全国大会で優勝して。
夏休みが終わって。
学校へ戻ってから。
成瀬伊織の周りには、明らかに人が増えた。
同じクラスの男の子。
今までほとんど話していなかった女の子。
下級生。
廊下ですれ違う上級生。
みんなが伊織の名前を知っている。
「成瀬君、昨日また写真見たよ」
「何の?」
「全国大会の」
「まだ貼ってあるの?」
「あるよ。水城君と一緒のやつ」
「玲の方が目立ってそう」
「でも成瀬君、決勝でホームラン打ったんでしょ?」
「まあ」
朝からそんな声が聞こえる。
詩織は自分の席で教科書を出しながら、少しだけそちらを見た。
伊織は笑っている。
少し照れているようにも見える。
でも。
嬉しいんだと思う。
詩織には分かる。
伊織は褒められると、口では平気そうにする。
でも。
ほんの少しだけ、口元が緩む。
昔から。
そういうところは変わらない。
◇
「藤崎さんって、成瀬君と幼馴染なんだよね?」
休み時間。
同じクラスの女子に聞かれた。
「うん」
「家も近い?」
「近いよ」
「いいなあ」
「何が?」
「だって昔から仲いいんでしょ?」
「まあ……」
今さらそんなことを言われても。
伊織は伊織だ。
幼稚園の頃から一緒。
朝、一緒に学校へ行くこともある。
帰り道も何度も歩いた。
約束を忘れられて怒ったこともある。
公園で遊んだことも。
図書館へ行ったことも。
全国大会で逆転ホームランを打った成瀬伊織より。
「キャッチボールしよう」
と言って断られた伊織の方が。
詩織には馴染みがある。
「ねえ」
「何?」
「成瀬君って好きな子いるの?」
「……え?」
突然。
変な質問をされた。
「知らない」
「幼馴染なのに?」
「そんなの聞かないよ」
「藤崎さんじゃないの?」
「なんで私なの?」
「だって仲いいじゃん」
「仲いいだけ」
「ふーん」
「何、その顔」
「別に?」
少しだけ。
むっとした。
別に。
伊織が誰を好きでも。
関係ない。
多分。
◇
昼休み。
伊織の席には今日も人が集まっている。
「成瀬、次いつ試合?」
「まだちゃんとは決まってない」
「俺も野球やろうかな」
「やれば?」
「教えてよ」
「いいけど、ちゃんとチーム入った方がいいぞ」
「水城も教えてくれる?」
「玲は投げることしか教えないと思う」
「何それ」
笑い声。
少し離れたところでは玲も囲まれている。
「水城君、本当に109km/h?」
「うん」
「次110いく?」
「いく」
「即答だ」
玲は野球の話だけは楽しそうだ。
でも女子に、
「水城君、ほんと顔綺麗だよね」
と言われると。
少し困った顔になる。
玲は。
誰が見ても分かる。
綺麗だ。
長めの髪。
整った顔。
女の子みたいと言われることもある。
だから昔から目立っていた。
伊織は。
「……」
詩織は少しだけ見つめる。
昔から見慣れている顔。
でも。
最近。
背が伸びた。
肩も広くなってきた。
前より少しだけ。
男の子っぽくなった気がする。
「藤崎さん」
「え?」
「何見てるの?」
「別に」
「成瀬君?」
「違うよ」
「ほんと?」
「ほんと」
詩織は前を向いた。
少し。
顔が熱かった。
◇
前までは。
休み時間に伊織と話すのは簡単だった。
席まで行けばいい。
向こうから来る時もある。
「詩織、この問題分かった?」
「分かった」
「教えて」
「自分でやって」
「冷たい」
そんな会話。
今は。
伊織の周りには大体誰かがいる。
もちろん。
声を掛ければ話せる。
「伊織君」
「ん?」
ちゃんとこちらを見る。
「今日一緒に帰る?」
「うん。練習まで時間あるから」
「分かった」
それだけ。
何も変わっていない。
なのに。
少しだけ。
前より声を掛けるのに勇気がいる。
変なの。
ずっと知っているのに。
◇
放課後。
2人で帰る。
学校を出ると。
「成瀬君!」
下級生が声を掛けてきた。
「何?」
「握手して!」
「握手?」
「日本一だから!」
「いいけど」
握手。
「やった!」
下級生が走っていく。
「……すごいね」
詩織が言う。
「何が?」
「握手頼まれてる」
「俺もよく分かんない」
「嬉しい?」
「ちょっと」
「やっぱり」
伊織が笑う。
「詩織なら握手無料でいいぞ」
「いらない」
「日本一だぞ?」
「毎日会ってるし」
「それもそうか」
また笑う。
こうして2人でいる時は。
いつもの伊織だ。
でも。
「成瀬!」
後ろから同級生の男の子。
「明日休み時間、野球やろうぜ!」
「いいよ」
「水城も呼ぼう!」
「多分来る」
「じゃあな!」
「おう」
すぐに。
誰かが伊織を呼ぶ。
◇
「人気者だね」
「そう?」
「そうだよ」
「まあ、日本一になったからじゃない?」
「それだけかな」
「何?」
「別に」
詩織自身。
よく分からない。
野球がすごいから。
日本一になったから。
だから人が集まっている。
それは分かる。
でも。
最近は。
「成瀬君って普通にかっこいいよね」
そんな話まで聞くようになった。
最初に聞いた時は。
「そう?」
としか思わなかった。
見慣れすぎていたから。
でも。
言われてから意識して見ると。
「……」
「詩織?」
「何?」
「また見てた?」
「見てない」
「俺の顔に何かついてる?」
「ついてない」
「じゃあ何」
「知らない」
「何だよ」
伊織が笑う。
その笑顔を見て。
少しだけ。
胸の辺りが変な感じになった。
◇
9月も半ばを過ぎた頃。
「ねえ、伊織君」
「ん?」
「今度の日曜日、空いてる?」
「日曜?」
伊織が考える。
詩織はその顔を知っている。
頭の中で予定を確認している。
練習。
自主練。
玲との練習。
多分。
そういうもの。
「午前は練習。午後なら空いてる」
「ほんと?」
「うん」
「じゃあ遊ぼ」
「いいよ」
すぐ答えた。
「野球しない?」
「しない」
「分かった」
「ほんとに?」
「何だよ」
「最近、休みの日も野球多いから」
「でも午後空いてるだろ」
「うん」
空いてる。
ちゃんと。
自分のための時間がある。
嬉しい。
なのに。
「空いてる」
という言葉が。
少しだけ引っかかった。
前は。
一緒に遊ぶことを。
予定の空きに入れるような感じではなかった気がした。
◇
家へ帰る。
「ただいま」
「おかえり」
部屋へ戻ってランドセルを置く。
机の上には。
秋のピアノ発表会の案内が置いてある。
「……」
今年も。
もうすぐ発表会がある。
前の発表会にも。
伊織は来てくれた。
約束を守って。
ちゃんと見に来て。
「上手かった」
と言った。
その時は嬉しかった。
でも。
少しだけ。
物足りなかった。
何が良かったのか。
どんなところが好きだったのか。
そういう話は。
伊織とはできなかった。
「野球だったら、すごく詳しく話すのに」
球速。
変化球。
打ち方。
守備。
何時間でも話せる。
ピアノは。
「上手かった」
だけ。
「……」
嫌なわけじゃない。
伊織にピアノを好きになってほしいわけでもない。
でも。
自分が大切にしているものを。
もう少しだけ知ってほしい。
そう思った。
◇
日曜日。
約束した午後。
公園へ行くと。
伊織はもう来ていた。
「早い」
「今日は俺が勝ち」
「何の勝負?」
「待ち合わせ」
「そんな勝負してないよ」
「今からした」
「ずるい」
伊織は野球道具を持っていない。
「今日は本当に野球なし?」
「なし」
「玲君に呼ばれなかった?」
「呼ばれた」
「え」
「断った」
「……そうなんだ」
「約束しただろ」
「うん」
すごく普通のこと。
でも。
前より。
少し嬉しかった。
◇
2人でコンビニへ行って。
お菓子を買って。
公園のベンチに座る。
「伊織君」
「ん?」
「発表会の日、決まったよ」
「いつ?」
日付を伝える。
伊織が少し考える。
胸が。
ほんの少しだけ。
止まる。
「その日は……」
「うん」
「今のところ試合ない」
「ほんと?」
「うん。行ける」
「……そっか」
「何弾くの?」
「まだ秘密」
「また?」
「来たら分かる」
「じゃあ行く」
「約束?」
「約束」
詩織は笑った。
伊織も笑った。
やっぱり。
こうしている伊織は。
昔から知っている伊織だ。
◇
少しずつ。
伊織の周りに人が増えている。
伊織を知っている人が増えている。
野球の伊織。
全国大会でホームランを打った伊織。
日本一になった伊織。
100km/hを投げる伊織。
かっこいいと言われる伊織。
どれも。
同じ伊織君。
でも。
詩織にとっては。
朝が少し弱い伊織君。
負けると次の日の練習が増える伊織君。
褒められると少し嬉しそうな伊織君。
約束を1回忘れて。
今もその話をすると弱い伊織君。
そういう伊織の方が。
ずっと馴染みがある。
そして。
知らない人たちが知っている伊織が増えるほど。
自分だけが知っている伊織を。
大事にしたいと思うようになっていた。
「……変なの」
「何が?」
「何でもない」
「今日それ多くない?」
「伊織君には教えない」
「何だよ」
詩織は笑った。
まだ。
この気持ちに。
名前をつける必要はない。
ただ。
みんなが知っている成瀬伊織と。
自分が知っている伊織君。
その2人が。
少しずつ違うものになっていくような。
そんな気がしていた。