発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様   作:神座鬼神

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第7話:暖炉の告白と、言葉の残響

1. 未明の暖炉と、震える本音

 

 深夜二時半過ぎ。

 南の黒岩礁から研究所へと帰り着いたとき、私の足腰はすでに限界を迎えていた。

 

 慣れない二本足で険しい岩場を往復し、そのうえ大人の男一人を大波から力任せに引き倒したのだ。太ももも背中も鉛のように重く、疲労で筋肉がきしんでいる。

 おまけに頭から波飛沫を被ったせいで、服はびしょ濡れで肌にまとわりつき、潮風に吹かれるたびに不快極まりない寒さが身にしみていた。

 玄関の土間を上がった瞬間、私の膝ががくりと力を失い、床へ崩れ落ちそうになった。

 だが、倒れ込む前に、テオドールの両腕が私の身体を抱き上げてくれた。

 

「ローナ、大丈夫かい!? 無茶をさせて本当にすまない……!」

 

「だ、大丈夫よ……ちょっと足が疲れただけ。それよりテオ、早く乾いた服をちょうだい! それから何か温かいものを飲まないとやってられないわ!」

 

 私が毛布を被りながら口を尖らせて要求すると、テオドールは驚いたように目を丸くし、それから少しほっとしたように苦笑を漏らした。

 

「ああ、すぐに火を起こすよ。まず濡れた上着を脱いで、毛布にくるまっていて」

 

 テオドールは私を暖炉の前の長椅子へ座らせると、手早く乾いた着替えと厚手の毛布を何枚も持ってきてくれた。

 私が衝立の陰で手早く濡れた服を脱ぎ捨て、乾いた大きめのシャツとウールのズボンに着替える間に、彼は暖炉へ駆け寄り、火打ち石を打って薪をくべた。

 パチパチという爆ぜる音とともに、赤々とした炎が立ち上がり、オレンジ色の温かな光が部屋を満たしていく。

 

「今、温かいものを作るよ」

 

 テオドールは鉄瓶を火にかけ、手早く小鍋にミルクを注いだ。

 乾燥させた生姜の粉末と、貴重な琥珀色の蜂蜜をスプーンでたっぷり溶かし込む。

 甘くスパイシーな香りが立ち上り、木製のマグカップが私の手元に置かれた。

 

「ほら、ゆっくり飲んで。身体の内側から温めるんだ」

 

「……ありがとう、テオ」

 

 両手でカップを包み込み、そっと口をつけた。

 蜂蜜の濃厚な甘みと、ピリッとした生姜の熱が、疲れた身体へとじわりと染み渡っていく。

 やっぱり、火の通った温かいものは最高だ。

 テオドールは乾いた清潔なタオルを手に取ると、私の傍らに跪き、海水で濡れた私の長い髪を、優しく叩くようにして拭き始めてくれた。

 

 その手のひらの温もりに触れた瞬間――。

 

(――っ……)

 

 下腹部の奥に、きゅんと甘い疼きが走った。

 上陸して十二日目。変態の第2期に入ってから、皮膚は熱や接触に対して驚くほど敏感になっている。

 彼が髪を撫でるたびに、頭皮から背筋へと心地よい痺れが駆け抜け、胸の奥が締めつけられるように高鳴るのだ。

 それは単なる発情期の生理的な衝動なのか、それとも、この不器用で優しい青年に抱き始めている別の感情なのか――自分でも境界が分からなくなっていた。

 

 だが、テオドールの表情は、いつになく真剣だった。

 髪を拭く手を止めず、暖炉の炎を見つめながら、彼は静かに口を開いた。

 

「……さっきの浜辺での質問のことだけど」

 

「…………」

 

「君を問い詰めて、責めるつもりはないんだ。君が僕をあの波から引き戻して命を救ってくれたのは、紛れもない事実だからね。……でも、どうしても分からないんだ。君はあの時、水の中にいた生き物に向けて、一体何をしたんだい?」

 

 炎が小さくパチリと音を立てた。

 もう、「記憶喪失だから分からない」という嘘で逃げることはできなかった。

 彼が目撃した光景は、あまりにも決定的だったのだ。

 

 私はカップを握りしめ、俯いたまま、絞り出すように声を絞った。

 

「……あの生き物に、合図を送ったの」

 

「合図……?」

 

「ええ。『人間がいるから、近づくな』って……警告したのよ」

 

 テオドールの手が止まった。

 彼が息を呑む気配が、肌を通じて伝わってくる。

 

「……君は、あの生き物のことを知っていたのかい? それだけじゃない……君は、自分の記憶について、何も覚えていないわけじゃないんだね?」

 

 テオドールの声には、驚きとともに、深い困惑と傷ついたような色が混ざっていた。

 彼が動揺しているのは、私が海の知識を持っていたことに対してではない。

 これまで信頼して共同生活を送ってきた相手に、意図的に重大な事実を隠されていたことに対する、痛切な戸惑いだった。

 

「……ええ。思い出せないんじゃなくて、怖くて話せなかったことがあるの」

 

 私は涙が滲みそうになるのを必死に堪え、顔を上げた。

 

「海での感覚や、あの生き物のことは……身体がはっきりと覚えていたわ。でも、それを全部あなたに話したら……あなたが私を気味悪がって怖がって、この温かい部屋から追い出してしまうんじゃないかって思ったのよ。今の暮らしを失うのが、どうしても怖かったの……!」

 

 打算で始まった居候生活だった。

 暖炉の火、羽毛布団、美味しい豚の脂身。人間の文明の便利さにしがみつきたかっただけのはずだった。

 けれど今、私が本当に恐れていたのは――テオドールに拒絶され、彼と過ごすこの居場所を奪われることそのものだったのだ。

 

 テオドールは目を丸くして私を見つめ、それから長い息を吐いて、項垂れるように視線を落とした。

 

「……そうか。追い出されるのが、怖かったのか」

 

「……ごめんなさい、テオ。嘘をついていて……」

 

「……君を追い出したりはしないよ」

 

 テオドールは顔を上げ、静かに私の目を見つめ返した。

 

「凍える夜の海で、僕を助けるために無茶をしてくれた君を、追い出すなんてできるはずがない。……でもね、ローナ。意図的に隠されていたと知って、今すぐ君の言葉をこれまで通り手放しで信じられるかというと……それは、すぐには難しいかもしれない」

 

 その言葉は、痛いほど胸に刺さった。

 けれど、甘い誤魔化しを許さないその誠実さこそが、学者としてのテオドールそのものだった。

 

「君の来歴や、話せない過去について、無理にすべてを白状させようとは思わない。……だけど、これからのことについては、きちんと話さなきゃいけない。でもね、それは今夜することじゃないよ」

 

 テオドールは私の頭からタオルを外し、毛布をしっかりと掛け直してくれた。

 

「身体が冷え切っている。詳しい相談は、明日、身体を休めてからにしよう。……今夜はもう眠るんだ。君の居場所は、ちゃんとここにあるよ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていた心の糸がぷつりと切れ、私の目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。

 テオドールは困ったように苦笑しながら、私の背中を優しくさすり、羽毛布団へと寝かしつけてくれたのだった。

 

 

2. 朝の干潟と、二人の約束

 

 翌朝、午前八時。

 窓から差し込む冬の光で目を覚ましたとき、昨夜の凍えるような寒さと疲労は、羽毛布団の温もりによって綺麗に和らいでいた。

 

 台所へ向かうと、テオドールが朝のパンを焼き、昨夜の残りの肉骨スープを温め直してくれていた。

 食事を終えた後、私たちは予定通り、朝の引き潮に合わせて西の廃船干潟へと向かった。

 

 昨日の夕方に仕掛けておいた、一本目の捕集器の回収だ。

 干潟の水路に降り立ち、木杭に固定していた麻縄を解く。

 泥まみれになりながら引き上げたガラス管を、テオドールは持参した水筒の真水で慎重に洗い流した。

 

「よし、破損はない。一晩かけて、引き潮と満ち潮の両方がしっかりとフィルターを通過しているね」

 

 二本の捕集器――昨夜の黒岩礁のものと、今朝の干潟のもの。

 二つの標本を携えて研究所へ戻った私たちは、作業着に着替え、標本室の顕微鏡台の前に並び立った。

 

「作業を始める前に、ローナ。昨夜の続きを話そう」

 

 テオドールが椅子に座り、私とまっすぐに向き合った。

 

「君が話せない事情を抱えていることは分かった。だから、君の来歴について無理に聞き出そうとはしない。……その代わり、これから二人で調査を続けるにあたって、一つだけ約束してほしいんだ」

 

「約束……?」

 

「ああ。私たちの命や、調査の危険に関わることだけは、絶対に隠さないでほしい。昨夜のように、海で何かが起きそうだと気づいたなら、嘘をつかずに真っ先に僕に教えてほしいんだ」

 

 テオドールの真剣な瞳を見つめ、私は深く頷いた。

 

「分かったわ、テオ。私たちの安全に関わることは、絶対に隠さない。あなたを危険な目に遭わせたくないもの」

 

「ありがとう。……そして、これは僕からの約束だ」

 

 テオドールは作業机の引き出しから、一冊の黒い革表紙のノートを取り出した。

 

「君が海に関わる特別な知識を持っていることや、君から聞いた個人的な話は、大学の教授やヴォルフさんなどの第三者には、絶対に無断で漏らさない。公的な報告書や論文には、君の関与は一切書かないよ」

 

「本当……?」

 

「もちろんさ。君を守るための約束だ。だから、記録の扱いについても、君と一緒に確認しておきたい」

 

 テオドールは黒革のノートを開き、そこに書き留められたインクの文字を指でなぞりながら、私に見せた。

 私には人間の文字は読めない。その困惑に気づいたのか、テオドールは柔らかく微笑み、ノートの記述をひとつひとつ声に出して読み上げてくれた。

 

「『十一日目・深夜。南の黒岩礁にてパッシブ・サンプラーの設置および回収。水路におけるうねりの周期、流向、海水温の記録』……ほら、ここに書かれているのは、僕が観測した物理的なデータだけだ。君が海に顔を浸けたことや、水中の生き物の気配については、一切書かれていない」

 

「……本当ね」

 

「君に関する特別な覚書や、僕たちだけの秘密にしておくべき仮説は、このノートにだけ記す。そしてこのノートは、誰の手にも触れないよう、標本室のこの引き出しに保管するよ」

 

 テオドールが机の最上段の引き出しにノートを収めようとしたとき、私はその手元を見つめて口を開いた。

 

「ねえ、テオ。公表しないのはもちろんだけど……私のことが書かれているなら、テオが読み上げるのを聞くだけじゃなくて、私にもちゃんと何が書かれているか確かめさせてね。他人に勝手に記録されるだけなんて嫌だもの」

 

 テオドールは少し目を瞬かせ、それからとても真摯に頷いた。

 

「……そうだね。君の言う通りだ。君の観察でもあるんだから、僕たち二人で確かめ合いながら進めよう」

 

 テオドールは引き出しにノートを収め、真鍮の小さな鍵を差し込んでカチャリと回してみせた。

 そしてその鍵を、私の目の前で自分の首の革紐へと通した。

 

「これで安心できるかい?」

 

「……ええ。ありがとう、テオ」

 

 胸の奥に鉛のように溜まっていた不安が、すうっと溶けていくのを感じた。

 互いに守るべき一線を明確にし、約束を日々のルールとして形にする。

 それは、ただの居候と家主という関係を超えて、対等なパートナーとしての一歩を踏み出した瞬間だった。

 

 

3. 二つのプレパラートと、観察の限界

 

「よし、それじゃあ捕集物の確認に入ろう」

 

 テオドールがピンセットとスライドガラスを並べ、慎重に作業を始めた。

 二本のガラス管から、それぞれ最上層の脱脂綿と石英砂の一部を少量ずつ取り出し、カバーガラスを被せて顕微鏡のステージに乗せる。

 

「ローナ、覗いてごらん」

 

「うん」

 

 私が顕微鏡の接眼レンズに片目を当てると、丸く切り取られた光の円の中に、微小な世界が広がっていた。

 

「まずは、昨夜の黒岩礁のサンプルだ」

 

 レンズの向こうには、脱脂綿の白い繊維に絡みつくように、金色の小さな球体が無数に散らばっていた。

 強い光を反射してキラキラと輝く、微小な油の粒――脂質球だ。

 さらにピントを合わせると、透明なゼリー状の薄い膜や、細長い線維状の組織らしい断片が、繊維の隙間にしっかりと引っかかっているのが見えた。

 

「油の粒と……半透明の破片が見えるわ」

 

「ああ。次は、今朝回収した干潟のサンプルだ」

 

 テオドールがプレパラートを交換する。

 干潟のサンプルは、黒岩礁のものとは明らかに様子が異なっていた。

 泥の微粒子や、四角や丸の形をした植物プランクトン(珪藻)の殻がたくさん混ざり込み、全体的に薄茶色に濁っている。

 けれど――その雑多な浮遊物の中に、黒岩礁と同じ、光を強く反射する油滴と、薄い組織片が確かに点在していた。

 

「……どう思う、テオ?」

 

「確かなことは、どちらの地点でも、海水中に微小な油滴と、未同定の組織らしい断片が浮遊していて、それを僕たちの捕集器がトラップできたという事実だけだ」

 

 テオドールは顕微鏡から顔を上げ、冷静にペンを走らせた。

 

「これが干潟で拾ったあの皮膚片と同じ生物のものなのか、それとも別種の海洋動物の分泌物なのかは、この簡易的な顕微鏡観察だけでは断定できない。それに、干潟側は夕方から朝にかけて十時間以上も海水を濾過しているのに対し、黒岩礁は満ち潮の三十分間だけだ。採集時間も潮の段階も全く違うから、単純に比較して移動経路や生息域を特定することは、今の段階では科学的に不可能だよ」

 

「そうね……ぬか喜びはできないわね」

 

「ああ。だけど、落胆する必要はないよ。この結果は、僕たちが開発したパッシブ・サンプラーが、肉眼では見えない海中の微細な浮遊物を濾し取る道具として、極めて実用的であることを証明している。これだけの物証があれば、大学への報告書としては十分な前進だ」

 

 テオドールは決して無理な拡大解釈をしなかった。

 見えるものだけを誠実に見つめるその姿勢に、私は改めて深い安心感を覚えた。

 

 

4. 外部報告の作成と、守られた境界

 

 その日の午後、テオドールは帝立大学の審査会と、仲買人のヴォルフへ提出するための公式報告書の作成に取り掛かった。

 

 作業台の上には、大学指定の罫線紙と、インク壺。

 テオドールは下書きの段階から、文面を一行ずつ声に出して私に確認させてくれた。

 

「タイトルは『石英砂および脱脂綿フィルターを用いた、沿岸水路における微小浮遊有機物の受動的捕集法の試み』……これでいこう」

 

「ずいぶん難しそうな題名ね」

 

「学会や審査会を納得させるには、こういう表現が一番なんだよ。内容も、道具の構造と捕集手順、そして回収された油滴や未同定の組織片の光学顕微鏡スケッチを中心にまとめる」

 

「採集した場所は、どう書くの?」

 

「『港湾近郊の潮汐水路二地点』とだけ記載するよ。南の黒岩礁という具体的な地名も、西の干潟という名称も、報告書には一切出さない。ましてや、夜間に水路で大きな生物を目撃したことや、君が水中に合図を送ったことなど、一文字も書かない」

 

 テオドールのペン先が、サラサラと小気味よい音を立てて紙の上を走る。

 

「これで提出すれば、教授会も『未知の標本探索に向けた、着実かつ独自性のある予備調査の成果』として受け取らざるを得ないはずだ。もちろん、これだけで調査費の打ち切りが完全に撤回される保証はないけれど……少なくとも、即座に研究室を閉鎖しろという無茶な要求は押し戻せる。時間を稼ぐための強力な足がかりにはなるよ」

 

 そう言ってペンを置いたテオドールは、机の端に置かれたプレパラートに目を留め、ふと指先でそのガラスの縁をそっと撫でた。

 

「……もし、あの水路で起きたことや君の合図の理由まで書き添えることができたら、どんなに大きな発見として学会を揺るがせただろうな、とは……正直、少しだけ考えてしまうよ」

 

 眼鏡の奥に、学者としての純粋な探究心と未練が、隠しようもなく滲んでいた。

 けれど、彼は深く息を吐き出すと、迷いを断ち切るように報告書の束を揃え、封筒へと滑り込ませた。

 

「でも、僕たちの手でここまで記録できただけで、今は十分だ。君との約束を守りながら、この標本室を守るための確かな第一歩を踏み出せたんだからね」

 

「……ええ。本当に、よかったわ」

 

 私は胸に手を当てて、ほっと息をついた。

 同族の存在を脅かすことなく、テオドールの学者としての立場も守られる。

 私たちが夜の海で凍えながら手に入れた小さな成果は、こうして確かに実を結びつつあった。

 

 

5. 記憶を語る「言葉」と、新たな眼差し

 

 夕暮れ時。

 完成した報告書の清書を木箱に納め、机の上の器具を片付け終えた頃。

 

 テオドールは作業台に置かれた黒岩礁のプレパラートを、ランプの光に透かしてじっと見つめていた。

 その横顔には、報告書を書き終えた安堵感とともに、学問的な探究心の奥にある、深い思索の影が落ちていた。

 

「……ねえ、ローナ」

 

「なに、テオ?」

 

「あの水路で、君が水の中に顔を浸けて合図を送った時……水底から響いてきた、あの鋭い共鳴音のことなんだけどね」

 

 テオドールは静かにレンズを見つめたまま、言葉を紡いだ。

 

「今朝、君は『人間がいるから近づくなと警告した』と言ったね。あれは……鯨やイルカが仲間を呼ぶ時に出す、ある種の警戒音のようなものなんだろうか」

 

 その問いを聞いた瞬間、私の胸の奥で、小さな躊躇いが生まれた。

 もうこれ以上、余計なことは言わないほうがいいのかもしれない。

 けれど――今日一日、彼が私の秘密を守るために払ってくれた誠実な配慮を見ていて、私は、彼が真実を正しく知るに値する人間だと確信していた。

 同族たちの居場所を明かす必要はない。けれど、彼女たちがどういう存在なのか、その尊厳に関わることだけは、彼に誤解してほしくなかったのだ。

 

「テオ。……あれはね、ただの警戒音じゃないわ」

 

「え……?」

 

 テオドールが顔を上げ、私を見つめた。

 私はプレパラートの上の微小な油滴を指差し、静かに、けれどはっきりとした声で告げた。

 

「あの水の中の音はね……仲間同士で意味を伝える、『言葉』なのよ」

 

「言葉……!?」

 

 テオドールが息を呑んだ。

 

「単なる反射的な叫び声じゃないの。あの言葉で、彼らは『危ない』と知らせるだけじゃなくて……過去に起きた出来事や、海のどこで何があったかという、自分たちの『経験』も語り合っているのよ」

 

「経験を……語り合う……!?」

 

 テオドールは机の上の海図とガラス瓶の皮膚片を見つめ、それから弾かれたように顔を上げて私を見つめた。

 眼鏡の奥の瞳が、これまでにないほど深く鋭い光を宿し、私の顔、喉元、そして作業台に置かれた手へと食い入るように彷徨う。

 

「……ローナ。君は、どうしてそれを……」

 

 何かを問い質そうとして開かれた彼の唇が、そこで凍りついたように止まった。

 海の中の生き物と、目の前にいる私。その二つを結びつけて考えているような視線に、心臓が早鐘を打ち、背筋に冷や汗が伝い落ちる。

 

(……まさか、気づいているの?)

 

 彼がどこまで見抜き、どこまで察しているのかが分からない。

 喉の奥がカラカラに渇き、息が詰まりそうになる。

 

 だが、テオドールは激しい逡巡ののち、何かを堪えるようにぐっと唇を引き結んだ。

 今朝交わした「無理に聞き出さない」という約束が、彼の追及をとどまらせたのだろうか。

 テオドールは深く息を吐き出し、ゆっくりと視線を窓の外――夕闇に沈んでいく遠い海へと向けた。

 

「……そうか」

 

 掠れた声が、静かな標本室に落ちた。

 

「彼女たちは……過去を記憶し、言葉を交わして生きているのか。……だとしたら、僕たちは……」

 

 テオドールはそこで言葉を切り、胸元に手を当てた。

 机の上のプレパラートに目を落とす彼の横顔には、新種を見つけた学者の興奮などはなく、もっと根源的な戸惑いと迷いが浮かんでいた。

 

「……彼女たちは、僕たちに調べられることを望んでいるんだろうか」

 

 ポツリと漏らされたその問いは、冷たい夜の空気の中に、重く、静かに溶けていった。

 嘘をつかれていたことへの傷つきや、私に対する拭いきれない疑問は、消えたわけではない。

 けれど、彼が口にしたのは私を問い詰める言葉ではなく、海の中の生き物と、そして私の言葉に、真摯に耳を傾けようとする問いだった。

 

 窓の外から、潮騒の音がかすかに聞こえてくる。

 まだ明かせない秘密と、抱えきれないほどの謎を挟みながらも、私たちは互いに向き合い、相手の声を聞こうとしていた。

 緊張を孕んだその静けさの中で、二人の新しい夜が始まろうとしていた。

 

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