入学式を終え、教室へ戻ってきた新入生たち。
まだ担任も来ていない教室には、どこか落ち着かない空気が漂っていた。
奏真は自分の席に座り、鞄から一冊のノートを取り出した。
そして、先ほど聴いた吹奏楽部の歓迎演奏を頭の中で反芻する。
(まず、音程)
ペンを走らせる。
『トランペット――高音域の音程不安定』
『低音――リズムの統一』
『木管――音量のバランス』
『全体――縦のライン』
次々と思いついたことを書き込んでいく。
もちろん、一度聴いただけだ。
だから、あくまで自分が聴いた範囲での評価だ。
(でも、ここを直していけば……かなり変わるな)
奏真はさらにページを進める。
『個人技術より、まず合奏として合わせる』
『パート間の音量バランス』
『基礎合奏の時間を増やす』
「……うーん」
ペン先を止める。
そして、ふと思い出す。
入学式で聞いた、あの一言。
『だめだ、こりゃ』
「……っ」
奏真の肩が震える。
「ふっ……」
駄目だ。
思い出してしまった。
あまりにもタイミングが完璧だった。
「……ははっ」
堪えきれず、小さく吹き出す。
「なに笑ってんの?」
「え?」
突然、前の席から声をかけられた。
奏真は顔を上げる。
そこにいたのは、さっきから前の席に座っていた男子生徒だった。
「あー……いや」
「なんか面白いことあった?」
「ちょっと思い出し笑い」
「ふーん」
男子は少し笑ってから、こちらを振り返った。
「そういや、まだ名前聞いてなかったよな。俺、塚本秀一」
「神崎。神崎奏真」
「よろしく、神崎」
「こちらこそ」
「奏真って、なんか東京っぽい名前だな」
「名前に東京っぽさってあるか?」
「いや、なんとなく」
「なんとなくかよ」
「ははは」
初対面とは思えないほど、妙に話しやすかった。
「神崎って、どこから来たんだ?」
「東京」
「やっぱり。じゃあ京都は初めて?」
「小さい時に一回来たくらい。ほぼ初めてだな」
「へえ。じゃあ、まだ京都のこと全然分かんない感じ?」
「全然。昨日引っ越してきたばっかりだし」
「昨日!?」
「うん」
「じゃあ、俺より京都初心者じゃん」
「塚本もそんな詳しくないのか?」
「いや、俺は生まれも育ちも京都だけど」
「じゃあ初心者じゃないだろ」
「でも高校入ったばっかりだし、北宇治のことは俺もよく分からん」
「それは確かに」
奏真は笑った。
少しだけ肩の力が抜ける。
「で、さっきなんか書いてたけど……なに?吹奏楽?」
「ああ。中学でやってた」
「何?」
「オーボエ」
「オーボエ?」
塚本が目を丸くする。
「珍しいな」
「そうか?しかし、珍しいと言えるってことはお前も吹奏楽やってたのか?」
「おう!中学ではホルン」
「高校では?」
「トロンボーンやろうと思ってる」
「持ち替えるんだ」
「なんとなく。ホルンも嫌いじゃないんだけど、トロンボーンのほうが自分に合ってそうで」
「へえ」
「神崎は? 高校でもオーボエ?」
「……まあ、そのつもり」
「じゃあ吹部入るん?」
「まだ決めてない」
「え、入らねぇの?」
「一応、普段の演奏を聴いてから決めようと思ってた」
「それであのノート?」
「まあな」
「真面目やなあ」
塚本がノートを覗き込もうとする。
奏真は反射的にノートを閉じた。
「見せてくれてもいいじゃん」
「いや、別に大したこと書いてない」
「絶対なんかめっちゃ細かく書いてるだろ」
「……まあ」
「やっぱり」
塚本が笑う。
「俺なんか、今日の演奏聴いて『まあ、こんなもんか』くらいしか思わなかったわ」
「それはそれでどうなんだ」
「だって俺、神崎みたいに演奏分析とかできんし」
「別に、俺だって最初からできたわけじゃない」
「へえ。じゃあ、オーボエ長いん?」
「小五から」
「じゃあ五年間か」
「そう」
奏真はそれ以上は答えなかった。
全国大会。
強豪校。
部長。
そんな話をする必要はない。
塚本も深く聞いてくることはなかった。
「じゃあ、俺と同じだな」
「何が?」
「とりあえず一回、部活見に行ってから決めるってこと」
「そうだな」
「一緒に行かねぇ?」
「体験入部?」
「うん」
奏真は少し考えた。
「いいよ」
「よし、決まり」
塚本が嬉しそうに笑う。
「そういや、同じ中学で吹部だった奴がこのクラスにもう一人いるんだよ」
「誰?」
「高坂麗奈」
「……高坂?」
「知ってんの?」
「いや、知らない」
「トランペット吹いてた。かなり上手かったぞ」
「へえ」
「ほら、あそこ」
塚本が指を指す。
その先には、黒髪の長い綺麗な少女が座っていた。
「あの人が高坂さん?」
「そう」
「確かに、なんか音楽やってそうな雰囲気あるな」
「なんだそれ」
「いや、なんとなく」
「神崎、それ好きだな。『なんとなく』」
「塚本に言われたくない」
「ははは!」
二人で笑う。
そこからは、吹奏楽とは関係のない話まで続いた。
「神崎って、部活以外は何してたん?」
「走ったり、家で適当に本読んだり」
「地味やな」
「悪かったな」
「いや、俺も似たようなもんやけど」
「塚本は?」
「ゲーム。あと友達と遊んだり」
「普通だな」
「普通が一番やろ」
「それもそうか」
「神崎は京都で遊ぶ場所とか分かる?」
「分かるわけないだろ」
「じゃあ今度教えてやるよ」
「本当に?」
「京都人だからな」
「それ、自分で言う?」
「言う」
「じゃあ期待しとく」
「任せとけ」
そんな話をしているうちに、下校時間になった。
◇
「じゃあ、俺こっちだから」
駅に着くと、塚本が手を上げる。
「ああ。また明日」
「明日な、神崎」
「おう」
塚本が数歩進んだところで、振り返る。
「あ、神崎!」
「ん?」
「明日、忘れんなよ。体験入部」
「分かってるって」
「あと、なんか面白そうな部活あったら教えて」
「吹部じゃないのかよ」
「一応、他も見るだろ」
「まあ、それもそうか」
「じゃあまた明日!」
「また明日」
塚本と別れた。
奏真は一人で歩き始める。
学校から家までは、本来なら真っ直ぐ帰ればいい。
けれど――
(……まあ、いいか)
少しだけ遠回りになる道を選んだ。
理由は単純だった。
知らない土地でできた、初めての友達。
もう少しだけ話していたかった。
とはいえ、本人にそんなことを言うつもりはない。
「……我ながら、気を遣いすぎだろ」
奏真は小さく笑った。
京都に来る前は、こんなふうに誰かと学校帰りに話すことになるなんて考えてもいなかった。
けれど――
(悪くないな)
そう思いながら歩いていると――
「……ん?」
前方から、少し騒がしい声が聞こえてきた。
見ると、北宇治高校の制服を着た女子生徒が二人。
その前には、いかにも柄の悪そうな男たちがいる。
「……面倒そうだな」
奏真は足を止める。
どうするか。
一瞬だけ考えた。
そして――
「おまわりさーん! こっちでーす!!」
「なっ!?」
奏真の大声が通りに響く。
男たちは一斉に振り返った。
「警察!?」
「やべっ!」
「行くぞ!」
実際には警察など近くにいるわけではない。
だが、奏真の声に驚いた男たちは、そのまま散っていった。
「……ふぅ」
奏真は二人の女子生徒へ近づく。
そこで初めて、制服の胸元を見る。
そして――
(緑のリボン……三年生か)
自分より二つ上の先輩だと気づいた。
「大丈夫でしたか?」
二人が顔を見合わせる。
「……あ、うん」
「助けてくれてありがとう」
「いえ」
奏真は軽く頭を下げる。
「大したことはしてませんから。それより、人通りの多い方を通って、早めに帰ったほうがいいですよ」
「あ、ちょっと――」
二人が呼び止めようとする。
しかし奏真は、
「それじゃ」
とだけ言って、その場を離れていった。
「……行っちゃった」
小笠原祥子は唖然とした表情をしていた。
「嵐のように来て去っていったね、あの子」
中世古香織も、遠ざかっていく奏真の背中を見る。
「北宇治の制服だったよね?」
「うん」
「新入生かな?」
「たぶん」
二人は顔を見合わせる。
この時はまだ、彼の名前すら知らなかった。
◇
家に着くと、誰もいない家に「ただいま」と声をかける。
奏真は制服から部屋着へ着替えると、そのまま台所へ向かった。
夕食の下準備。
洗濯物を回収して畳み、簡単な掃除をする。
引っ越したばかりということもあり、やることはいくらでもある。
包丁を動かしながら、奏真は今日一日を振り返った。
入学式。
北宇治高校。
吹奏楽部。
あまり上手くなかった歓迎演奏。
そして――
「だめだ、こりゃ」
「……ふっ」
また思い出してしまい、奏真は一人で笑った。
その後、塚本と話したこと。
高坂麗奈というトランペット奏者のこと。
そして、帰り道で助けた二人の三年生。
「……なんだかんだ、色々あったな」
昨日まで、京都には知り合いが一人もいなかった。
それが、今日一日で少しだけ変わった。
特に――
『また明日な、神崎』
塚本の声を思い出す。
「……また明日、か」
奏真は小さく呟いた。
明日も学校へ行けば、塚本がいる。
それがなんとなく、悪くない気分だった。
奏真は夕食の準備を続けながら、ふと窓の外を見る。
知らない街。
知らない学校。
知らない人たち。
そして、これから始まる高校生活。
「……明日は、どうなるかな」
奏真は小さく呟いた。
その胸の奥には、ほんの少しだけ。
期待が生まれていた。