アラタ   作:六塔掌月

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第一部・第三話

裁判が開かれた。三上(みかみ)春子(はるこ)――それがハルの本名だった――は自分のやったことや動機を率直に述べた。かつての友人が、同じ学校に通うその姉の主導でいじめられていたこと。家庭においても両親は姉を優遇し、その妹を粗末に扱い、巧妙な手口で虐待してきたこと。ハルはそれをまざまざと目撃してきた。ハルは友達と同じように無力な十代の子供に過ぎなかったから、そうしたすべてに抵抗できなかった。できることは二人で寄り添って過ごすことだけで、いつかは社会に出ればそうした軛(くびき)から解放されるはずだという望みを持っていた。しかしそれも友人の自殺という無残な現実の前に砕かれた。友人の両親と姉による攻撃はそれだけ苛烈であり、また執拗(しつよう)であったのだ。

 

友人の両親は彼女が学生であったころから引っ越しておらず、ハルにとって住所や電話番号はあらかじめわかっていた。そこで彼女は電話をして、自分は亡くなった娘の学生時代の友人であり、位牌(いはい)を拝みたいと申し出たのだ。相手は渋ったが、ハルは粘り強く頼みこんで了承を得た。そして一軒家に上がった。父親はおらず、母親だけが家にはいた。ハルはその時点では何も考えてはいなかった。憎いはずの相手の顔を見ても何も感情は湧かなかったのだ。ただ老いた醜(みにく)い女だな、と思っただけだ。

 

位牌を拝んだあと、出された茶をハルが飲んでいる途中に母親がトイレにいった。居間にはハルひとりだけが残され、辺りはしんとした。そこで初めて霊感がハルを襲った。彼女は突然立ち上がって居間の棚を物色し始めたのだ。自分でもなぜそんなことを始めたのかはわからない。そのとき、もしも母親がすぐにトイレから出ていたら、水洗の音とドアを開閉する音がハルに聞こえていたなら、物色は中断され、事件は起こらなかったかもしれない。

 

しかし偶然がハルに味方をした。彼女はその家の鍵を発見したのだ。母親がトイレから戻ってきてからハルは何食わぬ顔をして挨拶(あいさつ)をし、家を退去した。そして真夜中の午前二時に再びそこへ舞い戻ってきた。鋭く光る、大振りのナイフを二本手にして。

 

殺害はたやすくおこなわれた。父親も母親も熟睡していた。ハルは昼間に手に入れた鍵で家へ侵入すると、息を殺し、静かな足取りで寝室を見つけ出した。そして懐中電灯でベッドに横たわった対象の位置を確認すると、そっと上がって、体重をかけないように相手の上半身を跨(また)いだ。ナイフを逆手に持って振り上げ、全身の発条(ばね)を使って力いっぱい頸動脈(けいどうみゃく)を突き刺した。刀身が深く潜り込み、血が噴射する。ハルはすぐに相手の口を左手で塞(ふさ)いだ。痙攣(けいれん)する相手の体にのしかかり、暴れないようにと抑え込んだ。やがて相手の体は静止した。そこまで来たらもう止まらない。ハルはもう一本のナイフで残った相手を同じように処理し、殺害した。それだけのことで簡単に人が死ぬという事実に彼女は驚かざるを得なかった。血みどろの手とナイフ。それらとともにハルは長いこと震えていた。

 

でもしばらく経つとまた冷静になった。ハルは家中の電気をつけてまた捜索(そうさく)を始めた。こいつらは古い人間だ。なら娘の今の住所も紙という形で残されているのではないか。

 

予想は当たった。ハルは犯行をおこなった寝室でメモ書きを手に入れた。ご丁寧に死んだ友人の姉の名もそこには記されていた。間違いない。

 

ハルは朝になるのを待ってからそこへ向かった。タクシーで一時間ていどの距離だった。やはりそこも一軒家だったが、表札を見たものの判然としない。ひょっとしたら結婚をして姓が変わってしまったのかもしれなかった。ハルは焦りを覚えた。

 

そこで運命がまたもハルの味方をした。相手がその家から出てきたのだ。あれから八年の歳月が経っていたが、間違いなく友人の姉だった。様子を見ると、どうもゴミ出しに出てきたらしい。彼女は忍び足で入れ違いにその家に侵入した。鍵はかかっていなかった。ハルはもはや何も考えてはいなかった。家に相手の夫がいたらどうしようなどと、想像すらしなかった。侵入する。そして姉の娘を見つける。四歳の幼い娘だ。幸運なことに他には誰もいない。ハルは娘を発見次第、蹴り倒し、のしかかって首を絞めた。ものの十分で絞殺は完了した。遺体を居間に放り出したまま、ハルは奥の部屋に引っ込んだ。

 

すぐに姉が帰ってきて娘を発見した。悲鳴と混乱が巻き起こり、憐れな姉は腰を抜かして床に座り込んだ。ハルはそれを冷徹(れいてつ)に扉の隙間から観察した。やがてその姉は電話にすがりついて警察へ通報しようとこころみた。姿勢がハルから見て後ろ向きになる。そこでハルはすみやかに扉から飛び出し、姉の背中をナイフで突き刺した。脚を蹴って相手を倒し、馬乗りになって何度も胸と首に刃物を突き立てた。すぐに新たな屍(しかばね)がひとつ出来上がった。

 

やりたいことがすべて終わったので、ハルはバスルームを借りて自分の全身を隈(くま)なく洗うと、元の血みどろの服を着て、最寄りの駅の前にある交番まで出頭した。

 

五ヶ月ほどで裁判は終わった。第一審の判決のあと、彼女は控訴を拒否した。ハルの死刑が確定した。

 

☨☨☨

 

「大変なことになっちゃったね」

 

私の言葉にもハルは反応を示さなかった。我々は仙台市の処刑場内にある面会室にいた。死刑囚は皆ここへ移送されて独房に入れられる。アクリル板の向こうでハルはずっとうつむいていた。

 

善悪については、私は何も考えていなかった。ハルのしたことを責める気にはなれない。何が正しいか何が悪いかは世間が決めることだし、そもそも私にはハルがどれだけ大きな荷物を背負っていたのか、どれだけ彼らを恨んでいたのかはわからないのだ。自分にハルを裁く権利はないし、その資格もないと思っていた。ただ私は少しでもハルと話がしたくて、彼女に笑ってほしくて、言えることは何でも言ったつもりだった。ハルのしたことに共感すると言い、あなたは悪くないとまで告げた。それでもハルは反応を示さない。無表情のままうつむいていた。

 

「その演劇部の友達のことが好きだったの? つまり、実際には友人以上の関係があったのかな」

 

無言。

 

「ハルが死んだら、私も死んじゃいたいな。生きていることに意味なんてないし」

 

無言。

 

「また来るよ。時間はそんなに残っていないかもしれないけれど、私は少しでもあなたのそばにいたいんだ」

 

ハルは何も言わなかった。私は面会室を辞した。そのようにして一回目の面会は終了した。

 

ただ二回目も三回目も結果は同じだった。ハルは会うことを了承はしてくれる。だが何も語ってはくれなかった。彼女の重い沈黙を前に私の心は少しずつ消耗(しょうもう)していった。ハルは何もかもを拒絶しているのだ。話すことなどない、というわけだ。いっそのこと私は次の面会を申し込むための手続きをやめようと思った瞬間もないではなかった。それでも私は粘り強く幾度もハルに会った。処刑場では執行人の身分証を見せると特別な措置(そち)を図ってもらえた。ほとんど毎日私はそこへ足を運ぶことできた。時折ハルは不思議そうな顔をしたものだ。親族でもないのになぜ我々はこうも頻繁(ひんぱん)に面会ができるのだろう、と疑問を顔に表していた。

 

無論、ハルのやったことは赦(ゆる)されることではない。彼女のなしたことはあまりにも惨(むご)かった。それは私にもよくわかっていた。でも恋人とそれ以外のものを天秤(てんびん)にかけたら、簡単に是非の結論が出てくるものではなかった。私の心の中は荒れ狂った。嵐が渦巻き、颶風(ぐふう)が心の家屋を吹き飛ばした。ハルが、死ぬ? そんなことがあって良いのだろうか。それもみじめに誰かの手によって殺されるのだ。斬首。それはおよそこの世で一番無残な死に方だ。誰かに首を斬り落とされるだなんて。

 

誰かに、首を。

 

私はそこで初めて罠に気がついた。この日本に女を相手取る処刑人は二人しかいない。私ともうひとりだ。つまり私が法務大臣から執行を命令される可能性もゼロではないのだ。

 

どうする。

 

私は処刑人の試験を合格した際に渡された連絡先のことを思い出した。もうひとりの女処刑人。自分の先達の連絡先を私は与えられたのだ。「どうしてもこの仕事で行きづまることがあったときにだけ、連絡を取るといいでしょう」私はそのように役人から告げられていた。

 

私は自室の棚の奥にしまっていた書類を引っ張り出すと、そこに記されていたメールアドレスにメールを出して、事情を説明した。翌日に相手から返信が来て、直接自宅まで来るようにと告げられた。

 

☨☨☨

 

その女の名は南(みなみ)切鬼(せっき)といった。家は奈良県の片田舎にある。

 

四月のことだった。私は東京駅から新幹線に乗った。鋭い刃(やいば)を思い起こさせる形をした車両が駅のプラットフォームに滑り込んできて、扉を開けてこの身を招いた。内部では、金属でできた獣の臓腑(ぞうふ)のようにあらゆるところに座席が立ち上がっており、狭かった。私は指定席の上で身を縮めて時を過ごした。

 

さまざまな風景が高速で窓の外をよぎっていった。でもそれは私に何の感慨(かんがい)も起こさなかった。あらゆる家屋、あらゆる畑が目の前を通過していく。日本という土地。そこに住んでいる人々。そこで働いている人々。結局はそういった無垢(むく)な人たちの集合がハルの命を取ることを求めているのだ。彼らと私の間にはだいぶ距離があった。この窓越しよりも遥かな距離が。

 

京都駅に着いた。ちょうど正午だった。私は朝起きてから何も食べていないことに気づいたので、改札を抜けてから駅ビルをうろつき、適当な店を探した。蕎麦(そば)屋があったのでそこで昼食をとったが、味はしなかった。多分今は何を食べても味はしないのだろうと思われた。

 

店を出て近鉄の改札を通過し、列車がやって来るのを待った。急行に乗り、座席に座った。しばらくして列車は出発したが、その速度は古い時代の死刑囚を移送する馬車のようにゆるやかなものだった。目的地に着いて閉じ込められてしまう前に、憐れな囚人が束の間の自由を味わえるよう、わざとゆっくりと走っているのだ。

 

私はちょうど一時間で目的の駅に着いた。プラットフォームに降りる。改札を出て、駅に隣接した土産屋の店内を覗いてみたが、客はひとりもいなかった。そこには隅に肉屋と餃子(ぎょうざ)屋があって出来合いのメンチカツや餃子を売っていたが、そんな小さな餃子屋にも店員は複数人いた。

 

駅前のロータリーにも人影はなかった。がらんとしている。バス停の時刻表を見たが、次にバスが来るのはずいぶん先だった。タクシーも見つからない。なんだか世界の果てまでやって来たような気分だな、と私は思った。私はスマートフォンの地図を見ながら歩くことに決めた。かなりの距離があるが一時間も歩けば目的地に着くだろう。

 

私は駅前の大通りを進んだ。途中で郵便局と地方銀行を見かけたが、いずれの建物も看板は古臭く、色褪(いろあ)せていた。十字路を左に曲がって、国道沿いを歩いた。ここまで来ると様子は違って、車はたくさん通っていた。排気ガスや騒音とともに私はどこまでも歩き続けた。途中から両脇に何もない土地が広く横たわった。無と空間だけが豊かな場所。

 

私はハンバーガーショップやコンビニエンスストア、天理教の詰め所を通り過ぎ、高速道路と一般道路の接続箇所までやってきた。交通量の多いそこを苦労して越すと、ようやく目的地まで近づいてきた。右折し、傾斜した坂を登っていく。急に緑が増えた。近くには失われた昔の時代を悼(いた)むように神社と古墳が存在していた。さらに歩く。

 

スマートフォンの地図アプリが、あらかじめ登録しておいた一軒家の前まで来たことを私に知らせた。よく見ると「南」と表札が出ている。ここだ。私はインターフォンを押して反応を待った。

 

「入りなさい」

 

玄関を開けて家の中に入った。狭い一本の廊下があった。入ってすぐの左手の部屋から扉越しに「来なさい」と声がしたので、私はそこを開けて内部へと足を踏み入れた。

 

そこには痩(や)せた体躯(たいく)の、四十代後半と思われる歳をした、厳しい目つきの女性がいた。部屋には向かい合った二つの椅子以外には何も置かれていなかった。がらんどうの部屋。この女性こそがおそらくはもうひとりの女処刑人、南切鬼だろう。

 

私は名乗った。

 

「尾形と申します」

 

南切鬼は口を閉ざしたまま顎(あご)でもうひとつの椅子を指し示した。座れ、ということだろう。私はそこに腰を据えると、まっすぐに南切鬼に相対した。その女の顔には歴史のある年輪とも言うべき皺(しわ)が刻まれていた。髪はすでに一部が白い。そして深みのある眼をしていた。それはまるで深く冷たい湖のようだった。とても豊かな水を湛(たた)えているが、澄(す)んでいるために底まで見通すことが可能な、森の奥にある湖だ。

 

私はその眼に見据えられて、ぎくりとした。南切鬼はすでにこちらの心の混乱や絶望を何もかも知っているように思われた。この事件が起こる前から彼女はすべてを予見し、透徹(とうてつ)していたのではないかと思われるほど、その眼は賢者のそれを想起させた。

 

「語りなさい」

 

南切鬼はそれだけ言うと腕を組み、目を閉じた。事情をすべて説明しろ、ということだろう。私はハルについて知っていることを何もかも話した。初めての出会いや逢瀬、そしてハルが殺人を犯したことまで詳細を話した。私とハルは互いに深く愛しあっていること。だから私は彼女の処刑に立ち会いたくないこと。それを強く訴えた。

 

南切鬼は目を開き、言った。

 

「つまり、もし自分が斬首を依頼されたら、私に代わってくれとお前は言いたいのかね」

 

私はうなずいた。ハルの死は避けられないとしても、せめてそれぐらいは許されていいはずだ。

 

しかし先達の返事は無情だった。

 

「それはまかりならん」

 

私は予想外の返事に焦って言った。

 

「どうしてですか。こういうときのために、助け合うために我々はいるのではないのですか?」

 

南切鬼は首を横に振った。

 

「それは違う。我々はあくまでもスペアの関係に過ぎないのだ。一人が死んだときのために備えてもう一人がいる。それだけの関係性なのだ。我々は本質的には一個の存在。一個の斧に過ぎん」

 

「スペア?」私は驚いて声を上げた。

 

「私たちがただの物だって言うんですか?」

 

南切鬼は答えた。

 

「そうだ。我々はある意味においては人間ではない。我々は共同体に排斥(はいせき)された存在だ。そして、そのような形でこそ在(あ)ることを求められている」

 

「わかりません。大体、なぜ共同体は自分から排斥したものを再び求めるのですか? わけがわからない」

 

「では聞くが、お前は自分がこの社会の一員だと日々感じながら過ごしているのかね」

 

そう問われると、答えは否(いな)だった。私は本質的な意味においてはいかなる共同体にも属していなかった。生まれ育った家庭。学校。インターネット上のコミュニティ。処刑を遂行する組織。多くの人々が働く社会。日本という国。どんな場所においても私は異邦人なのだ。今までの生涯で、何につけても帰属感というものを抱けたためしがない。

 

私は不承不承答えた。

 

「違います」

 

南切鬼は続けた。

 

「私も同じだ。私もお前もいかなるところにも属せない。そしてそのような人間をこそ、正しい共同体は必要とするのだ。穢(けが)れを引き受けさせる存在として」

 

「でもそれとこれが、どう関係します? 私はただ、あなたがハルのことに責任を持ってくれればそれでいいんだ」

 

南切鬼は断固として拒絶した。

 

「その仕事はお前がやりたまえ。いいかね、仕事はそれで終わりじゃないんだ。これからも任務は続いていく。何十年もだ。お前は〝引き受ける〟存在として生涯を貫く。役割というやつだよ。私やお前に限らず、誰もがこの世界の中では何らかの役割につかざるを得ない。自分自身を演じざるを得ないのだ。本当の自分などどこにもいない」

 

女処刑人はおごそかに最後の言葉を告げた。

 

「帰りたまえ。そして義務をやり通すのだ」

 

☨☨☨

 

ハルの担当処刑人が決定した。指名されたのはこの私、尾形阿羅多だった。

 

呪われている。なぜ私なんだ?

 

私は何らかの方法で自分の仕事を拒(こば)むことを考えないでもなかった。執行のその瞬間に斧を打ち捨てて、逃げ出すのはどうだろう。でもそうしたところで物事が解決するとも思えなかった。私は公務を放棄した罪を問われ、拘留(こうりゅう)されることだろう。そしてハルは南切鬼によって殺される。なんにせよ最終的な結果に変わりはない。

 

この二ヵ月間、私はハルと面会を続けていたが、進捗(しんちょく)はなかった。ハルは石のように身を固くし、口を閉ざした。でも彼女だっていつまでもそうしているわけにはいかないはずだ。これから四ヵ月以内にハルは死ぬのだ。その不安と恐怖に耐えられるとも思えない。

 

私は仙台市のホテルに宿泊して、その場所から連日ハルとの面会に通っていた。南切鬼との対話から一週間後に、我々はアクリル板の仕切りがない面会室へと通された。それは大層不思議なことだった。決まりの外にある措置(そち)だ。案内した刑務官に理由をたずねたが答えは返ってこなかった。あるいは南切鬼がそのような特別な措置を図ってくれたのかもしれない。

 

私は刑務官の監視の下にハルと相対した。

 

ハルの様子はいまや大きく変わっていた。その顔には血の気がなかった。表情もなく、すでに冥界へと案内されて、自分の行く末を確かめた人のように思われた。

 

私はハルを強く抱きしめた。

 

「ごめんなさい、ハル。あなたを守ることができなくてごめんなさい。私が代わりに死ねたらいいのだけど」

 

ハルは最初されるがままになっていた。でもやがて静かに泣き出した。次第に声が生まれ、彼女の嗚咽(おえつ)は大きなものとなって部屋に満ちた。親を失くした幼い子供が泣いて、母を呼ばわる声のように、それは悲痛なものとして私の耳朶(じだ)を打った。

 

ひとしきり泣くと彼女は落ち着いた。でも我々は何を話せばいいのかわからなかった。終わりはすぐ前に迫っている。ただ、それを直視できないのだ。いや、したところで抵抗のしようもない。話すことなど何もないのだ。

 

「ねえ、ハル。私も一緒に死のうかな? もし執行の前に私が死んだら、あなたも死ぬのが怖くなくなるかもしれないし」

 

その提案はハルにとって救いとして機能したらしい。彼女は小さな驚きの表情をつくり、しばしのためらいのあとに、かすかに首を縦に振った。

 

「じゃあ私も死ぬよ。それでさ、その報(しら)せがここに届くように取り計らう。だから私たち、次の世で一緒になれるね」

 

我々はキスを交わした。そのまま時間が来るまで部屋の隅で抱き合い、身動きひとつしなかった。久々に感じる人のぬくもりと肉体の柔らかさが私を救ってくれた。自分も同じようにハルに慰(なぐさ)めを与えられていたらいいのだがと、願わずにはいられなかった。

 

それから毎日ホテルから処刑場へ通った。抱き合い、キスをして、私はハルに慰めの言葉を与えた。会話らしい会話などはなかった。彼女が涙を流し、私が抱きしめる。泣きやんだらキスをし、また泣き始めたら抱きしめる。あるのはそのくりかえしだけだった。

 

「明日はここに来れない。その代わり、私が死んだらすぐにここへ連絡が来るようにするよ。そのための準備に時間を使うから」

 

しかし今度はハルに拒まれた。「いいのよ、アラタ。あなたは死ぬ必要がない。あなたが死んだら私はもっと悲しくなるから、やめてほしい」

 

「でも、あなたが死んだあとの人生は無味乾燥なものだよ。私に生きる意味なんてない」

 

ハルはそこでうつむき、しばらく考えてから言った。

 

「また新しい恋人を見つければいいじゃない。私より素敵な女の人を」

 

「そんな人はいない」

 

「いるのよ。きっと。あなたが必要とし、また必要とされる人が、どこかに」

 

「なんでそんなことを言うのさ。私のことが嫌いになっちゃったの?」

 

「違うわ」彼女は怒っていた。聞き分けのない子供を叱るように、ハルは私の眼を見据えて言った。

 

「ともかく、死んではいけないわ。もしあなたの死の報せが届いたら私は打ちのめされる。絶対によしてちょうだい」

 

その拒否は私の胸を突き刺した。重い沈黙が我々の間に横たわった。

 

「ところで、どうしてあなたはこうも頻繁に私と面会できるのかしら。すでに規定の面接回数を越えているように思うのだけれど」

 

ハルの問いは私を動揺させた。私はたぶん表情をなくしてしまったのだろう。ハルはまじまじと私の顔を見つめて、首を傾げた。その後は時間いっぱいまで抱きしめ合って過ごした。

 

我々はさまざまな話をした。私もハルもできる限り今の状況を忘れるようにした。もしもここから出ていくことができたらどこへいきたいか。どんな場所を旅したいかを熱心に語り合った。イタリアへいって地中海を見たい。フランスもいいだろう。ノートルダム大聖堂を一度は見たいものだ。そうした空想を語り合った。

 

あるいは〝両腕のない女〟についても話をした。

 

〝両腕のない女〟は架空の人物ではあったが、たまには落ち込むことがある。女は十四歳のとき、抵抗しようとする体を親族に取り押さえられ、父親から両腕を切り落とされた。そこには何日間にも渡る致命的なまでに激しい痛みと、発熱があった。女は大量の出血にもかかわらず幸運なことに一命をとりとめ、これからの生活について村の長老から教えを受けて、森の奥にある家屋へと放逐(ほうちく)された。

 

女はある晩に寝床でそのような古い記憶を思い起こしていた。悲しい記憶。文字通りの意味において決して癒(い)えることのない傷だ。

 

女はそういうときは家から出て星空を眺める。幼いころに祖母から教わった星座を探し、見つけた星の図形に心を託す。女は自分も空に浮かび上がり、星の連なりの一員になったような気持ちになる。身が透明になり、自分というものが消えていく思いがする。すると、不思議と心が休まるのだ。

 

我々はそういうおとぎ話をつくって共有した。

 

それにしても、疑問の棘(とげ)は確実にハルの中枢(ちゅうすう)に突き刺さったようだった。彼女は時折体を離しては、疑問を投げかけるような視線を私に向けるようになった。確かにヒントはすでに与えられていた。すなわち私の給料はいい。いつも暇である。人から忌(い)まれる業種。そして死刑囚と無制限に会える。

 

ある日のことだ。ハルは自分の中で答えに達したのだろう。今までで一番真剣な顔をして、ほとんど私を睨(にら)むようにして問うてきた。

 

「アラタ。あなたの仕事は何?」

 

私は答えられずにただ「ごめんなさい」とだけくりかえした。でもそれはハルの確信をますます深める材料にしかならなかった。彼女の顔に貼りついた絶望が深まり、眉間の皺をつくりあげた。

 

ハルは私の頬を打って言った。

 

「答えられないの? 卑怯者」

 

私はついに観念して打ち明けた。「私はね、あなたを殺す役割についているんだ。あなたの刑を執行するのは私だよ。今までに私は九人の女を屠(ほふ)ってきたんだ」

 

辺りはしんとした。すべての音は退場し、空気の分子運動は停止した。冷たい無だけが横たわり、事物を覆っていた。そこには壁もなければ扉もない。明かりもなければ闇さえない。私もハルも、本当にはそこにいないのだ。無だけの空間で、なにもない。

 

ハルはやがてぽつりと呟いて拒否の意を示した。

 

「出ていってちょうだい」

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