発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様 作:神座鬼神
第1話:未同定水生動物(検体A-01)の搬入および初期外形計測
観察日誌:一八四九年十月十二日
※注記:以下の区分および後述の経過整理は、すべての観察が終了した後に日誌を綴じた際のものである。変化開始日は不詳のため、日数は収容日を起点とする。
観測場所:沿岸博物学研究所・地下比較解剖室
観察・記録:主任研究員 アルベルト・マウラー
助手:カール・ヘンペル
被験体:北海沿岸にて捕獲された所属未詳の水生動物(外形は哺乳類に類似。便宜上の通称:人魚)成体メス一頭
標本番号:検体A-01
搬入時状態:生体。呼吸および心拍微弱、全身に軽度の擦過傷、意識混濁
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1. 搬入と解剖台への固定
酒精の匂いと、引き潮の磯の匂いが、地下比較解剖室に混じっていた。
天井の鯨油ランプが、亜鉛板を張った解剖台を照らしている。
「先生、運び込みました。漁師たちは、もう帰してくれと……」
助手カールの肩から、雨と海水が滴っていた。二輪の運搬車には、防水布に包まれた長い身体が横たわっている。
アルベルト・マウラーは、手元の帳面に鋼ペンを走らせたまま尋ねた。
「どこで、何時に捕らえた?」
「北海沿岸の浅瀬です。夜明け前の網に……」
「その言葉を記録しろ。体表を乾かさず、こちらへ移す」
カールが布を開くと、銀緑色の髪が台の縁へ落ちた。
上半身は人間の女性によく似ていた。青白い肌、低い鼻梁、小さな外耳孔。だが、半開きの口には内側へ曲がる円錐状の歯が並んでいる。
カールは息を呑んだ。
「人魚……」
魚の鱗はなかった。腰から続く滑らかな皮膚の下で、尾とも脚ともつかない形が左右に分かれかけている。足先に当たる部分は、まだ厚い膜でつながっていた。
突然、その身体が動いた。
濃紺の瞳が開き、半透明の瞬膜が横へ滑る。彼女は周囲を見回すと、台から身を起こそうとした。
「肩と手首を支えろ」
「先生、苦しんでいます。まず休ませた方が――」
「暴れれば傷が広がる。拘束具を取り付けろ」
マウラーは洗った布を当て、彼女の手を台に押さえた。カールが革帯の留め具を締めると、抵抗する手の動きが止まった。
人魚は低く声を漏らし、首を振った。
何かを訴えている。
カールはそう感じたが、意味の分かる言葉にはならなかった。
「布を濡らせ。計測を始める」
マウラーは彼女の顔から視線を外し、器具台へ手を伸ばした。
2. 初期外部形態計測
「記録を開始する。一八四九年十月十二日、午前三時四十分」
マウラーはトレイから真鍮製の大型ノギスと寒暖計を手に取った。
「カール、帳面を執れ。私の発言を書き留めろ」
「は、はいっ!」
マウラーは冷徹な眼差しで、拘束された生物の全身を観察し始めた。
「第一。全長百六十八センチメートル。頭頂部から殿部までの頭胴長八十六センチメートル。尾部、すなわち後肢変態部長八十二センチメートル。推定体重五十八キログラム。
頭蓋骨は長頭型。眼窩は人間より大きく、低照度環境への適応を示す。瞬膜の開閉反射、正常。対光反射、迅速。……角膜の表面に薄い透明な膜が見え、空気中での湿りが保たれているようだ」
マウラーは指先で人魚の唇を押し広げ、真鍮の小型ヘラを口腔内に滑り込ませた。
「ガハッ……! ギ……ッ!」
生物が激しくえずき、マウラーの手元に粘液を吐きかけた。だがマウラーは身じろぎ一つせず、手元の小さな反射鏡でランプの光を口腔の奥へと誘導した。
「歯列は完全な肉食性。門歯・犬歯・臼歯の明確な分化に乏しく、計三十二本の円錐歯が内傾して配列。咀嚼ではなく獲物の保持および丸呑みに適した構造だ。……だが、咽頭部が極めて奇妙だな」
マウラーの眉が、わずかに動いた。
「咽頭後壁の粘膜組織が肥厚している。充血を伴う浮腫状の襞が形成されつつあるな。……カール、これをどう見る?」
「えっ? あ、粘膜の炎症でしょうか……? 海から引き揚げられて、空気を吸ったために喉を痛めたとか……」
「浅薄だな」
マウラーは静かにヘラを引き抜いた。
「単なる炎症と見るには組織の隆起が規則的すぎる。呼吸のたびにこの襞が擦れ合い、激しい痛みを引き起こしているようだが……この襞が、空気中での発声に関わる構造として生じつつあるのかもしれん。見える範囲ではまだ未成熟で、呼吸音も酷く濁っている」
「空気中のための発声器官……? なぜ、水に棲むものがそんなものを……?」
「それを知る鍵が、下半身にある」
マウラーはノギスを持ち替え、拘束された下半身へと移動した。
3. 変態部と局所熱感の観察
「体表温。前胸部三十五・二度。下腹部と大腿基部は三十八・八度」
「場所によって、これほど違うのですか」
「値と位置を図に記せ。昨日との比較はできん。今日が最初だ」
マウラーは、二つに分かれかけた部分の外形を測った。皮膚の下には硬い隆起が触れ、支えを緩めると脚は容易に傾いた。
「骨に似た硬さがある。だが、形とつながりは触診だけでは分からん。今の状態では、自力で立てるとは思えん」
「何のために、こんな痛みを……」
「繁殖に関わる変化ではないか、という疑いはある」
生殖に関わると見られる部分の視診と、分泌物の採取は短時間で終わった。
人魚は検査の間、拘束された手を握りしめ、カールの顔を見ていた。彼が目を伏せても、その視線は離れなかった。
「もう十分ではありませんか」
「採取時刻を記せ」
マウラーは採取物の臭気を確かめた。
「特有の甘い芳香がある。何が含まれるかは、まだ分からん」
帳面には、局所の熱感、接触への強い反応、採取したものの外観だけが書き加えられた。彼女が何度も首を振ったことも、同じ筆致で記録された。
4. 仮説と翌日の観察計画
「さて、カール。今日のところはここまでだ。何が分かったと思う?」
マウラーは布で手を拭い、執務机に置かれた帳面に向き直った。
「わ、分かったこと……ですか? 私には……あまりに奇怪で、痛ましげな奇形生物にしか見えません……」
「だからお前は観察が浅いのだ」
マウラーは静かに告げ、鋼ペンをとった。
「雄鶏の生殖腺を取り去ればトサカが萎縮し、再び移植すれば雄の性質を取り戻すように、動物の肉体には、生殖器の働きと全身の形態変化が密接に連動する機構が存在する。繁殖期に角を生やす鹿や、羽色を鮮やかに変える鳥のように、この生物の変化も生殖に関係している可能性が高い。
第一に、この検体は外見上メスであり、生殖器周辺に強い充血と分泌を認める。
第二に、尾部の二肢化と、喉の新たな襞の形成だ。なぜ海に棲むものが、陸上でしか機能しない『脚』と『空気中の発声に関わる構造』を苦痛を冒してまで作るのか? ――目的が陸上への進出、あるいは陸上の何者かとの接触にあると考えるのは、比較解剖学的に極めて自然な推論だ」
「陸上生物と接触……? まさか……人間とですか!?」
「そこまでは断定できん」
マウラーは冷淡にカールの言葉を遮った。
「同種の雄が別に存在するのか、それとも他種を利用するのか、一頭の外見から種全体の仕組みまで確定することは不可能だ。疑いを結論の欄へ書くな。我々に許されているのは、今日見た形を写し、明日どこが変わったかを比べることだけだ」
マウラーは帳面に、翌日の計測項目を手早く書き留めた。
「だが、この変化には大きな無理がある。水棲の骨格と皮膚が、陸上で激しい熱と乾燥に晒されているのだ。この肉体が、いつまでこの状態を維持できるのかは未知数だ」
「維持できない……? では、このままでは……」
カールは息を呑んだ。
「先生……! 彼女はひどく衰弱しています。もしこれが命を削る変化なら、今すぐ海に逃がしてやれば助かるのでは……!」
「逃がす?」
マウラーは眼鏡を指先で押し上げ、冷ややかな眼差しでカールを見た。
「何のためにだ? 学術の好機を放棄し、迷信の闇に蓋をして、得難い生体標本を海へ捨てるためか? ――私は比較解剖学者だ。この生物がどのように変化し、いかなる経過を辿るのか、生きたまま克明に記録する義務がある。これが一時的な変化なのか、それとも破綻に至る道なのか、見届けぬうちに手放すことなどあり得ん」
マウラーは解剖台の横へと静かに歩み寄った。
台の上で、検体A-01は拘束具に縛られたまま、荒い息を吐いていた。
その濃紺の瞳が、マウラーの冷たい灰色の双眸を捉えている。彼女はまだ人の言葉を解さないように見えた。だが、その瞳の奥には、自らが冷徹な知性の前に標本として捕らえられたことを直感した、底知れぬ恐怖が宿っていた。
「ギ……、ア……」
未熟な喉から、かすかな空気の漏れる音が漏れる。
マウラーは検体A-01の額に触れた。
その手つきは、注意深く状態を確かめる学者のものであり、慈悲によるものではなかった。
「安心しろ、検体A-01。無意味に殺しはしない。十分に管理し、明日どこが変わっているか、毎日克明に観察してやる」
マウラーはカールに向き直り、事務的な声で命じた。
「計測作業は終了だ。検体を第二隔離水槽室へ移送しろ。首部および両手首に拘束具を装着し、脱走と過度な暴れを防げ。……明日は口腔粘膜の状態と、下半身の組織の変化を再計測する」
「……承知いたしました」
カールは蒼白な顔で頭を下げた。
地下実験室の重い扉が開かれ、運搬の準備が始まる。
人魚と生物学者。
冷徹なる観察の記録が、静かに幕を開けた。