アラタ   作:六塔掌月

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第二部・第八話

ホームに降り立ち、駅の構内を歩く。アラタは南口から駅の外へと出た。

 

駅前のロータリーの中央には自動車の駐車場があり、何台もの自動車が並んでいた。その向こう側にはホテルが立っていたが、全体としてはそのような高い建物はまばらにしか見られないようだった。広々とした空間だとアラタは思った。閑散としている、と言ってもいいかもしれない。時刻は午前の四時半をすでに過ぎていた。すでに暗くなりつつある。

 

アラタは再び食事をすることを検討してみたが、やめておいた。食欲がどうしても湧いてこないのだ。

 

タクシー乗り場はすぐに見つかった。アラタはすでに停まっていた一台のタクシーに乗り込み、市の名前と旅館の名前を言った。運転手は千影荘を知らなかったのでアラタはスマートフォンを見て住所を伝えた。大体一時間半ほどかかるとのことだった。

 

タクシーは街から出て国道を北上していった。じきに両脇に畑が広がり、どこを見ても小高い山が見えるようになった。遠くの山は空気の層によって霞(かす)んで見えた。

 

以降は特に変化のない景色が続いた。

 

アラタはタクシーが三十分ほど走ったところで伊都にメッセージを送る決心をした。ここまで近づいたところでメッセージを出せば、さすがに逃げ去ることもないだろう。もしも伊都が目的の旅館にいると仮定しての話だが。

 

アラタは自分がしばらく前に新山口駅に着いたこと、今はタクシーに乗って千影荘に向かっていることをメッセージに書いて伊都に送った。深く息をつき、目を閉じる。ゆるやかな慣性の力が横向きに体にかかった。車体は曲がる道に沿って走っているようだった。しばらくすると今度はトンネルに入ったらしく、周囲が暗くなったのが目を閉じていてもわかった。

 

アラタが再び目を開けると、すでに車はトンネルを抜けていた。両脇には山が聳え立っており、コンクリートに覆われた斜面と、その上から伸びてきた樹の枝が見える。辺りは暗く、もうほとんど夜だった。時刻は午後の五時半になっていた。

 

アラタはスマートフォンを見た。すると先ほど送ったメッセージに既読の印がついていた。伊都がこちらの文面を目にしたということだ。

 

それは伊都が姿を消してから初めての現象だった。アラタの心臓が一際強く脈打った。返信はない。

 

どういうことだろうか、とアラタは考えた。そういえばこのメッセージアプリは、メッセージが他者から送られてきた場合に、開かなくてもその一部の文面が通知という仕組みで見える。伊都はおそらく通知で「千影荘」という単語を見て、もしやと思ってアプリを立ち上げてアラタのメッセージを開いたのではないだろか。

 

アラタは伊都に電話をかけてみることにした。画面上で相手として伊都を選択し、電話のアイコンをタップする。

 

コール音が鳴った。三度鳴った。

 

五度、鳴った。

 

「尾形さんですか?」

 

「伊都」

 

アラタは息を呑んだ。

 

伊都の声が聞こえてくる。「助けてください。ここはひどく寒くて」

 

「今どこにいるんだ」

 

「千影荘」

 

 伊都の声はとても弱々しかった。

 

「どの部屋にいる?」

 

「三〇二」 

 

そこで通話は切れてしまった。

 

どうも伊都は尋常な状態にないらしい。伊都は正気を失っていたように思われた。アラタは彼女の身を案じた。

 

やがてタクシーはさびれた温泉街に入った。アラタの目にかすれた文字で「温泉みやげ」と書かれた看板が目に映った。その土産屋はすでに今日は扉を閉ざしていた。

 

タクシーは狭い道を低速で進んでいった。トタンの波板でつくられた食堂らしき建物の前を通過する。波板には茶色い錆(さび)が認められた。視界に入るのはいずれも古びた家屋ばかりだった。

 

タクシーがさらに先へ進むと、ぽつぽつと旅館の看板がアラタの目に映るようになった。ある旅館には、中央が弓なりに盛り上がった瓦屋根の端のような飾りが、玄関の上に見られた。別の旅館には入口に屋根付きの門構えがあった。車が一台しか通れないような狭い道にそのような旅館がいくつも建てられていた。

 

道はやがて曲がりくねり、徐々に上り坂になっていった。

 

坂を上り切ったところに、おそらく一帯で一番高い建物であろう、ホテルが姿をあらわした。タクシーがホテルの前の駐車場に停車し、料金のメーターを止めた。

 

「二万七千五百円だよ」

 

アラタは一万円札を三枚渡し、釣りを受け取ってタクシーより出た。その場に立ってホテルを見上げる。

 

ホテルは暗黒の夜空に向かって聳え立ち、辺りの家屋を高みより睥睨(へいげい)していた。灰色の壁にはところどころに黒ずんだ染みと亀裂があり、それがまるで病状が決定的な段階まで進んだ老人の皮膚のようだった。客室のものと思しき窓はほとんどが暗いままで、それらが奥に蔵する暗闇は内部で起きている悲劇を隠すための幕であるようにも思われた。

 

アラタはホテルの玄関に進んだ。確かに千影荘と看板があった。アラタは玄関を通過し、ロビーを横切ってフロントまで進んだ。

 

アラタはそこで係の者とやり取りをした。名前を名乗り、スマートフォンの画面を見せて予約を確認してもらった。次に一枚の用紙を渡されたのでそこに氏名、住所、電話番号などの必要な情報を書き込んだ。

 

係の者が用紙を確認すると、アラタは五〇一号室のカードキーと施設案内が書かれた紙を渡された。それでチェックインの手続きは終わった。

 

アラタはロビーに入ってからずっと違和感を覚えていた。なぜだか周囲から圧迫されているかのような印象を受けるのだ。よく見てみるとロビーはそれなりに広い。天井だって十分な高さがある。それにもかかわらずアラタは壁や天井がこちらに近づいてくるような気配を感じていた。

 

何かが違う、とアラタは思った。極端に低下した体力が彼女にそう感じさせているのだろうか。それともこの場所は呪われているのだろうか。そうかもしれない。あるいはアラタの置かれた状況だけが不安という病魔に侵されて、あらゆる事物を実際とは異なる様相に見せているのかもしれなかった。

 

アラタはエレベーターへと向かった。だが気を変えて、やはり階段を利用することにした。今は狭い空間に立ち入りたくない、と彼女は思った。それは危険だ。何かが自分を決定的に害する可能性がある。

 

階段には濃い茶色のカーペットが敷かれていた。薄暗かった。各段の角には金属製の滑り止めがあって、そこだけが弱い照明の光を妙に反射していた。アラタはそれを一段ずつ踏みしめて昇っていった。カーペットだけではアラタの足にかかる力を吸収しきれないのか、時折ぎしぎしと音が鳴った。階段の幅は狭く、大人がここですれ違うとしたら二人とも姿勢を横にしなければならないだろう。それでもエレベーターに乗るよりはましだとアラタは思った。小さい籠の中に入るよりはいい。

 

アラタは三階にまで昇ってきた。そこで階段から外れて廊下を歩く。

 

廊下もかなり狭かった。先ほどの階段よりはわずかに余裕があるていどだ。アラタは部屋の扉を確認しながら歩き、三〇二号室の前までやってきた。

 

扉を軽く叩く。「伊都。私だよ。尾形だよ」

 

返事はなかった。アラタはスマートフォンで連絡を取るべきかと思い、取り出して画面を見た。すると電波の強度を示すはずのアイコンが今は「圏外」という文字に変わっていた。

 

アラタは周囲の部屋の宿泊客から怪しまれる可能性を考えないわけではなかったが、それでも扉を強く叩くことを決心した。同時に伊都の名を大きい声で呼ばわる。

 

扉を叩きながらアラタは奇妙な感覚を味わっていた。叩く手の扉と接触する面がべったりとくっつき、離れがたい力を感じるのだ。まるで扉そのものに意志があり、アラタという人間を吸い込んで内部に閉じ込めようとするかのようだった。

 

「尾形さん?」

 

扉の向こうから女性のか細い声が聞こえてきた。伊都だ。

 

アラタは伊都に向かって呼びかけた。「そうだ、私だよ。ここを開けてくれないか、伊都。まずは君の顔を見たい。私と二人だけで話をしないか。早めに決着をつけたいことがあるんだよ」

 

「嫌です」

 

アラタは明白な拒否を前にして何を言えばいいか、思い迷った。

 

「なぜだい。私はやっぱり君のことを傷つけていたのかな」

 

「尾形さんは悪くありません」

 

伊都の返答はきっぱりとしていた。彼女が嘘を言っているとは思えない。それでも、とアラタは考えた。きっと今の伊都の発言は本当のことではないのだ。

 

伊都は苦しんでいる。でも自覚的であるという意味においては、その「苦しむ」ということがまっとうにできていないのだ。そうアラタは考えていた。

 

多分、伊都の中では誰も悪くないんだ、とアラタは思った。伊都の中ではアラタも紗良も花夜子も兄も悪くはないのだろう。おそらくは結城邦彦でさえ悪くないのだ。

 

でもそうじゃないんだ、とアラタは思った。それは違う。違うんだ、伊都。

 

伊都が弱々しい声で訴えた。

 

「迫ってくる。この部屋はおかしいんです、尾形さん。壁が徐々に迫ってくる。天井が頭まで降りてくる」

 

「どうした、伊都。中で何が起きているんだ?」

 

「押し潰される。駄目だ」

 

伊都は明らかに混乱していた。その声は切羽詰まっている。アラタは扉に自分の全身を押し当てて静かに念じた。自分の思いが扉を伝って内部に届くよう、強く念じた。

 

アラタは目を閉じて言葉を紡(つむ)いだ。

 

「伊都。私がここにいる。大丈夫だ」

 

「違います、尾形さん。ここはとても寒い。寒いんです」

 

三〇二号室の部屋の扉はアラタの体をも呑み込み、中に捕えようとしていた。扉を開かないまま、閉ざしたままでアラタを捕食し、内部に引き入れて虜囚(りょしゅう)の身にしようと画策していた。

 

アラタはそれに抵抗した。力ではなく、しなやかな意志で抵抗をこころみた。

 

「大丈夫だ、伊都。私はここにいる。君の前にいるんだ」

 

温めるんだ、とアラタは思った。部屋を抱きしめろ、尾形阿羅多。抱きしめて温めろ。お前ならできるはずだ。お前はたかがホテルの客室なんかよりもずっと大きい存在のはずだ。そうだ。私は確かにそれだけの歳月を重ねてきたのだから。

 

「何も問題はない。君は必ず元の世界に戻れる。自分でそう念じるだけでいいんだ」

 

言葉をかけろ、アラタ。内部に熱を伝えるんだ。手で。肌で。身を折り曲げて三◯二号室を抱え込め。優しく、そっと扱(あつか)え。そう、卵(たまご)を扱うように。

 

伊都の声が聞こえてくる。

 

「でも駄目なんです。きっともう駄目だ。私は潰される。壁に潰されるんだ」

 

アラタは扉越しに声をかけた。「伊都。立ち上がるんだ。こちらまで歩いてこい。君ならそれができるはずだ」

 

「それは指示ですか」

 

アラタは、勉強を見る上で大事なポイントを妹に伝えようとする兄のように、慎重に声音を制御して語った。

 

「いいや、これは指示じゃない。ただの個人的なお願いなんだ」

 

「尾形さん、私に指示を出してください。それならそちらにいける気がする」

 

違う、とアラタは思った。

 

「伊都。私は君のことが好きだ。君のようなまっすぐで健(すこ)やかな若者を後輩として得られたことは、私にとってとても幸福なことだ。それはね、歳を取った人間にとっては実は望外なほどの喜びなんだよ。君も私と同じ歳になれば、いつの日かそれがわかるかもしれない。だからこちらに来てほしい。君が部屋に、壁に、天井に押し潰されてしまうのは忍びない」

 

「尾形さん、何を言っているんですか? ここは寒い。助けてください。指示をください」

 

アラタは言った。

 

「違う。私ではなく、君が君自身を助けるんだ。私はこの部屋の鍵を持っていない。君が内側から扉を開けるんだ、伊都」

 

「できません! 私という人間はそんなことができるように造(つく)られてはいないんです」

 

アラタは扉に接した自分の体のことを思った。肉体の隅々にまで自分の思いを届けて、それを扉に重ねて、温かな熱を内側へ伝えようとこころみた。アラタは思う。そうだ、思い切ってこの部屋をつくり替えてしまえ、尾形阿羅多。部屋は一種の〝箱〟なんだ。箱のことならお前はずっと考えてきたはずだ。

 

「誰も君のことを造ってなんていない。君を造っているのは君自身だ、伊都。君の両親でさえ君を造ってはいない。彼らはちょっとしたきっかけに過ぎない。君には君の思いがあり、熱がある。それらが君を造ってきた。今回もそれと同じだ。今までと同じように自分のやりたいことをやるだけだ。もしもそうでなかったとしたら、今回が初めての自分の意志ということになる。だから、これが最後のお願いだ。もしも私と友達でいてくれるならここから出てきてほしい。これは指示ではなく、好意の領域の話なんだ」

 

言いながらアラタは理解していた。箱には二種類あるのだと。それは牢獄の壁と、卵の殻だった。中にいる人を永遠に閉じ込めて絶望に突き落とし、生きる気力を徹底的に削いでしまうものが牢獄なら、滋養を与えつつ守り、成長させ、やがては内側にいる雛(ひな)のくちばしによって破られるのが卵だった。

 

伊都の声が聞こえた。

 

「では、そちらにいきます」

 

アラタは息を呑んだ。一言だけ声をかける。「頼む」

 

アラタはそれ以降は沈黙に徹することにした。耳を扉に押し当てて、伊都の気配をつかむことに全集中力を注ぎ込んだ。

 

鈍い、何かが床に接するような音が聞こえた。伊都が椅子か、あるいはベッドなどから降りて、立ち上がった音だろうか。

 

それ以降は床が軋(きし)むかすかな音が一定の間隔で聞こえてきた。アラタは祈っていた。後輩が扉まで歩いてこれることを全力で祈っていた。精神のすべてを懸けて物音を聞くことに集中していた。

 

同時に伊都の邪魔をしてはならないとも思っていた。息を殺せ、尾形阿羅多。ただ待つんだ。お前はここにいなくていい。透明になれ。

 

足音は続き、やがて止まった。アラタの勘では伊都はまだ扉まで来れていない。アラタは身じろぎひとつせずに固まったままの姿勢で祈った。伊都、出てきておくれ。歩くんだ。それを続けるんだ。

 

しばらくの間、すべての事物が静止していた。

 

伊都はふたたび歩き出した。床の軋む音が一定の間隔で聞こえてきて、それが近づいてくる。アラタは安堵して扉から離れた。

 

扉がそっと開かれた。伊都が扉の隙間から顔を出した。

 

「伊都」

 

「尾形さん」

 

伊都の顔は蒼白だった。今にも倒れそうだ。アラタは部屋に入っていいかとたずねた。

 

「いえ、この部屋はエアコンが壊れているようです。ついさっきまで横になっていたんですが、寝ている間に冷房が動いていて、ともかく寒いんです。尾形さんの部屋にいってもいいですか?」

 

「もちろん、構わないよ」

 

アラタは伊都の手を取った。そのまま二人で並んで歩き、階段から五階へ上がって、アラタの客室へと移動した。

 

五〇一号室にベッドは二つあった。アラタは暖房のスイッチを入れると伊都をベッドに横たわらせた。アラタはいったん部屋を離れ、自動販売機を見つけ出し、そこで温かな缶コーヒーを二本買ってから部屋に戻った。

 

二人はそれを飲むと、ベッドに横たわり、布団をかぶって眠りについた。アラタは非常に疲れていた。彼女は意識をおもむろに遮断していき、温かな闇に身をゆだねた。

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