い静寂が満ちていった。
「……あ……りが……と……」
マリーナは小さく唇を動かし、マティアスの腕の中で、糸が切れたように眠りに落ちた。
マティアスは激しい動悸を抑えながら、彼女の濡れた額に口づけを落とした。
混乱と戸惑いは残っていたが、腕の中の温もりを確かめるうちに、彼女への強い愛おしさが胸を満たしていった。
(明日になったら、教会へ行こう。俺が一生、お前を守る)
そう心に誓い、心地よい疲労感に身を委ねて目を閉じた。
4. 埠頭の朝
マティアスが目を覚ましたのは、窓から差し込む冷たい朝の光のせいだった。
腕の中にあったはずの温もりが、消えていた。
「……マリーナ?」
飛び起きたマティアスの目に飛び込んできたのは、異様な光景だった。
ベッドのシーツの中央、二人が重なり合っていた場所に、冷たい海水の水たまりが広がっていた。
そして、その水たまりの中に――あの日渡した青い髪紐が、ぐっしょりと濡れて沈んでいたのだ。
生臭い海の匂い。
部屋を見回すと、床の板張りに、何者かが水を引きずって這い回ったような濡れた跡が、玄関のドアへと続いていた。
ドアは開け放たれ、冷たい潮風が吹き込んでいる。
「マリーナ!?」
胸騒ぎに背中を殴られたマティアスは、シーツから濡れた青い髪紐を無我夢中で掴み取ってポケットにねじ込むと、靴も履かずに通りへと飛び出した。
朝靄に煙る港町の裏通り。
濡れた跡は、港の突堤――外海へ突き出た高い石積みの埠頭へと続いていた。
その先で、マティアスは信じられない光景を目撃した。
「マリーナッ!!」
埠頭の石畳の上を、ひとりの女が這っていた。
マリーナだった。
だが、その姿は昨夜までの娘とは一変していた。
彼女の両脚は、内側から磁石のように互いに強く引き合わされ、皮膚と肉が引き攣れて癒着しかけていた。二本の脚を広げることすらできず、膝と肘を擦りむきながら、石畳を必死に這いずっていた。
足の皮膚は青白さを失って深く濃い青緑色へと変色し、海棲の皮膚へと急速に引き攣れていた。
「マリーナ! どうしたんだ、何があったんだ!?」
マティアスが叫びながら駆け寄ると、彼女はびくりと肩を震わせ、振り返った。
その顔は、言葉を失うほどの激痛と恐怖に歪んでいた。
「ひゅ……っ、……あ……」
彼女は必死に口を開き、マティアスの名を呼ぼうとした。
だが、あの鈴を転がすような声は、もうどこにもなかった。
喉からは、ゴボゴボと血の混ざった泡と、かすかな息の漏れる音しか出なかった。
「声が……!? 待て、動くな! 今、医者を呼ぶから!」
マティアスが腕を伸ばした、その時。
マリーナは首を横に振った。
彼女の碧い瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。
彼女はマティアスの目をまっすぐに見つめると、声の出ない唇を、ゆっくりと、はっきりと動かした。
――『さ よ う な ら』
――『あ り が と う』
そして彼女は、残された最後の力で埠頭の縁を蹴り、冷たい外海へと身を投げ出した。
「やめろぉぉぉぉぉぉっっっ!!!!」
ザパァァァァァンッ!!
激しい水飛沫が朝の光に散った。
マティアスは埠頭の先端に身を乗り出し、海面を見下ろした。
泡立つ白波の奥深く。
沈んでいく彼女の下半身は、もはや人間の脚などではなかった。
二本の脚は完全にひとつに合わさり、朝日を浴びて巨大な扇のように広がる、力強く優美なエメラルドの尾鰭へと変わっていた。
彼女は海中で一度だけ身を翻し、水底からマティアスを見上げると、魚の矢のように鋭い軌跡を描いて、深い海の底へと消え去っていった。
海面には、ただ静かに波打つ白波と、数羽の海猫の鳴き声だけが残されていた。
5. 海女房の影
それから一ヶ月が過ぎた。
港の酒場の片隅で、マティアスは一人、強いラム酒のグラスを見つめていた。
手の中には、あの日ベッドに残されていた、あの青い髪紐が固く握りしめられている。海水に濡れ、一度乾いて少し硬くなったその紐の感触を確かめながら。
隣に座っていた、この町で最も古い老漁師が、沈み込むマティアスをちらりと見て、深くパイプの煙を吐き出した。
「……マティアス。お前さん、まだあの娘を探してるのかい」
「じいさん……あんた、知ってるんだろ。あいつは……マリーナは、何だったんだ。あいつの足は、目の前で一つにくっつきそうになって……海へ飛び込んじまったんだ」
老人は目を細め、荒波の打ち寄せる窓の外を見つめた。
「人魚だよ。……俺たち船乗りが昔から『海女房(うみづま)』って呼んで恐れてる、海の化け物さ」
「人魚……?」
「ああ。奴らの群れには、女しかいねえ。海の中で女ばかりが生まれ、女ばかりで泳いでる。だがな、何年かに一度、子供を腹に宿す季節になると……奴らの尾ひれはふたつに裂け、人の言葉を喋る喉が生えて、陸へ這い上がってくるのさ」
老人はパイプの灰を皿に落とし、声を潜めた。
「奴らの狙いはひとつだけだ。人間の男を騙して、子供を作るための『種』を奪うことさ。生きた男の種をもらわなきゃ、奴らは子供を産めねえ体なんだよ」
「種を……奪う……?」
マティアスは息を呑んだ。
あの満月の夜。狂ったように助けを求めて泣き叫んでいたマリーナの姿が脳裏をよぎる。
「じゃあ……あいつにとって、俺は……ただの道具だったのか? 種を盗むためだけに、俺の前に現れて……!」
マティアスの拳が怒りと悔しさで震えた。
だが、老漁師は首を横に振った。
「そうとも言い切れねえさ。昔からの言い伝えじゃな、種をもらった瞬間、化け物の魔法は解けちまう。足は引き裂かれるように痛んで尾ひれに戻ろうとし、人間の言葉も喋れなくなる。海へ逃げ帰れなきゃ、陸の乾いた空気と重さに耐えきれず、身体が引き裂かれてドロドロに溶けて海の泡になっちまうんだ」
老人はマティアスの肩に、しわがれた手を置いた。
「奴らにとって陸に上がるのは、命がけの博打だ。見つかればモリで突かれて見世物にされる。……お前が優しく抱いてやらなきゃ、あいつは怖くて種をもらう前に海へ逃げ帰っていたはずだぜ」
「…………」
「今頃あいつは、冷たい海の底で、お前と作った子供を腹の中で育ててるさ。だが……またこの港へ戻ってくるかどうかまでは、俺にもわからねえ」
酒場を出たマティアスは、あの日マリーナと暮らした下宿部屋へと戻った。
静まり返った部屋。
マティアスは机の前に立ち、古い木製の天板を見つめた。
そこには、あの日マリーナが部屋を出る直前、尖った爪で必死に引っ掻いて刻んだ、拙い文字が残されていた。
『【まてぃあす すき】』
たどたどしい、けれど深く刻み込まれた文字。
マティアスは崩れ落ちるように椅子に座り、その文字を指先でそっと撫でた。
涙がぽろぽろと零れ落ち、古い木肌を濡らしていく。
言葉を覚えた日のあの笑顔も。
パンを食べて苦しそうに嘔吐したあの夜も。
肉を美味しそうに平らげて喉を鳴らしたあの仕草も。
種を求めて泣き叫んだあの激しさも。
すべては、過酷な生殖の本能だったのかもしれない。
けれど――その本能の檻の中で、彼女が確かに自分に向けてくれた心だけは、決して嘘ではなかった。
窓の外からは、今日も変わらず、冷たい北海の波の音が聞こえていた。