中間テストが終わってから、数日。
放課後になると、予報通り雨が降り始めた。
窓に細かい雨粒が叩きつけられるくらい、かなり強い。
「伊織君、傘持ってきた?」
「持ってきたよ。降水確率70%だったし」
俺が答えると、詩織は呆れたように笑った。
「そういうところだけは抜け目ないよね」
「詩織は?」
「ちゃんと持ってきたよ」
「じゃあ問題ないね」
「うん。でも、もうちょっと弱くなるまで待とうかな」
教室には、まだ何人か残っていた。
俺もこの雨なら、少し待ってから帰ってもいい。
帰宅後の自主練開始が多少遅れるだけだ。
「伊織君は?」
「俺も少し待つ」
「珍しい」
「この雨で走って帰ったら靴濡れるし」
「理由が現実的」
「普通でしょ」
詩織が笑った。
◇
しばらくすると、詩織が窓の外を見ながら言った。
「音楽室行こうかな」
「何で?」
「今度、音楽の授業で伴奏やることになってるから。少し練習したくて」
「ピアノ?」
「うん」
「俺も行っていい?」
詩織が少し驚いた顔をする。
「いいけど、伊織君も弾く?」
「弾きたい」
「練習は?」
「雨が弱くなるまで」
「また時間計算してる」
「してないよ」
「絶対してる」
図星だった。
◇
放課後の音楽室は静かだった。
雨音だけが窓越しに聞こえる。
詩織がピアノの前に座り、楽譜を開く。
「じゃあ最初、私やるね」
「うん」
指が鍵盤の上を動く。
去年、少しだけ教えてもらった時より。
やっぱり上手い。
音が繋がっている。
俺が弾く時みたいに、「次はここ」と考えながら音を出している感じがない。
曲になっている。
数分弾いてから、詩織が手を止めた。
「ここ、ちょっと苦手なんだよね」
「どこ?」
「この辺」
楽譜を指差す。
「右手と左手が少しずれるところ」
「もう1回弾いて」
「見るの?」
「うん」
「分析されそう」
「教えてもらうだけだよ」
詩織がもう一度弾く。
俺は手元を見る。
テンポ。
指の動き。
左手の入り。
何回か見れば。
何となく分かる。
「ここ?」
「そう」
「左手が入る前に、右手少し待ってる?」
「……よく分かったね」
「見てたから」
「野球じゃなくてもそうなんだ」
「何が?」
「よく見るところ」
「普通じゃない?」
「伊織君の普通は信用してない」
「ひどい」
詩織が笑った。
◇
「伊織君も弾いてみる?」
「いいの?」
「もちろん」
場所を替わる。
去年から、時々ピアノには触っている。
芸術の能力も上がった。
簡単な曲なら、楽譜を見ながら弾ける。
「これなら弾ける?」
詩織が別の楽譜を開く。
「多分」
「じゃあ最初から」
鍵盤に指を置く。
楽譜を見る。
右手。
左手。
テンポ。
間違えないように。
正確に。
弾く。
最後まで。
止まらなかった。
「どう?」
振り返る。
詩織は少し考えていた。
「上手くなったね」
「ほんと?」
「うん。音も間違ってないし、テンポも合ってる」
「じゃあ成功?」
「でも」
「でも?」
詩織が俺の横に立つ。
「ちょっとだけ、硬いかも」
「硬い?」
「うん。間違えないように弾いてる感じ」
「間違えない方がいいでしょ」
「もちろん。でも、ピアノって正解だけじゃないから」
「……」
分からない。
音が合っている。
テンポも合っている。
なら。
何が違うんだろう。
詩織は、そんな俺の顔を見て笑った。
「やっぱり分かってない顔してる」
「説明して」
「そうだなあ……」
少し考えてから。
「誰かと一緒に演奏したら分かるかも」
「一緒に?」
「うん」
◇
その時。
音楽室の扉が開いた。
「あら、藤崎さん。まだいたの?」
入ってきたのは音楽の先生だった。
「伴奏の練習を少し」
「偉いわね。……成瀬君も?」
「弾いてました」
「成瀬君、ピアノ弾けたの?」
「少しだけです」
先生が興味を持ったのか、ピアノの上の楽譜を見る。
「これ弾いたの?」
「はい」
「ちょっと聴いてもいい?」
「いいですけど」
「伊織君、もう1回」
「分かった」
さっきと同じ曲を弾く。
最後まで弾き終えると、先生は少し驚いた顔をした。
「思ってたより弾けるのね」
「ありがとうございます」
「これなら簡単な合唱曲の伴奏くらいなら、練習すれば出来そう」
「伴奏?」
「うん。成瀬君、テンポが安定してるから」
詩織が横で頷く。
「伊織君、そういうの得意です」
「でも」
詩織が少し笑う。
「まだ人に合わせるのは苦手かも」
「何それ」
先生も笑った。
「じゃあ、ちょうどいいじゃない。藤崎さん、歌ってみたら?」
「私が?」
「成瀬君に伴奏してもらって」
詩織が俺を見る。
「やってみる?」
「いいよ」
◇
楽譜を変える。
曲は、音楽の授業でも聞いたことがある合唱曲だった。
難しくはない。
少し確認すれば弾けそうだ。
「最初ゆっくりでいいよ」
「分かった」
詩織がピアノの横に立つ。
先生は少し離れたところで聞いている。
俺が鍵盤に指を置く。
「いくよ」
「うん」
弾き始める。
イントロ。
そして。
詩織が歌う。
最初の数小節。
俺は楽譜だけを見ていた。
音を外さない。
テンポを崩さない。
正確に。
でも。
「ちょっと待って」
詩織が歌うのを止めた。
「間違えた?」
「違う。伊織君がちょっと速い」
「テンポは楽譜通りだよ」
「うん。数字はね」
「数字は?」
詩織が笑う。
「私が息を吸うところとか、少し伸ばしたいところとかあるでしょ?」
「……」
「伴奏って、自分だけで完成させるものじゃないんだよ」
先生も頷いていた。
「歌う人を聞いてあげないとね」
自分だけで。
完成させない。
その言葉が、妙に残った。
◇
もう一度。
最初から弾く。
今度は。
楽譜だけを見ない。
詩織の声を聞く。
息を吸う音。
少し伸ばすところ。
声が大きくなるところ。
小さくなるところ。
それに。
合わせる。
最初は難しかった。
こっちが合わせようとすると、テンポが崩れそうになる。
でも。
何度か続けていると。
少しずつ。
分かってきた。
俺が進むんじゃない。
詩織を連れていくわけでもない。
一緒に進む。
最後の音を弾く。
詩織の声が止まる。
音楽室に。
雨音だけが戻った。
「……今の」
詩織が俺を見る。
「良かった」
「さっきより?」
「全然」
先生も頷く。
「うん。今の方が伴奏になってた」
「伴奏に?」
「最初は、成瀬君が1人でピアノを弾いて、その横で藤崎さんが歌ってる感じだった」
「今は?」
「2人で同じ曲をやってた」
「……なるほど」
何となく。
分かった気がした。
正しく弾くだけじゃない。
相手を見る。
聞く。
合わせる。
野球なら。
高瀬のサイン。
守備位置。
走者。
打者。
全部見るのに。
音楽になると。
俺は楽譜だけ見ていた。
◇
「もう1回やる?」
詩織が聞く。
「やる」
「即答だね」
「今の感覚、もう少し覚えたい」
「やっぱり練習になると伊織君だ」
「悪い?」
「ううん」
詩織が笑う。
「そういうところ、嫌いじゃないよ」
「そう?」
「うん」
また弾く。
今度は。
最初から詩織を見る。
いや。
見すぎると楽譜を間違える。
「伊織君」
「何?」
「こっち見すぎ」
「合わせようと思って」
「聞けばいいの」
「難しいな」
「野球より?」
「種類が違う」
「じゃあ頑張って」
「うん」
何度か。
同じ曲を繰り返した。
雨が弱くなっていることに気づいたのは。
かなり後だった。
◇
「そろそろ帰ろうか」
詩織が窓を見る。
「雨、弱くなったね」
「うん」
時計を見る。
予定していた時間より。
かなり遅い。
「……」
自主練。
まだ出来る。
でも。
今日は少し減らすことになる。
「大丈夫?」
詩織が聞く。
「何が?」
「練習」
「帰ってからやるよ」
「全部?」
「……全部は無理かも」
「珍しい」
「でも」
ピアノを見る。
「今日はこれも練習だったから」
詩織が少し驚いて。
それから笑った。
「そっか」
「うん」
ピアノ。
合わせる。
人の音を聞く。
こういうのも。
出来るようになりたい。
そう思った。
◇
帰り道。
傘を差して、詩織と並んで歩く。
「伊織君、ピアノもっとやる?」
「やる」
「即答」
「出来ること増えるし」
「あー、やっぱりそこなんだ」
「でも」
「でも?」
「楽しかったよ」
自分でも。
自然に出た。
詩織が少し黙る。
「……そっか」
「何?」
「何でもない」
「またそれ」
「いいの」
詩織は前を向いたまま。
少しだけ。
笑っていた。
◇
帰宅して。
自主練を終える。
いつもより少し短い。
そのあと。
今日のことを思い出していた。
詩織の声。
ピアノ。
相手に合わせるということ。
すると。
視界に文字が浮かぶ。
【藤崎詩織との特別イベント進行中】
【芸術経験を獲得しました】
【協調行動に関する経験を獲得しました】
【詳細条件は未解放です】
「協調行動……」
何となく。
今日の意味が分かる気がした。
相手を見る。
相手の音を聞く。
自分だけで完成させない。
それは。
音楽だけの話じゃないのかもしれない。
詳細条件を開こうとする。
【未解放】
「やっぱり駄目か」
閉じる。
いつもなら。
どうすれば次へ進むのか。
条件を探したはずだった。
でも今日は。
それより先に。
詩織と合わせた最後の曲が。
頭の中に残っていた。
「……楽しかったな」
その言葉を口にしてから。
俺は少しだけ。
自分で驚いた。