窓板の隙間から差しこむ光の角度で、だいたいの時刻が分かるようになった。
これはちょっとした自慢である。前世の俺は目覚まし時計を三つかけても起きられない人間だった。今は光で起きる。鶏より早い。人間、環境が変われば変わるものだ。
寝床から起き上がって伸びをすると、背骨がぱきりと鳴った。二十歳の体だ。前世の三十いくつの体より、ずっと素直によく動く。
かまどの灰をかき分けて、昨日の熾火を探す。まだ生きている。小枝を乗せて息を吹きかけると、ためらいがちな炎が立ち上がった。この一連の作業に、俺は毎朝わりと本気で満足している。
鍋をかける。昨日のスープの残り。豆と玉ねぎと、干し肉を申し訳程度に。水を足して温め直すと、香草の匂いがじんわり戻ってくる。黒パンを薄く切って炭の上に並べ、端が焦げるのを待つあいだに卵をひとつ割る。
鶏小屋をのぞくと、三羽がいっせいに文句を言った。名前はつけていない。名前をつけると情が湧き、情が湧くと絞められなくなる——というのがゴルドじいさんの教えだった。
なので俺は心の中でだけ、白いのをシロ、黒いのをクロ、残り一羽をモウイチワと呼んでいる。
畑を見にいく。豆の蔓が支柱を一本、勝手に乗り換えていた。芋は順調。カブの葉に虫がついていたので、指で頭を潰して「すまんな」と言った。この世界に来て、俺は虫を潰すたびに謝る人間になった。誰も見ていないので恥ずかしくない。*1
薪を割る。乾いた音が森に吸われていく。ひと束ぶん割ったら、切り株に腰かけて、しばらく木を眺める。
風。鳥。遠くで枝が落ちる音。
これでいい、と思う。
本当に、これだけでいいのだ。
◆◆◆◆
俺は前世で、たぶん三十四年ほど生きた。
会社員だった。とりわけひどい会社だったわけではないと思う。ただ、俺はどうも「頼みやすい人間」だったらしい。誰かが投げ出した仕事は、気づくと俺の机の上に載っていた。「お前がやってくれると助かる」と言われると、俺は断れなかった。
断れない人間のところには、断られた仕事が集まる。単純な話だ。
そうやって数年経つと、俺の一日には俺の時間が一分も残っていなかった。休みの日に何をしたいのか、自分でも思い出せなくなっていた。
どう死んだのかは、正直あまり思い出したくない。ろくな死に方ではなかったとだけ言っておく。
で、気がついたら赤ん坊だった。
拾ってくれたのはゴルドという老いた猟師で、村の外れに住む、めちゃくちゃに無口な男だった。育ててもらった十八年間で交わした会話を全部つなげても、たぶん一日ぶんに届かない。それでも飯は毎日出てきたし、罠の掛け方も、薬草の煎じ方も、傷の縫い方も、あの人から教わった。
じいさんは俺が十八のときに、あっさり死んだ。朝、起きてこないので見にいったら、もう冷たかった。
死ぬ前の晩、じいさんは珍しく口をきいた。囲炉裏の火を見ながら、こう言った。
「お前は、人の面倒を見すぎる」
「そのうち身を滅ぼすぞ」
俺は黙って流した。今にして思えば、あれはたぶん遺言だったのだろう。
じいさんを埋めたあと、俺は村から半日ほど歩いた森の際に、自分の手で小さな家を建てた。そのとき固く決めたことがいくつかある。
英雄にならない。権力者に近づかない。冒険者として大成しない。恋愛もしなくていい。誰の面倒事にも首を突っこまない。
もちろん、最初の三つは出来るわけないと分かってはいながらも、そう決めたのだ。*2
静かな場所で、普通に暮らす。
それだけだ。二度目の人生で、それくらい望んでもいいはずだった。
――ああ、それともうひとつ。前世の俺は関西の生まれだった。この世界の言葉で喋っているかぎり普段は出ないのだが、本当にどうしようもなくなったとき、頭の底から前の言葉が浮かんでくることがある。
この十数年、一度も使っていない。平和だった証拠である。
◆◆◆◆
日が真上に来るころ、俺は鍬を肩に担いで畑から戻ってきた。すると、庭の真ん中に妙な影がある。最初は、洗濯物が風で落ちたのだと思った。
黒いものが広がっていて、物干しに掛けていた布か何かだろうと思って、近づいた。
人だった。
俺は三歩手前で足を止めた。
黒い外套、しかしただの黒ではない。よく見ると布地の奥で、光の当たる角度によって銀の刺繍が浮かんだり沈んだりしている。裾には細かい紋章。糸一本の値段が、この家よりも高いかもしれない。
そして血。左の脇腹のあたりから、乾きかけた黒い筋が土に染みている。だいぶ出た跡だ。
髪は長い。ほとんど白に近い銀色で、土と血で汚れていた。その髪のあいだから、ゆるく巻いた二本の角が突き出ている。
魔族だ、あくまで憶測だが。
それから俺は、もっと単純なことに気づいた。
虫が鳴いていない。
この時間の森は、うるさいくらいに鳴いているはずだった。それが、この庭を中心にして、ぽっかりと黙っている。空気が重い。夏の夕方、入道雲が真上に来たときのあの感じに近い。肌がじりじりする。
倒れて、血を流して、意識もない。それでこの圧だ。魔族は誰でもこうなのか?
俺は鍬を持ち直し、そしてそのまま家に入った。一度鍬を置いてから、扉を開けて外を見る。
まだいる。まだいるよな……
考えてみてほしい。
俺はただの農家だ。この世界の常識で言えば、あの服装と、あの角と、あの威圧感を持つ人物には、関わってはいけない。関わった人間がどうなるかは想像もつかないが、少なくとも「平穏に畑を耕す」という未来からは確実に遠ざかる。
見なかったことにする。これは薄情だろうか。
薄情だと思う。
でも俺は聖人ではない。前世で散々、人の尻を拭いて、それで何かいいことがあったかというと、何もなかった。むしろ俺の人生が丸ごと削られただけだ。
まだいる。
そりゃいるだろう。
懸念点があるとすれば、死体だった場合だ。
庭に死体を放置するわけにはいかない。埋めるにしても、獣が来る前に始末しないといけない。つまりどちらにしても、俺はあれに近づく必要がある。
そう自分に言い訳して、俺は外へ出た。
しゃがんで、首筋に指を当てた。
脈があった。
弱いが、ある。それと同時に、指先がびりっとした。触れた瞬間、静電気みたいなものが走ったのだ。体の中に、まだとんでもない量の「何か」が残っている。この状態で。
そのとき、まぶたがかすかに動いた。
唇が、音にならない言葉をひとつ形づくって、止まった。
――ああ、くそ。
『お前は、人の面倒を見すぎる』
「わかってるよ、じいさん」
俺は誰もいない庭に向かって言った。
「わかってて、やってるんだ」
◆◆◆◆
抱え上げて、驚いた。
軽い。
これだけの背丈があって、これだけの服を着て、この軽さはおかしい。何日食べていないのか。俺は歯を食いしばった。重くて苦労するぶんには、まだ腹も立てられた。思ったより軽かったことが、なぜだか一番こたえた。
寝床に下ろして、外套を脱がせにかかる。血で貼りついて脱げないので、鋏で切った。たぶんとんでもない値段の生地だが、知ったことではない。
そこで初めて、相手が女だと気づいた。
俺は三秒くらい天井を見て、それから作業を続けた。ここで手を止めるほうがよほど不誠実だ。じいさんが死んだとき、俺は一人で遺体を洗った。あのときに比べれば、この程度の気まずさは何でもない。
傷は左の脇腹。長さは手のひらほど。刃物だが、ただの刃物ではない。傷口の縁が焼けたように黒ずんで、うっすら光っている。塞がろうとするそばから、何かが治りを押し返している感じだった。
俺は湯を沸かし、清潔な布を裂き、棚から薬草の束を下ろした。じいさんに叩きこまれた順番どおりに手が動く。煎じる、冷ます、洗う、当てる。縫うのは針と、繕い物用の糸。
途中、二度ほど吐きそうになった。三度目は飲み込めた。
夜になっても熱が下がることはなかった。
俺は囲炉裏に薪を足しながら、水を絞った布を額に載せ替え続けた。銀の髪が汗で頬に貼りついている。眉のあいだに、ずっと深い皺が寄っていた。痛みの皺ではない。もっと別の、何かを堪えている顔だった。
明け方近く、彼女はうわごとを言った。
「……まだ、終わって……」
それきりだった。
俺が布を替えようとしたとき、細い手がいきなり伸びて、俺の手首をつかんだ。
「……ッッ!」
骨が軋んだ。
本気で、折れると思った。俺は声も出せずに歯を食いしばり、空いた手で彼女の指を一本ずつ剥がした。ありえない馬鹿力だ。
手が離れると、彼女はまた静かになる。眠ったままだった。
手首には、指の形をした痣がくっきり残っていた。
俺はそれをしばらく眺めて、それから小さく息を吐いた。
「……これ、寝てるやつの力か?」
返事はなかった、求めてもいなかったが。
◆◆◆◆
二晩看病した。
俺は椅子で寝て、腰を痛めた。鶏には餌をやり、畑の虫を潰し、また謝った。薪を割る気にはなれなかった。音で起こすのが嫌だったからだ。俺は自分でも驚くくらい、あの女が眠っている家の中で、そっと動いていた。
――三日目の朝、スープを温めていたときだった。
背中の空気が、変わった。
音がしたわけではない。部屋の重さが変わったのだ。押されるような感じ。かまどの火が、理由もなく一度ゆらいだ。
俺は振り返った。
彼女は目を開けていた。
金色だった。瞳孔が縦に裂けている。天井に向けられたその目には、まだ焦点がなかったが、それでも部屋中の温度を持っていかれるような目だった。
「……ここはどこだ」
低い声だった。かすれていたが、芯が太い。
俺は木杓子を鍋に置いて、答えた。
「俺の家です」
金の目が、ゆっくりとこちらを向いた。
「貴様は何者だ」
「ただの農家です」
「……そうか」
彼女はまた天井に視線を戻した。それきり、何も言わない。俺は椀にスープをよそって、寝床のわきの床几に置いた。
「飲めますか。薄くしてあります」
返事はなかったが、しばらくして、彼女は片肘をついて身を起こした。傷が痛んだはずだが、顔色ひとつ変えない。差し出した椀を、両手で受け取った。
その手が、震えていた。
本人はそれを隠そうとしていたが、余計に震えるだけだった。
俺は見ないふりをして、かまどのほうを向く。背中で、飲む音がした。ゆっくり、ひと口ずつ。それから、椀を下ろす小さな音。
「……塩気が足りん」
「病人にはそれくらいでちょうどいいんです」
「ふん」
なんだこの人、と思った。
あの威圧感はどこへ行ったのか。いや、消えてはいない。部屋の空気はいまだに重い。ただ、スープの湯気と、鶏の鳴き声と、「塩気が足りん」という文句が同じ部屋に並んでいる光景が、あまりにも間が抜けていた。
このまま何日か休ませて、傷が塞がったら帰ってもらおう。俺はそう算段した。
どこの誰かは知らないが、身分のある魔族だろう。礼のひとつも言えないような人種かもしれないが、それでも構わない。帰ってくれさえすれば、俺の生活は元に戻る。
そう思っていたところで、彼女が口を開いた。
「農夫よ」
「はい」
「名乗っておこう」
――いえ結構です、と言う暇はなかった。
彼女は椀を床几に戻し、まっすぐに背を伸ばした。傷だらけの体で、破れた服で、他人の家の寝床の上で、その所作だけが完全に場違いだった。玉座に座り直すような動きだった。
金の目が、俺を射抜く。
「余は魔王だ」
――鍋が、ことこと鳴っている。
外でシロが鳴いた。クロが続いた。モウイチワは黙っていた。
俺の頭の中では、いくつかのことが同時に起きていた。まず、伝説上の存在であるということ。次に、あの傷をつけられる相手が世界のどこかにいるということ。それから、その相手が今ごろ彼女を捜しているだろうということ。そして最後に、彼女は今、俺の家の、俺の寝床にいるということ。
俺は畑のことを考えた。豆の蔓のことを考えた。割りかけの薪のことを考えた。
切り株に座って森を眺める、そんな三日前の朝のことを考えた。
これでいい、と思ったあの朝のことを。
そして、言った。
「ほんま勘弁してください」
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