アラタ   作:六塔掌月

5 / 13
第二部・第一話

十一年の歳月が経過した。

 

四十二歳になったアラタは、くりかえし小さな箱について考える。その箱は脳裏(のうり)に浮かんでくるたびに姿を変えている。片手の上に載るぐらいささやかな紙製の箱のときもあれば、小脇に抱えるぐらいの大きさの木製の箱のときもある。いずれにせよ肝要なのは箱が何か大切なものを内に含んでいるということだ。箱は底面でそれを支え、四囲(しい)の壁でそれを守り、天井でもって他者の手の侵入を防いでいる。

 

アラタはその大切なものを未知の力強い存在から託(たく)されたようである。彼女は大切なものが収まった箱を守り続けるよう命じられた。来るべきときが来ればその箱はおのずと開き、中身があらわれて、持っている本来の力を振るうであろう。しかしそれまではアラタは箱の中身を覗いてはならない。アラタはあくまでも守護者の役に過ぎないからだ。箱や、箱の中身の持ち主ではない。だから中身を見るべきではないのだ。

 

そういうイメージと、物語とも呼べない〝事物の流れ〟のようなものが今のアラタの頭の中にはある。長い歳月という水流がアラタの心からさまざまな事物を押し流していった結果として、それがあらわれたのだ。恐ろしいまでの苦悩の記憶。大切な人を失った傷。そうしたものが消えていくか、癒されるかしたあとに、残されていたものがその箱のイメージだった。

 

恋人の紗良(さら)という女性はそれを予感だと言った。アラタは未来で起こることを前もって不明瞭な形で知覚しているのだと紗良は主張した。自分にはそんな大層な力や直感はないのだが、とアラタとしては思う。

 

しかし紗良が語ると正しい気もしてきた。ある夜のことだ。紗良はベッドに横たわり、アラタの裸の肩をなでながら、穏やかな声で語りかけた。

 

「何かしら事件が起こるわ。でも安心して。それは悲劇というほどのものでもなく、また喜劇というほど馬鹿げたものでもないから。ちゃんと真面目なことだけれど、でもあなたにとって恐ろしいことは起こらない。それはどちらかというと他者の事件なのよ。あなたはそこに巻き込まれる。ひょっとするとあなたがそこでどういう行動をするかが、今後のあなたの生き方に影響を及ぼすかもしれないわね」

 

アラタは紗良の手を握った。

 

「紗良が占(うらな)いをたしなむとは知らなかったな」

 

「占いというほどのものでもないわよ。単なる勘(かん)ね。でもね、ちゃんとあなたのことを考えて言った言葉よ。だから参考にしてみてね」

 

アラタは紗良に顔を寄せて、その額にキスをした。

 

アラタは三年前に紗良と付き合い始めた。以来、主に週末や休日に二人は会っている。紗良は都内の法律事務所で働いていた。アラタはすでに自分の仕事について全容を打ち明け、給料の額面まで彼女に伝えていた。アラタにとっては幸運なことに、紗良は処刑人の仕事についてはまったく拒否感を示さなかった。何事もないといった表情で「それってけっこう大変な仕事なの?」と聞いてきた。アラタはそこで実直に仕事の内容を紗良に伝えた。処刑の実態をくわしく説明する。それでも紗良は特に表情を変えなかった。

 

アラタとしては紗良に働くのをやめてもらい、二人で同じ住居で暮らしたかった。彼女を拘束したいわけではない。週に何日か家を空けられても構わない。ただ今のように週に一度という頻度でしか会えないのは寂しかった。だからアラタは以前同居の話を紗良に持ちかけたことがある。しかし紗良が芳(かんば)しい反応を示さなかったので、アラタはそれ以降同じ話を持ち出すことはなくなった。

 

死刑の執行は相変わらずアラタにとっては重荷だった。この仕事を始めたばかりのときは、ひょっとしたら自分はいつか何食わぬ顔で人の首を刎(は)ねることができるようになるのではないかと夢想したものだ。しかし決してそうはならなかった。

 

むしろ人をひとり手にかけるたびに肩にのしかかる重みは増していった。東京から東北へ移動する列車に乗る瞬間から、アラタは冥府に足を踏み入れる思いがしたものだ。自分というものが消え去り、ただ緊張と義務感だけが体内に満ち、何かしら別の存在が自分を乗っ取っていく。緊張は斧を振り下ろす瞬間に極大になり、以降は体から徐々に力が抜けていくのだが、代わりにどす黒い自己嫌悪がやってきた。お前は人殺しだぞ、と耳元でささやく声が聞こえてくるのだった。

 

ただ、その罪悪感の受け止め方がアラタの中で変質してきている。以前は自分のすべてを否定し、存在の根本を脅(おびや)かしてくるような力がその感情には備わっていた。それが現在では変化し、単なる荷物――といっても、かなりの重さがある荷物だが――になってきている。アラタはそれを双肩(そうけん)で背負って苦しむ。時にきつい重量が肩に食い込み、過去の悲しい記憶を喚起(かんき)して、さらにアラタを責めてくるのだが、彼女はそれに耐えることができるようになっていた。昔は激しく苦しみ、自傷に走りたいという気持ちになることさえあったのだが、今ではその辛い思いが過ぎ去るのを静かに耐えられるようになってきている。時間と慣れがそれを可能にしたのだ。

 

時間。

 

ところで〝両腕のない女〟はアラタの内側で長い時をかけて、徐々に発展しつつあった。腕を背後で縛ることを頼めるような相手がいなかったので、基本的な動き方を習得できたかどうかは心もとないのだが、アラタはおのれの足の指を使って陶器のふちをつかみ、口元に運んで酒を飲むことができるようになっていた。リップクリームを自分の唇に塗ることも、オレンジの皮を剥いてフォークで実を突き刺して口元に運ぶことも、足と足の指だけでできるようになっていた。

 

それはアラタにとって取り組むべき、興味深い修練のようなものになっていた。もともと体を鍛(きた)えることには慣れていたが、足をそのような精密な動作に用いることはアラタにとっても初めておこなうことで、難事だった。しかし彼女は執念深く、かつ熱心に足の鍛錬(たんれん)に取り組んだ。ベッドの上にスマートフォンを載せ、画面のアイコンにさわってビデオ通話のアプリを起動し、足の指でスマートフォンの端をつかんで持ち上げ、カメラで自分を映す。そうやって紗良と通話をしたこともある。最近では普通のコーヒーカップの持ち手を足の指でつかみ、安定して中身を飲むこともできるようになりつつあった。

 

できることが増えたときには素朴(そぼく)な喜びと開放感のようなものが体の芯(しん)から湧き出てきたものだ。アラタにとってその感情は実に不思議で、かつありがたいものだった。どうしてか彼女は、目に見えない大きな存在に慰(なぐさ)められているような心地がした。

 

また、アラタは〝両腕のない女〟について空想した内容をノートに綴(つづ)っていた。もっともそれは小説のように万人が読める形にはなっていない。始めと終わりのある、筋の通った物語にもなっていない。それは女の普段の生活の一場面を描写したり、彼女が口にした言葉を記したりしただけのものに過ぎなかった。

 

アラタの中ではそうした営為(えいい)は創造的なおこないというよりもメモを取ることに近かった。アラタには何か新しいものをつくっているという気持ちはなかった。譲り渡された〝両腕のない女〟のイメージの半分は自分であり、半分は他者であった。アラタという人間の心を土台にして息づいている生命。それが〝両腕のない女〟であり、彼女は彼女で、アラタの内側で勝手気ままに暮らしている。アラタのやっていることは女の生活を時折外から覗き見てスケッチすることだった。

 

〝両腕のない女〟は近年ではその人間関係を広げてきている。女は最初は巫女(みこ)と呼ばれる立ち位置の十代前半の少女としか付き合いがなかった。巫女は通常は三年で交代する。彼女は女に食べ物を届けたり、その家を掃除したり、必要であれば寝床をととのえたりする。巫女はそうした雑事をこなすだけの存在であり、〝両腕のない女〟とはこれといった交流がないのが常だったが、三人目の巫女となった少女は違った。

 

三人目の巫女であるヒイネは〝両腕のない女〟に積極的に話しかけた。女は最初は戸惑い、相手にしていなかったが、徐々に心を開いていった。きっかけはヒイネが酒を飲んでいる女を目撃し、自分も飲んでみたいと言い出したことにある。

 

ヒイネは女の制止も聞かず、勝手に陶器を持ち出して酒甕(さかがめ)から酒をすくい、女の正面に座って飲み始めた。ヒイネはまだ子供と大人のさかいの年齢だったが、飲み続けて酔っ払い、村での生活について愚痴(ぐち)を言い始めた。母親や父親の横暴な態度や、婚約者の男がいかにだらしなく、力強さを備えていないかについて文句を言った。

 

ヒイネはやがて後ろに倒れ込んで寝てしまった。女はその場を片付けると、両脚を使ってヒイネの体を挟み、苦労をして寝床へと運んだ。二人で並んで横たわり、女はヒイネと自分に掛け布団をかけて寝た。七年ぶりに接する人肌は温かな感触がした。ヒイネはくりかえし寝言を言ったが、その大半は女にとっては意味がわからないものだった。

 

女の意識が闇に落ちる。

 

朝になった。女は寝床から起き上がると、肩で扉を押し開け、外へ出た。空はほとんど真っ暗なのだが、地平線の部分だけが赤く輝いていた。それがまるで熾火(おきび)のようだ。旅人が長い道程の果てに野宿をすることを決めて熾(おこ)し、安らぎを見出した、火としての赤。女は長い間それに見入った。

 

太陽が半分以上顔を出したところでヒイネが起き出してきて、女の横に並んだ。ヒイネは女の背中に手をふれながら「朝焼けって綺麗よね。私も大好き」と言った。女は横を向いて、隣にいるヒイネの顔をまじまじと見つめた。ヒイネはそれに、にっこりと微笑み返した。

 

女は言った。あなたは興味深い存在だ。そしてひょっとしたら、言いにくいことだが、少しだけ頭が悪いのかもしれない。

 

ヒイネは口を開け、そのままの表情で固まってしまった。女が初めてまともな口を利いたことに驚き、自分の知能に疑問を持たれたことに驚いた。

 

「それって私が馬鹿ということなのかしら」

 

それは怒りというよりも、率直な疑問としての返事だった。女は少し考えるそぶりを見せてから言った。

 

「というよりも愚かということだと思う」

 

それから二人は馬鹿と愚かの違いは何かについて詳しく議論をした。両方とも似たようなものではないかとヒイネは言う。どちらも間違ったことばかりを言い、しでかす、厄介(やっかい)な存在だ。しかし女の主張では、愚者は必ず行動的であり、間違いを犯すが、結果としてその行動は硬直した場面の打破に役立つのであるということだった。

 

「頭が悪いのに?」

 

女はヒイネの目を長い間見つめてから言った。

 

「そう。頭が悪いのに」

 

ヒイネはそこで初めて怒りを見せた。「私、そんなに頭は悪くないもの」

 

女は笑った。それは空を見て声を上げる、開放的で気持ちのいい笑い方だった。ヒイネはこの女も楽しそうにすることがあるのだということを発見した。それまでは人の形をした一個の質量に過ぎないという感じがあったのが、実は心を持つひとりの人間であるという具合に、ヒイネの中で女の印象が変わっていった。

 

アラタはそのような一連のイメージを夜ひとりでいる間に静かに思った。ただしそれは考えるという能動的な働きによってつくられるイメージではなかった。ぼうっとしているとき、心を手放して記憶の泉に沈め、自由に泳がせている間に、水底からおのずと湧いて出てくる心象だった。

 

アラタはそれを丁寧にノートに書き留めていく。

 

さて〝両腕のない女〟は巫女のヒイネと交流を深めていった。森の奥にある女の家をヒイネが定期的にたずね、雑事をこなしたあとに女と話をする。ヒイネはある日、女が文字を読めることを知って驚いた。女の所持しているたくさんの本をヒイネがたまたま発見し、これは何であるかと聞いたのだ。すると、これは本と呼ばれるもので、村にいる間に持っていたのをそのままここへ運んできただけだと女は言った。

 

「本なんてどこから手に入れたのよ。文字が読めるの?」

 

聞くと、女の母親は字が読めたらしい。女は子供のころに母親から字を学んだ。そして、あるとき村に外部から流れ者がやってきた。彼は大量の本を街から街へと運ぶ商人だった。しかし商売の旅の途中で傷を負い、街道から遠くない村に逃げ込んだところを、女の家族に助けてもらったということだった。彼は快癒後、謝礼としていくつもの本を女の家に残してから立ち去っていった。女はそれを読みながら育ったのだ。

 

ヒイネが興味を示すので、女はいくつかの詩を読み上げてやった。多くは恋愛詩だった。それらはみな華麗な韻文(いんぶん)と情熱的な言い回しを備えていたから、ヒイネは心を動かされた。まるで空気中からひとりの美男子が姿をあらわしてヒイネに求愛しているかのようだったので、彼女はうっとりして詩の朗読に聴き入った。

 

また、女は物語を読んだ。騎士が姫君に愛を誓(ちか)い、名誉を求めて旅に出る。彼は旅に出た先でさまざまな怪物と遭遇したり、試練と出会ったりする。騎士は縦横無尽の活躍を見せて怪物を打ち倒し、人々に称えられる。いつしか彼の栄光は世に轟(とどろ)き、二つ名を獲得していく。雷鳴のベルナール、あるいは剛剣のフレデリク。彼らはときに静謐(せいひつ)な森の奥に立ち入り、姫君のことを思って涙を見せる。詩を綴り、それを歌い、恋の想念で胸の内を満たす。かと思うと次の日には戦場を駆けて悪しき勢力と闘い、素晴らしい手柄を打ち立てる。

 

ヒイネはその物語にすっかり魅(み)せられてしまった。女の家をたずねるたびにすばやく仕事を片付けては、女に物語を読んでくれとせがんだ。女は股を開いて床に尻をつけ、足をあやつって器用に本を開き、ページを繰りつつ朗読した。ヒイネが知らない言葉がたくさん出てきたので、女は毎回その意味を説明してやらなければならなかった。

 

一年が経過した。女は結局、その間にすべての本のすべての物語を読み終えてしまった。するとヒイネはもう一度最初から読んでくれと言い始めた。女は他にすることもなかったので、仕方なく同じ物語をもう一度読むことにした。元より彼女は村の最下級の存在、すなわち穢(けが)れを引き受ける者として、ただ〝在(あ)る〟ことを求められているだけだったので、基本的に暇だったのだ。

 

しかしさすがにまったく同じことをするのは退屈だと思い、女はある工夫を凝らした。途中で自分で勝手に挿話をつくって付け足したのだ。その話は騎士が道で通りすがっただけの商人の生涯だったり、騎士が身を休めた先の宿屋の経済事情だったりした。女はそれらを面白おかしく話した。そうした裏話が実はちゃんと背後では騎士の旅や活躍につながっているのだ、という結びにした。

 

ヒイネは時にそれを気に入って喜び、時にそんな話はいいから早く本筋に戻ってくれと怒った。女はヒイネの反応を見ながら自分でつくった挿話の長さや話す時機というものを見計らうことにした。すなわちヒイネが気に入らないようなら早めに切り上げて本筋に戻り、気に入ってくれたなら長く話した。

 

それは女にとっても愉快な体験だった。自分の創意工夫で人を楽しませるのがこれほど面白いものだとは思わなかった。今までにない経験。大きな喜びだ。

 

そのとき机に向かっているアラタの後ろで扉を叩く音がした。紗良だろう。アラタはノートを閉じると机の引き出しにしまい、立ち上がって扉を開けた。

 

☨☨☨

 

終わったあとの苦しみを除きさえすれば、長い目で見れば、アラタの処刑の仕事は円滑に進行していった。アラタは常に鍛錬(たんれん)を怠(おこた)ることなく、たまに依頼があれば出かけていって実直に斧を振るった。斧は一振りで確実に対象の命を奪い、決められた通りに囚人の首を落とした。アラタはそれを掲げたのちに引き下がる。彼女は決められた動作、決められた書類仕事を着実にこなしていった。

 

アラタの給金は銀行口座に手堅く積み立てられていき、いつしか大きな額になっていた。都内でなければ一軒家を建てても充分な額が残るぐらいある。アラタは紗良との素敵な暮らしを夢見た。シックなデザインの家屋をつくり、そこで仕事を辞めた紗良と楽しい生活を送るのだ。犬を飼ってもいいかもしれない。アラタの今がそうであるように、きっと二人の生活は暇だろう。旅行に出かけるのもいい。インターネットで繋がったコミュニティの読書会に出るのもいいだろう。そうだ。一軒家には庭というものがある。庭で植物を育てるという楽しみもあるじゃないか。

 

紗良は三十代半ばに見える女で、背が低く、髪型はいつもショートヘアにしていた。目の大きさは人並みで、顔の輪郭は丸かった。美人というほど優れた容貌ではないが、微笑むと特別に親密な印象を相手に与える。アラタはそれに魅了されて、彼女に交際を申し出た。紗良は今までアラタが恋人にしてきた女性と同じように、どこかミステリアスな雰囲気を帯びていた。

 

二人は平穏に過ごせる空間を好んだ。アラタが見つけてきた、静かな、コーヒーとケーキの美味しい喫茶店でアラタと紗良は話をした。あるいは二人とも同じテーブルで別々の本を読みながら、ただ時が流れるのに任せた。紗良が仕事で疲れているときはアラタがマンションの自室に彼女を招き、気兼ねなくゆったりと過ごした。どこかへ足を運ぶ気になったときは二人は美術館か植物園をおとずれることにしていた。そして夜にはホテルへ入った。

 

ある晩、ホテルの一室のベッドの上で紗良は語った。

 

「アラタ。あなたの目は不思議な目。きっと色んな汚いもの、醜いものを見てきたというのに、人間に絶望したところや、妙に達観したふりをしたところがない。むしろそうした経験を通過した上で、まだ子供の目を保っている。そんな印象を受ける」

 

「私はもう中年と言われる年齢なんだけど、そんなに幼く見えるのかな」

 

紗良は笑って言った。

 

「幼く見えると言っているのではないの。そうね。あなたは人生に期待するところがある、という目をしている。それも必要以上にでもなく、必要以下でもなく、自分の人生という器をきちんと見定めた上で、手に入るものを予期しているところがある」

 

次の日の朝にホテルの前で紗良と別れたあとで、アラタはその言葉をふりかえってみた。確かに自分は人生からかなりのことを教わった。高い授業料を支払って、すなわち色んな人や体験から打ちのめされて、さまざまなことを学んできた。しかしなぜか誰かに復讐(ふくしゅう)しようとか、仕事を放棄しようとか考えたことは一度もない。ひょっとすると自分はお人好しなのかもしれない。あるいは特別に鈍感なのかもしれない。

 

アラタがマンションに帰ると一階の郵便受けに手紙が入っていた。法務省からのものだった。自室に入ってから手紙を開くと、そこには女処刑人である南切鬼の引退が明記されてあった。

 

アラタはそこで、南切鬼にもう一度会いに行くことを考えないわけではなかった。しかしそれは不要だろう。人からこれまでの仕事についてねぎらいの言葉をかけられることを好む人物とは思えない。そもそも他に何を南切鬼と話せばいいのか、アラタにはまるでわからなかった。彼女こそは完成された一個の斧だった。南切鬼はアラタとは根本的に心のあり方が違う存在だと言えた。あのとき、先達は仕事に対して何の迷いもないという顔をしていたのだ。

 

さて、これで現在の女処刑人はアラタと、六年前に着任した結城(ゆうき)伊都(いと)の二人きりとなった。そのことも手紙の末尾には記されてあった。

 

私も名実ともに年長者だな、とアラタは思った。もちろん後輩の結城伊都という人物に会ったことは一度もない。これからもおそらくはないだろう。二人はチームの関係にはないのだ。あくまでも自分たちは一個の斧であり、片方がもう一方のスペアであるというだけの関係に過ぎない。二人は互いの顔を知る必要性さえないのだ。それでも自分が現役の女処刑人の最年長であるという事実に、アラタは感慨(かんがい)を深くした。

 

しかしアラタのそのような前提は裏切られた。その後に死刑判決が出た囚人を始末する際、結城伊都は失敗したのだ。処刑は五日後にやり直しとなり、アラタがそれを請け負った。

 

そして法務省の命令によって結城伊都はアラタに師事することになった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。