全国大会まで、あと10日ほど。
予選決勝の翌日から、俺の打撃練習には新しい項目が増えていた。
外角球を、逆方向へ強く打つ。
言葉にすると簡単だ。
実際にやってみると、全然簡単じゃなかった。
◇
ティー台から上げられたボールを打つ。
カンッ、と乾いた音がして、打球は右方向へ飛んでいった。
でも、弱い。
「また詰まった」
俺が首を傾げると、後ろで見ていた橘さんが笑った。
「成瀬、右に打とうとしすぎ」
「でも右に打つ練習ですよね?」
「そうだけど、右に当てる練習じゃない」
「……違いが分かりそうで分からないです」
「普通に振れ」
「普通に?」
「外の球に対して、普通に強く振る。その結果が右方向ならいい」
予選決勝の最後。
橘さんは外角球を左中間へ運んだ。
俺が同じことをやろうとすると、どうしても「逆方向へ打つ」という意識が先に出る。バットの出が遅くなり、当てるだけのスイングになってしまう。
「もう1球お願いします」
「はいはい」
橘さんが次のボールを上げる。
外角。
右へ――。
いや。
違う。
方向じゃない。
強く振る。
カァンッ!
今度は低いライナーが右中間方向へ飛んでいった。
「それ」
「今の?」
「今の。右へ打とうとしたんじゃなく、ちゃんと振れてた」
「なるほど……」
感覚を忘れないうちに、もう一度構える。
橘さんが次のボールを手に取った。
「成瀬って、本当にすぐやるよな」
「何がですか?」
「試合終わった次の日からこれだろ」
「だって出来るようになりたいので」
「知ってる」
「じゃあ何で言ったんですか?」
「改めて思っただけ」
「橘さんも変な人ですよね」
「お前にだけは言われたくない」
◇
少し離れた場所では、黒田がフリーバッティングをしていた。
強く引っ張った打球がレフトへ伸びる。
フェンス直撃。
「うおおお! 入れよ!」
「あとちょっと!」
三上が大げさに叫ぶ。
黒田は打席からこっちを見ると、バットで俺を指した。
「成瀬! 右打ちとかやってる間にホームラン数で抜くぞ!」
「何本差?」
「……知らん」
「じゃあ抜くも何もなくない?」
「うるせえ! 今日から勝負だ!」
三上が腹を抱えて笑う。
「黒田、成瀬は投手やる分打席減るし、ちょうどいいんじゃね?」
「それだ!」
「勝手にハンデつけないでよ」
「じゃあ受けるのか?」
「いいよ」
「受けるんかい」
高瀬が呆れた声を出した。
でも。
ホームラン。
それも増やしたい。
最近は、はっきりそう思う。
ヒットを打てるだけじゃなくて、1振りで点を取れる打者になりたい。
橘さんのサヨナラ打を見てから、その気持ちは以前より強くなっていた。
◇
打撃練習のあと、ブルペンへ向かった。
俺が投げるためじゃない。
玲が高瀬を座らせて投げていた。
セット。
バァンッ!
「140」
計測器を見ていたコーチが数字を読み上げる。
玲が次のボールを受け取る。
バァンッ!
「141」
もう1球。
「141」
「……普通に出るようになってる」
思わず呟いた。
予選決勝では、7回になって初めて出た数字だった。
それが今は、ブルペンの序盤から何度も出ている。
高瀬が返球しながら玲へ声を掛けた。
「玲、少し抑えろ。全国前に飛ばしすぎるなよ」
「抑えてる」
「これで?」
「うん」
「腹立つな」
玲が本気で分からないように首を傾げる。
「何で?」
「その顔で聞くな」
俺はブルペンの横から玲のフォームを見る。
少し変わった。
本当に少しだけ。
予選決勝以前より、身体から余計な力が抜けている。
力んで速く投げているんじゃない。
普通に投げた結果が速い。
決勝の終盤で何かを掴んだ。
多分、玲自身もまだ完全には言葉に出来ていない。
「伊織君」
玲がこっちを向いた。
「何?」
「見てた?」
「見てたよ」
「141」
「知ってる」
「今日はもう3球」
「数えてるんだ」
「うん」
「嬉しそうだね」
「伊織君は?」
「何が?」
「最近、右にばっかり打ってる」
「見てたの?」
「見てた」
玲が少しだけ笑った。
「俺も増やすよ」
「球速?」
「出来ること」
玲は迷わず頷いた。
「僕も」
それが、妙に玲らしかった。
◇
その後、自分の投球練習もする。
130km/hのストレート。
チェンジアップ。
カーブ。
高瀬が玲の投球を受けた直後だから、少し感覚がおかしくなっているらしい。
「成瀬」
「何?」
「お前の真っすぐ、遅く感じる」
「ひどくない?」
「水城のあとだから仕方ない」
「じゃあチェンジアップいくよ」
「待て」
投げる。
バシッ。
「……もっと遅い」
「77くらい?」
「多分な。今のは分かってても気持ち悪い」
「褒めてる?」
「一応」
次はカーブ。
まだレベル1。
変化量は大きくない。
でも、109km/h前後まで速度を落とせる。
130。
109。
77。
玲とは真逆だ。
あいつは速い球の中で軌道を変える。
俺は速度そのものを変える。
玲を見ていると球速を上げたくなる。
それでも、同じ投手になる必要はない。
「高瀬、もう1球」
「何投げる?」
「同じフォームで全部」
「それが一番嫌なんだよ」
少し嬉しい。
◇
練習を終える頃には、かなり遅くなっていた。
今日は帰宅後にもう少し素振りをする予定だ。
それから映像。
逆方向へ長打を打つ右打者のスイングも見たい。
頭の中で予定を組み直しながら駅へ向かうと、改札前に見慣れた姿があった。
「伊織君」
「詩織?」
詩織が小さく手を振る。
「今日、遅かったね」
「練習」
「それは知ってる。全国決まったんでしょ?」
「うん。言ってなかった?」
「メッセージでは聞いたよ。でも、直接おめでとうって言ってなかったから」
「ああ。ありがとう」
詩織は少し笑ってから、俺の顔を見た。
「嬉しそう」
「そう?」
「うん。全国行けることもだけど……また新しいこと見つけた時の顔してる」
「分かるの?」
「長い付き合いだから」
少しだけ照れくさい。
「今、右に打つ練習してる」
「右?」
「野球の話」
「それは分かるよ」
「外の球を逆方向へ強く打つ練習」
「……うん。ごめん、そこから先はあんまり分からない」
「説明する?」
「30分くらい掛かりそうだからいい」
「そんな掛からないよ」
「本当?」
「……15分くらい」
「長いよ」
詩織が笑った。
◇
駅から家までは同じ方向だ。
いつもなら、帰宅してすぐ自主練を始める時間だった。
でも今日は、そのまま詩織と歩く。
10分。
15分。
そのくらいなら後ろへずらせばいい。
「全国大会、いつ?」
詩織に聞かれて日程を伝える。
「その日なら行けるかも」
「ほんと?」
「うん。全部は無理だけど、1試合くらいは見たい」
「来てよ」
自分でも思ったより早く言葉が出た。
詩織が少しだけ目を丸くする。
「……いいの?」
「何で?」
「最近、見に来る人多いんでしょ?」
「別に関係ないじゃん」
「そうだけど」
「詩織が来るのと、知らない人が来るのは違うし」
言ってから。
何が違うんだろうと思った。
でも。
違う。
それだけは分かる。
「そっか」
詩織が前を向く。
口元が少しだけ笑っていた。
◇
「そういえば」
詩織が思い出したように言う。
「高校の人から、いっぱい声掛けられてるんだって?」
「何で知ってるの?」
「クラスで噂になってるよ」
「もう?」
「伊織君、自分で思ってるより有名だからね」
「玲の方が多いけど」
「そこまだ競ってるの?」
「玲が言ってくるから」
「伊織君も気にしてるじゃん」
「まあ」
「行きたい高校とか、もうあるの?」
「まだ。今は条件を整理してる」
「条件?」
「練習設備、指導方針、試合に出られる可能性、投手も出来るか、ショートで使ってもらえるか。寮、通学時間、進学実績も見たい」
「……」
「どうしたの?」
「伊織君らしいなと思って」
「大事でしょ」
「大事だけど」
詩織が少し考える。
「行きたいところは?」
「だから、それを決めるために条件を――」
「そうじゃなくて」
言葉を止める。
詩織は前を向いたまま続けた。
「ここに行きたいって思う高校」
「……」
帝陵。
蒼峰。
東央大附属。
桜明館。
それぞれに良いところがある。
資料を並べれば、比較は出来る。
でも。
行きたいところ。
「まだ分からない」
「そっか」
「詩織は?」
「私?」
「高校」
「まだちゃんとは決めてないよ。でも、近いところがいいかなとは思ってる」
「何で?」
「友達もいるし、家もあるし」
詩織が少しだけ間を空けた。
「……離れたくない人もいるし」
「へえ」
誰だろう。
そう思ったところで、詩織がこっちを見た。
「伊織君って、そういうところだよね」
「何が?」
「何でもない」
「何それ」
「教えない」
詩織が少し早足になる。
意味が分からない。
追いつくために、俺も歩く速度を上げた。
◇
家の前で詩織と別れる。
「全国、行けそうなら連絡するね」
「うん」
「頑張って」
「勝つよ」
「そこは『頑張る』じゃないんだ」
「勝ちたいから」
「うん。伊織君らしい」
「じゃあまた明日」
「また明日」
詩織が自分の家へ戻っていく。
俺も玄関を開ける。
予定より自主練の開始は30分以上遅れた。
でも。
嫌じゃなかった。
【藤崎詩織との特別イベント進行中】
【関係性に変化が発生しています】
【詳細条件は未解放です】
「……またこれか」
詳細は見えない。
何が条件なのかも分からない。
以前の俺なら、どうすれば数値を上げられるか、何が正解なのかを最初に考えたはずだった。
でも今日は。
「全国、来るのか」
そっちの方が先に頭へ浮かんだ。
◇
夕食を済ませたあと、庭でバットを振る。
外角。
逆方向。
橘さんの言葉を思い出す。
右へ当てるんじゃない。
普通に強く振る。
グラウンド全部を使う。
スイング。
もう一度。
もう一度。
何十回目かで、少しだけ身体の感覚が変わった。
外角球を想定しても、バットを合わせにいかない。
踏み込んで。
振り切る。
右中間へ低い打球が伸びていく軌道を頭の中に描く。
【逆方向への強打経験が蓄積しています】
【特殊能力《流し打ち》習得条件:進行】
「もう少し」
まだ取れない。
だから面白い。
玲は141km/hを、自分のものにし始めている。
俺も。
次の全国では。
今までと同じ俺でいるつもりはなかった。