発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様 作:神座鬼神
観察日誌:一八四九年十月十五日(収容第4日)
観測場所:沿岸博物学研究所・地下水槽室
観察・記録:主任研究員 アルベルト・マウラー
助手:カール・ヘンペル
被験体:所属未詳水生動物(検体A-01)
環境条件:槽内海水温八・五度、比重一・〇二五(北海水準)、室温十四度
生体兆候:直腸温三十五・八度、呼吸数毎分十八回、心拍毎分七十四回
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1. 水槽における生体維持
地下水槽室は、鯨油ランプの油煙と酒精の臭気、そして手動ポンプで汲み上げた海水の水音に満たされていた。
中央に据えられた長方形の水槽は、頑丈な石組みの壁面と、厚いオーク材の枠組みで築かれている。深さは約一メートル二十センチ。片側の壁面には様子を窺うための小さなガラス観察窓が嵌め込まれ、水底から水面にかけては緩やかな木製のスロープが設けられていた。被験体が水中に潜ることも、濡れた板の上に上半身を引き揚げて空気呼吸を行うことも可能な構造である。
水槽の縁には、真鍮製の頑丈な可動アームが設置されている。
被験体――検体A-01の首部には、皮膚の擦過を防ぐため鞣し革を内張りした金属輪が装着され、両手首の留め具とともに壁面の鉄棒へと鎖で繋がれていた。鎖には、水面へ浮上し、スロープで休めるだけの長さが残されていた。だが、槽の縁を越えて外へ出ることはできなかった。
「先生、本朝の海水換水、三分の一を完了しました。高置槽からの注水により、水温は八・五度を保っています」
カールが揚水ポンプのハンドルから手を離し、額の汗を拭いながら報告した。
「水の状態と、検体の様子は?」
マウラーは水槽の観察窓の前に置いた椅子に腰掛け、膝の上に広げた帳面から視線を上げずに尋ねた。
「比重は一・〇二五で安定しています。……ただ、水面に浮遊する皮膚の剥離小片が、昨日より明らかに増加しています」
「当然の推移だ」
マウラーは鋼ペンを走らせながら、淡々と応じた。
「海中において体表を保護していた滑らかな粘液層が、空気曝露と海水浸漬の反復によって急速に脱落している。皮膚が陸上の乾燥と水中の塩分の間で激しい刺激を受けている証拠だ」
マウラーは立ち上がり、小さな観察窓へと歩み寄った。
その鋼色の瞳が、水底に沈む影を捉えた。
検体A-01は、スロープの最下段、海水に全身を沈めたまま身を潜めていた。
銀緑色の長髪が水中にゆらゆらと広がり、青白い素肌を覆っている。搬入初日には未完成ながら激しく蠢いていた二本の後肢は、今は折り畳まれるように水底に押し付けられ、時折、痛みに耐えるように微かな痙攣を繰り返していた。
「引き揚げろ、カール。第四日目の外形計測と口腔の観察を行う」
「はい」
カールが壁面の滑車を操作すると、真鍮のチェーンが巻き上げられ、検体A-01の首枷がゆっくりと引き上げられた。
「ザバァッ……!」
水面を割って、検体A-01の顔が現れた。
銀緑色の髪から冷たい海水が滴り落ち、濡れた陶器のような白い胸元を伝う。
彼女――その生物は、首枷に引っ張られるままスロープの上に這い上がると、濡れた板の上に両手をつき、荒い呼気を吐き出した。
「ハッ……、カハッ……!」
空気を吸い込むたびに、気道から「ゼー、ゼー」という乾いた笛のような呼吸雑音が漏れ出た。
その顔は、激しい疲弊と苦痛に歪んでいた。
2. 口腔と呼吸音の観察
「首部を支えろ。小鏡を試す」
マウラーは手鏡と油灯を用意した。
人魚が歯を剥き、両手首の鎖が鳴った。
カールはその肩を支えながら、目を合わせることができなかった。
「少しだけです。すぐに……」
「検査の時を決めるのは私だ」
マウラーは口を開かせ、小鏡へ光を向けた。しかし、人魚が咳き込むたびに鏡面は曇り、奥の全容は見通せなかった。
「見える範囲の襞は、初日より厚い。充血もある」
「声を出すためのものですか」
「その疑いはある。声と一緒に、日を追って比較する」
器具が離れると、人魚はスロープに伏せて咳をした。カールが布を差し出すと、彼女はそれを取り、口元へ当てた。
呼吸が落ち着いた後の声は、搬入時と違っていた。
空気が漏れるだけだった音に、かすかな響きが加わっている。
「呼吸音の変化を記録しろ。内部の仕組みまで見えたことにはするな」
マウラーは曇った鏡を拭き、帳面へ短い線を引いた。
3. 音声模倣の萌芽と問答の試み
器具を拭い、帳面にスケッチを書き込んでいた午後。
地下実験室に、奇妙な音が響き始めた。
「……テ……ン……」
作業台でガラス器具を洗っていたカールが、ピクリと手を止めた。
風の音ではない。水音でもない。
水槽の方向から、微かに、息を絞り出すような音がしていた。
「……テン……ペ……ラ……」
「先生……! な、何か聞こえませんか!?」
カールが振り返った。
マウラーはすでにペンを止め、水槽の観察窓を凝視していた。
「静かにしろ」
水槽のスロープの上で、検体A-01が上半身を起こしていた。
濡れた銀緑色の髪の間から、濃紺の瞳がまっすぐに作業台の上の二人を見つめている。
その唇が、ぎこちなく開閉を繰り返していた。
「テン……ペ……ラ……トゥーア……」
カールの背筋に、冷たいものが走った。
「て、テンペラトゥーア(水温)……!? さっき、私が報告した言葉です……!」
「音の反復だな」
マウラーは立ち上がり、ゆっくりと水槽の前へと歩み寄った。
「単なる喉の痙攣音ではない。唇の動きを見ろ。破裂音から母音、鼻音へと、舌や口唇を意識的に連携させて音の響きを真似ている」
「……プロ……ト……コル……」
検体A-01の喉から、再び音が紡ぎ出された。
今度は、マウラーが先ほど指示した言葉――プロトコル(記録)。
声質はひどく掠れてハスキーだった。まるで小石を擦り合わせるようなざらつきを含んでいたが、その奥には、遠い海の静寂を思わせる不思議な湿り気が潜んでいた。
「信じられない……。まだ収容第四日ですよ!? 人間の言葉を、もう真似し始めているなんて……!」
「驚くには値しない。陸上で何者かと接触するための変化であるなら、周囲の音声を真似る能力を備えていても不思議はない」
マウラーは懐中時計を取り出し、時刻を確かめた。
「だが、音を真似たことと、意味を理解していることは別だ。オウムのように耳にした音をなぞっているだけかもしれん」
マウラーはガラス窓に近づき、検体A-01の瞳を正面から見据えた。
「検体A-01」
マウラーが低く呼びかけた。
人魚の双眸が、ピクリと焦点をマウラーの眼鏡へと合わせた。
「私の言葉が理解できるか?」
人魚の喉が、波打つように上下した。
彼女は痛ましそうに喉を片手で押さえ、唇端から薄い唾液を垂らしながら、途切れ途切れに息を吐いた。
「……マ……ウ……ラ……」
実験室の空気が張り詰めた。
カールが息を呑む。
「……マウ……ラー……。お……ま……え……」
発音は不明瞭で、舌足らずだった。
しかし、その瞳に宿っていたのは、動物の無機質な眼差しではなかった。
自分を台の上に縛り付け、喉の奥を冷たい金属で覗き込んだ男に対する、明確な個体の認識と、底知れぬ敵意がその響きに込められていた。
「ほう」
マウラーの眉がわずかに動いた。
「私の名を周囲の会話から拾い上げ、呼びかけた相手に向けて返したのか。単なる無作為な反復ではないようだな」
マウラーは続けて、「水」「海」「魚」といった単語をいくつか投げかけてみた。
しかし、人魚はそれらの言葉には応じず、唇を固く結んで鋭い眼差しでマウラーを睨みつけるのみだった。
「これ以上の問答には応じぬか。どこまで文脈を解しているかは、まだ判断できん。継続して観察する必要がある」
4. 拒食の観察
「さて、カール。音声の模倣は見られたが、維持において重大な問題が生じている」
マウラーは帳面をめくり、水槽の底を指差した。
水底には、昨夜カールが投入したはずの新鮮な生のイワシ三匹が、内臓を膨らませたまま手つかずに沈んでいた。
「搬入以来、投餌した生魚に対する摂食行動は皆無だ。絶食は収容第四日に入った」
「やはり駄目でしたか……! 海にいた頃は魚を食べていたはずなのに、なぜ見向きもしないんでしょうか?」
「生魚を近づけた際、激しく身を捩って顔を背けた。魚の生臭さに対して明らかな忌避反応を示している」
マウラーは真鍮のピンセットで、水槽から死んだイワシを引き揚げた。
「下半身や喉が激変しているのと同様に、食物に対する嗜好や受け入れられる性質も変化している可能性がある。だが、その理由はまだ分からん」
「このままでは衰弱死してしまいます……!」
「皮下脂肪が厚いため数日で直ちに餓死することはないが、体力の低下が進めば観察の継続に支障が出る」
マウラーは静かに帳面を閉じた。
「カール、夜間の監視を怠るな。水槽内でいかなる音を発するか、注意深く聞き取れ」
「承知いたしました」
油灯の火が細められ、水槽室は深い影に包まれた。
冷たい水の暗闇の中で、人魚の掠れた声が、途切れ途切れに小さく反復されていた。
「……マウラー……。……マ……ウ……ラー……」
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追記:一八四九年十月十七日(収容第6日)
収容第六日。依然として生魚を一切口にせず、検体の頬には明らかな削痩が認められる。肋骨の浮き上がりも目立ち始め、呼吸数も毎分十四回へと低下。衰弱の限界が近い。
冷たい生餌を受け付けぬならば、別の形態の栄養を試す必要がある。
今夜から牛すね肉を香味野菜とともに煮込み、余計な油脂を徹底的に濾過した肉汁を調製せよ。明日十月十八日朝、液温を人肌程度に保ち、経口給餌試験を実施する。