発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様 作:神座鬼神
1. 深夜の門前、法と乳香の対峙
地上階へ駆け上がった瞬間、ヴィンセントの鼻腔を突いたのは、冷たい夜気と、それに混じる重苦しい煙の臭気だった。
第三保税倉庫の巨大な鉄張りの両開き門。その頑丈なオーク材の扉の向こうから、無数の松明の爆ぜる音と、怒気を含んだ罵声が響いていた。
ドガァン! と重い衝撃音が扉を震わせる。槍の柄か鉄棒で外側から叩きつけているのだ。
「開門せよ! 大聖堂教区参事会および異端審理局の命である! 主の秩序を乱す汚らわしい魔物を引き渡せ!」
門衛の男たちが青ざめた顔で閂(かんぬき)を押さえ、ヴィンセントを振り返った。
ヴィンセントはネクタイの結び目を指先で整え、ウールコートの胸元から一通の折り畳まれた羊皮紙を取り出した。エルンスト自由通商特許令の写し――商工会議所の捺印が押された、近代資本主義の護符だ。
「閂を外せ。扉を半開きにしろ」
「し、しかし主任! 奴らは教区の武装衛兵を連れています!」
「開けろと言っている。商会の敷地内で狼狽えるな。ここは神殿ではなく、商業の領地だ」
ヴィンセントの平然とした声に圧され、門衛長が震える手で重い鉄の閂を引き抜いた。
ギギィ、と扉が僅かに開いた瞬間、外から冷たい夜風とともに、目も眩むような松明の赤い光が差し込んだ。
門の外の石畳広場には、銀の十字架を刺繍した黒革の陣羽織を纏った教区武装衛兵が、二十人以上も整列していた。手には抜き身のハルバード(鉾槍)と、火縄の燻るマスケット銃。
そしてその中央、真鍮の振り香炉から乳香の白煙を立ち昇らせながら立っていたのは、大聖堂の異端審理査察官――オズワルド司祭だった。
四十半ばの痩身。窪んだ眼窩の奥で、狂信的な光をギラギラと燃え滾らせた男だ。
「……出たな、強欲なる商人どもの手先め」
オズワルド司祭は銀の十字架をヴィンセントの鼻先に突きつけた。
「北洋の密輸捕鯨船が、海より出でし魂なき悪魔――船乗りを誑かす海のサキュバスをこの倉庫へ運び込んだとの告発があった。主の火で即刻焼き清めねば、この港町全体に神の怒りの雹が降り注ぐであろう! 直ちに地下を開け、魔物を神の法の下に差し出せ!」
衛兵たちが一斉に槍の石突で石畳を打ち鳴らし、威圧的な響きを立てた。
だが、ヴィンセントは眉毛一本動かさなかった。
彼はランタンの光の下で、手元の羊皮紙を静かに広げて見せた。
「オズワルド司祭。貴方の熱烈な教義演説は、日曜日のミサで聴衆に向けて披露されることをお勧めします」
「何だと……!?」
「ここエルンスト港湾保税区は、一八四二年の帝国勅許通商令、ならびに自由港湾協定第八条に基づき、自治都市商工会議所が完全なる自主管理権を有する特区です」
ヴィンセントは澱みなく、氷のように冷淡な声で条文を読み上げた。
「保税倉庫内の動産に対する捜索、差押、または廃棄処分には、港湾総督および商工会議所専任判事の連名による『正規の家宅捜索令状』が必須と定められています。……司祭、貴方がお持ちの令状を拝見願えますか?」
「屁理屈を抜かすな!」
オズワルドが激昂し、唾を飛ばした。
「悪魔の駆除に俗世の法律など不要だ! 神の権威は地上の商人の紙切れなど遥かに超越している!」
「超越していませんね。少なくとも、この港の国際為替市場においては」
ヴィンセントは一歩前に出た。
「大聖堂の修繕費を賄っている融資銀行の筆頭株主が、我が連合海運商会の筆頭理事であることをご失念ですか? 令状なき不法侵入によって我が商会の寄託財産に一ペンスでも損害が出た場合、商工会議所は直ちに大聖堂の教区資産を差し押さえ、毎時金貨二十枚の営業停止損害賠償を請求します。……教会の金庫に、その支払いに耐えうる金貨がおありですか?」
「ぐ……っ、お、おのれ……金の亡者どもが……!」
オズワルド司祭の青白い顔が、屈辱と怒りで朱に染まった。
近代の法と資本の壁は、中世の狂信を真っ向から押し返していた。銃と槍を持つ衛兵たちも、商会の背後にある総督府と銀行の影に気圧され、それ以上踏み込めずに互いの顔を見合わせた。
「今夜はお引き取りを」
ヴィンセントは懐中時計を取り出し、カチリと鳴らした。
「正規の令状をお持ちになれば、いつでも法令に従ってご案内いたします」
「……後悔するなよ、若造」
オズワルド司祭は憎悪を込めて吐き捨てた。
「夜が明ければ、総督府の枢密顧問官を動かし、正午までに正規の令状を取り付けて戻ってくる! それまで門の周囲を一歩も離れるな! 一頭の蟻、一匹のネズミもこの倉庫から出すな!」
司祭は身を翻し、倉庫の門前を衛兵で完全に封鎖するよう命じた。
2. 残された時間と、地下の仕立て
バタン! と重い門が閉じられ、鉄の閂が落とされた。
門衛長が安堵の息を吐いてへたり込む傍らで、ヴィンセントの表情は一層険しく引き締まっていた。
(……時間稼ぎは成功したが、猶予は完全に消えた)
二週間後の競売を待つ余裕など、最初からなくなったのだ。
大聖堂が本気で総督府を動かせば、今日の昼過ぎ――遅くとも日没までには、武装衛兵を従えた執行吏が令状を持って踏み込んでくる。
それまでに、彼女をこの保税区から連れ出し、港の外へと逃亡させねばならない。
「門衛長」
「は、はい!」
「正門の警備を怠るな。教会の衛兵を刺激せず、しかし一歩も敷地に入れるな。私は地下の貨物の保全確認に戻る」
ヴィンセントは足早に倉庫の備品管理室へと向かった。
棚を漁り、過去の未受取荷物の中から、使えそうな品を次々と引っ張り出す。
北洋航路の移民船客が残していった厚手のウール製ロングスカート、フリル付きの綿ブラウス、防寒用の大きなフード付きウールマント。そして、船員用の鹿革のショートブーツ。
さらに、事務机の引き出しから革断ち包丁、針と丈夫な麻糸、そして予備の羊毛フェルトのインソールを掴み取ると、ヴィンセントは地下氷室へと駆け戻った。
ギーッ、と第零号セルの重い扉を開けると、そこには先ほどとは劇的に違う気配が漂っていた。
先ほど与えたマトンと羊脂が、彼女の驚異的な消化能力によって完全に熱量へと変換されていた。
麻袋の上に座っていたクラウディアの頬には、生気あふれる桜色の血色が差し、碧い瞳は爛々と澄み渡っていた。
鉄格子の隙間からヴィンセントを見上げた彼女の鼻先が、微かにピクリと動く。
「……おかえり、ヴィンセント。上の騒ぎ……収まったのか?」
「一時的にな。だが、競売を待つ猶予は消えた」
ヴィンセントは格子の鍵を開け、腕に抱えていた衣服の山をセルの中の木箱へ置いた。
「今日の昼には、教会の令状を持った連中がここを踏み荒らす。それまでに、お前を人間の女として偽装し、この保税倉庫から脱出させる」
「脱出……!? でも、外にはあの灰の匂いのサルたちがいっぱいいるんだろ!?」
「だから偽装するんだ」
ヴィンセントはウールのスカートとブラウスを広げた。
「その二本の脚に服を着せ、靴を履き、私の連れの女として堂々と抜ける。……着替えろ」
「ふ、服……? こんな布の袋を、身体に巻きつけるのか?」
クラウディアは警戒するように眉をひそめながらも、ヴィンセントに促されるまま、麻布を脱ぎ捨ててブラウスに袖を通した。
水かきのある指先でぎこちなくボタンを留め、厚手のウールスカートに足を通す。
肌に触れる柔らかな羊毛の感触に、クラウディアの瞳がぱっと丸くなった。
「……あったかい。チクチクしない……。海の中じゃ、こんな温もりの膜……見たことない」
「喜んでいる暇はない。問題は下だ」
ヴィンセントは木箱の上に、船員用の鹿革ブーツを置いた。
3. 平らな足底と、最初の靴
「足にこれを履くんだ。陸の人間は、裸足で街を歩いたりはしない」
「これ……? 硬い木の皮みたいで、変な匂いがする……」
クラウディアはおずおずと右足を伸ばし、ブーツの履き口へと爪先を差し込もうとした。
だが――。
「……いっ……痛いっ! 入らないよ、こんなの!」
クラウディアは悲鳴をあげて足を引っ込めた。
ヴィンセントは彼女の足元に膝をつき、眉をひそめた。
(……そうか。マウラーの観察記録にあった通りだ)
彼女の足先には、陸上の人間にあるべき**土踏まず(足底アーチ)が一切存在しない**。
長年の海中遊泳に適応した足底は、完全な平面を描いており、人間の足型に合わせて土踏まずを盛り上げた革靴の木型とは、根本的に形状が合致しないのだ。
さらに致命的なのは、白く細い五本の足指の間にピンと張られた、青白く透き通る趾間膜(水かき)だった。
つま先の細い人間の革靴に足を押し込めば、水かきが左右から強烈に圧迫され、神経が密集した薄い膜を引き裂かんばかりの激痛を生み出してしまう。
「痛い……! 指が押し潰されちゃう! こんなの履いて歩けるわけないよ!」
クラウディアは痛む爪先を手で抱え、涙目になってヴィンセントを睨みつけた。
「暴れるな。構造が合わないだけだ」
ヴィンセントは迷うことなく、コートから革断ち包丁を取り出した。
ブーツのつま先、左右の親指と小指が当たる側面の継ぎ目に包丁の刃を当て、手際よくザクリと切り込みを入れる。さらに、靴の内側で土踏まずを支える硬い革の芯を削ぎ落とし、底に柔らかな羊毛フェルトのインソールを二重に敷き詰めた。
「これでどうだ。幅を広げ、水かきへの圧迫を逃がした」
ヴィンセントがそっと彼女の右足を取り、改造したブーツを履かせた。
クラウディアはびくりと身を強張らせたが――今度は悲鳴は上がらなかった。
「……あ」
彼女は目を瞬かせた。
「痛くない……。ふかふかして……地面の冷たいのが、消えた……」
「左も履け。靴紐をしっかり締めるぞ」
両足にブーツを履かせ、編み上げ紐を固定すると、不恰好ながらも、外見上は完全に「人間のブーツを履いた娘」の足元が完成した。
4. よちよち歩きと、微かな熱
「さあ、立て。自分の二本の脚で立つんだ」
ヴィンセントが立ち上がり、手を差し伸べた。
クラウディアは恐る恐る鉄格子から手を離し、改造されたブーツの足底で、地下室の冷たい石畳を踏みしめた。
「う……わっ、と……!」
グラリと身体が揺らぎ、クラウディアの細い身体が前へ倒れかけた。
水中では浮力に守られ、陸上でもこれまでは麻袋の上に座り込んでいただけだった彼女にとって、全体重が二本の足底にのしかかる重力の負荷は、未知の恐怖だった。
咄嗟にヴィンセントが両腕を伸ばし、彼女の華奢な腰と肩をしっかりと抱き止めた。
「……っ!」
クラウディアの顔が、ヴィンセントの胸元に飛び込んだ。
ウールコート越しに伝わる、三六・五度の人間の男の生きた体温。そして、乾いた羊毛と石鹸、インクの混ざった匂い。
その瞬間――。
クラウディアの喉の奥から、息を呑むような小さな呼気が漏れた。
「……ひゅ……っ、あ……」
彼女の全身が、ビクンと小さく跳ねた。
青真珠色の滑らかな首筋から耳たぶにかけて、みるみるうちに淡い桜色の火照りが広がっていく。
彼女の下腹部――閉ざされた生殖スリットの奥深くで、チリチリと甘く重い熱が燻り始めていた。
その感覚に触れた瞬間、海底で長老のおばばから聞かされていた、群れの娘たちへの教えが脳裏に蘇った。
――『海の子よ、陸の男の温もりを知れば、身体の奥に子を宿すための火が灯る。己の指で弄ってもその火は消せぬ。男の真の種を受け入れることでしか鎮まらぬ、命を継ぐための自然の掟なのだ』――
群れの成熟した娘たちに伝えられる、繁殖の知恵。
まだ最初の性成熟を迎えたばかりのクラウディアにとって、それは遠い日の知識にすぎないはずだった。
だが――男の胸に顔を埋め、その匂いを吸い込んだ今、身体の奥底に眠っていた繁殖のスイッチが、理性を越えて自然に作動し始めている。
(……これ、おばばの言ってた……あの『火』なの……!?)
恐怖と屈辱が、クラウディアの背筋を駆け抜けた。
よりによって、自分を閉じ込め、売り飛ばそうとしている目の前の「陸のサル」の体温に、自分の身体が勝手に反応しているのだ。
「……っ、さ、触るな……ッ!」
クラウディアは弾かれたようにヴィンセントの胸元を手で突き放そうとした。
だが、土踏まずのない不慣れな足底には踏ん張りが利かず、下腹部を突き上げる甘い熱のせいで膝がガクガクと震え、男を突き飛ばすどころか、その胸板に自ら額を押し付ける形になってしまう。
「……っ、ひゅ……っ、離せ……サル……ッ! な、なんだよこれ……っ、お腹が……熱い……!」
クラウディアは荒い呼気を吐きながら、涙目になってヴィンセントを睨みつけた。
碧い瞳に、初めて味わう身体の疼きへの激しい動揺と、敵の男に対する強烈な警戒が渦巻いている。
ヴィンセントはその急激な体温の上昇と、彼女の身体からふわりと漂い始めた微かな甘い潮の香りに気づいていた。
マウラーの手帳に記されていた観察記録の一節が、脳裏を掠める。
『観察第十日前後より、検体は接触に対して著しい興奮と皮膚の紅潮、体温の上昇を示す。雄に対する強い誘引行動の前兆と見られる――』
ヴィンセントは表情を崩さず、努めて実務的な距離を保ったまま、彼女の肩を強引に引き剥がして立たせた。
「立てるか?」
「……っ、触るなって……言ってるだろ……ッ!」
クラウディアは悔しそうに奥歯を噛み鳴らし、湧き上がる熱を力任せにねじ伏せるように、ヴィンセントの腕を乱暴に掴んで姿勢を立て直した。
そして意を決して、右足を一歩、前へ踏み出した。
ペタ、ペタ。
土踏まずのない平らな足底ゆえに、かかとから爪先へ体重を滑らかに逃がす歩行はできない。
足裏全体を石畳に押し付け、腰を小さく左右に揺らしながら、小刻みに歩幅を刻む――ぎこちなくも慎重な、独特の小股歩行。
一歩、二歩、三歩。
地下室の石畳の上を、彼女は確かに自らの意思で歩いていた。
「……あ……!」
クラウディアの顔に、弾けるような歓喜の笑みが広がった。
「歩けた……! ヴィンセント、見て! 私、倒れないで歩いてる! サルの足で、陸の上を進んでるよ……!」
その碧い瞳には、過酷な運命に翻弄される遭難者ではなく、未知の陸上世界へ踏み出そうとする野生の生命の輝きが満ちていた。
ヴィンセントは、その眩しい笑顔に一瞬だけ目を奪われそうになり――すぐに表情を引き締めた。
「歩けるな。合格だ」
ヴィンセントは大きなフード付きのウールマントを取り上げ、彼女の頭からすっぽりと被せた。
銀青色の濡れた髪も、尖った円錐歯も、青真珠色の肌も、すべて深いマントの影の中へと覆い隠される。
「正門は教会の衛兵で封鎖されている。だが、この保税倉庫の地下には、満潮時に海水を船底へ引き込むための『運河水門(カーゴ・スルース)』がある。水門の点検通路から小舟を出し、港外の旧漁港へ抜けるぞ」
「小舟……! 水があるの?」
「水はあるが、泳がせるためではない。お前を人間の女として帝都行きの荷馬車に乗せるためだ」
ヴィンセントは黒革の帳簿とランタンを手に取った。
「行くぞ、クラウディア。夜明けまであと三時間。……金貨五百枚の密輸旅の始まりだ」
地下氷室の暗がりから、二つの足音が水門へと向かって歩み出した。