発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様 作:神座鬼神
1. 霧の尾根と、二つの足跡
変態開始から十二日目、夜明け前。
採石場の廃坑の奥深く、ひんやりとした湿った空気が流れる古い坑道を、二つの影が進んでいた。
カツン、ペタッ、カツン、ペタッ。
乾いた革靴の足音と、不揃いに引きずるような湿った足音が、暗闇の岩肌に小さく反響する。
「……おい、帳簿係。歩くのが速いよ」
背後から、不機嫌そうな低い声が飛んできた。
ヴィンセントは足を止め、手にした真鍮ランタンを微かに掲げて振り返った。
煤で汚れたクラウディアが、岩壁に肩を預け、荒い息を吐いていた。
昨夜の落石と軍用犬との乱戦で、彼女のブーツは泥と砕石にまみれている。平らな足底で急激な衝撃を受け止めた右足首は、赤く鬱血して腫れ上がっていた。
「弱音を吐くにはまだ早い。入り口を塞いだ巨石も、教会の騎兵が人足を駆り集めれば正午までには掘り返されるぞ」
「弱音なんか吐いてない! ……ただ、このサルの足が言うことを聞かないだけだ」
クラウディアは悔しそうに八重歯を噛み締め、腫れた右足首を庇うように立ち直った。瓦礫の斜面を踏みしめるたび、慣れぬ二本の足首へ鋭い痛みが走るのだ。
「……頑固な奴だな」
ヴィンセントは短く息を吐くと、クラウディアの傍らまで戻り、無造作に左肩を差し出した。
「掴まれ。体重の半分を私の肩に預けろ」
「……誰がお前の施しなんか」
「施しではない、減価償却の管理だ。お前の足が完全に壊れて歩行不能になれば、背負って運ぶ私のエネルギー消費と移動速度の低下という二重の損失が発生する。……肩を貸す分の介助費用は、帝都の買い手への請求書に上乗せしておくから安心しろ」
「……相変わらず、可愛げのない計算ばかりしやがって」
クラウディアは毒づいたが、強がりだけで歩ける状態ではないことは本人が一番よく理解していた。
彼女は細い腕をヴィンセントの肩に回し、体重を預けた。
衣服越しに伝わってくる、人間の男の乾いた体温。
その温もりが首筋に触れた瞬間、クラウディアの背筋に、ピリリとした微かな痺れが走った。
(……また、お腹の奥が熱くなる……)
変態開始から十二日目。衣服越しに伝わるオスの体熱に、下腹の奥が鈍く疼く。知覚が過敏になり、雄の体温に密着することが甘い誘引となって皮膚を焼く。
だがクラウディアは奥歯を噛み締め、荒くなる呼吸を整えてその衝動をねじ伏せた。
「……行くよ。坑道の出口は、あの風の吹いてくる右上だ」
二人は互いに体重を支え合いながら、瓦礫の斜面を這い上がった。
崩れかけた木の支柱をくぐり抜け、岩の割れ目から外へ這い出ると――朝の冷たい青白い光が、二人の視界を一気に染め上げた。
2. 朝霧の交易河川と、遠い海
そこは、採石場の裏手にそびえる険しい尾根だった。
眼下には、深い黒松の樹海と、秋の朝霧が川霧となって白く立ち込める広大な盆地が広がっていた。
「……見ろ」
ヴィンセントが木立の影から、眼下の街道を指さした。
朝霧を切り裂くように街道の辻々には篝火が焚かれ、銀十字の旗を掲げた教会の騎兵たちが往来する荷車を一台ずつ槍で突いて検問を行っていた。
馬車を失ったいま、あの街道を徒歩で突破するなど不可能だった。
「街道は完全に封鎖されたな。オズワルド司祭の執念は本物だ。……次の宿場町へ裏山から迂回し、農夫の荷車でも買い取る算段を立てる必要がある」
ヴィンセントが手帳を取り出し、逃走経路の計算を始めた。
だが――その隣で、クラウディアは街道など見ていなかった。
彼女の碧い双眸は、盆地の底、朝霧の裂け目をうねるように流れる一本の巨大な銀色の帯に釘付けになっていた。
「……川だ」
クラウディアの唇から、かすかな吐息が漏れた。
鋭敏な嗅覚が、乾いた山の空気の中に混じる、懐かしい水蒸気と泥、そして生命の匂いを捉えていた。
幅百ヤードはあろうかという雄大な大河。川面には、巨大な木材の筏や、石炭を満載した大型の平底船が、早朝の川霧を切り裂いて下流へとゆっくり下っていく姿が見えた。
「あれは……どこへ流れてるの?」
クラウディアが震える声で尋ねた。
「ヴェルナー川だ。この中央山脈の源流域から帝都の運河群を貫き、北海の外海へ注ぐ大動脈だ。馬車で山間部を迂回したおかげで、我々は帝都より上流の河港へ出た。内陸の木材や石炭の大半は、あの平底船の水運によって川下へと運ばれる」
海へと注ぐ。
その言葉を聞いた瞬間、クラウディアの胸の奥で、激しい心拍の鐘が鳴り響いた。
(海へ……繋がっている……!)
エルンスト港から馬車で内陸へと運ばれ、もう二度と海を見ることは叶わないと絶望しかけていた。
だが、水は繋がっていたのだ。
あの銀色の川の流れの先には、冷たく広大な北海が待っている。
3. 尾根の打算と、水路への誘い
クラウディアは木陰に座り込み、腫れた足首を手で押さえながら、眼下の銀色の川を見つめた。
海で生きる野生の本能と、おばばから授かった知恵が、彼女の頭の中で静かに火花を散らしていた。
(……あの川だ。あの水へ出なきゃいけない)
クラウディアの脳裏に、昨夜の廃坑で浅い仮眠を取っていたヴィンセントの姿が蘇る。
あの時、毛布の暗がりの中で、彼女の指先は何度も蠢いた。寝込みを襲って組み伏せる隙はあったのだ。
だが――あの乾いた岩山で事を起こせば、受胎と同時に脚が変態を始め、二度と立ち上がれなくなる。陸の奥深くで足が立たなくなれば、追手に突き殺されるか、飢えて干からびるだけの自滅だった。
(水がなければ、生き残れない……)
だが、あの川の上ならどうだ。
足元には豊かな水があり、流れの先には広大な海がある。水の上で隙を窺いさえすれば、生き延びる勝機は残されているはずだ。
そのためには、目の前の男を利用しなければならない。
陸の知識も金も持たない自分一人では、船に乗ることすらできない。
あいつに金を払わせ、川船へ乗り込ませる――すべてはそれからだ。
(せいぜい私を運ぶ算盤を弾くがいいさ、帳簿係)
クラウディアは口元に不敵な八重歯を覗かせ、立ち上がった。
4. 交錯する打算、水路の取引
「……おい、ヴィンセント」
クラウディアは木立から歩み寄り、手帳に鉛筆を走らせていたヴィンセントの前に立った。
「なんだ。足の痛みが引いたのか」
ヴィンセントは顔も上げずに尋ねた。
「引くわけないだろ。……それより、お前のその逃走計画、聞いてあげるよ。裏山を越えて、宿場町で農夫の馬車を買うつもりだろ?」
「それが一番確実だ。馬車さえ手に入れば、夜陰に乗じて脇道を抜けられる」
「無理だね、帳簿係」
クラウディアは八重歯を覗かせ、鼻を鳴らした。
「あの教会の騎兵たち、猟犬を連れてたのを忘れたの? 犬の鼻は、馬車に乗っていようが関係ないよ。街道を走れば、風下に匂いが流れてすぐに見つかる。……それに、私のこの足じゃ、宿場町まで山道を歩き通す前に壊れちゃうよ」
ヴィンセントの手が止まった。
彼は手帳を閉じ、冷たい視線でクラウディアを見据えた。
「……一理あるな。だが、歩くのをやめてここに座り込んでいても、追手に包囲されるだけだ。お前に代案があるのか?」
「あるよ」
クラウディアは細い指を伸ばし、朝霧の底を流れるヴェルナー川を指さした。
「あの川船だよ」
「……川船だと?」
「そうさ。石炭や材木を積んだ平底船。あそこに潜り込めば、車輪の跡も残らないし、水の上なら犬の鼻だって効かないだろ。……それに、船に乗ってしまえば、私は歩かなくて済む。お前だって、私を背負って山道を何マイルも歩く羽目にならなくて済むじゃないか」
教会の追跡網を回避し、かつ負傷したクラウディアを最短で帝都方面へ運ぶ手段として、水運の利用は極めて合理的な選択肢だった。
だが――ヴィンセントは即座には頷かなかった。
彼は立ち上がり、クラウディアとの距離を一歩詰めた。
鋭い視線が、クラウディアの碧い瞳の奥を射抜く。
「……人魚が自ら、水辺へ近づくことを提案するとはな」
ヴィンセントの声音は低く、冷淡だった。
「川へ飛び込んで、そのまま逃げる気ではないだろうな」
クラウディアは眉一つ動かさず、むしろ呆れたように肩をすくめてみせた。
「逃げる? ……あんな泥臭い川に飛び込んで、どこへ逃げろって言うの?」
クラウディアはスカートを少し持ち上げ、包帯代わりに布を巻いた足先を見せつけた。
「よく見なよ、帳簿係。私の足は、平らな地面をよちよち歩くのが精一杯なんだよ。尾ひれもないのに急流の川に飛び込んだら、流木や岩に叩きつけられるか、川漁師の網に引っかかるのが落ちだ」
彼女は一歩踏み込み、ヴィンセントの胸元を人差し指で小突いた。
「言ったはずだよ。帝都で極上の肉を奢ってもらうまで、お前を見捨てないってね。……それとも何? 大商人サマは、教会の犬に怯えて、一番安全な抜け道をドブに捨てる気?」
挑発的な碧い瞳。
ヴィンセントはクラウディアの瞳をじっと見つめ返し、やがて懐中時計を取り出して時刻を確認した。
「……ヴェルナー川の平底船は、帝都の外郭河港へ直通している。荷役頭に銀貨を握らせれば、船倉の石炭の隙間に潜り込むことは可能だ」
ヴィンセントは冷ややかに告げた。
「いいだろう。川船を使う。……だがクラウディア、忠告しておく」
ヴィンセントは彼女の華奢な顎を革手袋の指先でくいと持ち上げ、その耳元に冷たい囁きを落とした。
「船の上でも、お前の足首には常にロープを繋いでおく。……それから、私が眠っている隙に喉笛を掻き切ろうなどと考えるな。昨夜見せただろう。私の懐には常に撃鉄を起こした小型銃がある。指が触れた瞬間、お前の頭部が吹き飛ぶぞ」
クラウディアの背筋に、冷たい緊張が走った。
この男は、寝込みを狙われる可能性まで計算に入れている。
「……ふん。誰がお前の不味そうな喉笛なんか狙うもんか。自惚れるな、冷血漢」
クラウディアは顎を払いのけ、不敵に笑ってみせた。
だが、内側では闘志が冷めることはなかった。
銃を握っていようが、人間である以上、極度の疲労による深い眠りは避けられない。
(……上等だ。船倉の闇の中で、どっちが食い殺されるか勝負しようじゃないか)
5. 炭焼きの煙と、迫る船着き場
針路は決まった。
二人は尾根の急斜面を、木々の幹を伝いながら慎重に下り始めた。
山腹の炭焼き小屋から立ち上る青い煙が、朝の湿った大気に溶けていく。
ヴィンセントは小屋の軒先に干してあった薄汚れた麻袋と作業着を、銀貨一枚を転がして失敬し、クラウディアの銀髪と肌を完全に覆い隠した。
顔中に煤を塗りたくられたクラウディアは、炭焼きの丁稚(でっち)の少年にしか見えなかった。
「……うぅ、煙と油の匂いがする」
「文句を言うな。異端審理の目を眩ますには、これ以上の偽装はない」
谷底へ降り立つと、川の流れる重々しい轟音が間近に迫ってきた。
霧の向こうに、無数の丸太が組まれた巨大な材木集積所と、黒い石炭の山、そしてそこに横付けされた十数隻の平底船が見えてきた。
船乗りたちの怒号と、ウインチが鎖を巻き上げる軋み音が響いている。
川の冷気が、クラウディアの頬を撫でた。
その湿り気を感じた瞬間、彼女の下腹の奥で、ズキンと重い疼きが走った。
(……っ!?)
クラウディアは思わず立ち止まり、下腹を手で押さえた。
子宮の奥が、ぎゅっと収縮するような奇妙な熱。
男の温もりを間近で浴び続け、川の冷気と湿気に触れたことで、第2期の発情衝動が確実に深まりつつある証拠だった。
(……理性を焼き切るような狂乱の熱に呑まれる前に、なんとしてもこの男の種を奪って、水へ逃げ出さなきゃ……!)
焦燥と、種を求める野生の本能が、クラウディアの胸を強く締め付けた。
「おい、遅れるな。あの三番船の船長と交渉するぞ」
前を行くヴィンセントが、煤けたマントを翻して振り返った。
「……わかってるよ!」
クラウディアは痛む足を引きずりながら、男の背中を追って、船着き場の喧騒の中へと踏み出していった。
水の上へ――そして、海へと続く逃亡の航路へ。