発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様 作:神座鬼神
1. 九日目の朝と、静かな観察への提案
上陸して、九日目の朝。
前夜の激しい議論の末、大潮の調査が終わるまで報告を伏せるという合意を交わしてから、一夜が明けた。
大潮の引き潮が訪れるのは、二日後の夜――残された猶予はあと二日だ。
羽毛布団から這い出し、身支度を整えながら、私はそっと下腹部に手を当てた。
昨夜、テオドールと手が触れ合った時の感触が、まだ微かな残熱となって身体の奥に燻っている。
第2期に入ってからというもの、皮膚が妙に敏感で、テオドールが近くに来るだけで胸の奥がきゅんと跳ねてしまうのだ。
けれど、今はそんな甘い疼きに惑わされている場合ではなかった。
台所へ向かうと、テオドールがすでに火を起こし、お湯を沸かしていた。
眼鏡の奥の瞳はすっきりと澄んでおり、昨夜の疲労を感じさせない。
「おはよう、ローナ。……昨夜の質問のことだけど、何か思い当たることはあったかい?」
テーブルに温かいミルクのカップを置きながら、テオドールが尋ねてきた。
昨夜の問い――あの皮膚片の主が惹きつけられる『匂いや音』、あるいは好む『餌』についてだ。
私は椅子に腰掛け、両手でカップを包み込みながら、慎重に言葉を選んで口を開いた。
「テオ。昨夜の質問だけど……無理に匂いや音で呼び出そうとするのは、絶対にやめたほうがいいわ」
「やめたほうがいい?」
「ええ。自分がどこで覚えたのかは思い出せないけれど……身体がそう覚えているの。海に棲む、皮が薄くて繊細な生き物のことよ。ほら、四日前の深海クラゲみたいに、急な刺激を受けると身を崩したり逃げ出したりする生き物がいるでしょ? ああいう生き物に、人間が人工的な強い油の匂いを海に流したり、妙な音を鳴らしたりしたら……危険を感じて一目散に沖の深海へ逃げちゃうわ。二度とこの港の浅瀬には近寄らなくなる」
「なるほど……君が覚えている海の感覚だね」
テオドールは顎に手を当て、真剣に考え込むように目を細めた。
「確かに、その生物が高度な知覚や知能を持っているとすれば、不自然な誘引刺激は逆効果になるという仮説は十分に成り立つね。ベイト・トラップ(誘引罠)のような侵襲的な方法は、相手を警戒させるリスクが高すぎる」
「でしょ? だから、無理に呼び寄せるんじゃなくて、あっちが自然に潮に乗って通過するタイミングを待って、静かに遠くから痕跡を集めるべきだわ」
「受動的観察法(パッシブ・サンプリング)だね」
テオドールが頷いた。
「よし、方針を変えよう。生き物を無理に刺激するのではなく、潮の流れに乗って流れてくる微細な組織や粘液を、水質から検出する方法を考えよう。大潮の調査まであと二日だ。今日のうちに、標本室で道具を作って実験しておこう」
「うん!」
人魚を直接呼び寄せるような危険な罠は、これでひとまず回避できた。
けれど……私の胸の奥には、小さなしこりが残っていた。
同族たちの居場所や自分の正体は、絶対に守らなければならない。
けれど、干潟で何の成果も出せなければ、テオドールの研究は行き詰まり、彼の居場所が奪われてしまう。彼を助けたい気持ちと、秘密を守りたい保身の間で、私の心は落ち着かない波のように揺れていた。
2. 石英砂の捕集器と、カリカリの脂身
その日の午前中は、標本室の作業台で二人並んでの工作作業となった。
テオドールが用意したのは、両端が開いた太いガラス管と、木枠に張った目の細かな金網、それに薬棚から出してきた脱脂綿と、白く粒の揃った石英砂だった。
「水中の浮遊物は、肉眼で見えるものばかりじゃない。もしあの生物が干潟の水路を通過していれば、剥落した微小な表皮片や、分泌された粘液の油膜が海水に溶け込んでいるはずだ。このガラス管の中に脱脂綿と石英砂を層状に詰めて、金網で蓋をする。これを潮の通り道に沈めておけば、網の目をすり抜けるような微小な有機物でも、綿と砂のフィルターが濾し取ってくれるはずだよ」
「へえ……! 漉し器(こしき)みたいなものね」
「そう、簡易捕集筒(サンプラー)だ」
テオドールがガラス管を支え、私がピンセットで脱脂綿をふんわりと丸めて底に詰める。
その上からテオドールが薬さじで石英砂をさらさらと注ぎ込み、さらに脱脂綿を重ねる。
息の合った連係作業。
肩が触れ合うほどの距離で作業していると、テオドールの真剣な横顔や、ピンセットを動かす手先の器用さに、自然と見惚れてしまう。
「ローナ、脱脂綿の詰め方がとても上手だね。均一に密度が保たれているよ」
テオドールがふと顔を向け、眼鏡の奥で優しく微笑んだ。
その瞬間――。
(――っ)
下腹部にきゅんと甘い熱が走り、知覚過敏になった耳の裏がカッと赤くなった。
褒められただけなのに、どうしてこんなに身体が熱くなるのか。
私は照れ隠しにツンとそっぽを向いた。
「と、当然よ! 手先が器用じゃないと、生きたカニの足を折って肉をほじくり出せな……」
(しまっ……!?)
口走ってから、私はハッと息を呑んで自分の口を手で塞いだ。
それ、海の中で生きた獲物をバリバリ食べていた頃の日常の仕草じゃないの!
テオドールが作業の手を止め、眼鏡の奥でまじまじと私を見つめた。
「……カニを、生きたままかい?」
「あ……え、ええと……」
「普通の人間は、茹でてから殻を割るけれどね。……君の育ったところは、かなり自然児というか、野性味あふれる環境だったのかな」
テオドールは呆れたような、けれど少し面白がるような苦笑を浮かべた。
不審には思われたものの、ひとまず海の珍獣とは思われずに済んだらしい。私は冷や汗を拭いながら、ぎこちなく頷いた。
時計の針が正午を回った頃、ガラス管の捕集器が三本完成した。
「よし、お昼にしようか。お腹が空いただろう?」
「うん! お肉! 昨日買った端肉の、あの白くてぷるぷるした脂身を焼いて!」
私の熱烈なリクエストに応えて、テオドールは台所の鉄鍋に火をかけた。
包丁で厚めに切り分けた豚の脂身を、熱した鍋に放り込む。
ジュワァァァッ――!!
暴力的なまでに香ばしい煙が立ち上り、透明なラードが鍋底に溶け出していく。
表面がカリッときつね色に焦げるまでしっかり炒め、最後に塩をぱらりと振る。
皿に盛られたのは、黄金色に輝くカリカリの脂身と、端肉を煮込んだ温かいスープ、そして目玉焼き。
「いただきます……!」
私は木製のフォークで熱々の脂身を口へ放り込んだ。
サクッ、ジュワッ!
「――っんんんん……っ! これよ、これ! 最高に美味しいわ……!」
表面の香ばしい歯ごたえの奥から、熱々の甘い脂が口いっぱいに弾け飛ぶ。
完全肉食の人魚にとって、動物性の脂は命の燃料そのものだ。冷えやすい内臓の奥に、急速に熱が満ちていく。
「君は本当に脂身ばかり食べるね……胃もたれしないのかい?」
「全然! むしろこれがないと力が出ないわ!」
私が夢中で脂身を頬張っていると、テオドールが足元に陶器の丸い入れ物をそっと置いてくれた。布で包まれた湯たんぽだ。
「足元が冷えるだろう? これに足を乗せておくといいよ」
「あ……ありがとう、テオ」
足の裏から、じんわりと優しい温もりが伝わってくる。
口の中には美味しい豚の脂。
部屋は暖かく、目の前には私の体調を気遣ってくれる優しい青年。
打算で居座っているはずなのに、この標本室での生活が、どんどん私にとってかけがえのない居場所に変わっていくのを実感せずにはいられなかった。
3. 水槽の小さな検証
昼食を終えた午後、私たちは完成した捕集器の性能を確かめるための「小さな検証」に取り掛かった。
干潟で見つかった貴重な皮膚片は、たった一枚しかない。そんなものを水につけて溶かしたり消耗させるわけにはいかない。
そこでテオドールは、標本室に保管されていた別魚類――大型ウナギの冷凍標本の体表からヘラでこそげ落とした粘液を、桶の水に少量溶かしてテスト用の模擬海水を作った。
「魚類の体表粘液には、多糖類やタンパク質、脂質が含まれている。もしこの捕集筒が機能するなら、水中の微小な粘液を濾し取って、フィルターに着色や残渣として吸着できるはずだ」
テオドールはさらに、比較のために「何も加えていない清浄な海水」を汲んだビーカーも用意した。
対照実験(コントロール)だ。
何も加えていない水を通したフィルターと、粘液入りの水を通したフィルターを比べることで、本当に水中の有機物を捕集できているかを客観的に証明するためである。
「ローナ、漏斗を支えてくれるかい?」
「うん、任せて」
私がスタンドの漏斗を両手でしっかり押さえる中、テオドールが一本目の捕集器に清浄な海水を注ぎ込む。
海水は砂と綿の層をゆっくりと通り抜け、下部の受け皿へと滴り落ちていく。
綿は真っ白なままで、目に見える変化は何もない。
「よし、次は粘液入りの模擬海水だ」
テオドールが二本目の捕集器に、白く濁った海水を慎重に注ぎ込んだ。
ポタ、ポタ、ポタと水が落ちていく。
数分後――。
「あ……見て、テオ!」
私が声を上げた。
二本目の捕集器の中央、一番上の脱脂綿の表面に、薄い黄褐色の膜のようなものがしっかりと吸着されていたのだ。
テオドールがピンセットでその綿をそっと引き出し、ガラス皿の上で広げてルーペで観察する。
「……成功だ! 水中の微細な粘液成分が、石英砂の隙間と綿の繊維に物理的にトラップされている! 清浄な海水を通した綿には何もついていないから、この付着物は間違いなく水中の有機物だ!」
テオドールが興奮気味に声を弾ませた。
「これならいけるかもしれないぞ、ローナ! 大潮の夜、干潟の潮の通り道にこの捕集筒を固定しておけば、仮に生物の姿が見えなくても、水中に浮遊する微細な痕跡を捕らえる手掛かりになる!」
「やったわね、テオ! 大成功じゃない!」
私は満面の笑みで拍手を送った。
これなら、同族や自分を危険に晒すことなく、道具の有用性だけでもテオドールの確かな研究成果にできる。彼の学者としての立場を守りながら、私の平穏な生活も守れるはずだ。
――だが。
次の瞬間、テオドールが作業机に広げた海図を見つめながら、真顔で呟いた言葉によって、私の安堵は一瞬で吹き飛ぶことになった。
4. 黒岩礁への視線
「……だが、ローナ。これだけでは、まだ科学的な証拠としては不完全なんだ」
「え……? 不完全って、どうしてよ? ちゃんと粘液が集まったじゃない」
私が首を傾げると、テオドールは眼鏡を押し上げ、海図の西と南をペン先で行き来させた。
「干潟の水路に捕集器を仕掛けて、もし何らかの有機物や剥落組織が引っかかったとしよう。だが、それだけでは『それが本当にあの未知の生物のものか、干潟に棲むカニや小魚の排泄物や腐植土のヘドロなのか』の区別がつかないんだ」
「う……」
「科学的な論文として学会を納得させるには、対照区(比較地点)が必要だ。あの半透明の皮膚片は、南西の潮流に乗って外海から干潟へ流れ着いた可能性が高い。ということは……」
テオドールは羽ペンの先を、海図の南端――あの忌まわしい場所へとピタリと押し当てた。
「潮流の上流にあたる『南の黒岩礁』の海域にも、まったく同じ捕集器を仕掛けて、同時に比較サンプリングを行わなければならない」
「――っ!?」
私の呼吸が、喉の奥で凍りついた。
「く……黒岩礁……!?」
「ああ。南の黒岩礁の水路と、西の干潟の水路。この二箇所に同時に捕集器を仕掛けてデータを比較すれば、漂着物がどこから流れてきたのか、その出所を絞り込む重要な手掛かりになるはずだ。……幸い、大潮の夜なら引き潮で黒岩礁の手前の岩棚まで歩いて渡れるんだ」
テオドールは目を輝かせ、確信に満ちた笑顔で私を振り返った。
「二日後の大潮の夜、僕が黒岩礁側へ仕掛けに行き、干潟側を君に見張ってもらうか……あるいは二人で手分けして仕掛けよう。君が教えてくれた海の知識のおかげで、完璧な調査計画が立ったよ!」
「あ……あは……あはは……」
私の唇から、乾いた笑いが漏れた。
(嘘でしょ……!?)
南の黒岩礁。
同族たちが夜間に外海から回遊してくる、絶対に行かせてはならない本命の場所。
そこからテオドールを遠ざけるために干潟へ誘導し、静かな観察法を提案したはずだった。
なのに、テオドールの学者としての厳密な科学的思考(対照実験の徹底)のせいで、巡り巡って、一番行かせたくない場所へ自ら向かう計画が出来上がってしまったのだ!
(どうするのよこれぇぇぇぇぇっ!?)
あと二日。
大潮の夜が訪れるまでに、私はテオドールを黒岩礁の危険から遠ざける手立てを見つけ出さなければならない。
背筋を駆け抜ける冷や汗を感じながら、私は海図の上の黒い岩礁の影を、絶望的な面持ちで見つめるしかなかった。