発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様 作:神座鬼神
1. 街道の異変と、迫る蹄音
変態開始から十一日目の夕暮れ。
中央街道は、鬱蒼とした黒松の大森林を縫うように、険しい山間部へと差し掛かっていた。
西の空には血のような夕焼けが広がり、乾いた秋風が枯れ葉を舞い上げている。
カタトコ、カタトコ、と車輪が軋む音に混じって――。
不意に、後方の街道の遠くから、地鳴りのような規則正しい響きが届き始めた。
「……旦那! ヴィンセントの旦那!」
御者が御者台の小窓を激しく叩き、震える声を上げた。
「う、後ろから……早馬の一隊が追ってきてますぜ! 大聖堂の銀十字の旗を掲げた、教区の武装騎兵だ!」
ヴィンセントは帳簿を閉じ、素早く窓のカーテンを引いて後方を覗き見た。
一マイルほど後方、街道の白く舞い上がる砂埃の奥に、五騎の黒い馬影が見えた。
黒革の陣羽織に身を包んだ騎兵たち。その先頭の鞍脇には、大型の軍用猟犬(ブラッドハウンド)が二頭、長い引き綱に引かれて疾走していた。
(……早すぎる。正午に令状を取り、直ちに追撃部隊を街道へ放ったのか)
オズワルド司祭の執念は、ヴィンセントの想定を上回っていた。
空になった地下セルを見た司祭は、ヴィンセントを「魔物を連れ去った背教者」として、港湾警察ではなく自らの直属部隊に追跡を命じたのだ。
「おい、ヴィンセント……」
向かいの座席で、クラウディアがフードを震わせて身を乗り出してきた。
「あの犬……鼻をくんくん鳴らしてる。……私の匂いを追ってきてるんだ!」
完全肉食の代謝と、陸上適応が進む人魚の身体から漂う微かな甘い潮の香り。鋭敏な嗅覚を持つ軍用猟犬なら、馬車の微かな移り香を辿るなど容易いことだった。
「御者! 馬車をあの左手の脇道――古い採石場へ突っ込め!」
ヴィンセントは叫んだ。
「このまま街道を走っても、あと十分で追いつかれる! 岩場で馬車を隠すぞ!」
「へ、へいっ!」
御者が狂ったように手綱を叩き、馬車は急角度で街道を外れ、打ち捨てられた巨大な花崗岩の採石場跡へと飛び込んだ。
2. 切り立った採石場と、絶体絶命の包囲
巨岩が切り立ち、砕石が散らばる荒涼とした採石場。
馬車は岩壁の窪みに飛び込み、激しい軋み音を立てて急停止した。
「ヒヒィィンッ!」
馬の鼻息が夕闇に白く散る。
だが――御者は馬車が止まるや否や、青ざめた顔で御者台から飛び降りた。
「す、すまねえ旦那! 教会の異端審理に睨まれちゃ、この国じゃ生きていけねえ! 金は要らねえから、俺は逃げるぜ!」
「待て、御者!」
ヴィンセントの制止を無視し、男は採石場の茂みの中へと脱兎のごとく逃げ去っていった。
「腰抜けめ……」
「ヴィンセント、来た……! すぐそこまで来てる!」
クラウディアが叫んだ。
採石場の入り口から獰猛な猟犬の吠え声が反響し、蹄の音が岩肌を叩く音が迫っていた。
「馬車の中にいては標的になる。出ろ、クラウディア!」
ヴィンセントはクラウディアの手を引き、馬車の外へと飛び出させた。
「あの奥――古い採石坑へ逃げ込むぞ!」
「う、うん……っ!」
クラウディアは必死に二本の脚を動かした。
だが、ここは整えられた石畳ではない。大小の砕石が転がる険しい瓦礫の斜面だ。
土踏まずのない平らな足底は、ゴツゴツとした石を踏むたびに激しくバランスを崩し、水かきを庇ったブーツのつま先が小石に蹴躓いた。
「……ひゅ……っ!」
「クラウディア!」
転倒しかけた彼女の華奢な身体を、ヴィンセントは間一髪で抱き止めた。
そのまま彼女の腰を片腕で抱え上げ、全体重を自らの肩に預けさせるようにして、砕石の斜面を駆け登った。
背後で、激しい銃声が轟いた。
――ズドォォン!!
鉛の弾丸が、ヴィンセントのすぐ傍らの花崗岩を打ち砕き、火花と破片を撒き散らした。
「いたぞ! 背教者ヴィンセントと、悪魔の女だ!」
騎兵の隊長の怒声が響いた。
「生け捕りにする必要はない! 主の敵をその場で射殺せよ! 犬を放て!」
ガシャリ、と鎖が外される金属音。
黒い毛並みの猟犬二頭が、牙を剥き出しにして猛然と斜面を駆け上がってきた。
3. 暗闇の瞳、人魚の爪
「坑道に入れ!」
ヴィンセントはクラウディアを、岩壁に穿たれた採石坑の狭い入り口へと押し込んだ。
入り口から数間入ると、外の残光は完全に届かなかった。追手に居場所を悟られぬよう、坑道へ飛び込む直前に手持ちのランタンの火を吹き消していたため、中は濃密な暗闇に沈んでいた。奥行きは判然とせず、奥の坑道は黒々とした闇の底に呑まれている。
ヴィンセントはコートの内ポケットから、護身用の小型二連発ピストルを取り出し、冷たい撃鉄を起こした。
だが、装填されている弾丸はわずか二発。相手は五人の武装騎兵と、二頭の獰猛な軍用犬だ。
視界の利かない完全な暗闇の中で闇雲に撃てば、弾を浪費するだけでなく、マズルフラッシュでこちらの位置を正確に知らせる的になるだけだった。
(……この暗闇では、犬がどこから飛び込んでくるかも見えん)
冷たい汗が背中を伝った、その時だった。
「……ヴィンセント」
暗闇の中で、細い手がヴィンセントの手首をきゅっと掴んだ。
クラウディアだった。
彼女はマントのフードを脱ぎ捨て、漆黒の洞窟の奥から入り口を見据えていた。
ヴィンセントは息を呑んだ。
暗闇の中、クラウディアの碧い瞳が――まるで深海の発光生物のように、怪しく青白い光を宿して爛々と輝いていたのだ。
太陽の届かぬ深海に適応した、海洋霊長類の夜間視力。
人間には一寸先も見えない完全な暗闇が、彼女には隅々まで見通せていた。
「……サル、私に命令されるの、嫌いか?」
クラウディアの唇が、鋭く引き結ばれた。
「生き残るためなら、誰の指図でも受ける」
「なら、私の言う通りに動きな」
クラウディアの耳が微かに動いた。
「犬が一頭、左の壁伝いに飛び込んでくる。……いま!」
クラウディアの声と同時に、ヴィンセントは左の空間へ向けて、真鍮枠のランタンの底を力任せに叩きつけた。
ゴッ! と鈍い打撃音が響き、飛びかかってきた一頭目の猟犬が悲鳴をあげて岩壁に激突した。
だが、二頭目の犬が、すぐさまヴィンセントの喉元をめがけて跳躍した。
暗闇で視界のないヴィンセントの反応が、一瞬遅れる。
「ヴィンセントッ!」
クラウディアが跳んだ。
二本の脚で地面を強く蹴り、ヴィンセントの前に割り込む。
彼女は水かきのついた白い右手を、鋭い鉤爪のように振り抜いた。
ギィィッ! と肉を引き裂く激しい音が響いた。
人魚の爪――硬い貝殻や魚の骨を素手で引き割く、驚異的な握力と鋭利な爪先が、空中で猟犬の鼻先を正確に一文字に切り裂いたのだ。硬い有機物や獲物の肉を断ち割るには凶悪な威力を誇るが、強靭に撚り合わされた太い繊維を刃物のように滑らかに切断する構造ではない。だが、生身の獣を圧倒するには十分すぎる一撃だった。
「ギャウンッ!」
軍用犬は鼻血を吹き出し、恐怖に尾を巻いて洞窟の外へと転がり出た。
「……大した爪だな」
ヴィンセントが息を呑みながら呟いた。
「当たり前だろ、陸のサル。……次が来る! 銃を持ったやつが、松明をつけて入ってくる!」
洞窟の入り口に、ゆらゆらと松明の赤い光が差し込んできた。
馬を降りた騎兵隊長が、サーベルとマスケット短銃を構え、警戒しながら足を踏み入れてくる。
「化け物め……! 神の御名において――」
「ヴィンセント、あいつの足元! 崩れかけの石組みがある!」
クラウディアが叫んだ。
「その右の木の支柱を蹴っ飛ばして!」
ヴィンセントは迷わなかった。
ポケットから取り出した予備の鯨油瓶の栓を歯で抜き、隊長の足元の木組みへ向けて叩きつけた。
ガシャン! と油が飛散し、松明の火が引火して激しい炎が立ち上る。
「うわっ!?」
隊長が炎に怯んで後ずさった瞬間、ヴィンセントは長靴の踵で、クラウディアが指し示した腐りかけの坑木を力任せに蹴り折った。
ガラガラガラ……! ドォォォン!!
天井を支えていた花崗岩の巨石が崩れ落ち、轟音とともに大量の土砂が洞窟の入り口を塞いだ。
隊長は間一髪で外へ跳び退いたが、入り口は完全に巨大な岩石で埋め尽くされ、外と中は完全に遮断された。
「……クソッ! 生き埋めになったか! つるはしを持ってこい! 街道から人足を集めろ!」
崩れた岩の向こうから、隊長の悔しげな怒声が微かに響き、やがて遠ざかっていった。
4. 崩落の暗闇、冷たい損益分岐点
白煙と粉塵が立ち込める中、洞窟の奥に静寂が戻った。
崩れた巨石と土砂の隙間から、細い風がかすかに吹き込んでいる。
追手たちが道具と人足を集めてこの岩山を掘り返すには、少なくとも半日はかかるはずだった。
「はぁ……っ、はぁ……っ」
ヴィンセントは冷たい岩壁に背中を預け、荒い息を吐きながら座り込んだ。
手のひらは擦り傷だらけで、上等のコートは土埃で白く汚れていた。
暗がりの中でピストルを収め、懐中時計の蓋をカチリと閉じる。
(馬車一台を全損、手付金も消えた。……大赤字だな)
だが、命と手持ちの貨幣だけは拾った。
その隣で、クラウディアもまた、ぺたんと岩の上に腰を下ろしていた。
水かきのついた白い指先には、かすかに犬の血がこびりついている。
彼女は血の匂いに小さく鼻を鳴らし、暗闇の中で青く輝く双眸を、ゆっくりとヴィンセントへと向けた。
「……お前、なんで私を連れて逃げた?」
クラウディアの声は低く、探るような鋭さを含んでいた。
「御者が逃げた時……お前一人なら、茂みに潜り込んでやり過ごせただろ。私を囮にあいつらに差し出せば、『魔物に脅されていただけの被害者だ』って言い逃れできたんじゃないのか?」
ヴィンセントは息を整えながら、淡々と返した。
「極めて愚劣な計算だな。お前という金貨五百枚の生体担保を放棄すれば、私は多額の負債を抱えて商会から追放される。……それに、お前を置き去りにしたところで、あの軍用犬はお前の匂いを嗅ぎつけた後、同じ馬車に乗っていた私の足取りも追ってきたはずだ。犬に喉笛を噛み千切られて終わるのが関の山だった」
ヴィンセントはコートの埃を払い、暗闇の青い瞳を見据え返した。
「事実として、お前の夜間視力と爪がなければ、私は今頃頭を鉛で撃ち抜かれていた。……貸借対照表の帳尻を合わせるなら、私はお前に大きな借りを作ったということだ」
ヴィンセントは懐から手拭いを取り出すと、クラウディアの膝元へ放った。
「それで手を拭け。血の匂いは追跡の手がかりになる」
クラウディアは手拭いを受け取り、爪の間の血を拭った。
ヴィンセントの計算高い物言いに、彼女は不敵に八重歯を覗かせて笑った。
「ふん。よく分かってるじゃないか、陸のサル。私がいなきゃ、お前なんてあの犬の餌になって転がってたんだよ。せいぜい私の価値を思い知ることだね」
「軽口を叩く元気があるなら、足の具合はどうだ」
ヴィンセントの視線が、彼女の足元へ落ちた。
砕石の斜面を駆け登ったせいで、改造ブーツの革が擦れ、隙間から覗く足首が赤く鬱血していた。土踏まずのない平らな足底に、岩場の衝撃は過酷だったのだ。
「……別に。こんなの何ともない」
クラウディアは強がって立ち上がろうとしたが、足裏に体重をかけた瞬間、痛みに顔を歪めて小さくよろめいた。
ヴィンセントがすかさずその細い腕を掴んで引き留めた。
「意地を張るな。完全に歩けなくなってみろ、私が貴様を背負って山を越える羽目になる。……その分の追加運賃を請求しようにも、お前は一文無しの貨物だからな」
「誰が一文無しだ! 帝都に着いたら、山ほど極上の肉を奢らせてやるからな。お前の財布を空にしてやる」
「買い手から金貨五百枚を受け取った後なら、いくらでも奢ってやるさ」
その時――クラウディアの下腹から、ぐぅ、と激しい腹鳴りが響いた。
激しい運動によるエネルギー消費が、完全肉食の高代謝を刺激したのだ。
クラウディアは気まずそうに唇を尖らせ、そっぽを向いた。
ヴィンセントは肩掛け鞄から塩漬けマトンの干し肉を取り出し、真っ二つに割って半分を彼女に渡した。
「食え。夜明け前にはここを出るぞ」
クラウディアは干し肉を前歯で引き裂いて咀嚼しながら、ヴィンセントが渡した毛布を引き寄せ、岩壁に背を預けた。
一定の距離を保ちながら、互いの息遣いを聞く。
海へ逃げる好機を窺う警戒と、金貨五百枚の取引を遂行しようとする打算。その根底にありながらも、二人の間には、互いの実力と命を預け合ったことへの確かな認識が生まれていた。
「……おい、ヴィンセント」
干し肉を飲み込んだクラウディアが、闇の奥を見つめて言った。
「この穴、ただの行き止まりじゃないよ。奥の崩れた岩の隙間から、冷たい風が吹き込んできてる。……裏山へ通じてる」
「風が通っているのか」
ヴィンセントは立ち上がり、クラウディアの指さす暗がりの奥へ目を凝らした。
「ならば、朝を待ってその坑道から裏山へ抜ける。街道を避け、山伝いに次の宿場へ向かうぞ」
「わかった。……へばって足を引っ張るなよ、帳簿係」
「それはこちらの台詞だ」
崩落した岩石の向こうに追手を残し、暗黒の廃坑の中で、二人は短い休息に入った。