アラタ   作:六塔掌月

4 / 13
第一部・第四話

ハルの執行日が決まった。ちょうど今から一ヵ月後だった。

 

私はやはり毎日処刑場まで通って面会の申請を出したが、ハルから拒まれて会えなかった。最初の一週間は仕方がないものと受け入れていたが、次の一週間も会えずにいることに私は耐えられなかった。私は祈った。もう時間がないんだよ、ハル。怒っているのはわかるよ。今まで隠していてごめん。でも、どうか赦してほしい。このままお別れなんて嫌だ。

 

執行日の五日前に私は面会を許可された。

 

ハルと会った。彼女はひどく痩せていたが、同時に驚くほど落ち着いた顔をしていた。死を前にした人間とは思われない。ハルは私が刑に当たることをすでに納得していると言った。考えてみれば他の人に手をかけられるよりはずっといいとのことだった。

 

ハルは処刑場から与えられた分厚い服のカタログを出してきて私に言った。この中から自分が当日に着るものを選んでほしい。

 

「私が選んでいいの?」

 

ハルはうなずいた。「何でもいいのよ。あなたが好きなものを選んでちょうだい。それを着ている私を想像しながら選んでね」

 

私はカタログをめくりながら考えた。ハルはいつも冷静だった。地味な服を着て、必要以上に目立たないようにしていた。顔の造作は明確に美人と言えたが、化粧は薄く、そして笑うことは少なかった。だから多分、ハルの美しさがわかる人は世間にそう多くはなかったはずだ。なぜなら人は顔というものを単なる静的な形として認めているのではなく、動きをともなう表情としてとらえ、美醜(びしゅう)の判断をするものだからだ。

 

それと服。ハルはいつも着飾ることの核心であるそれをあえて簡素なものにしていた。私から服を贈られるのも拒んでいた。だが彼女はここに来て、とうとうその態度を変えたようだった。死を前に、着飾ることを受け入れるということ。私はその意味を考慮しながら、慎重に彼女の服を選ぶことにした。

 

迷った末に、私は水色の可愛らしいワンピースを選ぶことに決めた。いつもハルが着ていたものよりは華やかだ。しかし豪華に過ぎるということもない。これを着たハルの横に並び、デートをしたいものだと私は思った。

 

「これにするの? とても可愛いわね。ありがとう」

 

ハルは素敵な笑顔を見せた。私はそれに耐えきれなくて泣き出した。どうして今まで会ってくれなかったの? もうすぐなんだよ。我々は終わりの目の前まで来てしまっているんだよ。

 

ハルは私を抱き寄せて頭をなでた。「もちろん私だってあなたに会いたかったわよ。でも、ためらいを覚えたの。溺(おぼ)れるように愛し合えば愛し合うほど、きっとあなたがあとで受ける傷は深くなってしまう。あなたが立ち直れなくなったらどうしよう、って思ったの」

 

その発言を私は理解できなかった。私は部屋の隅の壁にもたれて座りながら、ハルを抱きしめた。何度もキスをし、愛の言葉を熱心にささやいた。

 

面会の終わりにハルは手紙を渡してきた。

 

「私が死んだらこれを読んでね」

 

私は何も言わずに受け取った。

 

「そして、会うのはこれでもうおしまい。あとは当日に顔を合わせましょう。執行する者とされる者として」

 

私はその拒否に深く傷ついた。これは本当は明かしてはならないのだけれど、実は執行日はもう近づいているんだよ。でも逆に言えば、まだもう少しだけ日があるということじゃないか。どうして会ってくれないんだ。私はハルにそう強く訴えた。

 

しかしあくまでもハルは穏やかに私を拒んだ。

 

「私は心を安らかにして旅立ちたいの。許してちょうだい」

 

☨☨☨

 

当日になった。ホテルを出て処刑場へ赴(おもむ)く。タクシーを呼んでもよかったが、やはり私は歩くことに決めた。三十分ほど歩いたところで門前までたどり着いた私は、建物を見上げた。殺意を湛えた厳(いか)めしい構えの塀が高く聳(そび)え立っていた。それは剣呑(けんのん)な鉄条網を掲げて、内部に捕らえた者を決して逃さないことを宣言していた。独房。処刑器具。斧。仮面をつけた数々の刑務官たち。それらの殺人機構の中心を成す要素として私は内部へ入っていった。最後の歯車、斬首人として。

 

裏口の門衛に身分証を見せたあと、私は控室(ひかえしつ)に連れていかれ、いつも使っているものと同じ斧と仮面を与えられた。私は服を着替えたあと隣接した広い部屋に移り、何度か斧の素振りをした。今までに経験したことのない緊張感と危険な気配が私の耳の後ろににじり寄ってきた。五六回斧を振っただけで腋(わき)の下に汗をかく。これも初めてのことだ。冷たい滴が肌をつたった。体が熱いのか冷えているのかわからない。

 

足音が遠くから聞こえてきた。一般から募集された、三十人ほどの見物人たちが処刑の間に入場したのだろう。彼らは用意された安いパイプ椅子に座り、その時が来るのを待ち受ける。この国に唯一用意された野蛮な風習。一種のショーだ。

 

囚人が連行されて来るのはそのあとになる。処刑室は分厚いガラスで二つに区切られており、手前の見物人が座るスペースと、奥の処刑が実施されるスペースとに分けられていた。そこへハルが連れてこられる予定だった。もちろん彼女の両脇はしっかりと屈強な警備隊員が固めていることだろう。ハルはすでに囚人の控室で水色のワンピースを着て、化粧を施しているはずだ。

 

控室の扉がノックされた。私は仮面を身につけると静かに扉を開けて廊下へ出た。もちろん斧も携えている。無愛想な薄暗い廊下がまっすぐに目的地へと続き、私を招いていた。この廊下もやはり何十年もの間、こうやって覚悟を決めた処刑人の歩みを支えてきたのだろう。しかしその歴史の中で自分の恋人を殺(あや)めた者が、果たしてひとりでもいただろうか。

 

処刑室に繋がる扉の前に立った。脇に立った刑務官が扉を開けてくれた。まず見えたのは、ガラスの仕切りの向こうにいる見物人たちだった。彼らはここへ案内される際にカメラやその他の機械をすべて取り上げられる。だから無遠慮な光が私の仕事の邪魔をすることはない。また、彼らは経歴や素行を役所に調査され、問題ないと判断された者だけが選定されていたから、大声を上げることもない。最初から最後まで静粛(せいしゅく)にしてくれる。それはひとつの救いではあった。

 

次に見えたのは囚人の体を固定する金属製の器具だった。その横にハルが立っている。私の選んだ服を着たハルが。ここからは背中しか見えなかったが、彼女は両脇に立った警備隊員たちによって軛(くびき)に繋がれる前に、束の間私と相対した。水色のワンピースを着ている。くちびるは紅(べに)を引き、睫毛(まつげ)はいつもより輝いて見える。ハルと私の視線が交錯した。私の全存在がまなざしになった。目の前の絵が放つ光を必死になって私の目玉は吸収し、記憶の大切な倉へと運び込んだ。

 

しかしその映像もすぐに溶けて消える。ハルは頭を見物人たちの方へ垂れる形で器具に体を繋がれた。それで今の私の位置からは脚と背中しか見えなくなった。そのためだけに待機していた刑務官が彼女の頭にとりつき、髪を切った。

 

部屋の内部へと私は歩を進めた。歩くにつれて視界の中の映像は移り変わり、ハルの履いた靴の裏と、裸の足首と、水色のワンピースの可愛らしいスカートが見えた。回り込むように横へと進む。するとまた映像は変化を遂げ、器具に苦しそうに固定された両腕と胴体が目に映った。さらに進み、ハルの頭部があらわれる。空気が重かった。私は水の中に全身を沈め、泳ぐ人のようにゆっくりと手足を動かして処刑室の中を歩いていった。あなたの言った通りだよ、ハル。確かに人間は脚だけでバランスが取れるものではない。歩くときにさえ腕が必要だ。とりわけこれだけ重く、長い柄の斧を手にしている時には。

 

そしてついに私はハルの頭の脇にたどり着いた。彼女の長い髪は無残に切られ、真っ白で綺麗なうなじが見えた。刃が滑らないための措置だ。私は思った。この息をすることさえ困難な部屋に足を踏み入れてから、私は今までに何人の彼女を見てきたろう。正面に立つハル。倒れて横向きになったハル。真っ白な首のハル。変わりゆく映像たち。でもまだ、彼女の変化は残されているのだ。

 

私は両足を前後に開くと斧を高く掲げた。ぴたりと空中で刃を停止する。私はいつも以上に長く間を取った。私は上手くやれるだろうか。あるいはみじめに失敗するのではないか。そうした逡巡(しゅんじゅん)がなかったと言えば嘘になる。でも今までに九人を屠ってきた処刑人の経験が私を支援した。何度目かの呼吸をした、その瞬間に周囲の空気の色が変わるのが感じられた。皆が私を見つめている。完全な静謐(せいひつ)がおとずれ、柄を握りしめる手に必要なだけの力が入る。私は刃をかすかに振って、反動をつけてから斧をまっすぐに下ろした。勢いよく振り下ろされた重い鋼鉄の刃の真ん中の一点が確かに白い首の中央に当たり、肉の抵抗を押し返したが、それもすぐに柔らかく切り裂かれ、硬い頚椎(けいつい)にいき当たったものの、もはやその勢いは止められるものではなかった。確かな手応えとともにハルの首はすっぱりと切断された。それは床に落ち、残った胴体はすさまじく血を噴射した。すなわち床に惨たらしく転がった女の首。それが十人目のハルの映像だった。

 

私はその首の表情を見ないようにそっと目をそむけながら拾うと、見物人たちの前に掲げた。両手が生臭い血にまみれる。しばらくそうやって立ち尽くしたあと、私は控えていた警備隊員に首を手渡し、処刑室から出ていった。私は自分を平静に保つことに全力を傾けながら、控室へと戻った。仕事は終わった。

 

後日に簡素な葬式が営まれた。私も参列することができた。私はそこで初めてハルの親族を見かけたが、母親がひとり、喪主としてあらわれた。他には四人の親族らしき人々がいた。我々は始めに挨拶(あいさつ)を交わしたのみで、それ以上口を利くこともなかった。私は葬式のあいだ母親の様子を観察していたが、彼女は衝撃のあまり口も利けないというよりは、単に娘に対して怒っているように見えた。たぶん二人は仲が良くなかったのだろう。他の者たちも思わぬ形で迷惑をかけられて、うんざりしてるように見えた。それでも葬式に参列しただけ、彼らは親切な人達なのかもしれない。

 

でも、別にどうでもいい。

 

私は遺骨が墓石の下に収められたのを確認してから母親と挨拶をして、その場を離れた。

 

葬式から自宅に戻ってきた日の夜に、私は初めてハルから渡された手紙を開いた。そこにはこう書いてあった。

 

「アラタへ。このような形になってしまって本当にごめんなさい。まず最初に言っておきたいのは、私の犯した罪はとても償(つぐな)いきれるものではない、ということです。私は極悪人です。やってはいけないことをやりました。今ではそのことを後悔しております。それは死によってのみ贖(あがな)われる類(たぐい)の罪なのであって、今や私は誰にも反論や自己弁護をするつもりがありません。私は黙って惨(むご)たらしく死にます。それが自分に合った処遇だと心から思っております。そういうわけですから、あなたは自分のしたことで傷つかないでください。あなたはこの社会の総意を実現しただけの話です。それは公正な仕事です。これからもきっちり犯罪者を裁きつづけてください。何ひとつ後ろめたいことはないのです。あなたを愛しております。あなたの次の恋が素敵なものでありますように。三上春子」

 

☨☨☨

 

一年あまりが経過した。

 

私は最初の半年間でずいぶん衰弱してしまった。自室のベッドに横たわり、身を折り曲げて、時間が経過することに耐えた。恋人が死に、にもかかわらず自分だけが生き延びているという事実に耐えた。ある時間帯においては自分は無であり、心は透明で、いかなる感情もやって来なかった。そこでは私はただ麻痺しているだけで無傷でいられた。

 

しかし別の時間帯においては違った。やって来るのはハルが失われてしまったという悲しみの奔流(ほんりゅう)であり、その悲哀は刃となって私の心を突き刺した。心には服もなければ鎧もなく、剥き出しの裸だった。だから刃に切られれば血を流した。私は流れた血を抱きしめるためにベッドの上で必死に身を丸めた。血は生ぬるい温度をしており、どろりと粘つき、独特の臭みがあった。嫌だ、と私は思った。ハル、なぜあなたは消えてしまうんだ、と私は胸中で叫んだ。実際に叫ぼうとして喉がひどく渇いている事実に気づき、苦労してベッドから身を起こして台所までいき、水道水を飲んだ。飲み終えたあとは私はまたベッドに戻って倒れ込んだ。

 

自分で殺したんじゃないか、と誰かが耳元でささやいた。その通りだった。私は自分を守ろうとして弁護人を呼び寄せた。顔のない、影だけの男である弁護人は直立して法律を述べた。被告は決まりにしたがって斧を振るっただけで、無罪であります。それは例外的な殺人として法律上も許可されております。それはまさに正義の鉄槌(てっつい)であります。

 

違う。

 

私は役立たずの弁護人を足蹴にして追放すると、涙を流した。熱い涙は次から次へと目からあふれ出してきて、止まらなかった。私は懸命に体を折り曲げて自分で自分を守ろうとした。しかし、何から? 私は何からこの身を守ろうとしているのだ? 私は自分を害するものの正体を見極めようとして、闇に向かって目を凝らした。

 

それは、私だった。自分がこの身を背後から攻撃していた。私は深い諦観(ていかん)とともにそっと目を閉じて、ただ打たれるままに任せた。苦悶(くもん)は果てしなく続いた。

 

ハルは消えた。ハルは失われてしまった。もう二度とふれられない。そして、それをやったのは自分なのだ。斧を振りかぶり、分厚い刃を首筋に叩きつけて命を奪った。

 

私がハルを殺した。

 

またしても限りない苦悩が私を襲った。悲しみ、喪失(そうしつ)の念。別に名前は何だってかまわない。ありとあらゆる否定的感情が一ヶ所に集結してこの身を強く打った。死の雨が広い土地に降りかかり、それを全長何キロメートルにも渡る巨大な装置が受けて集めている。それが私という人間の上にだけ落とされているのだ。死の雨は結集すればするほど重たくなり、毒性を帯びて、この身に刺すような痛みをもたらした。鼓動が激しくなり、私はぎゅっと拳を強く握った。辛い。何という残酷な刑だろう、これは。

 

私は半年に渡ってベッドの上で煩悶(はんもん)を続けた。それは時折トイレや食事のためだけに起き上がる以外にはずっとベッドの上で身を折り曲げるだけの生活だった。果てしのない痛苦のくりかえしに私は自分の身をさらした。なぜ自分が死ななかったのか、本当に不思議なぐらいだった。

 

暗黒の半年間を抜けると私は外を歩けるようになってきた。私はふらふらと近所をさまよい、なんとなしに喫茶店に入ると、カウンターに座って、向こう側で男の店員がコーヒーを淹(い)れる手順を眺めた。

 

店員は慣れた手つきでフィルターを濾過機(ろかき)にかぶせて固定した。彼は濾過器を漏斗(ろうと)につけると、漏斗の底の中央に濾過器が来ているかどうかを竹べらでつついて確かめた。彼は温める目的で一度フラスコに熱湯を注ぐと、しばらく待ってからフラスコの湯をカップにも移した。店員は再度フラスコに十分な量の熱湯を注ぐとビームヒーターにセットした。そのかたわらでコーヒーの粉を漏斗に入れ、漏斗をフラスコに差し込む。彼は竹べらを使ってコーヒーの粉を湿らせると、漏斗の湯を攪拌(かくはん)した。

 

時間が経過した。店員は律義にストップウォッチで時間を確認してからビームヒーターの火を止め、湯がすべて漏斗からフラスコに移動するのを待った。漏斗を取り外し、カップの湯を捨てる。

 

彼はそのフラスコを私のところまで持ってきて、まずカップをテーブルの上に差し出した。次にフラスコよりカップへとコーヒーを注いだ。どうぞお楽しみください。明瞭な声で店員はそう言ってから立ち去っていった。

 

私はその一連の動作を見て思った。人は生きているな、と。その店員だけではない。他の席にも客という人間がいて、息をし、何かしらの食べ物や飲み物を摂取していた。私もそうだ。私もその内の一人で、生きるために物を食べ、コーヒーを飲んでいた。他人事(ひとごと)じゃない。命は他人事じゃない。

 

私は泣きじゃくりながらコーヒーを飲んだ。私のそばを通ろうとした新たな客がぎょっとした顔で私を見ていた。久しぶりに飲むコーヒーは旨(うま)かった。

 

私はこのままではいけないな、と思った。

 

私は喫茶店を出て、買い物をしてからマンションに戻ると、紙とシャープペンを取り出して机に向かった。手紙を書こうと思った。ハルに向けて長い手紙を書くのだ。

 

私はその日から半年をかけて文面をつくった。文面は最初は混乱していた。何を言いたいのかわからない、ありのままの自分の感情だけをぶつけた、幼い子供のような手紙だった。私はそれをくりかえし消しては書き、徐々に自分の言いたいことをひとつに収束させていった。ととのえることが肝心だ、と私は思っていた。みっともないところをハルには見せられない。なぜなら私はもう十分なほど苦しんだからだ。そしてこれからもこの荷を背負っていく。ならば、せめて一度はハルに対してしっかりとした自分を見せたい。自分は大丈夫だと言いたい。

 

手紙を書いている途中で私はハルとの思い出を幾度も反芻(はんすう)していたが、どうしてか単なるおとぎ話でしかない〝両腕のない女〟が頭に浮かんでくるのだった。それが私の中で消化しきれず、課題として残っているような感じがあった。といっても重荷としてではなく、胸の中にできた空洞(くうどう)にぽっかりと浮かんでいる小さな精霊として、それは存在していた。ぼんやりとした光をまとった、寡黙(かもく)な、癒えることのない傷を負った、でも実はたくましい人物として、それは存在していた。〝両腕のない女〟はいつの間にか私の中に住んでいた。私はそれも手紙に書くことにした。すると自分の言いたいことがきちんとひとつにまとまっていく感覚がしたのだ。

 

長い手紙が完成した。私は机の前で深く息を吐いた。

 

☨☨☨

 

私は一年ぶりにハルの墓前にやって来た。

 

季節は夏で、野では多くの花々が烈日に凋(しぼ)んでいた。町では熱い危険な陽光が人々の体を照りつけ、彼らを執拗に苛(さいな)んでいた。私は墓地までの道中でたっぷりと汗をかいた。

 

私は何ひとつ日をさえぎるところのない場所に立ち尽くし、恋人の墓標を眺めやった。持ってきた花束を挿して、線香に火をつけて供えた。墓地には私以外に人影は見当たらなかった。

 

私は手紙を取り出すと、墓石に向かってそれを読み上げた。

 

「ハル。あなたにこれだけは伝えておかないといけないと思って私はここへやって来たよ。戻ってくるまでにずいぶん時間がかかってしまった。ごめんね。でも仕方のないことだったんだよ。私は本当に落ち込んで、自室から外に出るだけでも大変だったんだ。鏡を見たら頬もこけていた。どうも私は大分痩せてしまったようだ。

 

でもきちんと半年をかけて回復を図った。だから最近は調子がいい。ようやくあなたのいる場所に戻ってくる決心がついた。それでさ、私から伝えたいのはこういうことなんだよ」

 

私は目を閉じ、深く呼吸をすると、また目を開いた。

 

「尾形(おがた)阿羅多(あらた)は三上(みかみ)春子(はるこ)のことが好きだ。大好きだ。私はあなたから色んなものを受け取ったし、これからもそれを大事にしていく。いかなる時でもあなたを胸の奥に大切にしまっておいて、折にふれて思い出す。そのことを約束するよ」

 

私は持ってきたペットボトルの水を飲んで一息ついた。

 

手紙の次のページを取り出した。ここから先は自分なりに今回の事件をふりかえって導き出した結論について述べていた。

 

朗読する。

 

「あなたは、人は何かを産み出せばそれに責任を持たなければならない、と言ったよね。それについて私は自分なりに整理してみたんだ。あなたは多分こう言いたかったんじゃないかな。人は傷つけられたり、大切なものを取り上げられたりすると、悲しみという負の感情をつくり出してしまう。そこから逃げることはどうしてもできない。感情に対して何らかの処遇を決定し、対応を取らないわけにはいかない。たとえば、ずっと背負うという道がある。耐え続け、やがては背負った荷物に自身が押しつぶされてしまう生活。我々は時にそういう、おしひしがれた人を通りで見かけることもある。

 

あるいは悲しみを怒りに育て、決然と立ち上がり、報復するという道もある。これはあなたがやったことだね。でもこれだって場合によっては本人は破滅する。感情はときにコントロールを失い、自分自身を勝手にあやつってとんでもない場所へと導いてしまう。あまり好ましい道じゃない。

 

きっと我々には第三の道が必要だ。背負い続けながらもそれに押し潰されず、闘い続けながらも人を傷つけることのない第三の道が。私はそれを探してみるよ。私だって結局は〝排斥された者〟だからね。このことは話していなかったけれど」

 

私はそこで自分の育ちについて説明した。家庭のこと。いつも仮面をつけていた父親と、裸で相対することを求めてきた母親。誰にも抱きしめてもらえず、穢れた者として扱われていた少女時代。私は一種の神であり、また犠牲であった。

 

「〝両腕のない女〟は有効なイメージだ。だから私がそれを引き継ぐよ、ハル。構わないよね? だってあなたはもう地上での仕事を全部終えたわけだし、私はまだここに残っている身分だからさ。私には何らかの武器が必要なんだ。この人生をやり抜いていくための武器が。たぶん彼女はそれになり得る存在だ。たとえ架空の人物だとしてもね」

 

牢獄の中でも我々は〝両腕のない女〟について熱心に話をしたものだ。私はどのようにして女が食べ物や酒を得ているかをハルにたずねた。でもハルはきちんと答えられなかった。巫女(みこ)と呼ばれる、まだ結婚していない村の女子が女に食べ物や必要な物資を運ぶ役割を背負わされる。ハルはそう説明した。けれどもその巫女がどんな少女か、また〝両腕のない女〟とどんな会話を交わすのかといったことについては、ハルは確かな細部(ディティール)を与えることができなかった。ハルの言葉はいつもそこでぼやけてしまい、失われてしまった。

 

「あなたはおそらく、〝両腕のない女〟が村と結びついていくところを上手く想像できなかったんじゃないかな。あなたにとって〝両腕のない女〟はまったくの異邦人でなければならなかったから。

 

でもそれだけではないと私は考えている。女は完全に疎外されているわけじゃないはずだ。だって〝両腕のない女〟は排斥された者として村から求められていると、あなたはそう言っていたじゃないか。つまり彼女には何らかの仕事があるはずなんだ。私が社会から斬首という任務を与えられているように。何らかの特殊な仕事が。

 

それはたとえば病気を祓(はら)う祈祷(きとう)だったりするんじゃないかな。あるいは夢占い。あるいは罪を清める何かしらの役についている可能性もある。ともかくさ、私があなたに代わって、これからそれを考えていくつもりだよ。本からの受け売りじゃなくて、自分の頭で緻密(ちみつ)に考えていくつもりだ。それも呪われた仕事じゃなくて、もっと前向きなものを。

 

いや、その前に陶芸かな。酒器について考えて、実際につくっていかなくちゃならない。思えば体の柔軟性も頼りない。色々とやらなきゃいけないことがある」

 

言いたいことはすべて言ったと思った。

 

私はため息をつき、手紙をたたんで懐にしまい込んだ。何かが自分の中で腑(ふ)に落ちる気配がした。どうやら私はやるべきことをなしたようだ。少なくともハルに対して恥じることのない自分でいられたという、明瞭な心の動きが私の中で生まれた。

 

私はふたたびペットボトルの水を口に含んだ。

 

すると恐ろしいほどに強い日差しが顔に降りかかり、一瞬眩暈(めまい)がした。空を見上げると、入道雲が白亜でできた巨大な塔のように聳え立っている。その威容に背中がぞくりとした。背後にできた影が伸びていき、立ち上がって自分を呑み込むのではないかという幻想がこの頭をよぎった。

 

お前は結局人殺しだぞ、と父親が呼びかけてくる思いがした。その幻聴は鳴り止むことなく、別のイメージに繋がっていった。幼いころ私が初めて義務を放り出し、勉強を怠(なま)けたときのことだ。母は、泣いた。彼女の心からの悲しみと涙が私を強く縛った。そして私は以降は謹直に修練にはげむようになった。何ものにも目を奪われず、一心に修羅の道を進んだ。

 

自分はそこから逃れられないとも思う。事実、この仕事を放り出す未来など考えられない。きっと私は引退まで斧をふるうことになるだろう。胸の軸に築かれた天秤(てんびん)、その一方の皿には個人の希望があり、愛がある。そしてもう一方の皿には斧が置かれ、断罪の義務と使命がある。すなわちこの国すべての人からの要求がある。

 

私を中心として二つの力がせめぎ合っている。

 

私は頭を振った。周囲を見渡し救いをさがす。だが、ハルはもうどこにもいない。彼女は灰になって消えてしまった。私に残っているのはこの身ひとつだけだ。

 

そして、その体に宿っている心。

 

秋になったら、植物園に秋薔薇(あきばら)を見にいこう、と私は思う。最後に頼れるのは自然だけだ。なぜ植物はどれほど華美に装っても派手に見えないのだろう。実直で素朴で、ただ美しい。一方で人の身には、咲くことはむずかしい。我々にできることは正しく老いていくことだけだ。

 

私はそっと墓地を離れた。線香はまだ黙って煙を吐き出しつづけていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。