アラタは次の週の土曜日に花夜子に呼び出された。彼女がもう一度伊都のマンションを検分したいと言うので、それに付き合うことになったのだ。伊都がどこにいったのか、その手がかりがあるかどうか探してみよう、と花夜子は提案してきた。アラタは他にできることもないのでそれに同意し、伊都のマンションの前までやってきた。時刻は午前九時を回ったところだった。
しばらく待つと花夜子がやってきた。アラタは花夜子と
二人は九〇三号室の前までいき、花夜子が合鍵を使って部屋の扉を開けた。アラタたちは内部に入りリビングへと進んだ。
するとそこには見知らぬ中年の男女が立っていた。
「どうも、はじめまして」
男がそう言った。男はすでに頭頂部の髪はなく、眼鏡をかけ、
「お座りください、尾形さん」
男の言葉遣いは丁寧だったが、その声には的に放つ矢のような鋭さが認められた。彼と隣の女はテーブルについた。以前紗良や伊都や花夜子とともに食事会をしたときに使ったテーブルだ。花夜子は何も言わずにアラタから離れてテーブルに進み、男たちの隣に椅子を動かして、そこに座った。
これはどうも花夜子の策らしかった。アラタは罠にはまったのだ。しかし男の声の調子には有無を言わせないところがあった。これはしたがうしかなさそうだなとアラタは判断し、男たちと差し向かいの位置に座った。
男が口を開いた。
「私たちは花夜子の父母です」
アラタはうなずいて了承の意を示した。相手はどうやらこちらのことを知っているらしいので、アラタは自分のことを説明するのを省いた。
男は続けた。「娘は結城伊都という女性と付き合っている」
事実の確認だった。アラタはそれにもうなずいて肯定をした。
男はアラタの顔を正面から見据えて言った。その目には対象を捕えて内部に留め、逃すまいとする、鋼鉄製の扉のような圧力があった。
「我々は何度か結城伊都さんに会いました。彼女はなかなかしっかりした人物でした。我々に敬意を払ってくれたし、話しぶりも良かった。何より花夜子のことをとても大事にしてくれているようすでしたから、私も家内も好感を抱きました。実を言えば私も家内も古い人間ですから、女性同士ということに違和感を覚えなかったわけではない。しかし何度も接する内に私どもは納得しました。結城伊都さんがそれだけ善良な人物であったから、というのがあります」
女の方はずっと黙っていたが、やはりアラタの顔を睨んでいた。男が言葉を続ける。
「ですので、我々は娘と結城伊都さんの交際に賛成し、応援しておりました。しかし一点だけ疑問があった。結城伊都さんの仕事です。娘の話によると彼女はだいぶ経済的に余裕のある生活をしているようでしたが、同時に平日に娘と出かけられるぐらいに時間の融通も利くらしい。一体どんな仕事をしているのかと私には不思議でした」
男は一度そこで言葉を切り、しばしの間をつくった。その場の空気がぐっと質量を帯びて、肩にのしかかってくるような気配をアラタは感じた。
男は再び口を開いた。
「ですが今回のことでようやくそれが判明したように思います。尾形さん。あなたたちのしている仕事は、法の下にあるものではありますが、血塗られている。それは世界の最果てに
正しかった。それにしてもずいぶんな言い様だな、とアラタは思った。おそらく花夜子かあるいはこの男が、これまでに判明したことから推測をし、調べ上げ、真実にたどり着いたのだろう。
アラタは認めた。「その通りです」
男はわずかな間、おのれの眼鏡のふちに指先を当てた。アラタを見据える視線は変わらずに強かった。
「我々はそれに反対です。娘が生涯を共にするパートナーとして選んだ相手がそのような職についているのは望ましくないことだ。何としてもそれを変えなければならない。私は今日は不退転の覚悟でここに参りました」
男は両の手を組んでテーブルの上に静かに置いた。くちびるを舌先で舐めてから彼は再度口を開いた。
「尾形さん。あなたは結城伊都さんの仕事の同僚であり、先輩に当たられる方であると
アラタは仕方なしにうなずき、相手の指摘を認めた。
「よろしい。そして、それはおそらく致命的な失態だった、と私は推測しております。何せそのためだけにあなたたちは雇われているわけですからね。その結果として結城伊都さんは尾形さんに師事している。ならば」
男はそこで区切ってから居住まいを正し、要求の言葉を口にした。
「尾形さん。あなたが法務省にしかるべき報告をすれば、結城伊都さんは解雇になるのではありませんか。我々が望んでいるのはそのことです。是非ともそれをしてほしいと私どもは願っている。結城伊都さんを私どもの元に引き渡してほしいのです」
アラタは
アラタはそう言いながら居心地の悪さを強く感じていた。この背の低く、体格も貧しい男には、本来は大した力はないはずだった。もしも彼がアラタに体当たりをかけてしがみついてきたとしても、彼女は簡単に振りほどけるに違いなかった。筋力においても胆力においても、アラタのような二十年以上も修羅の道を歩んできた人物とは比べるべくもないはずだ。
しかし男は底力とも言うべきものを全身から発していた。抑制されつつも自然と皮膚の表面から発される敵意である。両親と娘の三者が一体となってそのような力を練り上げて、アラタひとりにぶつけてきているのだ。
おそらく花夜子はひとり娘なのだろうな、とアラタは思った。両親は仲が良く、娘を
男は言った。男の両隣にいる女と花夜子が一言も発しないのがアラタには不気味な感じがした。
「いいえ。尾形さん、それは我々の望むところではないのです。我々は結城伊都さんに本当の家族になってほしいのです。誰に対しても素性の明らかな女性として、隠すところのない者として花夜子とともに暮らしてほしいのです。私どもや、あるいは花夜子の友人と堂々と顔を合わせることのできる人物として」
男はさらに語気を強めて続けた。
「こちらにはあなたの仕事を
男はテーブルの上で組んでいた手を離し、握り拳をつくった。アラタはそれを見て自分でも奇妙なほど強い
アラタは言った。「残念ですが、それはむずかしいでしょう。伊都には十分な素質がある。私は適切な報告を法務省に出すつもりです」
花夜子の父は大きな音を立てて席から立った。立ったままアラタのことを見下ろす。彼はしばらくそうやって立ち尽くしたあとに「失礼」と言って椅子に腰をかけた。
「それはなぜでしょうか。仕事の負担が増えるからですか? 失礼ながら、あなたたちの仕事の頻度をこちらで調べさせていただきました。刑の執行の情報は公表されているので、調べればすぐわかる。公表されないのは誰がそのような儀式に
男はそこで意図的に間をつくった。アラタにとってはただ三者からじっと睨まれるだけの時間ができる。
「するとわかったのは、失礼な物言いかもしれませんが、あなたたちはほとんど働かないということだ。それがたとえば、結城伊都さんがいなくなってあなたの仕事量が倍になったとしてもですよ。私には大した負担には思えませんな」
人を殺すことが大した負担でなければそうかもしれない、とアラタは思った。
アラタは言った。
「そこではありません。執行人の数はそもそも極めて少ないのです。何らかの事態に備えて、伊都がその地位についているのは良いことです。同僚として私は伊都のことを頼もしく思っております」
そこまで言ってからようやくアラタは思い至った。なぜ自分は花夜子の家族に伊都を奪い去られたくないのか、その理由に。
アラタは単に伊都のことが好きなのだ。後輩として好ましい人物であると思っている。実質という意味では初めて仕事の仲間ができて、嬉しいと思っている。伊都となら、今までひとりきりで背負ってきたこの仕事の大事なポイントを共有できると思っている。だからアラタは伊都を手放したくないのだ。
男はしぶとかった。彼はさらに反撃の論理を
「しかし刑が確定してから執行までの間には半年の猶予があるはずです。私はあなたたちの仕事についてその詳細は知りません。ですがたとえばその間に尾形さんが怪我や病気をなさったとしても、一ヵ月やそこら延期をするぐらい、むずかしいことではないと思うのです。私はあなたたち執行人がどれだけの人数いるのか存じ上げませんが、極端な仮定として、もしひとりきりになったとしても、別に実稼働上、問題があるとは思えませんな」
アラタは静かに反論を差し出した。
「組織の体制については、法務省の上の人間が決定することです。末端である私にそういう話をしても
そこからは泥沼の戦いになった。男は手を替え品を替えてアラタを説得しようとこころみた。男は決して丁寧な言葉遣いを崩さなかったし、両隣にいる花夜子と男の妻は口を開くことがなかった。二者はどちらもただアラタのことをじっと見つめるばかりだ。彼らのそのようなやり口はアラタにとってはかなりの圧力だった。参ってしまうというほどではないが、アラタはそれなりに体力を削り取られた。
突然、チャイムが鳴った。アラタはこれはいい休憩のタイミングだなと思い、席を立った。花夜子たちに「見てきます」と告げてから玄関の方へと向かう。
扉を開けた。
すると目の前には五十歳前後と思しき男が立っていた。彼は一目で並の人間ではないとわかる体格をしていた。肩幅は広く、腕も腿も太い。服の上からでも極めて大きな筋肉が各所についていることが認められた。しかし発している雰囲気はとても静かだった。その静けさは穏やかという域を通り抜けて、無の様相にまで達していた。アラタは目でその男のことを確認しながらも、何か道端の石ころに対しているときのような気持ちになった。
だが男の面相は一種異様な感じもした。平べったく、面長で、どこか
「こんにちは」
男は低い声でそう言った。アラタはどちら様でしょうか、と返した。
「この部屋の主である結城伊都の父です。名は
アラタは男の発言に
アラタはその場に立ち尽くしてしまった。結城邦彦はそれ以上は何も言わずにアラタの横を素通りして、部屋の内部に入った。彼は無言で洗面所やバスルームを覗き、トイレの扉を開け、それからリビングに移った。そこにいる花夜子の家族を見て、ふむ、と短くつぶやいた。
「娘はどこにいるのかな」
アラタは迷ったが、現在の状況をそのまま結城邦彦に伝えることにした。伊都は行方不明である。彼女は二ヵ月と少し前に「旅に出る」と書置きを残したまま、どこかへ消えてしまい、それから戻ってきていない。
「なるほど」
結城邦彦はそう言うと無遠慮にテーブルについた。ちょうど先ほどアラタが座っていた椅子の隣に彼は腰をかけた。花夜子たち三人は急に出現した
アラタはそれを見ながら頭を働かせていた。結城邦彦はここへ何をしに来たのだろう。この男は何か目的があって足を運んだはずだ。いや、そもそもなぜこの男は娘の住所を知っているのだろう。自分の場合とは違って、そういう家庭内の強い繋がりが伊都にはまだ存在していたのだろうか。しかし伊都の兄である結城光成は、自分と妹がメッセージのやり取りをしていたのは家族の中でも例外的なことだ、と言っていたはずだ。
アラタも仕方なしに元の椅子に座ることにした。
結城邦彦は椅子の背もたれに背を預け、ズボンの両のポケットに手を突っ込んだ姿勢で言い放った。
「で、あなたたちはどこの誰なのかな。なぜ娘のマンションにいるのだろうか」
すると奇異なことが起きた。その一言で場の空間が
花夜子の父母が気後れしつつも自己紹介をし、最後に娘のことを説明した。アラタも流れで自分のことを結城邦彦に説明した。説明を終えると、アラタはなぜか自分自身の魂を相手に献上してしまったような心地になった。見ると花夜子たちもひどく気まずそうにしている。その短い間に、結城邦彦は四人にとって致命的なものを手中に収めたかのようだった。
結城邦彦は言った。
「法務省からさっき連絡が入ったんだ。おたくの娘さんが失態を演じた、ってね。だから俺は伊都を鍛え直そうと思う。尾形さん、あんたはもういいよ。俺が娘を引き取る。面倒をかけて悪かったな」
アラタは自分を奮い立たせて、言った。
「結城さん。それは法務省からの指示なんですか。そういうわけではないでしょう。私のところには連絡が来ていないですからね。私は伊都を手放したくない。一度任されたことはしっかりとやり遂げたいのです」
「そいつはおかしくないかな」
結城邦彦は言葉はぶっきらぼうだったが、声の調子は穏やかだった。にもかかわらず濡れた布が腕にまとわりついてくるような、見た目より重くて、
「当人はあんたを拒否しているんじゃないかな。なぜならもう二ヶ月以上も姿を見せていないわけだし、連絡もないようだから」
痛いところを突かれたな、とアラタは思った。しかし黙っているわけにはいかなかった。今自分の味方であるのは自分だけなのだ。
「私と伊都の間には曲がりなりにも
「ひとりきりになって何をするんだろう」
アラタは力を込めて言った。「自分を見つめ直す、ということです」
結城邦彦は短くつぶやいた。「ふむ」
それから彼は押し黙ってしまった。彼は四人の顔をたまに
結城邦彦は奇妙なほどの静けさを身に帯びていた。体格は大きいのに、そこに〝在る〟という感じがしないのだ。アラタは自身を分析した。するとアラタが今感じているのは正確には圧迫感というよりも、極端なまでの居心地の悪さであるようだった。見た目には明らかに巨大な存在が
結城邦彦が言った。
「尾形さん。かねがねあんたの
アラタは率直に自分が何をしていたかを説明した。
結城邦彦は特にそれに反応を示さなかった。ただアラタの顔を見ただけだ。
彼は別のことを口にした。「なあ、伊都はどこにいるんだろうな」
それについては誰も返答ができなかった。だから、おのずと場は静まり返った。結城邦彦はそのような沈黙を意図的につくり出したようだった。結城邦彦が来訪するまで
結城邦彦は時折ちらりと四人の顔を観察した。そして彼はある結論を導き出した。
「なるほどね。あんたらはどうやら、本当に伊都の居場所を知らないようだ。顔にそう書いてあるよ」
アラタははっとして結城邦彦の顔を見た。そして次の瞬間には「しまった」と思った。
結城邦彦は鼻でこちらを笑うと、音もなく席を立った。今の一瞬のやり取りで、伊都がどこにいるかを知っている者はいないということについて、結城邦彦は確信を得たようだ。これからはアラタと結城邦彦の間で競争が始まる。どちらが先に伊都を発見するか、という競争だ。
アラタも席を立った。部屋を立ち去ろうとする結城邦彦の背中に向かって、彼女は挑戦的な声できっぱりと言い放った。
「伊都は渡しません。伊都をあなたに会わせるのは良くない。私はそう判断しました」
結城邦彦はその場できれいに反転すると、アラタと向かい合った。彼はだらりと両腕を脇に垂らしていた。目だけが不気味な光を
結城邦彦はまず、アラタと自分の間にある床をじっと眺めた。アラタはそのような彼を前にして、不思議な感じがした。結城邦彦は次にアラタの足を眺めた。長い時間をかけて見つめた。マンションの部屋内には、ふたたび結城邦彦に主導権を握られて、彼の許可がなければ誰も一言も発することができないような重力場が形成されていった。
結城邦彦はたっぷりと時間を使ってアラタの足先を見つめたあと、次に彼女の
結城邦彦は時間をかけてアラタの腰を眺めた。その次は彼女の腹を見つめた。その次は胸を、首を凝視した。視線が、徐々に上がってくる。
やめろ、とアラタは思った。まずい。このままでは致命的なことになる。
結城邦彦は次にアラタの口元を眺めやった。そこで彼は一分という長い時間を使った。さらにその視線が上がる。そのようにしてアラタは結城邦彦と目と目を正面から合わせたのだ。
勝敗は一瞬で決まった。というより、それは正しくは争いとさえ呼べなかった。瞳と瞳が交わるところにだけ立ち上がる、現実とは異なる相の世界の中で、アラタはくりかえし結城邦彦から
結城邦彦はただアラタの瞳の中をじっと覗き込んだだけだ。それは時間にすれば三十秒やそこらであったはずだ。しかしその短い間に、アラタという人間の奥にある大事な部屋はすっかり荒らされてしまった。扉は蹴破られ、部屋に侵入され、家具は破壊され、鏡台の鏡は割られてしまった。アラタはそこで、生まれて初めて男に裸の肉体を見られたような気分に陥った。
アラタはその場にくずおれた。床に膝をつき、荒い呼吸をくりかえした。額に汗もかいていた。結城邦彦は満足そうにアラタを見下ろすと、