段ボール箱の山だった部屋も、夕方になる頃にはどうにか人間が暮らせる程度には片付いていた。
「……ふぅ」
最後の箱を壁際へ寄せて、神崎奏真は腰を伸ばした。
窓の外には、東京とは少し違う景色が広がっている。
遠くに山が見える。
東京にいた頃なら、窓を開けてもビルやマンションが目に入ることのほうが多かった。
ここでは、視界の向こうに緑がある。
「どうだ、奏真。だいたい片付いたか?」
隣の部屋から父親が顔を出した。
「うん。俺の部屋はもう大丈夫」
「そうか。じゃあ、夕飯でも食べに――」
「その前にちょっと走ってくる」
「今から?」
「少し近所を見て回りたいし。走ったほうが道も覚えるから」
「相変わらずだな、お前は」
父親は呆れたように笑った。
「暗くなる前には戻れよ」
「分かってる」
奏真はジャージに着替えると、軽くストレッチをして家を出た。
京都での生活。
今日から、それが始まる。
◇
知らない街を走るのは、嫌いではない。
むしろ好きだった。
走っていると、普段なら気にも留めないものが目に入る。
交差点。
小さな公園。
古い家。
坂道。
そして、どこに繋がっているのか分からない細い道。
「……結構、坂多いな」
東京にも坂はあったが、京都はまた違う。
少し走るだけでも、街の向こう側に山が見える。
奏真は一定のペースを保ちながら走り続けた。
その時だった。
――♪
「……ん?」
足を止めるほどではなかった。
どこからか、楽器の音が聞こえた。
住宅街の中。
少し離れたところから、低く柔らかな音が流れてくる。
奏真は走る速度をほんの少し落とした。
「……ユーフォニアム?」
聞き間違えるはずがない。
何度も聴いてきた音だった。
音は決して派手ではない。
けれど、妙に耳に残る。
奏真はそのまま音のする方向へ進みかけ――
やめた。
「まあ、いいか」
誰が吹いているのかなんて、今の奏真には関係ない。
再び走り始める。
すると、ちょうど曲のフレーズが耳に入ってきた。
奏真は無意識に、そのリズムに合わせて小さく鼻歌を歌った。
「……ふん、ふふん……」
走る足取りが、ほんの少しだけ軽くなる。
音楽から離れていた時期があった。
母親が亡くなってから、しばらくは楽器の音を聴くことすら避けていた。
それでも今は、こうして知らない誰かの演奏に自然と耳を傾けている。
奏真は気づいていなかった。
自分が走っている先にある建物の中で、一人の少女がユーフォニアムを吹いていることを。
そして、その少女もまた。
外を走る少年の存在など、知る由もなかった。
ただ、京都の春の夕暮れに。
二人の音楽が、ほんの一瞬だけ同じ空間を共有していた。
◇
翌朝。
北宇治高校。
入学式の日。
「……ここか」
奏真は校門の前で立ち止まった。
事前に調べた情報はほとんどない。
父親の仕事の都合で京都へ引っ越してきた。
家から一番近い高校。
それが北宇治高校だった。
だから選んだ。
それだけだ。
「まあ、普通の高校だな」
そう呟いて、校舎へ向かう。
新入生たちが続々と集まっていた。
まだ少し緊張した空気。
知らない顔ばかり。
奏真は周囲を眺めながら歩いていた。
そして――
昇降口前。
「新入生の皆さん、北宇治高校へようこそ!輝かしい皆さまを祝して。」
赤い縁のメガネをかけた女子学生がそう口にすると吹奏楽部による歓迎演奏が始まった。
奏真は足を止めた。
音が鳴る。
トランペット。
トロンボーン。
クラリネット。
サックス。
そして――
「……」
奏真の眉が、ほんの少しだけ動いた。
演奏を聴く。
数秒。
十秒。
二十秒。
奏真は何も言わなかった。
ただ、口元だけがわずかに引きつっている。
(……なるほど)
思っていたより、ぐちゃぐちゃな演奏だった。
音程。
リズム。
音量のバランス。
個々の技術。
どれも、以前いた強豪校とは比べものにならない。
(……まあ、仕方ないか)
奏真は苦笑する。
別に馬鹿にしているわけではない。
ただ、全国大会で演奏することを当たり前のように求められてきた人間からすれば、少しばかり物足りない。
そんな時だった。
斜め前から、ぼそっと声が聞こえた。
「だめだ、こりゃ」
「……っ」
奏真は思わず吹き出しそうになった。
慌てて顔を背ける。
そして、その声の主を見るために後ろを振り返った。
そこにいたのは――
同じ新入生らしい少女。
肩まで伸びた髪をポニテールにした癖っ毛のある髪、どこか気の抜けたような表情。
さっきの言葉を聞いた限りでは、自分と似た感想を持ったらしい。
(……おいおい)
奏真は笑いを堪えながら思う。
(それ、今ここで言うか?)
少女――黄前久美子は、特に悪びれる様子もなく演奏を眺めていた。
奏真は口元を手で覆った。
「……ふっ」
危ない。
声が出るところだった。
久美子がこちらを見る。
一瞬、目が合った。
「……」
「……」
互いに何も言わない。
奏真は視線を前に戻した。
久美子もまた演奏へ視線を戻す。
ただ、それだけ。
この時点では、まだお互いの名前すら知らない。ましてや、この少女と自分がこれから吹奏楽部で関わっていくことなど、奏真には想像もつかなかった。
ただ――
「だめだ、こりゃ」
その一言だけは、妙に耳に残った。
奏真は小さく笑いながら、もう一度演奏へ耳を傾けた。
京都での高校生活。
その最初の一日は、こうして始まった。