翌日。
俺はいつもより早く目が覚めた。
「……まだ六時か」
五歳児の身体になってから、夜更かしはできなくなった。
その代わり朝は早い。
布団の中で右腕を持ち上げる。
昨日。
貯めていた経験を使って、コントロールをG12からF21まで上げた。
能力を上げた直後、右腕に妙な感覚があった。
痛みではない。
どちらかと言えば。
『こうすれば、ここへ投げられる』
そんな感覚が、頭の中に少しだけ増えたような。
「本当に変わったのかな」
能力画面を開く。
【成瀬 伊織】
年齢:5歳
【投手能力/幼児カテゴリ】
球速 36km/h
コントロール F 21
スタミナ F 20
数字は変わっている。
でも。
数字が変わったからといって、本当に投げられるようになったのか。
それは実際に試さないと分からない。
「伊織ー! 起きてるなら着替えなさい!」
「はーい」
今日は玲とキャッチボールする約束だ。
それなら。
すぐに確認できる。
◇
「おはよう、伊織君」
「おはよう」
玄関を出ると、詩織が待っていた。
「今日は早いね」
「野球するから」
「……玲君と?」
「うん」
ほんの一瞬。
詩織の目が細くなった気がした。
「詩織も来る?」
「行く」
即答だった。
「今日は砂場じゃなくてもいいの?」
「……見てる」
「そっか」
昨日の件がある。
今日はちゃんと詩織も含めて予定を立てた。
午前中は玲と野球。
その後、三人で遊ぶ。
午後は父さんとのキャッチボール。
一応。
全員の予定を両立したつもりだ。
こういうところまで考えないといけないのだから。
人生育成。
やっぱり育成ゲームより面倒である。
◇
公園に着くと。
玲はすでに来ていた。
「伊織君!」
俺を見つけると、ぱっと顔を明るくする。
「早いな」
「待ってた」
「何時から?」
「わかんない」
「玲、三十分くらい前からいるぞ」
玲のお父さんが苦笑しながら教えてくれた。
「三十分?」
「うん」
「何してたの?」
「投げる練習」
「一人で?」
「お父さんと」
横を見る。
父親が疲れた顔で笑っている。
「朝からずっと投げさせられてるよ」
「玲……」
「昨日、楽しかったから」
嬉しそうに笑う。
昨日会ったばかりなのに。
こいつ。
本当に野球が好きらしい。
「じゃあやろう」
「うん!」
俺たちは昨日と同じくらいの距離で向かい合った。
まずは。
能力を上げた効果を確認したい。
「いくよ」
「うん」
ボールを握る。
玲の胸を狙う。
昨日までなら。
狙っていても、実際には少し右へ行ったり左へ行ったりしていた。
でも今日は。
なんとなく。
指先からボールを離す場所が分かる。
踏み出す。
腕を振る。
離す。
ぽん。
パシッ。
「……」
玲が胸の前で捕った。
「もう一球」
「うん」
同じ場所を狙う。
投げる。
パシッ。
また胸元。
「……おお」
思わず声が出る。
もう一球。
今度は玲の右肩付近を狙う。
投げる。
少しずれた。
でも。
狙った方向には行った。
「なるほど……」
「どうしたの?」
「なんでもない」
分かった。
能力を上げたからといって。
突然、機械のように狙ったところへ投げられるわけではない。
ただ。
成功するための感覚が。
明らかに増えている。
前世なら。
何十球。
何百球と投げて身体に覚えさせたこと。
それを。
システムが少しだけ、近道してくれる。
「……強いな、これ」
思っていた以上に。
このシステムは強力だ。
努力して得た経験を。
自分の欲しい能力へ使える。
使えば。
その能力を身につけるための感覚まで手に入る。
だったら。
本当に。
俺はどこまで行けるんだろう。
◇
「次、僕」
玲がボールを握る。
「うん」
構える。
昨日の玲なら。
ここから投げれば、俺が一歩か二歩動くことが多かった。
玲が足を出す。
身体を回す。
腕を振る。
ぽん。
パシッ。
「……え?」
胸元。
俺は一歩も動かなかった。
「もう一回」
「うん」
玲が投げる。
パシッ。
また。
胸元。
「……」
昨日より。
明らかに良くなっている。
「玲」
「なに?」
「昨日帰ってからも練習した?」
「うん」
「どれくらい?」
「わかんない」
玲のお父さんが答える。
「夕方に一時間くらいかな。今朝も三十分くらい」
「……」
一時間半。
それだけで。
ここまで変わる?
「昨日、伊織君がこうやってたでしょ」
玲が左足を前へ出す。
「それで、お父さんに見てもらった」
「教えてもらったの?」
「ううん。伊織君の真似」
「……」
またそれか。
俺は前世の経験がある。
さらにシステムまである。
昨日の夜。
貯めた経験を使って、コントロールを上げた。
だから上手くなった。
玲は。
何もない。
ただ。
見て。
真似して。
投げただけ。
それなのに。
「もう少し離れてみる?」
玲が言う。
「……いいよ」
一歩。
二歩。
距離を広げる。
俺が投げる。
玲が捕る。
玲が返す。
少し低い。
でも捕れる。
もう一球。
今度は胸元。
「……」
胸の奥がざわついた。
嫌な感覚。
知っている。
前世で何度も味わった。
自分が一生懸命練習して身につけたことを。
誰かが。
あっさりと覚えていく。
あの感覚。
才能。
嫌いだった言葉。
「伊織君?」
「ん?」
「もっと遠くする?」
「……する」
負けたくなかった。
五歳児相手に。
中身三十八歳の俺が。
何を張り合っているんだ。
そう思う。
でも。
嫌だった。
まだ。
追いつかれたくなかった。
◇
三十分後。
「はぁ……」
先に疲れたのは俺だった。
「伊織君、もう終わり?」
「ちょっと休憩」
「そっか」
玲はまだ元気そうだ。
スタミナもあるのか。
「玲ちゃん元気だね」
詩織が言った。
「玲ちゃん?」
「だって玲君、女の子みたいにかわいいから」
「僕、男だよ」
「知ってるよ」
詩織は当然のように答える。
「でも玲ちゃんの方がかわいい」
「……そう?」
「うん」
玲はあまり気にしていないらしい。
「伊織君もそう思うでしょ?」
「まあ……」
実際。
玲はかなり整った顔をしている。
俺より明らかにかわいい。
なんとなく人物情報を開く。
【水城 玲】
年齢:5歳
関係:友人
【人物傾向】
運動適性:非常に高い
学習適性:高い
社交適性:高い
容姿適性:非常に高い
???:未解放
「……おい」
「伊織君?」
「なんでもない」
容姿まで非常に高い。
運動。
頭。
人付き合い。
顔。
「ずるくない?」
「なにが?」
「何でもないって」
才能だけじゃなく。
顔までいい。
しかも性格まで素直。
神様。
配分間違えてないか?
◇
「ねえ、伊織君」
休憩していると玲が隣へ座った。
「なに?」
「伊織君、野球ずっとやる?」
「……たぶん」
「プロになる?」
「え?」
「お父さんが言ってた」
玲が俺のグローブを見る。
「野球すごく上手い人は、プロになるんだって」
「ああ」
「伊織君、なる?」
五歳児からの質問。
でも。
俺にとっては。
前世からずっと引きずっていたものだった。
プロ野球選手。
子供の頃。
夢見たことがある。
高校へ上がる頃には。
自分には無理だと分かっていた。
でも今回は。
システムがある。
努力が必ず残る。
「なるよ」
口から自然に出た。
「俺、プロ野球選手になる」
玲が目を輝かせる。
「ほんと?」
「うん」
「じゃあ僕もなる」
「……え?」
「僕もプロになる」
あまりにも軽く。
玲は言った。
「なんで?」
「伊織君がなるから」
「理由それだけ?」
「うん」
玲が笑う。
「伊織君と、ずっと野球したい」
「……」
なんだそれ。
五歳児の言葉だ。
深い意味なんてない。
それなのに。
少しだけ。
胸が熱くなった。
「じゃあ、負けないから」
「僕も」
玲が手を出す。
「なに?」
「約束」
「何の?」
「二人でプロになる」
「……」
馬鹿みたいな約束。
でも。
嫌いじゃない。
俺は玲の小さな手を握った。
「約束な」
「うん!」
【水城玲との特別イベントが発生しました】
【水城玲の好感度がかなり上がった】
「……特別イベント?」
「伊織君?」
「いや」
新しい表示が出る。
【イベント:二人の約束】
水城玲と「共にプロ野球選手になる」という約束をしました。
【特殊条件が解放されました】
「特殊条件?」
詳細を見ようとする。
だが。
【現在は確認できません】
「またそれかよ」
「何が?」
「なんでもない」
気になる。
気になるけど。
今は分からない。
なら仕方ない。
ただ。
これでまた一つ。
俺の二度目の人生に。
目標が増えた。
◇
「ところで伊織君」
詩織が俺の前に立つ。
「ん?」
「野球終わった?」
「あ」
忘れてた。
「今日は約束守るんだよね?」
「……もちろん」
「じゃあ遊ぼ」
「うん」
玲を見る。
「玲も来る?」
「いいの?」
「もちろん」
「行く!」
三人で砂場へ向かう。
その途中。
公園の入口から声が聞こえた。
「すみませーん!」
振り返る。
ユニフォーム姿の小学生たちが何人か歩いている。
胸には同じチーム名。
その後ろを、帽子を被った大人が歩いていた。
「今日、グラウンド空いてるかな」
「午後から練習ですよね?」
「ああ。新入部員も見に来るらしいぞ」
少年野球。
俺は足を止めた。
玲も同じ方向を見ていた。
「伊織君」
「ん?」
「あれ何?」
「野球チーム」
「チーム?」
「みんなで野球するんだよ」
玲の目が輝いた。
「入りたい」
「……早いな」
「伊織君は?」
「俺?」
少年野球チーム。
前世では小学四年から始めた。
でも今回は五歳。
まだ幼稚園児だ。
入れるのかどうかも分からない。
それでも。
ユニフォーム姿の子供たちを見ると。
胸が高鳴る。
「……見に行ってみるか」
「うん!」
「伊織君」
詩織の声。
振り向く。
笑っていない。
「今日は?」
「……砂場です」
「よろしい」
危ない。
また同じ失敗をするところだった。
少年野球は逃げない。
今日は。
ちゃんと約束を守る。
そう思っていた俺は。
数日後。
水城玲と一緒に。
初めて少年野球のグラウンドへ足を踏み入れることになる。
そして。
そこで初めて。
今の俺が。
この年代の野球選手の中で。
どの程度の位置にいるのかを知ることになった。