翌朝になった。アラタは起き上がって隣のベッドを見たが、まだ伊都はそこにいた。それを確認して安心する。
アラタはいつもの習慣で着替えようと思ったが、すぐに自分が寝間着を着ていないことに気づいた。彼女は椅子に座って何度か深呼吸をした。これからどうするかを考える。アラタの中ではほとんど結論が出ていたが、それをもう一度頭の中で検討した。
部屋の鏡台に置いてあった施設案内の紙を見た。食堂は朝の十時まで開いているとそこには記載されていた。壁にかけられた時計を見ると今はちょうど午前九時だった。もうそろそろ伊都を起こしたほうがいいだろう。
アラタは布団にくるまった伊都を起こした。昨晩蒼白だった伊都の顔にはすでに血の気が戻っていた。聞くと気分もいいらしい。二人はともに一階の食堂まで降りた。
厨房に接したカウンターでカードキーを見せると、温かな朝食をその場で用意してくれた。
アラタたちは空いているテーブルにつき、いただきますを言ってから朝食を食べた。
昨日感じた壁や天井から圧迫されるような雰囲気はすでにホテルから立ち去っていた。呪いは消え、すべては平穏でありのままの場所に戻っていた。アラタは安心して朝食を味わった。山口の米はとてもおいしかった。二人は食べている間はずっと無言だった。
食べ終えると、伊都が口を開いた。
「尾形さん」
真剣な声音だった。アラタは伊都の顔を見た。
伊都は言った。
「尾形さんは本当に私に良くしてくださいました。何度もトレーニングに付き合っていただいたし、さまざまな助言を
伊都はそこで深く頭を下げた。
アラタは返事をした。
「わかった。法務省にはそのように報告しておく。君はこの職から降りる」
あらかじめ二人の間で無意識の協同があったように、話はそれだけで自然と決着した。
伊都は一度自分の部屋に戻り、荷物を取ってくると言った。アラタは念のため伊都と一緒に三〇二号室に入ったが、すでに冷房は動きを止めており、室内は十二月の通常の肌寒さになっていた。伊都はリュックサックに自分の荷物を回収して入れた。
アラタと伊都は一階のロビーの受付でチェックアウトを終えた。彼女たちはタクシーを呼び、山口市まで移動をした。
アラタは伊都とともにネットカフェの店舗に入って、そこに用意されていたコンピュータで報告書を作成し、法務省の担当の者にメールで送付をした。メールの本文には事情を書いておき、ただちに解雇の通知書を結城伊都の住所まで送るようにと催促をしておいた。結城邦彦の動きが気になったのだ。
アラタは伊都の身を
伊都はその提案を了承し、二人は新山口駅から新幹線に乗って新神戸駅まで移動をした。
まずは異人館街をアラタたちは散策した。
赤煉瓦の屋敷の食堂では、複数のランプがついたシャンデリアが天井から吊り下がり、その真下には重厚な木製のテーブルと椅子が並べられていた。格子が入ったアーチ状の窓からは明るい陽光がたっぷりと室内に差し込んでいた。アラタは見知らぬ一家がこの場所に集い、幸福そうに食事を取っている場面を想像した。
もう一方の屋敷の居間は豪奢なアンティーク家具に満たされていた。中央の低いテーブルには酒瓶と小さなグラスが置かれている。そのテーブルの周りを取り囲む肘かけ椅子は優雅な曲線のフレームを持ち、クリーム色の布地はそこに腰かける人をそっと包み込むために、自分自身をわずかに膨らませて準備をしていた。壁際には華麗な装飾が彫られた大きな木製のキャビネットが置かれ、皿やグラスを飾っていた。まるでお姫様になったような気分だ、と伊都は言い、アラタは笑った。
三ノ宮駅に向かって下る坂を歩いている途中で赤煉瓦造りの素敵なたたずまいの喫茶店を見つけたので、二人でそこに入った。
店の内部には濃い茶色の木製の家具が置かれ、壁にも同じ色の木製パネルが張られてあった。
そのようにしてアラタたちは神戸を観光した。宿泊したホテルでは、伊都が希望したので和室を選んだ。緑色の畳は清潔でほつれもなかった。畳縁は紺色で、床を規則正しく区切っていたから、まるでそれぞれの床を精霊たちにささげて祝福し、保護しているかのようだった。アラタが畳の上に寝そべると
アラタは東京に戻る予定の日の前日の深夜に、法務省の担当の者からメールを受け取った。メールにはこう記されていた。結城伊都に対して解雇通知書を発送した。南切鬼を通じて結城邦彦には話を通しておいたから、そちらの心配はしないでほしい。
アラタは心から安堵し、迅速な仕事に礼を言うメールを返信しておいた。
翌朝には結城光成からメールが来た。彼は何が自分の身に起きたのかという詳細は言わなかったが、ともかく無事であることを伝えてきた。今は自宅にいて、普通の生活に戻っているという。
すべては終わったのだ。
アラタと伊都は二日間の神戸観光を終え、東京に帰った。新幹線の中で、アラタは伊都に対して、花夜子が我々の職業について知識を得たということを教えておいた。うなずく伊都の表情は少し固かった。
しかしアラタはもう心配はしていなかった。伊都にはもう自分自身で試練を乗り越えていくだけの力が備わっている。それに、そもそもアラタは伊都と花夜子の仲の良さを目の当たりにしていた。だから何も問題はないだろう。一切は流れのまま進んでいく。あらゆる物事は落ち着くべきところに落ち着く。そうアラタは思った。
アラタは列車の座席に深く座り、自然と紗良のことを考えていた。
☨☨☨
アラタは短い旅から自宅に戻ってきた日の夜に、長い夢を見た。それは〝両腕のない女〟が出てくる夢だった。
夢の中でスズカは大工を志す若い男と結婚していた。ヒイネの子供たちは健やかに育っていったが、ヒイネ自身は病魔に侵されて亡くなった。歳月とともに多くの変化がおとずれたようだった。
村は発展していった。それは帝国が一帯を支配し、権力を主張し合っていた部族たちを平定したからだった。さまざまな村や街の間で交易がおこなわれるようになり、その結果として豊かになった。そうした変化の中で、村の宗教観も移ろった。村長は穢れを〝両腕のない女〟にすべて背負ってもらうという体制を変えた。女は半分追放され、半分村に属している存在だということになった。村長は若い村民たちの多くを女の元に遣わして、文字を勉強させた。これから先、帝国と上手く付き合っていくのには必要なことだろうと村長は考えたのだ。村は手に入れた金銭の一部を書籍の購入に充て、女に読ませ、女を通じて村人たちを教育した。
時は過ぎゆく。百年、二百年という時間が一瞬の内にあらわれては消えていく。
村は非常に発展していた。すでにそれは街と呼ぶべき存在になっていた。その隅の小さな家で、等身大の木像が置かれていた。その女の像には両腕がなかった。その家に立ち寄った旅人は家主にたずねた。これは長い時間の経過の内に、両腕が崩れて落ちてしまったのか、と。
家主はそうではない、と明白に答えた。これは〝両腕のない女〟をかたどった像なのだ、と彼は言った。彼女はこの街の発展に寄与をした重要な人物のひとりなのだ。死後、彼女を祝福するためにこの像はつくられた。
旅人は「そんなものか」と思った。彼は初めは欠損のある像を奇異に思った。しかし数日後、家を離れる頃には、すでにその像に一種の美しさを認めている自分がいた。「また、来ます」と旅人は家主に言い、ふたたび旅立っていった。
そこで夢は終わった。
朝だった。アラタは目覚めたあと、自分の中で何かが終わったことを覚った。大切なものが自分の体の内側から去っていき、空気中に溶けて消えていくのをはっきりと感じた。
ハル。
ハル、とアラタは思った。ねえ、私はあなたの力を借りたよ。それはずいぶん偉大な力だったよ。人ひとりを危地から救う力だったんだよ。
〝両腕のない女〟がこの身から立ち去っていくのは寂しいことだ、とアラタは感じた。彼女はアラタにとって十年以上の付き合いがある、一種のパートナーだった。しかし自分は別れを認めなければならない、とアラタは思った。
今度は紗良と向かい合う時だった。アラタは思う。私は彼女を必要としている。紗良の温かな熱と肌の感触を必要としている。紗良と手を繋ぎ、街を歩くのは喜ばしいことだ。私はこれからも紗良の隣にいたい。その笑顔をもっと見たい。
自分自身を捧げよう、とアラタは決心した。まずは自分の過去に何があったかを紗良に共有するところからだ。それはだいぶ難しいことのように思われた。何から話せばいいのか戸惑う。いや、それはどこからでもいいはずだ。そのときが来たら、話したくなったことを、感じたことを、思い出したことを率直に言えばいい。話し方はたどたどしくても構わない。実際に石を動かすことが肝要なのだ。
アラタは次の週末にデートの約束を取り付けようと思い、スマートフォンに手を伸ばした。彼女は新鮮な気持ちでひとつひとつの文字を慎重に打ち込んでいった。
(了)
「アラタ」は本文中に他の書籍の一部を引用しております。引用した文献をここに掲げます。
第一部で引用したディケンズの小説は、新潮社が出している「大いなる遺産」という書籍の一部であり、加賀山卓朗の翻訳によるものです。
第二部で引用した黒田三郎の詩は、思潮社が出している現代詩文庫の「黒田三郎詩集」という書籍の一部であり、詩の題名は「そこにひとつの席が」です。
以上です。お読みいただきありがとうございました。