発情期限定で足が生える人魚、温かい部屋と焼いた肉が美味すぎて海に帰りたくない ――なお、他の人魚は解剖されたり密輸されたりしている模様 作:神座鬼神
1. 分厚い書物と、安直なひらめき
上陸十四日目の朝。
標本室の大きな机の上には、テオドールが書架の上段から脚立を使って下ろしてきた、革装丁の分厚い専門書が何冊も積み上げられていた。
昨日の午後から始めた文字の練習のおかげで、私は表紙の金文字がいくつかの音を表していることまでは分かったけれど、そこに並ぶ長ったらしい学術用語をすらすら読めるようになるには、まだまだ時間がかかりそうだった。
「テオ、この文字はなんて読むの?」
私が分厚い本の背表紙を指差すと、テオドールは苦笑しながら眼鏡を押し上げた。
「『水生および半水生動物における外皮構造と適応形態』だよ。……本当に熱心だね、ローナ。昨日の買い出しと文字の練習で疲れているかと思ったのに」
「疲れてる場合じゃないのよ。私、早く賢くなってテオを驚かせたいんだから!」
私は胸を張り、机の上の本をぱらぱらとめくった。
細かい文字の海は頭が痛くなるけれど、所々に挟み込まれた細密な銅版画の図譜には、食い入るように見入ってしまう。
水辺で暮らす獣や、アザラシのような鰭脚類、それにカエルやイモリといった生き物の、筋肉や骨格の断面図が精密に描かれているのだ。
「ねえテオ、ここに書いてあること、かいつまんで教えてよ。生き物が水の中から陸へ上がってくるとき、一番困ることって何なの?」
私の前のめりな質問に、テオドールは少し目を丸くしながらも、嬉しそうに開かれたページを指先でなぞった。
「一番の障害は……間違いなく『乾燥』と『重力』だね。水の中に適応した生き物の皮膚は、角質層がとても薄くて、表面から水分がどんどん蒸発してしまうんだ。陸に上がりっぱなしでいると、皮膚がひび割れて体液を失い、激しい痛みを伴って衰弱してしまう」
「乾燥……!」
その言葉を聞いた瞬間、私の背筋にピンと電流が走った。
心当たりがありすぎた。
上陸して二週間。暖炉の火や羽毛布団の温もりは天国のように快適だけれど、乾いた部屋の空気や吹きつける潮風にさらされていると、腕や脚の皮膚がつっぱるようにカサつき、時折むず痒いような不快感を覚えていたのだ。
「テオ! 人間って、革の長靴や鞄に油を塗り込んで、ひび割れないように手入れするじゃない! それに、海で泳ぐ獣だって、分厚い皮下脂肪や油で水を弾いてるわ!」
私は身を乗り出し、机をバンと叩いた。
「だったらさ……身体にたっぷりと上等な油を塗りたくっておけば、皮膚から水分が逃げないで、ずっと干からびずに陸の姿でいられるんじゃない!?」
「……えっ?」
あまりにも直球で安直な私のひらめきに、テオドールはぽかんと口を開けた。
「革靴の手入れと一緒にしちゃうのかい……? 生きている身体は、死んだ革製品とは構造がまったく違うよ」
「理屈は同じでしょ! 乾くのがいけないなら、乾かないように蓋をすればいいじゃない!」
私が鼻息荒く言い張ると、テオドールは呆れたように肩をすくめ、それから顎に手を当てて考え込んだ。
「……まあ、君の言い分も、乱暴ではあるけれど完全に的外れというわけじゃない。民間の知恵や船乗りの間でも、風や寒冷による皮膚のひび割れを防ぐために動物性の脂を塗る習慣はあるからね。……よし、それなら簡単な材料で、実際にどれくらい外皮の乾燥を防げるか確かめてみようか」
「やった! そうと決まれば善は急げよ!」
2. 薬品棚の小瓶と、縮めた距離
テオドールは薬品棚の奥から、褐色のガラス小瓶と陶器の壺をいくつか取り出してきた。
蓋を開けると、独特の甘く重い獣脂の匂いが漂ってくる。
「これは実験器具の気密や標本の保護に使う、高度に精製した羊の脂――ラノリンだよ。それからこっちは、少しの鯨油と蜜蝋を湯煎で溶かし合わせた軟膏の試作品だ」
「へえ……! なんだかお肉の脂身みたいな匂いがするわね」
「食べるものじゃないよ、ローナ」
思わず鼻をひくつかせた私に、テオドールが釘を刺すように笑った。
テオドールは机の上に、綺麗に磨いた同じ大きさのガラス板を二枚並べ、それぞれの中央にスポイトで等しい大きさの水滴を落とした。
「片方はそのままにして、もう片方は表面に薄くこの精製脂を塗り重ねる。同じ室温の空気の中で、どれくらい蒸散の速度が違うか、拡大鏡で追ってみよう」
「見せて、見せて!」
私は待ちきれず、テオドールの隣へと自分の丸椅子を引き寄せた。
普段なら少し遠慮して置くはずの距離を、好奇心と逸る気持ちに任せて、一気にゼロまで縮めてしまう。
トン、と私の肩がテオドールの二の腕に触れた。
「あ……」
テオドールが小さく息を呑み、ピンセットを持つ手をわずかに止めた。
けれど、私は引かなかった。
上陸十四日目。
変態の第2期も中盤に入り、私の肉体は日ごとに男の温もりへの感度を跳ね上がらせている。
触れ合った肩から、衣服越しにテオドールの体温がじわりと伝わってくるだけで、皮膚の表面がチリチリと心地よく痺れ、下腹部の奥がきゅんと甘く疼いた。
「……テオ、もっとよく見たいわ」
私はわざとらしく身を乗り出し、彼の胸元へとさらに顔を近づけた。
耳元で、テオドールの息遣いがわずかに乱れるのが分かる。
眼鏡の奥の瞳が戸惑うように揺れ、耳たぶがほんのりと朱に染まっていた。
いつもなら彼に主導権を握られて赤面していたけれど、今日ばかりは、自分の身体の疼きを言い訳にして、私の方から彼に甘え、踏み込んでいた。
「こ、こうやって……薄く延ばすんだ……」
テオドールは動揺を押し隠すように、少し掠れた声でガラス板の上の脂をガラス棒で延ばした。
その指先がわずかに震えているのが、たまらなく愛おしかった。
3. 煽られる熱と、おばばの戒め
二つのガラス板を並べ、テオドールが手持ちの拡大鏡を覗き込む。
私も彼の手元を覗き込もうとして、自然と顔を寄せた。
石鹸と羊脂、それにテオドール自身の清潔な汗の匂いが混ざり合い、私の嗅覚を強烈に刺激する。
「ほら、油の膜を作った方は、水滴の輪郭がほとんど崩れないだろう? 油が空気との境界を塞いで、水分の蒸散を劇的に抑え込んでいる証拠だ」
「本当だ……! 油を塗っただけで、こんなに保つんだ!」
「うん。これなら、陸上の乾燥した空気から皮膚の表面を守る効果は十分に期待できるね」
テオドールが顔を上げ、私へ視線を向けた。
その瞬間、私たちの鼻先が触れ合いそうなほど近くにあることに、彼が息を詰めた。
至近距離で交わる視線。
眼鏡の奥の瞳には、私への戸惑いや約束を守ろうとする自制とともに、男として私を見つめる熱い光が確かに揺らめいていた。
(――っ……)
その光に射すくめられた途端、私の下腹部に、甘く重い熱がどっと押し寄せてきた。
十四日目の発情衝動。
もっと触れてほしい。このまま彼の胸に倒れ込み、温かい腕の中に閉じ込められたい――。
私の右手が、無意識のうちにテオドールの膝の上に伸び、そのズボンの布地をきゅっと掴みかけていた。
けれど。
(――だめっ……!)
脳裏に、冷酷な現実が閃いた。
もし今、衝動に流されて彼を受け入れ、受胎してしまえば……身体は不可逆的に母親のものへと戻り始め、やがて脚も声も失って海へ帰るしかなくなる。
今結ばれることは、手に入れたばかりのこの温かい陸の暮らしを失うことなのだ。
(そんなの……絶対に嫌よ……!)
私は強く唇を噛み締め、テオドールの膝に伸ばしかけた手を、自分の膝の上へと力任せに引き戻した。
ぎゅっと握りしめた拳の爪が手のひらに食い込む。
抱き合いたいのに、結ばれたらこの人を失うなんて。そんなもどかしい運命に、屈してやるものか。
「……ローナ?」
急に身を強張らせて俯いた私を、テオドールが案じるように覗き込んできた。
私は荒くなりそうな呼吸を必死で整え、胸の奥で渦巻く熱を、意地と決意へと無理やりにねじ伏せた。
4. 羊脂のぬくもりと、小さな実益
「……なんでもないわ! ちょっと、油の効果に感動しただけよ!」
私は強引に顔を上げ、わざとらしく胸を張ってみせた。
頬が火照っているのは誤魔化しようがなかったけれど、幸いなことに、テオドールはそれを学問的な興奮と受け取ってくれたようだった。
「じゃあテオ、この軟膏、私の手足に塗ってもいい?」
「え? ああ、もちろん構わないけれど……肌に合うか、まずは少しだけ試してみようか」
テオドールが陶器の壺から乳白色の軟膏を指先ですくい、私の右手の甲へと薄く塗り拡げてくれた。
ひんやりとした軟膏が肌に触れた瞬間、体温でふわりと溶け、滑らかな油膜となって皮膚を覆っていく。
「どうだい? 染みたり、痛んだりはしないかい?」
「ううん……全然! すごく……気持ちいいわ」
私は自分の左手で、軟膏を塗られた右手をそっと撫でた。
驚いたことに、ここ数日ずっと気になっていた皮膚のつっぱり感やカサつきが、嘘のようにすうっと鎮まっていったのだ。
薄い角質層がしっとりと潤いを取り戻し、潮風にさらされて赤くなっていた手首の皮膚が、驚くほど滑らかで柔らかくなっている。
「ほら見て、テオ! カサカサが消えて、お肌がすべすべになったわ!」
私は嬉しくなって、テオドールの目の前に両手を差し出した。
ついでに足首のズボンを少し捲り上げ、未舗装の坂道で擦れて赤くなっていたくるぶしにも、自分で軟膏をたっぷりと塗り込んでみる。
乾いて張っていたふくらはぎの皮膚が、しっとりとした油膜に守られて、靴擦れの鈍い痛みが劇的に和らいでいくのが分かった。
「すごいわ、テオ! これ、本当に効くじゃない! 歩くのもずっと楽になるわ!」
「あはは、気に入ってくれたならよかったよ。精製した甲斐があったな」
私の手放しの喜びように、テオドールも心底嬉しそうに目を細めた。
これは決して無駄な試みではなかった。
陸上の乾燥から身を守り、快適に歩き回るための道具として、この羊脂と蜜蝋の軟膏は、確かな「小さな実益」をもたらしてくれたのだ。
5. 外れた見込みと、次の問い
すっかり気を良くした私は、壺の中の軟膏を両手で抱え込み、勝ち誇ったように笑った。
「ふふん! やっぱり私の直感は正しかったわ。これさえあれば、毎日頭から爪先まで油をたっぷり塗りたくっておけば、乾いて痛くなることもないし……ずっとこうして元気に陸で暮らせるんじゃない!?」
私の図太い宣言に、テオドールは噴き出しそうになりながらも、やがて学者らしい真面目な顔つきに戻って静かに首を横に振った。
「……気持ちは分かるけれど、ローナ。乾燥を防ぐことと、身体の形そのものを保つことは、まったく別の問題だよ」
「え……? 別の問題って、どういうことよ?」
私が不満げに口を尖らせると、テオドールは机の上の専門書を開き、骨格の断面図を指差した。
「この軟膏は、あくまで皮膚のいちばん外側――表面の水分蒸発を防いでいるに過ぎないんだ。ひび割れや痛みを防ぐには素晴らしい効果があるけれど……骨の結合や内臓の配置といった身体の構造は、外側に油を塗ったくらいで維持できるものじゃない」
「う……」
「たとえば、オタマジャクシにいくら油を塗ったところで、時期が来れば脚が生えて尾は縮んでしまう。逆に、カエルに油を塗っても、水の中でエラ呼吸に戻せるわけじゃない。ある生き物の身体の形が変わっていくのは、外側の環境だけじゃなく……もっと身体の『内側』から起きる変化だからね」
テオドールの冷静で筋の通った指摘に、私の安直な見込みはぐらりと揺らいだ。
肌のつっぱりや痛みを防ぐ実益はあっても、今回の観察だけでは、油膜が身体の形まで保ち続けられる証拠にはならないのだ。
「じゃあ……油をいくら塗ったって、足が消えてしまうのを止められるかは分からないってこと?」
落胆のあまり、思わず口をついて出た私の言葉に――。
テオドールが、わずかに息を呑んだ。
「…………」
眼鏡の奥の瞳が、深く鋭い光を帯びて私を射す。
『足が消えてしまう』という、来歴を伏せているとはいえ、あまりにも唐突で異様な表現。
彼が昨日から抱き続けている疑惑に、真っ直ぐ触れてしまったのだと気づき、私の心臓が冷たい音を立てた。
けれど、テオドールは数秒の沈黙の後、追及したい衝動をぐっと喉の奥に呑み込んだ。
約束を守り、あえてその言葉の出所を問い質すことなく、彼は静かに、学問的な誠実さをもって言葉を返してくれた。
「……ああ。外側から油を補うだけでは、その変化を根本から防げる確証はないよ。もし……本当にその変化を食い止めたいのだとしたら」
テオドールは机の上の分厚い書物へと視線を落とし、ページをめくった。
「外皮の乾燥ではなく、『その生き物の身体が、一体どういう条件で変わり始めるのか』という、変化の引き金そのものを調べなければならないはずだ」
「…………」
条件。
その言葉を聞いた瞬間、私の胸が激しく跳ね上がった。
そんなもの、私はとっくに知っている。
男の種を受け取って受胎すること。そして、日数が過ぎて繁殖期のタイムリミットを迎えること――。
けれど、それをそのまま口に出せるはずがなかった。
もし本当の正体を知られたら、怖がって拒絶されてしまうのではないかという恐れもあった。けれどそれ以上に――発情期だからこそ今の二本の脚や声があるのだと明かせば、私がテオドールへ寄せる好意までも、すべてただの繁殖本能によるものだと思われてしまうかもしれない。それが、たまらなく怖かったのだ。
受胎のことは、まだ口が裂けても言えない。
けれど、もう一つの事実なら――。
私は軟膏の壺を机に置き、本を開くテオドールをまっすぐに見つめた。
「ねえ、テオ」
「……ん? どうしたんだい?」
「もしね……その生き物が、怪我や病気のせいじゃなくて、陸に上がってから一定の日数が経つと、自然に元の姿へ戻り始めてしまうのだとしたら……本には、どんなことが書いてある?」
テオドールは息を詰め、私の顔をじっと見つめた。
私の言葉がどこから来たのかを問い質したい迷いが一瞬その瞳をよぎったが、彼は何も追及せず、真剣な学者の顔になって机の上の目録へと指を走らせた。
「一定の日数が経つと、自然に元の姿へ……?」
テオドールは呟き、分厚い書物の頁を次々とめくっていく。
「それなら、季節や時期に合わせて周期的に身体の形を変える、既知の生き物の記録を調べてみよう。水辺の両生類や、季節によって姿を変える魚類、それに角や毛が生え変わる獣たちだ。彼らが一体何をきっかけにして変化を始めているのか、それぞれの条件を照らし合わせて比較していくんだ」
彼は目次の一角を指先でトントンと叩いた。
「水温なのか、日照の長さなのか、それとも体内の成熟度なのか……他の生き物の変化の条件を一つずつ比較していけば、その生き物がなぜ元の姿に戻ってしまうのか、その手がかりが掴めるかもしれない」
「テオ、ここから読んで。……私、一文字も聞き漏らさないから」
「うん、一緒に探そう」
残された日数は、もう一か月もない。
午後の柔らかな光が標本室を満たす中、机の上に広げられた未知の頁を、二人の視線が真剣に追っていた。