Dr. SPIDER-MAN ドクタースパイダーマン 作:サクラザキアツヤ
春の風がまだ冷たく、しかしどこか新しい匂いを運んでくる朝だった。
白月優兎は、母校の体育館にいた。
壇上では校長が長い挨拶を続けている。拍手。笑い声。どこか浮ついた空気。卒業式特有の、別れと始まりが混ざった匂い。
式が終わり、優兎は廊下で担任の教師と向かい合っていた。
担任「白月、アメリカでも無茶だけはするなよ」
優兎は少し照れくさそうに頭をかいた。
優兎「大丈夫ですよ先生。……たぶん」
担任はため息混じりに笑う。
担任「“たぶん”が一番信用ならないんだがな」
二人は小さく笑った。
その時、優兎のスマホが震える。画面には――**“搭乗時刻まで残り30分”**の文字。
優兎ははっと顔を上げた。
優兎「――もう時間だ! 行かなきゃ!」
鞄を肩にかけ、振り返る。
優兎「またね、先生!」
駆け出す背中に、担任は小さく手を振った。
担任「気をつけて行けよ!」
――――――――――――――――――――――
飛行機は雲を突き抜け、青い空を切り裂いていく。
数時間後。ニューヨーク。
優兎は学生寮のロビーに立っていた。
広い。高い天井。英語のざわめき。すべてが、日本とは違う世界だった。
エレベーターに乗り、指定されたフロアへ。廊下を歩くと、数人の学生が彼をちらりと見た。
男子学生A(小声)「Is he Chinese…?(彼、中国人かな…?)」
くすくすとした笑い声が聞こえた。
優兎は一瞬足を止めた。
だが、怒りは見せない。代わりに、視線は床に散らばったゴミへと向いた。段ボールの切れ端、空き缶、壊れた掃除機の残骸。
優兎は無言で近づき、鞄を床に置いた。工具袋を開き、慣れた手つきで部品を組み上げていく。誰かに見せるためではない。ただ、目の前の散らかりが気になっただけだった。
数分後。
そこには、小さな即席のゴミ掃除ロボットが完成していた。廃材とは思えないほど滑らかな動きで、タイヤが回る。
優兎は立ち上がり、振り返る。
周囲の視線が、完全に彼に集まっていた。
そして、少しだけ口角を上げて言う。
優兎「No, I’m Japanese.(違うよ、僕は日本人だ。)」
スイッチを入れると、ロボットは床を走り回り、ゴミを次々と吸い込んでいった。廊下はみるみる綺麗になっていく。
静まり返る周囲。さっきまで笑っていた学生たちは、言葉を失っていた。
優兎は静かにロボットを回収し、自分の部屋へ向かった。
――――――――――――――――――――――
寮の一室。ベッド、机、窓。まだ生活感は薄い。
優兎はキャリーケースを開ける。奥には――自作のスパイダースーツと、一組のグローブとブーツが隠されていた。
グローブとブーツの指先――正確には、指の腹とつま先の部分には、小さなノズルが仕込まれている。優兎自身が調合した特殊粘着液を圧縮噴射し、壁面に一時的に張り付かせるための装置だ。特別な力があるわけじゃない。あるのは、道具と、それを作り上げた自分の腕だけ。
スーツの胸元に取り付けられた小型ユニットには、まだ名前もつけていない試作品――優兎はそれを心の中で「センサー」と呼んでいた。周囲の異常音や振動、無線帯域の異常を拾い、危険を検知すると警告音を鳴らす仕組みだ。同時に、片耳のイヤピースと繋がっていて、簡易的な通信機もかねている。
その時。
――ピピピピッ、ピピピピッ。
センサーが甲高い電子音を鳴らした。
優兎「……まずい」
イヤピースからノイズ混じりの声が漏れる。近隣の緊急無線を拾っているのだ。
<――大型の生物確認、繰り返す、大型生物が――>
迷う暇はない。優兎は一瞬でスーツに着替え、窓へ走る。
8階建ての寮ビル。その縁に立つ。下を見れば、人々が小さく見える高さ。
優兎はグローブの指先を壁に押し当てる。噴射音とともに、手のひらがしっかりと外壁に固定された。つま先も同様に。重力を頼りに、慎重に、しかし迷いなく壁を這い下りていく。
一気に飛び降りるのではない。落下の勢いを殺しながら、要所要所で粘着を使い、街灯や看板の突起に手をかけて減速する。地面近くまで来たところで手首のウェーブシューターを構え、糸を放って隣のビルの縁へ引っかけた。糸を頼りに弧を描き、そのまま路地へ着地する。
派手さはない。だが、計算し尽くされた動きだった。
――――――――――――――――――――――
現場に辿り着いた時、そこは混乱の真っ只中だった。
燃え上がる車。煙。逃げ惑う人々。
そして、その中心にいたのは――巨大なウサギ型の“何か”。
通常のウサギの何倍もある体躯。異様に発達した脚。ぎらつく赤い瞳。体表には不自然な薬剤の痕のような模様が浮かんでいる。
優兎はビルの壁に張り付き、状況を瞬時に把握する。壁に貼り付いているのも、粘着ノズルのおかげだ。じっとしていれば、指先の粘着剤が乾いて力が抜けるまでの猶予は、せいぜい数十秒。
優兎「……よし、まずは人命優先」
手首のウェーブシューターからウェブを放ち、倒れた看板を固定。別の糸で逃げ遅れた人を安全圏へ引き寄せる。糸の残量はそう多くない。無駄撃ちは許されなかった。
ウサギ型怪物が振り向く。巨大な脚が地面を叩き、地面が震える。
優兎は壁を蹴って飛び降り、着地と同時に転がって衝撃を殺す。超人的な跳躍力なんてない。ただの人間の身体能力を、道具と工夫でどうにか補っているだけだ。
優兎「くっ……!」
怪物の脚に向けてウェブを連射し、絡みつかせる。だが力が強い。糸がミシミシと音を立てる。
優兎はとっさに周囲を見渡した。倒れた鉄板、切れた電線、水を吐き出す消火栓――使えるものは何でも武器になる。
地面に転がっていた鉄板をウェブで引き寄せ、盾のように構える。怪物の蹴りが直撃――だが、鉄板が衝撃を分散した。両腕が痺れる。それでも、優兎は歯を食いしばって耐えた。
優兎「今だ……!」
近くの街灯に指先の粘着剤を使って一瞬だけ張り付き、その反動を利用して跳ぶ。跳躍というより、道具を駆使した綱渡りに近い動きだった。空中で両手を広げ、ウェブを一気に放射する。
――バシュッ!
ウサギ型の顔面と前脚が、白い糸でがっちりと拘束される。巨体がバランスを崩し、横倒しになった。
地面が揺れる。
息を切らしながら、優兎は倒れた怪物を見下ろす。まだ動いているが、すぐには暴れられない。
優兎「……やっぱり、ただの動物じゃない」
遠くでサイレンが鳴り始める。パトカーの赤い光。
センサーが再びピピピピッと鳴り、イヤピースから緊急車両の接近を告げる音声が流れた。潮時だ。
優兎は最後に一度だけ振り返り、逃げ遅れた人がいないことを確認すると、粘着ノズルとウェブシューターを頼りに、再び夜のビルの合間へと消えていった。
――その背後で、ウサギ型怪物の体表がわずかに蠢いた。
まるで、“まだ終わっていない”と言わんばかりに。
まだこの街の謎も、真実も、そして彼自身の運命も見えていない。
――舞台はアメリカ、ニューヨーク。
白月優兎の戦いは、これから幕を上げる。