「今、何と言った」
「いえ。何も」
「聞こえた」
「気のせいです」
「余の耳は良い」
「……さいですか」
俺は鍋のほうへ向き直り、木杓子で底をこする。焦げついてもいないのに、ひたすらこすった。
背中に視線を感じる。物理的な重さのある視線だ。
子どもが寝ないときに大人が持ち出す名前だ。村の祭りで、道化が角の被り物をかぶって転んでみせる、あの役だ。実在するかどうかなんて、俺は真面目に考えたこともなかった。
そんな存在が、今、俺の寝床で椀を持っている。
「農夫よ」
「ベネです」
言ってしまってから、しまったと思った。
名乗るつもりはなかった。名前というのは関わりの入り口だ。前世で俺が学んだ数少ない教訓のひとつは、「名前を覚えられると、仕事を振られる」ということだった。
「ベネ」
「……はい」
「余はヴァレリアだ。覚えておけ」
「できれば忘れたいです」
「覚えておけ」
「はい」
ちなみに俺の名は、じいさんがつけた。赤ん坊の俺を拾ったとき、何を思ったのか「ベネ」と呼びはじめて、そのまま定着したらしい。由来を聞いたことはない。
「ベネ」
「はい」
「なぜ余を助けた」
俺は杓子を置いた。
「庭で倒れてたからです」
「それだけか」
「それだけです」
ヴァレリアはわずかに眉を寄せた。理解できない、という顔だった。怒っているのではなく、本当に分からないという顔。
「余が何者か、分かっていたのだろう」
「角がありましたし、服が高そうでした。あと、森の虫が全部黙りました。あれで、まあ、ろくな相手じゃないなとは」
俺は指を折りながら一つずつ上げていく。
「ならば、なぜ恐れぬ」
「いや、怖いですよ」
俺は即答した。
「今も怖いです。正直、さっきから立っているのがやっとです。でもあのとき、あなた死にかけてたじゃないですか。死にかけてる相手を怖がるのって、なんか、おかしいでしょう」
ヴァレリアは黙った。
長い沈黙だった。金色の目が、まばたきもせずに俺を見ている。値踏みされているというより、知らない生き物を観察されている感じだった。
やがて、彼女は短く言った。
「お前は変わった人間だ」
「よく言われます」
◆◆◆◆
結論から言うと、ヴァレリアは五日いた。
最初の二日は、ほとんど寝ていた。傷はまだ塞がっておらず、薬草を替えるたびに、あの黒ずんだ縁がじわじわと外側へ広がろうとするのを押し戻す必要があった。彼女は手当てのあいだ、一度も声を上げなかった。
俺のほうが「痛くないんですか」と訊く。
「痛い」
「なら言ってくださいよ」
「言って治るのか」
「治りませんけど」
「ならば言う意味がない」
こういう人だった。
手当ての最中、俺は彼女の背中を見ることがあった。
古い傷が、数えきれないほどある。細い線、太い線、焼けた跡。新しいものはひとつもない。どれも何年も前に塞がったものだ。
俺の手が止まったのが分かったのだろう。
「古い」
とだけ、彼女は言った。
「聞いてません」
「そうか」
それきりだった。俺は布を巻き直した。訊かなかった。これ以上訊いてしまったら、それは関わるということだからだ。
◆◆◆◆
三日目、彼女は歩けるようになったが、同時に俺の生活は妙なことになった。
まず鶏だ。
ヴァレリアが裏手に出たとき、シロが真正面から羽を膨らませて威嚇した。あいつは俺にもやる。縄張り意識のかたまりみたいな鶏だ。
ヴァレリアは足を止めて、シロを見下ろす。ただ見ただけである。
シロは、俺が知るかぎり生まれて初めて、静かになった。そのまま横向きにそろそろと歩いて、小屋の裏へ消えた。
「……この鳥は勇敢だな」
「今のどこがですか」
「余の前に立った」
「鶏ですよ」
「勇敢だ」
彼女は本気で言っていた。それ以来、シロは俺の家で唯一、ヴァレリアに一目置かれる存在になった。本人*1は何も知らない。
それから本だ。
俺の蔵書は四冊しかない。じいさんの形見の薬草の手引きと、行商人から買った物語が二冊、それと農事暦。ヴァレリアは寝床に座って、そのうちの農事暦を最後まで読んだ。
「輪作の項が雑だ」
「魔王が農事暦にけちをつけないでください」
「豆のあとに芋を植えれば土が痩せる。三年で分かる」
「……合ってます」
「当然だ」
なぜ知っているのか、俺は訊かなかった。訊いたら関わることになる。もう十分関わっていると言われても、俺はその一線をやたらと意識するようになっていた。
そして食事である。
三日目の夜、俺はきちんと塩を利かせたスープを出した。豆と玉ねぎと干し肉、香草を少し多めに。芋を炭の際で焼いて、割って、脂を落とした。卵は二つ使った。もったいないとは思わなかった。傷が塞がるまでは食わせるべきだと、じいさんに教わっている。
ヴァレリアはひと口飲んで、動きを止めた。
それから、ぽつりと言った。
「……これは美味い」
言い方が変わっていた。
低さも、間の取り方も、それまでとまるで違った。角が取れて、少し高くなって、どこにでもいる人の声になっていた。
本人もそれに気づいたらしい。椀の縁を見つめたまま、しばらく黙りこむ。俺は見ないふりをして、自分のぶんの芋を割った。
やがて彼女は椀を差し出してきた。
「もう一杯くれ」
「どうぞ」
彼女はスープを飲んだ。今度は最後まで、一言も喋らずに飲み干した。
俺は、それを見ていた。見ていただけだったが。
妙な気分だった。前世を含めて、俺が作ったものを誰かが黙って全部食べるところを見たのは、たぶん初めてだと思う。
◆◆◆◆
四日目の夜、森が鳴いた。
獣の声だ。それも一頭ではない。低い唸りが、家のまわりをゆっくり回っている。狼にしては数が多く、位置が整いすぎていた。
俺は斧を手に取った。心臓がうるさい。
ヴァレリアは寝床から身を起こし、閉じた窓板のほうへ、顔を向けた。窓は開けていない。外は見えない。
それだけ
だが、唸り声が途中で切れた。
枝の折れる音が遠ざかっていく。それも一瞬で、あとには本当に何も残らなかった。虫の声だけが、何事もなかったように戻ってくる。
俺は斧を握ったまま突っ立っていた。
「……何かしましたか」
「見た」
「窓、閉まってますけど」
「閉まっているな」
彼女はそれ以上説明しなかった。横になり、目を閉じ、そのまま眠った。俺は囲炉裏の前に座って、火が小さくなるまで動けなかった。
この人は、傷が塞がりかけの、飯を三杯おかわりして、農事暦にけちをつける、そういう人だ。
そして同時に、窓を開けずに森をひとつ黙らせる人だ。
その両方が同じ屋根の下にいるということを、俺の頭はどうしても一つにまとめられなかった。
◆◆◆◆
五日目の朝。
俺は最後の手当てを終えて、布を巻き終えた。傷は塞がっていた。赤い線が一本残っているだけだ。あの黒ずみは、もうどこにもない。
「治りましたね」
「ああ」
俺は膝の埃を払って立ち上がった。深く息を吸った。この五日間、ずっと言おうと思っていた台詞だった。
「じゃあ、帰ってください」
ヴァレリアは服の袖を直していた手を止め、顔を上げる。
「断る」
「……はい?」
「ここは静かだな」
彼女は開け放した戸口の向こうを見ていた。畑がある。その先に森がある。朝の光が斜めに差して、耕した土が湯気を立てている。
「森はどこも静かです」
「違う」
ヴァレリアは首を振った。
「森は静かだ。だが、
「……同じこと言ってません?」
「違う」
彼女はもう一度言った。それだけだった。説明する気がまるでないのか、説明できないのか、どちらなのかは分からなかった。
俺は頭を掻く。
「あのですね、ヴァレリアさん。あなたには帰る場所があるでしょう。城とか、玉座とか、部下とか。そういうのが」
「ある」
「じゃあ」
「帰らぬ」
そこで彼女は、初めて俺から視線を外した。
戸口の光のほうを向いたまま、短く言った。
「まだ、終わっていない」
俺は、その言葉を知っていた。
熱にうなされていた夜、彼女が言いかけて途切れた言葉だ。うわごとの続きが、五日経って、ようやく最後まで出てきた。
訊いてはいけない。
俺の中の、いちばん賢い部分がそう言った。訊いた瞬間に、それは俺の問題になる。俺は英雄にならないと決めた。権力者に近づかないと決めた。誰の面倒事にも首を突っこまないと決めた。この五日間はもう十分に例外だった。ここで線を引けば、まだ間に合う。
俺は口を開いた。
「……何がですか」
賢い部分は黙った。あいつはいつもこうだ。肝心なときに黙る。
ヴァレリアはこちらを見なかった。
「言えば、お前は巻きこまれる」
「今わりと巻きこまれてますけど」
「まだだ」
彼女の声は静かだった。脅しではなかった。むしろ、逆のもののように聞こえた。
「今ならまだ、お前はただの農夫だ。余が去れば、お前の畑は明日も畑のままだ。……今はそれでいい」
そして彼女は、ようやく俺を見た。
「だから、聞くな」
――なら帰れよ、と思ったが、思っただけで、俺は何も言えなかった。
言い返す言葉は山ほどあった。だけど、そういう真っ当な文句が全部、喉のところで詰まる。
代わりに出てきたのは、自分でも信じられない台詞だけだった。
「……昼、何食べます」
ヴァレリアは少しのあいだ黙って、それから言った。
「腹が減った」
「それ答えじゃないです」
「昨日のあれでいい」
「昨日のあれは昨日でなくなりました」
「ならば、別のものでいい」
俺はしばらく目頭を押さえて、それから、かまどのほうへ歩いていった。
言っておくが、俺は納得していない。
ただ、この五日のあいだ、俺は一度も一人で飯を食っていなかった。それに、さっき気づいてしまっただけだ。
気づいただけで、認めたわけではない。
◆◆◆◆
その日の昼を食べ終えて、ヴァレリアが皿を洗っていたときだった。
彼女が、戸口のほうへ顔を向けた。
森の鳥が、いっせいに飛び立つ音がした。
そして、聞こえてくる。
金属の音だ。規則正しい。歩幅が揃っている。一人ぶん。まっすぐこの家に向かってきている。
この森の道を、鎧を着て歩く人間はいない。村の連中は鎧など持っていないし、猟師は音を立てない。
ヴァレリアは椅子に座ったまま、ため息をつく。本当に、本当に面倒くさそうなため息だった。
「来たか」
「え、なんですか。誰ですか」
彼女は答えなかった。
代わりに、俺のほうへ手を差し出して、こう言った。
「ベネ。その布を寄越せ。手を拭く」
「いやそれどころじゃないでしょう今」
「客の前で手が濡れているのは、みっともない」
足音は、もう庭に入っていた。
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