成瀬伊織は、昔から少し変わっている。
藤崎詩織がそれに気づいたのがいつだったのかは、もう覚えていない。
幼稚園の頃からだった気もする。
同じ年なのに、時々ずっと年上の人みたいな顔をする。
みんなが騒いでいる時に一人だけ静かだったり、大人の話を妙に理解していたり。
でも。
「詩織!」
「遅い」
「まだ約束の時間前だろ」
「三分前」
「じゃあ遅くないじゃん」
「先に来てた方が勝ち」
「何の勝負だよ」
こうして話していると、普通の男の子にも見える。
今日は日曜日。
昨日まで野球の大会だったらしい。
伊織たちのチームは優勝した。
だから今日は。
前から約束していた通り、午後から二人で遊ぶ日だった。
◇
「何する?」
「詩織が誘ったんだろ」
「伊織君が決めてもいいよ」
「じゃあキャッチボール」
「帰る」
「嘘です」
詩織が睨むと、伊織が笑った。
「図書館行く?」
「うん」
「そのあと公園?」
「そうしよ」
並んで歩く。
伊織はちゃんと来た。
野球道具も持っていない。
前に約束を忘れられたことがあるから、少しだけ心配していた。
でも今日は大丈夫だった。
「昨日勝ったんでしょ?」
「勝った」
「優勝?」
「うん」
「おめでとう」
「ありがと」
「伊織君、ホームラン打った?」
「打った」
「ほんとに?」
「なんで疑うんだよ」
「なんとなく」
「二ラン」
「二ランって?」
「一人ランナーがいる時にホームラン打ったから二点入るやつ」
「へえ」
伊織は野球の話をするとよく喋る。
昔からそうだった。
でも最近は。
もっとよく喋るようになった気がする。
◇
図書館。
詩織は音楽の本を一冊取った。
伊織は。
「……」
「また野球?」
「え?」
「その本」
伊織が持っているのは、投手のフォームについて書かれた本だった。
「面白そうだったから」
「今日くらい野球じゃないの読んだら?」
「じゃあもう一冊借りる」
そう言って手に取ったのは、身体の動かし方についての本。
「それも野球に使うんでしょ」
「……まあ」
「やっぱり」
詩織は笑った。
別に怒ってはいない。
伊織が野球を好きなのは知っている。
玲もそう。
二人とも、本当に野球が好きだ。
ただ。
「伊織君って、そんなに野球好きだったっけ?」
「好きだったよ」
「幼稚園の時から?」
「……まあ、好きだった」
「ふーん」
少し間があった。
また。
こういう時がある。
伊織は時々、昔のことを聞くと変な顔をする。
「何?」
「別に」
「変な詩織」
「伊織君に言われたくない」
◇
公園へ移動する。
ベンチに座って、途中で買ったジュースを飲む。
「玲君、百キロ出たんでしょ?」
「百二まで出た」
「百二?」
「昨日」
「また速くなったの?」
「うん」
伊織の顔が少し変わった。
嬉しそう。
でも。
ちょっと悔しそう。
「伊織君は?」
「九十五」
「七違う」
「そう」
「追いつきたい?」
「もちろん」
即答。
「玲君、友達なのに?」
「友達だから」
「前も言ってたね」
「そうだっけ」
「言ってた」
詩織は覚えている。
玲に勝ちたい。
でも玲にはもっと強くなってほしい。
伊織はそういう話をする時、不思議なくらい楽しそうだ。
詩織には、あまり分からない。
ピアノの友達が自分より上手になったら。
嬉しいかもしれない。
でも悔しい。
その両方があるのは分かる。
ただ伊織の場合は。
玲が強くなるほど、自分も嬉しそうだった。
「玲君のこと好きだね」
「好きだよ」
「即答するんだ」
「友達だし」
「そういう意味じゃないけど」
「じゃあどういう意味?」
「別に」
「なんだよ」
詩織はジュースを飲んだ。
自分でも、どういう意味で言ったのか分からなかった。
◇
「詩織はピアノどうなの?」
「ちゃんとやってるよ」
「今度発表会ある?」
「秋にある」
「へえ」
「来る?」
「……いつ?」
「まだちゃんとは決まってない」
「決まったら教えて」
「野球なかったら?」
「野球あっても時間合えば行く」
「時間合わなかったら?」
「……」
伊織が困った顔をした。
詩織は少しだけ笑う。
「意地悪?」
「ちょっと」
「行けるなら行くよ」
「うん」
それでいい。
まだ。
それでいいと思う。
伊織には野球がある。
自分にはピアノがある。
ずっと一緒にいる必要なんてない。
でも。
たまには見てほしい。
自分が伊織の野球の話を聞くみたいに。
伊織にも、自分のことを見てほしい。
そんなことを。
最近少しだけ思うようになった。
◇
「そういえば」
「ん?」
「伊織君、最近ずっと忙しいよね」
「そう?」
「学校終わったら野球でしょ。休みの日も試合あるし」
「まあ」
「前より遊ばなくなった」
「でも今日遊んでるじゃん」
「今日はね」
「約束も忘れてない」
「今回はね」
「まだ言う?」
伊織が笑う。
詩織も笑った。
でも。
少し違う。
約束を守ってくれる。
遊ぶ時間も作ってくれる。
ちゃんと話もする。
だから。
何も悪くない。
なのに時々。
伊織が隣にいるのに、別のところを見ている気がする。
◇
「……伊織君?」
「ん?」
「何考えてた?」
「え?」
「今」
「別に」
「嘘」
「……昨日の打席」
「やっぱり野球じゃん」
「ごめん」
伊織が少し申し訳なさそうに笑う。
「昨日、内角の球ホームランにしたんだけど、もうちょっと早く回れたかなって」
「今考えなくてもいいでしょ」
「そうなんだけど」
「今日、野球禁止」
「ええ?」
「あと一時間」
「厳しくない?」
「厳しいです」
「じゃあ何の話する?」
「学校の話とか」
「学校?」
「先生の話とか、クラスの話とか」
「……」
「今つまらなそうな顔した」
「してない」
「した」
「してないって」
詩織は笑う。
でも。
本当に少しだけ。
寂しかった。
◇
昔の伊織も野球が好きだった。
でも今の伊織は。
好き、だけじゃないように見える。
もっと上手くなりたい。
もっと速く投げたい。
もっと打ちたい。
全国で勝ちたい。
玲に勝ちたい。
全部。
全部欲しがっている。
そして伊織なら。
本当に全部できてしまいそうに見える。
だから余計に。
「ねえ、伊織君」
「ん?」
「野球で一番になったらどうするの?」
「一番?」
「全国で優勝したり、玲君より速く投げたり」
「その次?」
「うん」
伊織が考える。
少しだけ。
そして笑った。
「もっと上」
「まだあるの?」
「あるだろ。中学、高校、その先も」
「ずっと?」
「多分」
「ふーん」
やっぱり。
終わりがない。
この人は。
どこまで行っても、次を探すんだ。
そんな気がした。
◇
夕方。
「そろそろ帰る?」
「うん」
二人で家へ向かう。
いつもの道。
何度も一緒に歩いた道。
「今日は楽しかった?」
詩織が聞く。
「楽しかったよ」
「ほんと?」
「ほんと」
「野球できなかったのに?」
「俺、野球しか楽しくない人間じゃないぞ」
「そうなの?」
「ひどくない?」
「最近はちょっと怪しい」
「そんなに?」
「うん」
伊織が困ったように笑った。
「じゃあ気をつける」
「何を?」
「野球ばっかにならないように」
「……できる?」
「できるよ」
また。
迷わず言った。
伊織は、本当にそう思っている。
野球も。
勉強も。
友達も。
詩織との時間も。
全部大切にできると思っている。
詩織も。
そうだったらいいと思う。
「じゃあ次も遊ぼ」
「おう」
「約束」
「約束」
指切りなんて、もうしない。
そんな年齢じゃない気がした。
だから言葉だけ。
それでも。
伊織なら覚えていてくれる。
今度もきっと。
◇
「じゃあまた明日」
「また明日」
家の前で別れる。
伊織が自分の家へ向かう。
その背中を見る。
前より少し大きくなった。
走るのも速くなった。
野球も上手くなった。
知らないところへ、どんどん進んでいる。
「……」
別に。
置いていかれているわけじゃない。
明日になれば、また学校で会う。
帰り道も一緒になる。
次の約束もした。
なのに。
伊織が遠くへ行ってしまうような気がして。
「変なの」
詩織は小さく呟いた。
この時の詩織には。
その気持ちに名前をつけることは、まだできなかった。
ただ一つだけ分かっていた。
成瀬伊織は。
昔と同じ幼馴染なのに。
少しずつ。
自分の知らない伊織になっている。