秋季大会初戦の翌週。
学校では、全国大会の頃みたいに毎日声をかけられることもなくなっていた。
朝、席に着くと詩織が振り返る。
「昨日も勝ったんでしょ?」
「うん。6対0」
「伊織は?」
「3安打」
「……普通に言うけど、3安打って普通じゃないからね?」
「この前3本ホームラン打った時よりは普通でしょ」
「基準がおかしくなってるよ、それ」
詩織が呆れたように笑う。
「でも、昨日はホームランなかったんだ」
「なかった」
「ちょっと残念」
「詩織までホームラン期待するようになったの?」
「だって分かりやすいじゃん。打った瞬間にみんな盛り上がるし」
「ヒットも盛り上がるよ」
「伊織の場合、ヒットだと『また打った』って感じになってきた」
「ひどくない?」
「褒めてるの」
多分。
「次はいつ?」
「今週の土曜日。二回戦」
「近い?」
「全国大会よりは全然」
「じゃあ見に行こうかな」
「また来るの?」
「その言い方だと来てほしくないみたいなんだけど」
「そういう意味じゃないよ。毎回来るの大変じゃない?」
「伊織って、自分が毎週野球してるから感覚おかしくなってない? 私は座って見てるだけだよ」
「それもそうか」
「それに、伊織から『来て』って絶対言わないでしょ」
「……言わないかも」
「でしょ? だから私が勝手に行く」
言い切られた。
「じゃあ、来れば?」
「その言い方も微妙」
「難しいな」
「『来てくれたら嬉しい』くらい言えばいいのに」
「……来てくれたら嬉しい」
「言わせた感すごいね」
「詩織が言えって言ったんでしょ」
「まあいいや。行く」
満足そうに前を向く。
こういう時、どの答えが正解なのかよく分からない。
でも、土曜日に詩織が来ることは分かった。
「そうだ」
また振り返る。
「来月、ピアノの発表会あるんだけど」
「発表会?」
「うん。前に話したの覚えてない?」
「発表会があるとは聞いた気がする」
「その反応、絶対忘れてた」
「日にちは聞いてないよ」
「じゃあ今言う」
小さな紙を渡された。
日曜日。
頭の中で予定を確認する。秋大会が順調なら、その頃には終わっているはず。練習はあるかもしれないけど、時間は作れる。
「行けると思う」
「ほんと?」
「うん」
「じゃあ来て。今度はちゃんと伊織が私を見る番だから」
「見る番?」
「私、伊織の試合かなり見に行ってるでしょ?」
「それとこれ関係ある?」
「あるよ。私ばっかり伊織のこと見てるの、ちょっと不公平じゃない?」
「そういうもの?」
「そういうものです」
何を弾くのか聞くと、詩織は少し得意そうに笑った。
「秘密。当日まで楽しみにしてほしいから」
「家近いから、練習してたら聞こえそうだけど」
「聞かないで」
「無理じゃない?」
「じゃあ伊織が家にいる時間は練習しない」
「それはそれで練習できなくない?」
「細かいなあ」
詩織が笑う。
「でも、ちゃんと来てね。終わった後に『よかった』だけは禁止だから」
「まだ聴いてもないのに感想まで指定されるの?」
「伊織なら絶対それで終わらせそうだから先に言ってるの」
「そこまで信用ない?」
「野球以外に関してはちょっとだけ」
「ひどいな」
「じゃあ見返してください」
チャイムが鳴る。
詩織が前を向いた。
机の中へ入れた発表会の日付を、今度は忘れないように覚えておいた。
◇
土曜日。
秋季大会、二回戦。
相手は港南シニア。
スタンドを見ると、詩織は本当に来ていた。目が合うと、小さく手を振ってくる。
俺も軽く手を上げた。
「成瀬」
「何?」
「さっきからスタンド気にしてない?」
「してない」
「いや、してた」
「高瀬、試合前に人のことよく見てるね」
「キャプテンだからな。選手の状態確認してんだよ」
「便利な言葉だね」
「で、誰?」
「言わない」
「はいはい」
高瀬が笑う。
今日は俺が先発。玲はベンチ。
「今日は5回までな」
監督の言葉に頷く。
「はい」
◇
1回表。
先頭打者への初球。
バァンッ!
「ストライク!」
131km/h。
2球目はカーブ。
パシッ。
「ストライク!」
打者の身体が少し前へ出た。
高瀬のサイン。
チェンジアップ。
ブンッ!
「ストライク! バッターアウト!」
三球三振。
2番はストレートを打たせてセカンドゴロ。3番もカーブを引っかけてショートゴロ。
三者凡退。
「今日いいな」
「普通」
「玲みたいなこと言うなよ」
「玲ほどじゃないけど」
「そこは否定しないんだな」
ベンチの玲を見る。
普通に水を飲んでいた。
◇
1回裏。
三上がセンター前ヒット。
佐伯がきっちり送り、ワンアウト2塁。
俺の第1打席。
初球は外角へ外れてボール。2球目も外寄りだったが、今度は少し甘い。
カキィンッ!
一、二塁間を抜ける。
「回れ!」
三上がホームへ。
「セーフ!」
1対0。
タイムリーヒット。
一塁上からスタンドを見ると、詩織が拍手していた。
ほんの少しだけ、口元が緩んだ。
◇
試合はそのまま城東のペースで進んだ。
3回裏、黒田が左中間へのツーベース。高瀬がセンター前へ返して2対0。
4回裏。
先頭で俺に第2打席が回ってきた。
外角のストレート。
カァンッ!
右中間。
打球が外野の間を抜ける。
二塁へ。
ザッ!
「セーフ!」
ツーベース。
続く黒田。
初球をセンター前へ弾き返す。
キィンッ!
俺は3塁を蹴った。
ホームへ。
「セーフ!」
3対0。
「最近ほんと右に飛ばすよな」
ベンチへ戻ると黒田が言った。
「外に来るから」
「俺だったら引っ張りたくなるけどな」
「黒田は何でも引っ張りたがるでしょ」
「ホームランは左に飛ばす方が気持ちいい」
「そういう問題?」
「そういう問題だろ」
広角打法を覚えてから、右へ打とうと考えること自体が減った。
外なら右。内なら左。真ん中なら、一番強く振れる場所へ。
打つ方向を決めるんじゃない。
来た球に合わせる。
その方が自然だった。
◇
投げては5回まで。
5回表も先頭をショートゴロ、次をセンターフライ。最後はチェンジアップで空振り三振。
5回3安打無失点。四球0、奪三振5。
「今日はここまで」
「はい」
監督に言われ、マウンドを降りた。
その裏。
8番がレフト前ヒット。
9番が送りバントを決めて、ワンアウト2塁。
三上。
カキンッ!
左中間へのツーベース。
2塁ランナーが帰る。
4対0。
続く佐伯。
「俺も続く!」
初球を見送り、2球目。
カァンッ!
センター前。
三上が3塁を回る。
「回れ!」
ホームへ。
「セーフ!」
5対0。
一塁で佐伯が拳を握った。
「二試合連続2安打!」
「声でかいよ」
「成瀬が基準おかしくするから、ちゃんと自分で喜ばないとダメなんだよ」
「俺のせい?」
「半分くらい」
「残り半分は?」
「黒田」
「何で俺!?」
ネクストから黒田が叫ぶ。
俺の第3打席はセカンドゴロ。
その後も追加点はなく、5対0で最終回へ向かう。
◇
6回から白石。
公式戦二度目の登板だった。
先頭にヒットを打たれたものの、次をスライダーで三振。その後は四球を一つ出しながらも、後続を打ち取る。
「前より落ち着いてるな」
ベンチから見ていると高瀬が頷く。
玲もマウンドを見ながら言った。
「ストライク増えた」
「玲から見ても?」
「うん。でもまだ高い」
「厳しいね」
「打たれるから」
「まあ、それはそうだけど」
7回。
白石は先頭を四球で歩かせた。
次の打者に右中間へのツーベースを許し、ノーアウト2、3塁。
高瀬がマウンドへ向かう。
少し話してから戻った。
次の打者。
カンッ!
セカンドゴロ。
三上が一塁へ送る。その間に3塁ランナーがホームへ。
5対1。
白石はそこで崩れなかった。
続く打者を浅いセンターフライ。
最後はショートゴロ。
俺は前へ出る。
捕る。
一塁へ。
パァンッ!!
ボールがファーストのミットに収まる。
「アウト!! ゲームセット!!」
5対1。
秋季大会、二回戦突破。
◇
俺は5回3安打無失点。四球0、5奪三振。
打っては3打数2安打。二塁打1本、1打点。
新チームになってから、少しずつ形が見えてきた。
球場を出ると、詩織が待っていた。
「お疲れさま」
「ありがとう」
「今日も打ったね」
「2本」
「ホームランは?」
「だから毎回打たないって」
「残念」
「何を期待してるの」
詩織が笑う。
「でも、今日の最初のヒット好きだった」
「タイムリー?」
「うん。ホームランみたいに派手じゃないけど、なんか綺麗だった」
「右に打ったやつ?」
「そう。私、野球詳しくないから上手く説明できないけど、無理に打ってる感じがしなかった」
少し驚いた。
広角打法を覚えたことなんて、当然詩織は知らない。
それでも、見て分かるものなのか。
「ちゃんと見てるんだね」
「失礼だなあ。何回見に来てると思ってるの?」
「数えてない」
「私は結構覚えてるよ。伊織が最初に全国行った時とか、私の方がすごい緊張してたし」
「詩織が?」
「うん。伊織はいつも通りだったけど」
「俺も緊張してたよ」
「ほんと?」
「多分」
「また多分」
詩織が笑う。
少し歩いてから、俺を見る。
「だから、発表会もちゃんと見てよ?」
「その話に戻るんだ」
「大事だから。終わった後に『よかった』だけは禁止ね」
「難易度高くない?」
「私は伊織のヒットが右に飛んだとか分かるようになったんだから、それくらい頑張って」
「……それ言われると弱いな」
「でしょ? ピアノに詳しくなれとは言ってないよ。ちゃんと見て、ちゃんと聴いてくれればいいの」
「それならできると思う」
「思う?」
「できる」
「よろしい」
詩織が少し得意そうに笑った。
俺は野球なら、相手投手の癖も、打球方向も、配球も見る。
詩織のピアノ。
何を見ればいいんだろう。
その時になれば分かるのかもしれない。
少なくとも。
「ちゃんと見るよ」
「うん。約束ね」
今度は言わされなくても、そう答えた。