発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様   作:神座鬼神

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第8話:紙の上の名前と、来月の約束

1. 朝の食卓と、率直な意志

 

 上陸十三日目の朝。

 東の水平線から昇ったやわらかな朝陽が、研究室兼居住区の台所に斜めに差し込んでいた。

 台所には、昨夜からコトコト煮出しておいた肉骨スープの濃厚な匂いと、香ばしく炙った燻製ニシンの煙が立ちのぼっている。

 

「熱いから気をつけてね」

 

 テオドールが、骨から溶け出した旨味たっぷりのスープ鉢と、こんがり焼けたニシンを私の前に運んできてくれた。彼自身の前には、素朴な麦粥の器が置かれている。

 昨日の未明、南の黒岩礁からずぶ濡れで戻り、乾いた毛布と生姜ミルクで暖炉を囲んだときの張り詰めた空気は、幾分か和らいでいるように見えた。

 けれど、彼が私の向かいに腰を下ろし、ふと視線を落とした瞬間、眼鏡の奥の瞳に昨夜の影が微かに宿るのを私は見逃さなかった。

 

 昨夜、標本室で顕微鏡を覗きながら、彼がポツリと漏らしたあの問い――。

『……彼女たちは、僕たちに調べられることを望んでいるんだろうか』

 

 その言葉への答えを、私はまだ返していなかった。

 濃厚なスープをひと口啜り、香ばしいニシンの身をほぐして胃袋を温めてから、私は湯気の向こうのテオドールをまっすぐに見つめた。

 

「ねえ、テオ。昨日の夜の質問だけどね」

 

 テオドールがびくりと肩を揺らし、持っていた匙を止めて顔を上げた。

 

「海の中にいるあいつらが、本当はどう思ってるかなんて、私には分からないわ。……でもね、もし私なら、あんなふうに勝手に調べられるのは絶対に嫌よ。沖から勝手に網を投げ込まれたり、銛やナイフで皮膚を突かれたり、知らない言葉で遠くから詮索されたりするなんて、まっぴらごめんだわ」

 

「…………」

 

 テオドールは息を詰め、私の顔をじっと見つめた。

 その瞳には、昨夜と同じ、私という存在の正体に向けられた鋭い疑問が確かに揺らめいている。

 来歴の多くを伏せたままである私への疑念は、消えたわけではないのだ。彼が何を疑い、何を考え込んでいるのかは、言葉にされずともその眼差しの深さから痛いほど伝わってくる。

 

 けれど、テオドールは数秒の沈黙の後、ゆっくりと息を吐き出して口元に微かな苦笑を浮かべた。昨日の朝、暖炉の前で交わした「無理に詮索はしない」という約束を、彼は誠実に守っているのだ。

 

「……そうだね。君の言う通りだ。どんな生き物であれ、見知らぬ相手から勝手に踏み込まれて傷つけられるのを望むはずがない」

 

 彼は深く頷き、自分の麦粥に目を落とした。

 

「独りよがりな観察で終わらせてはいけないんだ。……ありがとう、ローナ。君のその率直な言葉を聞けてよかったよ」

 

 追及を呑み込み、あえて私の意志として受け止めてくれた彼の気遣いに、私の胸の奥がじんわりと温かくなった。

 

 

2. 港町への坂道と、肉屋の駆け引き

 

 朝食を終えたあと、私たちは身支度を整えて外へ出た。

 昨日のうちに清書を済ませた外部提出用の報告書――捕集器の機構と、付着した微小な有機断片の予備観察結果をまとめた分厚い封筒を、港町の郵便取次所から本土への定期便へ発送するためだ。

 

 岬の高台から港町へと続く下り坂は、海風が通り抜けて清々しかった。

 昨日のような寒さや衰弱はすっかり抜け、私の身体には生き生きとした活力が戻っている。

 けれど、土踏まずのない平らな足にとって、ゴロゴロとした砂利道と急な傾斜は依然として厄介な難所だった。少し早足で歩こうとするだけで、足首とふくらはぎがパンパンに張ってくる。

 

「っと……」

 

 小石に足を取られそうになった瞬間、隣を歩いていたテオドールが、すっと右腕を差し出してくれた。

 

「大丈夫かい? 少し歩幅が早かったね。焦る必要はないんだから、ゆっくり行こう」

 

 彼は重い発送書類の革鞄と買い物籠をひとりで抱え、私のよちよちとした小股の歩幅にきっちりと合わせて歩いてくれる。

 途中の日当たりのいい石垣を見つけると、「少し腰を下ろして休もうか」と足を止め、私が疲れていないか絶えず横顔を窺っていた。

 その不器用な優しさに甘えながら、私は石垣に座って足をぶらぶらと揺らした。

 

「ねえテオ、郵便を出したら、市場に寄るんでしょう? 今日こそはお肉を買ってくれるのよね?」

 

「もちろん寄るよ。……ただ、今月の調査費もだいぶ心許なくなってきたからね。あまり高価な牛肉のかたまり肉は勘弁してほしいけれど……」

 

 テオドールが腰の革財布を指先で軽く叩き、苦笑いを浮かべた。

 学者という人種は、どうしてこうも金勘定に控えめでお人好しなのだろう。

 

「ふふん、任せなさいよ。美味しいお肉を手に入れるのに、高いお金ばかり払う必要なんてないんだから!」

 

 テオドールに手を差し伸べてもらい、石垣から慎重に地面へと足を下ろすと、私は張り切って町へと歩き出した。

 

 取次所で無事に封筒の発送手続きを終えた後、私たちは活気あふれる市場の一角にある精肉店へと向かった。

 軒先に吊るされた燻製肉やソーセージの濃厚な脂の香りが鼻腔をくすぐり、私の肉食獣としての本能が歓喜の声を上げる。

 恰幅のいい肉屋の店主が、分厚い木製まな板の上で大きな豚肉の半身を骨ごと鉈で叩き切っていた。

 

「へい、いらっしゃい! 旦那、今日は上等な腿肉が入ってるぜ。シチューにすりゃ最高だ」

 

 店主が指差した赤身の肉は、確かに立派だったが値札の数字もそれなりに張っていた。

 テオドールが財布を開き、眉根を寄せて小銭を数え始めている。

 そこで私は、カウンターの隅の大きな木桶に目を留めた。

 そこには、形の整った肉を切り分けたあとの、白く分厚い脂身がたっぷりついた豚バラ肉の端切れや、骨髄がぎっしり詰まった牛の大腿骨が山積みにされていたのだ。

 

「ねえ、おじさん! あの桶の中の端切れと、その骨を全部まとめて買ったら、いくらにしてくれる?」

 

「ああん? 嬢ちゃん、そいつはクズ肉と出汁用の骨だぜ? 筋っぽくて脂っこいだけで、町の奥様方は見向きもしねえよ」

 

「何言ってるのよ、骨の周りの筋と脂身こそが一番旨味があって最高じゃない! 鍋でじっくり炒めて脂を出せば、どんな野菜だってごちそうになるんだから。ね、安くまとめて譲ってよ!」

 

 私が身を乗り出して力説すると、店主は目を丸くして呆気にとられ、やがてガハハと豪快に笑い声を上げた。

 

「たまげたな! こんなべっぴんさんが、クズ肉の脂の旨さを知ってるとはね。いいぜ、どうせ捨てるか家畜の餌にするつもりだったんだ。銅貨三枚で桶ごと全部持っていきな!」

 

「やった! テオ、銅貨三枚!」

 

 私が勝ち誇ったように振り返ると、テオドールは目を丸くしたまま、慌ててポケットから銅貨を差し出した。

 買い物籠はずっしりと重くなり、抱えきれないほどの脂身と骨付き肉で満たされた。予算の三分の一も使わずに、私の両手一杯の獲物が手に入ったのだ。

 

「……君の生活力には、本当に頭が上がらないよ、ローナ」

 

 精肉店を出たあと、テオドールが心底感心したようにため息をついた。

 

「ふふん、どう? 私のおかげでお金が浮いたでしょ。今夜はこれでお腹いっぱいお肉が食べられるわよ!」

 

 私が得意げに胸を張ると、テオドールは心からの笑顔をこぼし、「ああ、本当に頼もしいよ」と柔らかく目を細めた。

 

 

3. 香ばしい昼食と、軽口の文字交渉

 

 研究所へ帰り着く頃には、ちょうど正午を回っていた。

 買い込んできた豚の端切れ肉から、脂の乗った部位を選りすぐり、熱した鉄フライパンへと放り込む。

 ジューッという激しい音とともに、白い煙と香ばしい脂の匂いが台所いっぱいに弾け飛んだ。塩と粗挽きの黒胡椒を多めに振り、表面がカリッと黄金色になるまで焼き上げる。骨付き肉の一部は小鍋に入れ、塩水でコトコトと煮込んで濃厚な骨スープを仕立てた。

 

「いただきます!」

 

 木皿に山盛りにされた焼き立ての豚肉を、私は手づかみに近い勢いで頬張った。

 噛み締めた瞬間、パリッとした焦げ目の奥から、熱々とろとろの脂と濃厚な肉汁が口いっぱいに溢れ出す。

 海の中で食べていた冷たい生の魚とはまるで違う。火の熱を通し、脂を活性化させた肉料理は、身体の芯を一瞬で沸き立たせる至高のごちそうだ。

 

「おいひい……っ! やっぱり火を通したお肉は最高ね!」

 

「ふふ、口の周りに脂がついているよ。慌てなくても肉は逃げないから」

 

 テオドールが笑いながら布巾を差し出してくれる。彼自身もパンに焼き立ての肉を挟み、美味しそうに口へ運んでいた。

 スープの最後の一滴まで飲み干し、満ち足りた吐息をついたところで、私はテーブル越しにテオドールをじっと見つめた。

 

「ねえ、テオ」

 

「ん? お代わりかい? まだ鍋に残っているけれど」

 

「そうじゃなくて。……私に、人間の文字を教えてくれない?」

 

 テオドールは持っていたフォークを止め、少し驚いたように瞬きをした。

 

「文字を……? どうして急に学びたくなったんだい?」

 

「どうしてって……昨日の午前中、テオが机の引き出しから出してくれたあの黒いノートのことよ」

 

 私は肘をついて身を乗り出し、いたずらっぽく笑ってみせた。

 

「あのノートに私のことが何て書かれているか、テオが読み上げるのを聞くだけじゃ、なんだか悔しいじゃない。もしかしたら、テオが私の悪口をごまかして読んでるかもしれないし!」

 

「僕がそんなこと書くわけがないだろう!」

 

 テオドールがおかしそうに吹き出した。

 

「ふふ、悪口は冗談よ。……でもね、自分に関することが書かれているなら、テオの言葉を聞くだけじゃなくて、自分でもちゃんと読んで確かめたいの。他人に勝手に記録されるだけなんて嫌だし、テオの研究を手伝うためにも、何が書かれているか私自身が分かってなきゃ困るでしょ」

 

 ただの居候としてではなく、研究の対等な当事者として言った私の言葉に、テオドールは少し目を見張り、それからとても真剣な眼差しで頷いた。

 

「……そうだね。君の言う通りだ。一方的に記録されるのではなく、自分の記録を自分で確認できるようにするのは当然の権利だし、とても健全なことだよ。それに……君が文字を覚えて一緒にこの記録を確かめてくれれば、学会には出せなくても、僕たちの手で誰よりも確かな観察記録を完成させられるかもしれないしね」

 

 そう言うテオドールの声には、公表できない悔しさを超えて、未知の真実をこの手で解き明かしたいという学者ならではの熱い光が灯っていた。

 

「よし、片付けが終わったら早速始めよう。書斎にいい練習紙があるんだ」

 

 

4. インクの匂いと、重ねられた手の温もり

 

 昼下がりの陽だまりが、標本室の大きな作業机を照らしていた。

 テオドールは机の上に使い古した裏紙の束を広げ、黒いインク壺と一本の真鍮製ペン軸を置いた。

 

「まずは道具の持ち方からだね。ペン先は紙に対して斜めに当てて……」

 

「そんなの簡単よ! 貸して!」

 

 私が意気揚々とペンを握りしめると、テオドールは苦笑いしながら私の手元を指差した。

 

「あはは、ローナ、それは握り拳だよ。そんなに力いっぱい握ったら、紙が破れてしまうよ」

 

「だ、だって、この鉄の先っぽ、ツルツル滑って落ち着かないんだもの!」

 

 指先に力を込めると、ガリッと金属音が響き、インクが黒い染みとなって紙に飛び散った。

 私が悔しそうに唸っていると、横に立っていたテオドールが、ふと息を整えて私のすぐ隣へと歩み寄ってきた。

 

「失礼するよ。……こうやって、人差し指と親指で軽く挟んで、中指で下から支えるんだ」

 

 背後から伸びてきたテオドールの右手が、迷いなく、私の右手を上から包み込んだ。

 彼の大きな手のひらの温もりが、私の甲に密着する。

 

(――っ……!)

 

 その瞬間、心臓が跳ね上がった。

 彼の手の温もりが私の甲を包み込み、指をそっと導くたびに、触れ合った皮膚から心地よい痺れが走り、下腹部の奥がきゅんと甘く疼く。

 耳元で聞こえるテオドールの静かな呼吸と、背中越しに伝わってくる熱。

 十三日間で積み重なってきた彼への愛着に胸が締めつけられ、息が詰まりそうになる。

 

「な、何を最初に書くのよ……?」

 

 動揺を悟られまいと、私はわざと少しぶっきらぼうな声を絞り出した。

 テオドールは私の手を取ったまま、机の上の紙へとペン先を滑らせた。

 

「君が一番覚えたいものから始めようか。……ほら、まずは『肉』だ」

 

 サラサラとインクが走り、紙の上に幾何学的な記号のような文字が刻まれる。

 

「『肉』……! これが、あのお肉の文字なの?」

 

「そうだよ。それから、これが『豚』で、こっちが『牛』。ついでに『魚』と『塩』も書いておこうか」

 

「ふふ、なんだか骨がいっぱい並んでるみたいね」

 

「そう見えるかい? じゃあ、次は一番大事な言葉を練習しよう」

 

 テオドールは私の手を導き、新しい行の先頭にペンを下ろした。

 ゆっくりと、一画ずつ、インクの線を紡いでいく。

 

「これが、君の名前。『ローナ』」

 

 紙の上に、丸みを帯びた流麗な文字が現れた。

 

「……私の、名前……」

 

「そう。そして、その隣に書くのが……僕の名前だ」

 

 テオドールの指先が、私の手に確かな力を込める。

 震える私の指を支えながら、彼は紙の上に文字を連ねていった。

 

『テオドール』

 

 インクが乾き切らない紙の上に、二つの名前が寄り添うように並んでいた。

 私の指先には、まだテオドールの手の熱が残っている。

 照れ隠しに私はフッと息を吹きかけ、インクを乾かそうとした。

 

「……テオの手、あったかいけど、ちょっと力入れすぎよ。私の指が折れちゃうかと思ったわ」

 

「あ、す、すまない! 痛かったかい?」

 

 テオドールは慌てて手を引っ込め、耳の先まで赤くして頭を掻いた。

 そのうろたえる姿が可笑しくて、愛しくて、私はくすくすと笑い声を上げた。

 

 

5. 紙の上の二つの名前と、「来月」の約束

 

「ううん、痛くなんかないわ。……ほら、見てよ。自分だけでも書けたわ!」

 

 私は一人でペンを握り直し、少し歪ながらも、手本を見ながらもう一度『テオドール』と『ローナ』の文字を並べて書き入れた。

 拙い線ではあったけれど、黒いインクで刻まれた二人の名前は、確かにそこに存在していた。

 

 テオドールは机の上の紙を愛おしそうに見つめ、眼鏡の奥の目を細めた。

 

「すごいよ、ローナ。筋がいいね。初めてとは思えないくらい、しっかりした線だ」

 

「当たり前じゃない。私を誰だと思ってるのよ」

 

「あはは、本当に呑み込みが早いな。……この調子なら、来月には買い物の覚え書きも自分で書けるようになるよ」

 

 テオドールが何気なく、当たり前の未来を口にするように、朗らかに笑った。

 

「その時は、市場のメモを君に書いてもらおうかな。『脂身の多い豚肉』とかね」

 

「…………」

 

 その瞬間。

 私の手の中で、ペンの動きがピタリと止まった。

 

 真鍮のペン先が、紙の上でわずかにインクを滲ませる。

 

(……来月?)

 

 その言葉が、冷たい水滴のように胸の奥へと落ちていった。

 今日は、上陸して十三日目。

 発情期の変態と嵐の波に揉まれて浜辺へ打ち上げられ、テオドールに救われてから、もう二週間近くが過ぎようとしている。

 乾いた毛布の温もりと火を通した肉の美味しさに魅せられ、この文明の暮らしに居座りたいと願ったあの日から、私はずっと今日の食事や居場所を守り、正体が露見しないよう立ち回ることに必死だった。肉体が陸にいられる約四十日の期限を、いつか向き合わなければならないと先送りにしたまま――。

 

 けれど、テオドールの何気ない一言が、鋭い痛みを伴って胸を突いた。

 今日を凌ぐだけでは、駄目なのだ。

 今日の暮らしを守っているだけでは、来月の二人を守ることはできない。

 

 机の向こうで、未来の買い出しを楽しそうに語るテオドールの横顔を見つめた。

 私の正体に戸惑いや疑いを抱えながらも、彼が私との間に思い描いているのは、きっとそういう未来なのだろう。

 来月も、その先も、当たり前のように私がここにいて、朝になれば朝食を食べ、昼になれば肉を買い、夜になれば暖炉の火を囲んで笑い合っている――屈託のない彼の笑顔を見ていると、そんな未来を彼が信じて疑っていないように思えて仕方がなかった。

 

 紙の上で並んでいる『テオドール』と『ローナ』の文字が、滲んで見えた。

 ただ暖かい部屋にいたかったわけじゃない。

 この十三日間、不器用で真っ直ぐな彼と重ねてきた時間が、何物にも代えがたいものになっていた。

 

(私……来月も、この人と一緒にここで暮らしたい)

 

 海へ帰れば助かるという事実は、もはや安全策ではなく、残酷な別れの宣告に等しかった。

 けれど、ただ怯えて運命に流されるのは、私の性に合わない。

 

「ローナ? どうしたんだい? 手が止まっているけれど、どこか疲れた?」

 

 私の沈黙に気づいたテオドールが、心配そうに顔を覗き込んできた。

 

「……ううん。なんでもないわ」

 

 私は顔を上げ、いつものように悪戯っぽく口元を緩めて見せた。

 胸の奥で渦巻く切ない痛みを、心の奥底にぎゅっと押し隠して。

 

「来月の買い物のメモでしょう? ……いいわよ、私が書いてあげる。その代わり、テオの好きな野菜の何倍も、お肉の文字で紙をいっぱいにしてやるんだから!」

 

「それは困るな。野菜もちゃんと食べてもらわないと」

 

 テオドールが吹き出し、机を挟んで穏やかな笑い声が響いた。

 私は紙の上の『テオドール』という名前を、指先でもう一度そっと愛おしむようになぞり、それから書斎の壁一面を埋め尽くす分厚い本棚へと視線を向けた。

 

「ねえ、テオ」

 

「ん? どうしたんだい?」

 

「あの棚にあるたくさんの本の中で……生き物の身体が変わることについて書いてある本って、どれかしら?」

 

 ペン立てを片付けようとしていたテオドールの手が、ぴたりと止まった。

 眼鏡の奥の瞳がわずかに見開かれ、息を呑むような微かな間が二人の間に落ちる。

 けれど、テオドールはそれ以上何も問い詰めることなく、静かに息を吐いて口元を緩めた。

 

「……生き物の変態や、構造の変化についての本かい? 文字の練習の次は、僕の研究分野に興味を持ってくれたのかい?」

 

「ふふん、そうよ。私が賢くなったら、テオの助手としてももっと役に立つでしょ? ……読めるようになるまで、少しずつ教えてよね」

 

 テオドールは私の顔をじっと見つめ、何かを胸に留めるように一拍置いてから、優しく頷いた。

 

「ああ、もちろん大歓迎だよ」

 

 そう言って、彼は棚の上段に並ぶ革張りの分厚い背表紙を指差してくれた。

 解決策なんて、まだ何一つ見つかってはいない。

 自分の正体を明かす勇気も、身体のタイムリミットを乗り越える方法も、まだ深い霧の中だ。

 けれど、来月もこの人と笑い合う未来を諦めないために――私はインク壺にペン先を浸し、前を向いて新しい一歩を踏み出していた。

 

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