体育祭の翌日。
「伊織君、今日一緒に帰れる?」
昼休み、詩織にそう聞かれて、俺は頭の中で予定を確認した。昨日は体育祭でかなり走ったから、今日はシニアも休み。自主練も疲労を考えて軽めにしてある。
「大丈夫。今日は空いてる」
「本当?」
「うん」
「……そっか」
「何?」
「何でもない」
詩織が少しだけ笑った。
放課後、久しぶりに2人で歩く。
「昨日すごかったね」
「リレー?」
「うん」
「玲に勝った」
「それ、昨日から何回言ってるの?」
「3回くらい?」
「もっと。玲君にも言ってたでしょ」
「あいつ悔しそうだったから」
「伊織君も負けてたら絶対悔しがってたよ」
「当たり前だろ」
詩織が笑う。
「でも、楽しそうで良かった」
「楽しかったよ」
「野球じゃなくても?」
「うん」
体育祭。勉強。ピアノ。友達。
野球以外にも、伸ばせるものがある。昨日、人生能力の運動は初めてSになった。
「全部楽しいよ」
「……全部?」
「全部」
「そっか」
詩織は、それ以上何も言わなかった。
◇
数日後。
再び、夏の全国大会につながる予選の日が来た。
「今日勝てばベスト8だ。相手は去年も上まで来ているチームだ。油断するな」
「はい!」
監督の言葉に全員で返事をする。
俺は今日もベンチ。玲も同じだった。
「伊織君、あれ」
「何?」
玲が相手ベンチを指す。
「あの投げてる子、1年じゃない?」
見ると、細身の右投手が上級生に混ざってキャッチボールをしていた。俺たちと体格はそこまで変わらない。それなのに、投げる球だけは明らかに強い。
「……速いな」
「うん」
「知ってる?」
「知らない」
全国大会に出ていたからといって、全国の選手をすべて知っているわけじゃない。
中学に上がれば、まだ知らない選手はいくらでもいる。
◇
試合は序盤から投手戦になった。
1回、0対0。
2回も、0対0。
3回に榊原さんのタイムリーで、こちらがようやく1点を先制する。
そして4回表、相手ベンチが動いた。
「ピッチャー交代」
さっきキャッチボールをしていた1年生が、マウンドへ向かう。
「来た」
玲が身を乗り出した。
「好きだなお前も」
「速いから」
「それだけ?」
「投げ方もいい」
アナウンスが流れる。
「ピッチャー、真田君」
「真田……」
覚えておこう。
◇
真田蒼士。
最初の打者は、こちらの3年生だった。
初球。
ズバンッ!
「ストライク!」
球速表示は129km/h。
ベンチが少しざわつく。
「1年だよな?」
「多分」
2球目は130km/h。ファウル。
3球目は外へ鋭く曲がる球だった。
「ストライク! バッターアウト!」
「スライダー」
玲がすぐに言った。
「結構曲がるな」
「うん」
続く2年生にも129km/h、131km/hと強いストレートを投げ込み、最後はスライダーで空振り三振。
「2者連続か」
俺が呟くと、隣の玲は完全に楽しそうな顔をしていた。
「投げたい?」
「投げたい」
「だろうな」
1年生で130km/hを超える。
スライダーもある。
制球も悪くない。
しかも、上級生から普通に三振を取っている。
十分すぎるほどの怪物だった。
3人目は橘さん。
真田の130km/hをファウルにし、スライダーも見極める。最後は低めのスライダーを二遊間へ運んだ。
「抜けた!」
ヒット。
「やっぱ橘さんすげえな」
「うん」
玲はマウンドを見たまま答えた。
真田も悔しそうに橘さんを見ている。
それでも、その目には自信があった。
2年生の全国クラスに打たれた。
悔しい。
けれど、理解はできる。
そんな顔だった。
◇
「成瀬」
「はい!」
5回、監督に呼ばれた。
「次、代打」
「はい!」
相手投手は、そのまま真田。
「1年対決だな」
榊原さんが笑う。
「負けません」
「そういう顔してる」
打席へ向かう。
マウンドの真田も、俺を見ていた。
今度は明らかに、俺のことを知っている目だった。
小学生全国大会2連覇。
成瀬伊織。
水城玲。
名前くらいは知っているのだろう。
「プレイ!」
初球は131km/h。外角いっぱい。
「ストライク!」
「……いい球」
玲とは違う。
玲のストレートは、分かっていても差し込まれるほど球そのものが強い。
真田は、もっと投手らしい。
ちゃんと俺が打ちにくい場所へ投げてくる。
2球目。外へ逃げるスライダー。
見送る。
「ボール!」
ワンボール、ワンストライク。
3球目は内角へ130km/h。
振る。
カキンッ!
「ファウル!」
詰まった。
ワンボール、ツーストライク。
「なるほど」
外の速球。
外のスライダー。
そこから内角。
配球もちゃんとしている。
いい投手だ。
だから面白い。
4球目のスライダーは見送ってボール。
ツーボール、ツーストライク。
5球目。
高めのストレート。
「っ!」
振る。
カンッ!
ファウル。
「132!」
相手ベンチが沸いた。
どうやら真田の自己最速らしい。
マウンドの真田も、少しだけ笑っていた。
「面白い」
同い年で132km/h。
やっぱり、こいつは強い。
6球目。
低めへ落ちるスライダー。
見送る。
「ボール!」
フルカウント。
真田が俺を見る。
次は何を投げる。
ストレートか。
スライダーか。
さっき自己最速の132km/hをファウルにした。
それでも真田の表情を見る限り、あの球に自信がある。
「……もう1回来る」
そう思った。
7球目。
真田が腕を振る。
ストレート。
132km/h。
真ん中より少し外。
「そこ!」
踏み込んで、振り抜く。
カキィィィン!
完璧だった。
打球が高く上がり、そのままライト方向へ伸びていく。外野手が下がり、フェンス際で見上げた。
「入った!」
「ホームラン!」
「よし!」
拳を握って走り出す。
1塁を回る。
2塁。
3塁。
その間も、真田はマウンドから俺を見ていた。
ただ132km/hを力で弾き返したわけじゃない。
ストレートを見た。
スライダーを見た。
配球を考えた。
最後に来る球を読んで、仕留めた。
「ナイスバッティング!」
「ありがとうございます!」
ホームへ戻り、ベンチへ向かう。
最初に近づいてきたのは玲だった。
「伊織君」
「何?」
「いいな」
「何が?」
「ホームラン」
「お前も打てば?」
「今日は投げる」
「じゃあ抑えろ」
「うん」
玲はホームランそのものより、俺が真田と先に勝負したことの方が少し悔しそうだった。
◇
真田は、ベンチへ戻る俺を見ながら唇を噛んだ。
さっきまで自分は、上級生から普通に三振を取っていた。
132km/h。
鋭いスライダー。
1年生なら、十分すぎるほど異常な球だ。
それなのに。
同じ1年生に、その日の最高球速をスタンドまで運ばれた。
「成瀬伊織……」
真田が名前を確かめるように呟く。
投手でもある。
ショートでもある。
全国大会ではホームランも打っている。
足も速い。
何が一番得意なのか、外から見ても分からない。
ただ1つ。
何をやらせても、結果を出す。
真田にとって、成瀬伊織の異常さは1つの数字では説明できなかった。
◇
「どうだった?」
玲が聞く。
「いい投手」
「でも打った」
「打ったな」
「ホームラン」
「見てただろ」
「僕も投げたい」
「結局それかよ」
「132出てた」
「見てた」
「僕の方が速い」
「張り合うなって」
そう言うと、玲は少し考えてからマウンドを見た。
「でも、いい球だった」
「そこは認めるんだ」
「うん」
真田蒼士。
同じ1年。
この時点で132km/h。
スライダーも、制球もいい。
玲がいなければ。
いや、俺たちがいなければ。
十分、世代を代表する怪物と呼ばれる投手だった。
◇
6回まで3対1。
俺のホームランで、リードは2点に広がっていた。
そして6回裏。
「水城」
「はい!」
「行け」
「はい!」
監督に呼ばれた玲が、嬉しさを隠しきれないまま立ち上がる。
「真田に見せつけるなよ」
「何を?」
「球速」
「普通に投げる」
「それが見せつけになるんだよ」
玲は首を傾げながらマウンドへ向かった。
俺はショートへ。
相手ベンチでは、真田が一番前まで出て玲を見ていた。
初球。
玲が腕を振る。
バァンッ!
「ストライク!」
134km/h。
真田の目がわずかに開く。
2球目。
バァンッ!
「ファウル!」
135km/h。
「……135」
真田が呟いた。
自分が今日、全力で初めて出した132km/h。
それより3km/h速い。
しかも玲にとって135km/hは、特別な1球じゃない。
いつも投げている球だった。
3球目。
チェンジアップ。
ブンッ!
「ストライク! バッターアウト!」
三球三振。
それでも玲は、少し首を傾げた。
「今のチェンジアップ、ちょっと高い」
135km/hを投げて。
三球で打者を仕留めて。
気にしているのは、チェンジアップの高さだった。
相手ベンチの真田が、呆然と玲を見る。
◇
2人目。
玲の初球は高く外れた。
「ボール!」
「玲! 力むな!」
「分かってる!」
俺が声を掛けると、玲はすぐに球速を落とした。
2球目、131km/hを外角へ。
「ストライク!」
3球目は130km/hを低めへ投げる。
打者が引っかけた。
「ショート!」
「来い!」
前へ出て捕球。そのまま1塁へ送る。
「アウト!」
「ナイス、伊織君!」
「おう!」
マウンドとショートで、いつものように声を掛け合う。
真田は、その光景を黙って見ていた。
さっき自分の132km/hをホームランにした男が、今度は135km/hを投げる男の後ろで普通にショートを守っている。
「……なんなんだよ」
小さな声が漏れた。
3人目はフルカウントまで粘った。
玲が力を入れようとしたところで、榊原さんが外低めへミットを構える。
「水城。三振だけ考えるな。ここ」
「……はい」
玲が頷く。
132km/h。
外角低め。
バァンッ!
「ストライク! バッターアウト!」
結局、三振だった。
「よし!」
玲が拳を握る。
「最後良かったな」
「うん」
「135より?」
「今の方がいい」
「へえ」
「狙ったところに行ったから」
その会話も、真田には聞こえていた。
135km/hより、132km/hの外低め。
球速ではなく、狙った場所に投げられたことを喜んでいる。
自分がようやく132km/hへ届いた日に。
目の前のこいつは、もうその先を見ていた。
◇
真田の視線が、玲から俺へ動く。
そしてまた玲へ戻る。
成瀬伊織。
打つ。走る。守る。投げる。
1つだけなら、自分より上の選手はいるかもしれない。
けれど、対戦すれば相手を見て、考えて、最後には答えを出してくる。
できることが多すぎる怪物。
水城玲。
こいつは逆だった。
分かりやすい。
投手。
その代わり、その1つが異常なほど尖っている。
速い。
強い。
空振りを取る。
自分が怪物と呼ばれる最大の理由――球速という武器を、真正面から上回ってくる怪物。
真田蒼士自身も。
普通の中学生から見れば、十分すぎるほど怪物だった。
だからこそ分かる。
「……なんだよ、こいつら」
違う種類の怪物が。
同じ学年に。
2人もいる。
◇
7回にこちらがさらに1点を追加。
4対1。
最後は3年生エースが締めた。
「ゲームセット!」
勝利。
ベスト8進出。
試合後、道具を片付けていると声を掛けられた。
「水城」
振り返ると真田が立っていた。
「何?」
「最速、135?」
「うん」
「毎回?」
「最近は」
「……」
「君は132?」
「今日初めて出た」
「速かった」
「お前に言われても嬉しくねえ」
「?」
玲は本気で分かっていない。
真田が少し苛立った。
「次は打つ」
「僕から?」
「そうだよ」
「いいよ。抑える」
「……絶対打つ」
「じゃあ抑える」
「ムカつくな、お前」
「何で?」
「その顔で聞くな!」
真田が今度は俺を見る。
「成瀬」
「何?」
「次は絶対抑える」
「じゃあまたホームラン打つ」
「次はストレートだけじゃねえぞ」
「スライダーも打つ」
「……」
「次までに練習する」
「お前もムカつく!」
「何でだよ」
「何で2人もいるんだよ!」
俺と玲が顔を見合わせる。
「何が?」
「こういうのは1人でいいだろ!」
「だから何が?」
真田が俺を指差した。
「お前は何でもできる!」
次に玲を指す。
「お前は球が速すぎる!」
「うん」
「肯定すんな!」
「本当だから」
「玲、今は黙っとけ」
「分かった」
真田が拳を握る。
「俺だって132投げるんだぞ」
「すごいと思う」
玲が答える。
今度はからかっている様子もない。
「本当に」
「……」
「だから、また投げ合いたい」
真田が一瞬黙った。
「次は負けねえ」
「うん」
「成瀬も」
「おう」
「絶対抑える」
「じゃあ俺は打つ」
「そこは黙ってろ!」
「何でだよ」
真田は怒ったまま、自分たちのベンチへ戻っていった。
「玲」
「何?」
「友達できたな」
「友達?」
「……多分違うか」
「ライバル?」
「お前が言う?」
「僕、伊織君のライバルだから」
「いつから?」
「ずっと」
「そうだったの?」
「そうだよ」
「じゃあ真田は?」
「投手のライバル」
「俺は?」
「全部」
「欲張りだな」
「伊織君に言われたくない」
「それもそうか」
◇
帰りのバス。
前の席に座っていた榊原さんが振り返った。
「水城」
「はい」
「今日の最後の球、良かった」
「ありがとうございます」
「135じゃないぞ」
「分かってます」
「132の外低め」
「はい」
「それが分かってるならいい」
玲が少し嬉しそうに頷く。
「成瀬」
「はい」
「ホームランも良かった」
「ありがとうございます」
「最後、ストレート読んでたか?」
「来ると思ってました」
「何で?」
「その前の132をファウルにして、フルカウントだったので。真田なら、もう1回真っすぐで勝負したいかなって」
「なるほどな」
榊原さんが笑う。
「お前ら、やっぱり全然違うな」
「俺と玲ですか?」
「ああ」
榊原さんは玲を見る。
「水城は、自分の一番強いものをどこまで尖らせられるか」
次に俺を見る。
「成瀬は、持ってるもの全部を使って答えを出す」
「……」
「どっちが上とかじゃない。違うから面白い」
俺と玲は顔を見合わせた。
「でも、成瀬」
「はい」
「何でもできるからって、何でも自分でやろうとするな」
「……」
「野球は9人でやる」
その言葉だけは、少し頭に残った。
けれど。
今の俺には。
まだ、その本当の意味までは分からなかった。
◇
その夜。
システムを開く。
【強敵との対戦で本塁打を記録しました】
【ミート経験を獲得しました】
【パワー経験を獲得しました】
【選球経験を獲得しました】
「強敵」
真田蒼士。
同い年。
132km/h。
鋭いスライダー。
十分すぎるほどの怪物。
中学野球には、まだ知らない選手がたくさんいる。
「面白くなってきた」
全国。
上級生。
同級生。
全部、倒したい。
そして。
全部、育てたい。
予定表へ、次の予選の日を書き込む。
その隣には勉強、自主練、詩織、ピアノ。
空いている時間は、ほとんど残っていない。
それでも、まだ入ると思っていた。
入れられると思っていた。
玲は。
1つのものを、どこまでも尖らせていく。
なら俺は。
全部を、どこまでも伸ばせばいい。
それが俺の怪物としての形なのだと。
この時は、疑っていなかった。