アラタ   作:六塔掌月

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第二部・第七話

花夜子がアラタのそばまでやってきた。大丈夫かとたずねてくる。アラタはうなずくと立ち上がり、まずは呼吸が落ち着くのを待った。それにはかなりの時間を要した。

 

それから一同に対して口を開いた。

 

「お互いに一時休戦といきませんか。まずは伊都を見つけ出すのが先決です。それも、今の男よりも早く。あの男は危険だ。たとえ父親といえど伊都を預けるにはいかない。私はそう思います」

 

花夜子の父親が言った。「尾形さん、すみません。あの男の相手をさせてしまって。私はただ黙っているしかできなかった」

 

それでいい、とアラタは言った。

 

花夜子の父親は続けた。

 

「一時休戦、というのは私どもも賛成です。どちらにせよ結城伊都さんを見つけねば話は先に進みませんからね。しかし手がかりがない。それもまた事実です」

 

その通りだった。ただアラタはもう休憩を取りたかった。結城邦彦との対峙はどうやらアラタの体力を限界まで削ぎ落してしまったようだった。傷ついた猫が暗がりに潜んで自分の傷を舐めるように、アラタは自宅に戻ってベッドの上に横たわりたかった。

 

「また今度話をしましょう。今日はもう終わりにしたい。花夜子ちゃんは私の連絡先を知っているはずですから、それで連絡は取れますよね」

 

わかりました、と花夜子の父親は言った。見ると花夜子は複雑な表情をしていた。懸念していたことが解決しなかったこと、恐ろしい男が急にあらわれて退散していったこと。さまざまなことが胸の内を去来しているに違いなかった。花夜子の母親は無表情だった。

 

アラタは伊都の部屋を辞去した。廊下に出て、エレベーターのボタンを押す。籠(かご)が九階まで上がってくるのを待ってから、それに乗った。

 

エレベーターの籠が九階から一階へと降るその短い間に、アラタは激甚(げきじん)の疲労を味わった。まるで一気に十歳は歳を取ってしまったかのようだ。長距離を走ったあとのような粘ついた疲労が体の芯(しん)に存在していた。体の関節がどこも重い感じがする。トレーニングを終えたあとよりも大きな疲れを各所の筋肉が訴えていた。

 

アラタは疲労の原因を考えた。花夜子の父親との口論ではそれほど気力を削られなかったはずだ。しかしうんざりはさせられた。その下地がつくられた状態で結城邦彦と対峙したのがまずかったのだろう。あの男は一体何者なのだろうとアラタは疑問に思った。まともな仕事をしてきたようには思えない。アラタの生きている場所よりもさらに深い闇の領域が、この世にはあるのかもしれなかった。

 

アラタはエレベーターの籠から出て、マンションのエントランスを抜けた。外に出る。自宅に帰るために、駅に向かって歩いた。

 

歩いている途中で街路樹の楠木を見た。古い葉はすでに黒い斑点を浮かべていた。よく見ると小さな黒い実がなっている。幹は以前紗良と連れ立って歩いている間に見たときと何も変わりがなかった。暗褐色で、規則的な割れ目がある。それはアラタに一抹(いちまつ)の安心をもたらした。

 

駅に着いたところでスマートフォンが鳴った。着信だった。結城光成が電話をかけてきたらしい。アラタが電話に出ると、結城光成は焦ったような声で呼びかけてきた。

 

「尾形さんですか」

 

「ええ、そうです」

 

結城光成は息が荒かった。一体彼はどんな状況に置かれているのだろうかとアラタは訝(いぶか)しんだ。

 

結城光成は言葉を続けた。「父が動き出しました。一刻も早く妹を見つけ出してください、尾形さん。伊都が父の手に渡れば、彼女にとって何が待ち受けているかわからない。実は僕は伊都の居場所にひとつだけ心当たりがあるんです。さっき思い出しました」

 

「結城邦彦ならさっき会ったよ」

 

「なんですって」

 

 結城光成がそこで息を呑む気配が電話越しに伝わってきた。「どうなりました?」

 

「特に何もなかったよ。単に少し話をして別れただけだ。あの男も伊都の居場所は知らないようだ。彼と私たちの間で、今は競争が生じている。どっちが先に伊都を見つけ出すかという競争だよ」

 

「なるほど、無事だったんですね。さすが尾形さんだ。では伊都の居場所の心当たりを言いますよ」

 

アラタは相槌を打った。

 

「それは山口県のⅩⅩ市にある千影荘(ちかげそう)という旅館です。その名前の旅館は少なくとも山口県にはひとつしかないから、調べればすぐにわかるはずです。実はそこは伊都が高校生の頃に一度家出をして泊まったところです。僕が連れ戻しました。だから両親はそこの場所を知らな――」

 

そこで派手な音が鳴り響いた。何かと何かが衝突する、固く、破滅的な音だ。次にスマートフォンから聞えてきた結城光成の声は、離れたところから聞こえてくるようにアラタには感じられた。それは悲鳴だった。

 

「やめろ。僕は何もしていない。やめ――」

 

そこで通話は途切れた。

 

アラタは愕然(がくぜん)とした。一体何が起きたというのか。結城の家というのはそこまで異端の場所なのだろうか。

 

結城光成の身が案じられた。アラタはしばし自分に何ができるかを考えた。しかしアラタは結城光成に対してはどうやら何もできそうになかった。あとでスマートフォンから何かしらのメッセージを出すか、電話をする必要はあるだろう。無事か否かを確認するために。だがこちらは離れたところにいる身だし、そもそもアラタは結城光成が今どこにいるかも知らないのだ。できることはほとんどない。

 

アラタは頭を振ると、与えられた目的と向かい合った。自分は伊都を探さねば。まずはその旅館に行ってみよう。

 

その場でスマートフォンで検索をすると、東京駅から山口県にいくのに新幹線で四時間以上かかることがわかった。今は午前十一時半だった。アラタは迷った。今からいくべきか、それとも今日は自宅で休むべきか。

 

どうする。

 

今、いこう。一刻も早く伊都に会わねばならない。あの父親よりも早く、だ。

 

アラタはそう結論づけると駅の改札を抜け、路線を看板で確認してからホームに上がった。東京駅へと向かう列車に乗り込む。

 

吊り革につかまりながら立っている間にアラタが考えたことと言えば、休みたいという一念だけだった。まだ午前中だというのにそこまで体力を削ぎ取られてしまっていた。立っているのにもそれなりに集中力を使う。アラタは気を紛らわそうと、昼食に何を食べるかを考えた。

 

東京駅に着いた。列車から降り、構内で新幹線の乗車券と特急券を買った。席はグリーン車を指定していた。

 

アラタは念のためATMで余分に金を下ろし、それから改札を通過した。駅弁を売っている店に入って品を見て回ったが、食欲は湧かなかったので、結局ジュースを二本だけ買ってホームに上がることにした。

 

新幹線はすでにホームにあった。アラタはグリーン車の車両に乗り、自分の席を探して座った。彼女はそこでようやく一息つくことができた。

 

アラタはジュースの缶を開けて飲んだ。甘さが口いっぱいに広がる。アラタはスマートフォンを取り出すと、目的の旅館について調べた。確かに山口県には千影荘というところは一つしかなかった。インターネットでそこの宿泊予約ができたので、部屋をひとつ取っておいた。

 

アラタは背もたれに体を預けて目を閉じた。他に特にするべきこともないので、今は眠っておきたかった。

 

車体がゆっくりと動き出した。アラタは振動と慣性の力を背中で受けながら、何も考えまいと努めた。

 

やがて列車は速度をつけて走り出した。すぐに品川駅で止まる。次は新横浜で止まり、また列車は走り出した。

 

次の名古屋駅までは一時間以上の間があるはずだった。アラタはたまに左右の重心の位置を替えながら、目をつむって席でじっとしていた。彼女は思考をなくし、ただ休むことを念じた。

 

しかしおよそ一時間が経過したところでアラタは眠ることを諦めた。神経が興奮していて、眠れそうになかった。午前中に経験したあの口論と睨み合いがよくなかった。体中に重い倦怠感があるにもかかわらず、休息を取れそうにない。

 

アラタはなぜあのタイミングで結城邦彦が伊都の部屋にあらわれたのかを考えてみることにした。伊都が失敗を犯したという連絡を法務省から受けた話は、本当だろうか。どうもそれは怪しい気がする。結城邦彦はひょっとすると自分の息子である結城光成からその話を無理やり聞き出し、伊都の住所をつかんだ可能性がある。

 

そこであの男は伊都のマンションの前に見張りをつけていたのかもしれない。花夜子やその両親、そしてアラタがマンションに入っていくのを見張りから連絡され、何かありそうだと感じてみずから足を運んだ。アラタはそう考えると話の筋道が立つ気がしてきた。

 

結城光成は無事だろうか。アラタはそこではたと気がつき、彼にメールを送ってみた。安否を確認する内容である。同時に、彼が旅館についての情報を両親に漏らしていなければよいのだが、と祈った。

 

アラタの思考は徐々に混濁(こんだく)していった。なぜだか数々の処刑の実践の記憶がよみがえってきて、アラタを苦しめた。それらが脳裏を通過したあとは、失なわれたかつての恋人と過ごした甘い時間が思い起こされて、切ない気持ちをアラタに味わわせた。

 

最終的には、彼女の心はいつもの空想にいき着いた。空想という別次元の世界の中では、アラタはゆったりと手足を伸ばし、くつろぐことができた。

 

〝両腕のない女〟はスズカに木製の箱をつくるよう懇願(こんがん)した。スズカはそれに戸惑った。それまで大工のような工作をした経験がなかったし、女が箱にこだわる理由がよくわからなかったからだ。それこそ、あの帝国から派遣されてきた青年に依頼して買ってもらえばよかったではないかとスズカは返事をした。もっとも青年はすでに村での調査を終えて、自分の働き場所である帝国の領土に帰ってしまっていた。

 

だが女はスズカがつくることに拘泥(こうでい)した。箱の寸法は何でもよい。スズカがつくってくれることが重要なんだ、と女は主張した。

 

スズカは当初は気が進まなかったが、あるとき村でヒイネにそのことを話すと、次のように説得されたので気が変わった。あの人が何かを欲しがるなんて初めてのことよ。だからスズカ、どうか力を貸してあげてちょうだい。

 

スズカはヒイネのことが好きだった。ヒイネはいつも淑(おしと)やかで、所作にも品があり、優しかった。あまり接したことはなかったが、スズカがひそかに尊敬している女性だった。だからスズカは箱づくりに取り組むことに決めた。何にせよ時間はたっぷりとあった。巫女の座についている間は、その者は半分穢(けが)れたものとして村から扱われており、農耕やその他の仕事に加わることを禁じられていたからだ。

 

スズカは村長と話し、彼を通じて村の大工に働きかけ、大工仕事について教わることの許可を得た。スズカは青年に買ってもらった大工道具の一式を彼らに預けた。

 

大工たちは村の隅に置かれた杉の木の丸太のうち、直径の小さなものに墨で印をつけ、割る位置を定めた。断面に斧で軽く割れ目をつけてそこに鉄製の楔(くさび)を木槌で打ち込み、側面にも裂け目をつくる。大工はさらにそこに楔を打ち込んで、裂け目をつくり出していった。最後に丸太が縦に真っ二つに割けるのを目の前にして、スズカは目を丸くした。

 

割れた面には粗い凹凸やささくれがあった。熟練の大工が手斧(ちょうな)という首の曲がった小さな斧でこれを削り取っていった。彼は木材の上に乗り、手前に引く形で手斧を振るって表面を平らにしていった。裏面も同様に削っていく。これで厚みのある板材(いたざい)ができた。

 

スズカはこのあとに槍鉋を使わされた。槍鉋は長い柄に細く短い刃のついた道具だった。まず大工が同じ道具で板材の表面を円滑にしていく。大工は柄を両手で持って手前に引いて木を削った。それを見た上でスズカも同じ作業を手がけた。

 

スズカは何度も叱られた。まず道具の持ち方がおかしいと言われた。刃に近いところを持つ手は支えることにのみ力を入れて、もう一方の手で力を加減しながら削っていくものだと言われた。スズカは指示されたように木目に対して斜めに削った。自分の手を傷つけないように細心の注意を払った。仕上がりは、どう見ても熟練の大工が作業をした板材の方が滑らかだった。スズカの仕上げたものはところどころに傷がある。大工はそれを見て不満そうな顔を見せたが、それ以上は何も言わず、次の工程へいくようにと彼女に指示をしてから去っていった。

 

スズカは箱の寸法を決めた。その後に作業場の片隅で暇そうにしていた初老の男から、側面用の板を四枚用意するように指示されたので、スズカはでき上がったひとつの板材から均等に板を切り出して用意をした。初老の男は見本を見せるからと言って、それらの板を加工していった。板の木口を削り、窪(くぼ)みをつくるのだ。隣り合う板が互い違いになるように凸の部分と凹の部分を持つよう削っていく。彼は墨でわずかばかりの印をつけるだけでそれらの加工を難なく終えた。次に男はそれらの板の下端に、底板をはめ込むための溝を鑿(のみ)で彫(ほ)った。

 

すると驚くべきことに、男が五枚の板を組み合わせるだけで、板同士はピタリと結合して動かなくなった。スズカは男から蓋のない箱を受け取ると、あちこちさわって調べてみたが、四枚の側板と底板はまぎれもなく噛(か)み合っており、寸毫(すんごう)も動かなかった。経験のないスズカでもそれがまさに神業であることがはっきりとわかった。

 

「まずはここまでできるように頑張りな。自分でつくるんだろ? できるようになったら蓋(ふた)のつくり方も教えてやるよ」

 

スズカは翌日に自分でもその加工に挑戦してみたが、上手くはいかなかった。凹凸がちょうどよい具合に噛み合わず、そのため板同士が密接な結合を見せないのだ。スズカは試しに自分のつくった箱を手にもってぶんぶんと振り回してみた。すると噛み合っていたはずの部分は分解し、箱は崩れてしまった。スズカは地面に落ちた測板と底板を見て頭を振った。

 

スズカはそれでも落胆せずに事に取り組んだ。〝両腕のない女〟のもとへいったときは、女が熱心に物語や文字を教えてくれたこともあり、スズカにはその恩返しをしたいという気持ちがあった。あるいは単に負けず嫌いであるという性来の気質も関係していたかもしれない。

 

三ヶ月が経つ頃にはいくつもの出来損ないの箱が大工たちの作業場に転がっていた。それでもある日にスズカはようやく自分でも満足のいく箱をつくれた。その頃には槍鉋を使う腕も大工たちから認められるほどになっており、時折彼らが必要とする板材を仕上げることを任せられるようにもなっていた。

 

スズカがつくった箱は滑らかな表面を持ち、しっかりと凹凸が組み合って、力を入れても分解しないようになっていた。

 

三ヶ月の間にスズカは初老の男から幾度も助言を受けた。彼は長い時間をかけてスズカの作業を隣で見守ってくれた。男は時折、大工作業の助言だけでなく、自分の家庭の事情も話した。彼は家から出ていった娘や息子夫婦が家に寄りつかないのを寂しく思っているらしかった。スズカは根気よくそれらの愚痴(ぐち)に付き合い、相槌を打ち、同情を示した。実のところスズカは大の男が弱音を吐くところを初めて目の当たりにしたのだった。スズカの父親はいつも厳格で、家庭内では弱みを見せたところがなかった。

 

初老の男は次に蓋のつくり方を教えてくれた。四つの側板のうち対面する二つに溝をつけ、蓋の縁を、その溝にはまるような厚さにするのだ。細い鑿を用いて彼はそのような溝を彫った。蓋もちょうどよいものを仕上げた。スズカはそれを真似ておのれの作業に取り組んだ。満足のいく物がつくれるまでに三個の箱をつくっては台無しにすることをくりかえしたが、二ヵ月後には望む物ができた。蓋は本体にはまり、滑らかに溝をスライドして開閉するようになった。

 

スズカは男に礼を言い、森をたずね、ついに女に箱を贈った。女はそれを受け取り、満足そうにしていた。女は床にじかに箱を置くと、いつものように器用に足をあやつって蓋を開閉した。女は箱にさまざまなものを入れた。長年つけたことのない髪飾りや、あるいは森で摘んだ花を入れた。そして夜に眠りにつくときは寝床まで箱を持ち込み、腹と胸で抱え込むようにした。

 

ある日にスズカは女に「箱は役に立っているか」と聞いた。すると女は返事ができずにいた。そこでスズカは女に「箱に満足しているか」と聞いてみた。すると女はにっこりと笑って大いに満足していると返事をした。それはスズカも今までに見たことがないぐらい素敵な笑顔だった。

 

箱に何を入れているのかとスズカが女にたずねると、女は素直に「森の花や石を入れている」と返した。スズカは呆れた。しかし女はそれで心から満足していたのだ。箱を手にしていること。箱とともに眠りにつくこと。箱を抱きしめること。それこそが女が本当に求めていることだったのだ。

 

スズカは一応、箱の内に何を入れるかをもう少しよく考えてみるといい、と女に言い渡した。もっと大きな箱をつくることだって今の自分の技術なら可能なのだから。

 

女はそこで箱とは何かについて熟慮を重ねた。箱はどうあるべきなのか。箱は何を内に含むべきなのか。それらについて真剣に考えてみた。

 

箱。それは内に含んだものを底面で支え、四囲《しい》の壁で守り、天井でもって他者の手の侵入を防いでいる。

 

自分はその箱の中に何を入れるべきなのだろうか?

 

軽い振動が起きた。

 

列車が停止して、揺れたのだ。どうやら広島駅に着いたらしい。

 

アラタはそこでようやく空想から覚(さ)めた。新山口駅に着くのはちょうど三十分後のはずだ。

 

アラタはトイレにいこうと思って席を立った。

 

視界が暗くなった。世界が傾(かし)いで、体から力が抜けた。床に膝がぶつかって、アラタは自分が倒れかけたことを自覚した。彼女はなんとか残された力を寄せ集めて、ぐっと腿に力を入れ、垂直に立てた。自分の体を支える。片膝を床についた姿勢のままアラタはしばらくその場で固まっていた。

 

深呼吸をする。視界はすぐに色彩を取り戻した。近くにいた人がアラタに心配そうな目を向けている。アラタは立ち上がるとその人に向かって会釈をして自分の席に戻り、ふたたび腰をかけた。

 

アラタは愕然とした。どうやら思ったよりも自分の体力は低下しているらしい。原因は結城邦彦との対峙以外にはあり得なかった。彼がアラタに残していったものは、おそらくはある種の強い毒だった。時間が経つほどに体を蝕(むしば)んで傷つけていく毒だ。自分は選択に失敗したかもしれない、とアラタは思った。おとなしく家に戻ってベッドに横たわっているべきだったのかもしれない。

 

列車がそろそろと動き出した。目的の駅へと進んでいくのだ。

 

アラタは十五分ほど休んだあと、慎重に立ち上がってトイレへと向かった。今度は眩暈(めまい)は生じなかった。用を済ませてから無事に自分の席に戻ってこれたときは心から安堵した。

 

新山口駅に着くまでの残りの十五分間は、アラタは絶望と不安に支配された時間を過ごした。ひょっとすると自分は思っていたよりも遥かに脆弱(ぜいじゃく)な存在なのかもしれない。それを悔しいと思う。意志をくじかれること。自分の思う通りとは逆に事態が進んでいくこと。そうしたすべての無力感がじんわりとアラタの体の末梢(まっしょう)にまで広がっていった。

 

列車が速度を緩め始めた。

 

列車が新山口駅のホームに滑り込んだ。アラタは駅名が記された看板や自動販売機などをぼうっと窓から眺めていた。すべての事物は自分から遠いと思う。手を伸ばしても届かないと思う。

 

列車が速度をなくし、最後にわずかなブレーキの反動を伴って揺れて、完全に静止した。

 

ドアが自動で開く音が聞こえた。

 

アラタはゆっくりと立ち上がった。そして列車から出るべく歩いた。自分はいかねばならない。

 

アラタは伊都が千影荘にいるに違いないと思っていた。それがなぜなのかは自分でもわからない。残された唯一の手がかりに縋(すが)る気持ちもあったろう。ただ、それとは別に大きな直感があった。伊都と自分の間には繋がりがある、とアラタは信じていた。それがアラタに直感を授けていた。

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