発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様 作:神座鬼神
第1話:禁書の写しと、品目コードB-17
1. 霧の保税区と、狂気の投資
石炭の煙と、重油の混じった冷たい潮風が、巨大な赤煉瓦の谷間を吹き抜けていた。
北海自由通商港エルンスト。
一八五三年秋、蒸気船の鈍い汽笛が夜霧の奥で鳴り響き、波止場では水圧クレーンの鋼鉄ワイヤーが軋む重苦しい音を立てている。資本と蒸気が支配するこの近代港湾において、敷地面積の三分の一を占めるのが、高利貸しと海運商社が共同管理する『中央保税倉庫群』だった。
カチ、カチ、と真鍮の懐中時計が午前一時を刻む。
ヴィンセント・クラインは、厚手のウールコートの襟を立て、手に提げた角型ランタンの煤けたガラス枠を親指で軽く弾いた。
二十四歳。連合海運商会(ユナイテッド・シッピング)で第三保税工区の主任検品員兼計理士を務める男だ。片手には黒革の表紙で綴じられた分厚い棚卸帳簿。そして胸の内ポケットには――私的に抜き書きした、折り目のついた薄い羊皮紙の手帳が収められていた。
先刻まで照合していた正規台帳の中にも、怪しげな数字の歪みはあった。たとえば大聖堂宛ての免税貨物である『特注聖別油二十樽』。船荷証券に対して倉庫の現物は十八樽しかなく、差引き二樽が『荒波による破損・海損処理』として処理されていたが、現場の帳尻や報告には不自然な不一致が燻っていた。そうした帳簿の違算を密かに手帳へ控え、いつか我が身を護る交渉の札として蓄積しておくのが、この男の習性だった。
港湾で担保物件や不正貿易の帳簿を扱う計理士として、権力者との紛争や命の危険に直面した際、証拠の隠滅や強奪を防ぐため、帝国公証人役場へ封書を預託して指定時刻に司法当局へ送達させる、時限付きの防衛策――エスクローの習慣もその一つだ。しかし今夜の彼の関心は、別の帳簿の外にある取引に向けられていた。
手帳に記されているのは、四年前――一八四九年に帝都の沿岸博物学研究所でアルベルト・マウラー主任研究員が遺したとされる私家版の観察記録、『未同定水生動物における形態変化および陸上崩壊過程の比較解剖学的知見』の謄写メモだった。
世間一般において、人魚(海女房)の存在など、北洋を往く船乗りたちが酒場で吹聴する噂話にすぎない。海深くに棲む彼女たちが人前に姿を現すことなど滅多になく、港町でも実在を信じる者は少なかった。
仮に生け捕りにできたとしても、生体取引など商業的には成立しない。尾ひれを持つ大型の海棲獣を生かしたまま帝都まで陸路で運ぶには、数千リットルの海水を満たした特注水槽、それを牽引する十頭以上の輓馬、水質悪化を防ぐ頻繁な海水の入れ替えと氷による冷却が必要になる。その輸送コストと途中で衰弱死する危険はあまりに大きく、投資に見合う採算など誰も合わせられなかった。見世物小屋や好事家のサロンに出回る人魚といえば、猿の上半身と魚の尾を縫い合わせた稚拙なミイラばかり。生きている人魚が市場に現れないのは、単に「生かして運ぶ経費が高すぎる」という経済的な障壁のせいだった。
――だが、マウラーの観察記録を読んだヴィンセントは、その輸送コストの壁を打ち破る、決定的な抜け道を見出した。
『海棲霊長類のメスは、繁殖期を迎えると一時的な肉体変態を起こす。尾鰭は二本の脚へと分化し、喉には空気伝播用の仮設声帯が形成される。その陸上形態の持続期間は、およそ四十日間――』
重厚な水槽も、何トンもの海水も、大掛かりな輸送船団もいらない。
もしも彼女たちが、自らの二本の脚で立ち、人間の服を着て、肺呼吸で陸上を歩けるのだとしたらどうなるか。
人間の女として偽装し、通常の辻馬車に乗せて陸路で運ぶことができる。輸送コストは通常の旅客並みに圧縮され、帝都の王立解剖学会の大口顧客へ「生きた奇跡の標本」として納品できれば、その取引額は金貨五百枚――銀貨にして約五千枚、小さな商館を一つ丸ごと買い取れるだけの金額になる。
かつて父親が教会の寄進と甘い放漫経営で破産し、数千枚の銀貨に及ぶ負債の山を遺して獄死したヴィンセントにとって、それは人生のすべての借財を清算し、自らの足で立つための、最初で最後の巨大な賭けだった。
ヴィンセントは、同じく多額の負債を抱えていた北洋捕鯨船『ノーザン・スター号』のバルトロメウス船長を引き入れた。
商会の預託金から「銀貨百五十枚」を、帳簿上は船長の入港時精算とする短期貸付(仮払金)として独断で融通し、十月の北洋浅瀬へ船を出させたのだ。
――変態が始まったばかりの、若く生きの良い個体を生け捕りにしてこい、と。
2. 狂った歯車と、地下氷室の遭難者
捕獲自体は計画通りだった。
十月八日、船長は北洋の浅瀬で脚が生えかけた若い個体を網で捕獲し、十月十日、人目を避けてこの保税倉庫の地下氷室へと秘密裏に運び込んだ。
変態開始から推定で八日目(捕獲時点では六日目)。声帯が形成され、陸上への適応が始まる頃合いだった。
そして本日、十月十三日の未明――変態開始から推定十一日目を迎えていた。
だが――昨日、十月十二日の朝、破滅的な報せが港に届いた。
残りの鯨油を引き上げるために再出港した『ノーザン・スター号』が、アイスランド沖の時化(しけ)で沈没。バルトロメウス船長を含む乗組員全員が海の藻屑と消えたのだ。
相棒を失ったことで、算盤の盤面は一気に崩れた。
船長が死んだ以上、商会から独断で流用した銀貨百五十枚の回収は不可能となった。手元に残る全私財をかき集めても金貨十枚――銀貨百枚にしかならず、自腹で穴を埋めることすら叶わない。亡父の借財の利息すら払えぬまま、次の定期監査までにこの百五十枚の穴を埋め戻せなければ、帳簿偽造と横領罪での告発を免れないのだ。
さらに悪いことに、商会の支配人は、地下に運び込まれた品目コードB-17を「遭難した船長が残した不気味な担保物件」として接収してしまった。教会の目を恐れた支配人は、二週間後の定期公開競売(オークション)で、見世物小屋の興行主に最低落札価格「銀貨二百枚」で叩き売り、商会の貸付損失を埋める決定を下した。
競売で処分されれば商会の帳簿の穴は塞がるかもしれないが、ヴィンセントの手元には一ペンスも残らず、亡父の借財と商会での汚名だけを背負って一生を終えることになる。金貨五百枚の取引を完了させて商会の穴を埋め、負債を清算することだけが、彼が破滅を逃れる唯一の道だった。
しかも、地下の檻番を任された人足たちは、檻の中の怪物を恐れるあまり、港の炊き出し所から持ってきた硬いライ麦パンを投げ込むだけで放置していた。
「……バルトロメウスの野郎、死ぬならこの取引を片付けてから死に腐れ」
ヴィンセントは地下通路の最奥、頑丈な鉄格子で塞がれた第零号セルの前で足を止めた。
ランタンを掲げると、格子の隙間から、胃液と未消化の穀物が混ざり合った酸っぱい臭気が漂ってきた。
「おい、担当の人足は何をしている。掃除もせず、こんなものを放り込んで……」
床には、一口かじられた硬い黒パンの周りに、泡立った黄褐色の液体が吐き戻されていた。
マウラーの手記に記されていた危惧と、北海に伝わる古い伝承そのものの光景だった。
手記によれば、完全な動物食に適応した海棲霊長類の消化管が、陸上の穀類を消化できる保証はどこにもなく、激しい消化不良や脱水を招く恐れがあるとして、助手の穀物給餌の進言を退けていた。北海の船乗りたちの間でも『陸のパンを食わされた人魚は腹を壊して死ぬ』という言い伝えが残されていた。
マウラーの警戒通り、檻番の人足たちの無知な施しが、ヴィンセントの金貨五百枚を内側から腐らせかけていたのだ。
ガサリ、と暗がりの隅で濡れた麻袋が動いた。
「……グルル……ッ」
低く湿った唸り声が、冷たい石壁に反響した。
ランタンの光を向けると、麻袋の山の中から、息を呑むほど整った少女の顔立ちをした生き物が姿を現した。
夜の北海を思わせる、濡れた銀青色の長い髪。
凍てつく海に晒されてきた滑らかな青真珠色の肌と、氷のように冷たく澄んだ碧い瞳。
そして――麻布の裾から覗く下半身。
土踏まずの一切ない、平らで滑らかな無毛の足底。白く細い五本の足指の間にピンと張られた、青白く透き通る水かき。
太ももからふくらはぎにかけては、魚の鱗ではなく、鯨類に似た滑らかな青真珠色の無毛の外皮が覆っている。尾ひれから分化してまだ日が浅い二本の脚は、陸上の重力と冷気に慣れておらず、立ち上がろうとするたびに膝が頼りなげに小刻みに震えていた。
ヴィンセントが格子の前に一歩近づいた瞬間、彼女は跳ね起きた。
「シャアアッ!!」
水かきのついた白い手が鉄格子を激しく掴み、ガシャン! と重い金属音が地下室に木霊した。
半開きの唇の奥から、鋭く尖った円錐状の白い歯が剥き出しになる。獲物を噛み切るための、肉食獣の歯並びだった。
だが、ヴィンセントは半歩も退かなかった。
彼はランタンを掲げ、威嚇する彼女の瞳を見据えた。
「十月十三日……変態開始から推定十一日目。二肢の分化はおおむね完了しているな」
「……だ、れが……じゅういちにち、だ……ッ」
掠れた、けれど硬質で透明な音が、格子の隙間から漏れ聞こえた。
3. 計算された夜食と、密輸の契約
「……サル……。うるさ、い……ひかり、消せ……ッ」
娘は片手で光を遮りながら、喉の奥を苦しげに鳴らした。
発音は少しぎこちなく、檻番の人足たちが喚き散らしていた罵詈雑言をそのまま耳で真似た乱暴な響きがあった。だが、その声質自体は澄んでいた。
「仮設声帯の形成も順調か。言語の模倣速度も記録と一致している」
ヴィンセントは手帳を開くことなく、頭の中の数値を照合するように呟いた。
「ふん……。あんな、ひげ面……あたま、からっぽ。……それより……」
娘は痛む下腹部を抱え込み、床に転がるライ麦パンを憎々しげに足先で蹴り飛ばした。
「あんな……白い粉の、ねり焼きなんか……くわせるな……っ! 腹の中で、ばくはつ……する……! 頭が、割れそうに……いたい……!」
「完全肉食のお前にパンを食わせればそうなる。胃酸が強すぎて、発酵ガスが溜まっているんだ」
ヴィンセントはコートの内ポケットに手を差し入れ、油紙の包みを取り出した。
地下へ降りる前、波止場の屋台で仕込んできたもの――厚切りのマトン(羊肉)を岩塩で炙り、冷え固まった脂を纏わせた包みだった。
マウラーの記録にはこうある。
『衰弱した検体に対し、加熱した獣肉の煮汁を与えたところ、拒絶することなくこれを摂取した』。
何が摂食を促したのか手記では判断を保留していたが、北海の冷水に適応した完全肉食の獣なら、必要なのは熱量となる動物性のタンパクと脂質に違いない。
油紙を開いた瞬間、濃厚な獣肉の脂の香りが冷えた地下室に広がった。
「……ッ!?」
娘の喉仏が、ゴクリと大きく上下した。
碧い瞳が爛々と見開かれ、格子の間から身を乗り出す。その鼻先が、飢えた獣のように空気を吸い込んだ。
「それ……! 陸の、肉……!」
「マトンだ。塩を振って火を通してある。……食いたいか?」
「よこせ……ッ! 早く、よこせ……!」
娘は格子から腕を伸ばし、爪を立ててヴィンセントのコートを掴もうとした。
だが、ヴィンセントは半歩下がり、包みを彼女の手の届かない位置へと引いた。
「待て。これは私の小遣いで仕入れたものだ。無償でくれてやる義理はない」
「な……んだと……!? おまえ……バルトロメウスの仲間だろ! 私をここに閉じ込めたサルのくせに……!」
「バルトロメウスは死んだ。昨日の朝、沈没の報せが入った。アイスランド沖で船ごと海の底だ」
ヴィンセントの冷淡な告知に、娘は息を呑んで目を見張った。
「船長が死んだ以上、この倉庫の支配人はお前を見世物小屋の興行主に銀貨二百枚で叩き売る気でいる。だが――私はそんな端金で片付ける気はない」
ヴィンセントは油紙の包みを掲げ、彼女の目を真っ直ぐに見据えた。
「取引をしよう。お前がこの肉を喰って体力を戻し、私の指示に従うなら……二週間後の競売を待たずに、ここから連れ出してやる」
「つれだす……? 海へ……帰してくれるのか?」
「海ではない。帝都だ」
「……てい、と……?」
「北海へ注ぐ大河の河口、広大な運河を抱える帝都だ。馬車で街道を一週間走れば着く」
ヴィンセントは淀みなく言った。
「お前に人間の服を着せ、靴を履かせ、私の連れの女として偽装して運ぶ。帝都の王立解剖学会には、生きたお前を金貨五百枚で買い取る大口の顧客がいる。……お前をそこへ納品するのが、私の計画だ」
娘の顔から血の気が引いた。
「かいぼう……? からだを、切り刻むのか……!? ふざけるな……! そんなところへ行くくらいなら、ここで飢え死にしてやる……ッ!」
「断るならそれでもいい」
ヴィンセントは包みを引いた。
「だが、マウラーの記録によれば、お前たちが陸上で脚と声を保てるのは『およそ四十日間』だ。本日で変態開始から十一日目。あと三十日もすれば、受胎していないお前の肉体は海棲形態への退縮を始め、陸上では組織の破綻に耐えられず、白濁した液と冷たい海の泡となって崩壊する。……違うか?」
「……ッ!?」
娘の全身が、目に見えて硬直した。
なぜ、群れの長老しか口にしないはずの「海の泡になる掟」を、この陸の男が知っているのか。
剥き出しの恐怖が、彼女の碧い瞳を震わせた。
「ここに残れば、飢えて衰弱するか、見世物小屋の狭い木樽で見世物にされて死ぬかの二択だ」
ヴィンセントは感情を交えずに告げた。
「だが、帝都の学会に持ち込めば、そこには世界最先端の生体維持設備と学者たちがいる。お前を切り刻む標本にするか、生きたまま観察対象として保護させるかは、納品人である私の交渉次第だ。……ここで無為に死ぬよりは、生き残る見込みがある賭けだとは思わないか?」
確証のある安全などどこにもない。
すべては男自身の負債を清算するための、冷徹な利害の見積もりだった。
「……おまえ、本当に……狂ったサルだな」
娘は奥歯を噛み締め、悔しそうにヴィンセントを睨みつけた。
「……いいよ。乗ってやる。どうせこのままじゃ、お腹が痛くて死んじゃうんだ……。肉をよこせ!」
「交渉成立だ」
ヴィンセントは油紙の包みを格子の隙間から差し入れた。
娘はひったくるようにそれを受け取ると、夢中になってマトンに食らいついた。
咀嚼するたびに喉が鳴り、純白の羊脂が唇を濡らす。一口飲み込むごとに、青白かった肌に赤みが戻り、強酸性の胃袋が濃厚な熱量を全身へ巡らせていくのが見て取れた。
「……ぷはぁっ!」
わずか一分で包みを空にした娘は、脂のついた指を舐めながら、満足そうに息を吐いた。
「生き返った……。おい、帳簿係」
「ヴィンセントだ」
「ヴィンセント。私は……群れの言葉じゃ『波間の音』だけど、好きに呼びな。バルトロメウスは……クラウディアって呼んでた」
「クラウディア。競売までの十日あまりの間に、毎日肉と油を運ぶ。その間に、人間の靴で歩く訓練と言葉の練習をしてもらうぞ」
4. 大聖堂の非常鐘と、退路の遮断
ヴィンセントが手帳を胸ポケットへ戻そうとした、その時だった。
――ゴオオォォン……!
重く湿った鐘の音が、厚い石造りの天井を通り抜けて、地下室に低く響き渡った。
港を見下ろす丘の上に建つ、聖ニコラウス大聖堂の鐘だった。
深夜の港に鳴り響く、非常招集の短音連打。
同時に、地上階の倉庫の入り口から、激しい怒号と押し問答の物音が降ってきた。
「……なんだ?」
クラウディアが耳をピクリと動かし、身を硬くした。
「上から……嫌な匂いがする。煙と……あの、臭い灰の匂いだ」
ヴィンセントは眉をひそめた。乳香(フランキンセンス)の匂いだ。
荒々しい足音が鉄の階段を駆け下りてきた。現れたのは、顔を蒼白にした夜間門衛長だった。
「ヴィ、ヴィンセント主任! 大変です! 大聖堂の異端審理査察官が……教区の武装衛兵を二十人以上連れて、この倉庫の開門を要求してきました!」
「査察官だと? ここは商工会議所の管轄下にある治外法権の保税区だぞ。教会の立ち入りには港湾総督の署名入り令状がいるはずだ」
「それが……! 『北洋の密輸船から悪魔の汚らわしい獣が持ち込まれたという確たる通報があった。魂を穢す魔物は主の火で即座に浄めねばならぬ』と喚き散らし……! 令状なしで門を叩き壊す勢いです!」
「チッ……密告か。船員か人足の誰かが、教会の懸賞金目当てに口を割ったな」
格子の奥で、クラウディアが目を見張り、ヴィンセントのコートの裾を掴んだ。
その細い指先が、激しく震えていた。
「おい……あいつら、私をころしに来たのか? 火で……燃やすって……!」
彼女の脳裏に、海底の長老のおばばから教え込まれた恐ろしい口伝が蘇っていた。
陸のサルどもは、海の子を見つければ串刺しにし、油を絞り、火の業火で焼き尽くす悪魔の群れだと。
だが――ヴィンセントは取り乱すことなく、懐中時計を取り出してカチリと蓋を閉めた。
そして、黒革の帳簿を脇に挟むと、静かにクラウディアを見下ろした。
「怯えるな」
「え……?」
「お前は、私が金貨五百枚の利益を見込んで仕込んだ、最高額の貨物だ」
ヴィンセントの声音には、揺らぎも恐怖もなかった。
あるのは、信仰の狂気を冷笑する、冷徹な帳簿係のプライドだけだった。
「教会の狂信者どもに、私の金貨を灰にされてたまるか。一ペンスの損失も出させはしない」
ヴィンセントは鉄格子の鍵を固く締め直すと、門衛長に向き直った。
「門衛長。税関規約第十四条を盾に、令状の不備を突いて時間を稼げ。私は今から商工会議所の専任弁護士を叩き起こし、総督府へ緊急抗議を申し入れる」
足早に踵を返し、地上へと続く階段を駆け上がるヴィンセント。
背後で、クラウディアの碧い瞳が、去りゆく男の背中をじっと見つめていた。
(……教会を退け、競売の前にここから連れ出す。だが、マウラーの手記通りなら、収容第二十日前後に記録されていた『あの激しい熱発と狂乱』が訪れる前に、何としても帝都へ送り届けねばならない……)
資本と信仰が火花を散らす十九世紀の港町で、人魚と帳簿係の危険な輸送劇が、いま幕を開けた。