十一年の歳月が経過した。
四十二歳になったアラタは、くりかえし小さな箱について考える。その箱は
アラタはその大切なものを未知の力強い存在から
そういうイメージと、物語とも呼べない〝事物の流れ〟のようなものが今のアラタの頭の中にはある。長い歳月という水流がアラタの心からさまざまな事物を押し流していった結果として、それがあらわれたのだ。恐ろしいまでの苦悩の記憶。大切な人を失った傷。そうしたものが消えていくか、癒されるかしたあとに、残されていたものがその箱のイメージだった。
恋人の
しかし紗良が語ると正しい気もしてきた。ある夜のことだ。紗良はベッドに横たわり、アラタの裸の肩をなでながら、穏やかな声で語りかけた。
「何かしら事件が起こるわ。でも安心して。それは悲劇というほどのものでもなく、また喜劇というほど馬鹿げたものでもないから。ちゃんと真面目なことだけれど、でもあなたにとって恐ろしいことは起こらない。それはどちらかというと他者の事件なのよ。あなたはそこに巻き込まれる。ひょっとするとあなたがそこでどういう行動をするかが、今後のあなたの生き方に影響を及ぼすかもしれないわね」
アラタは紗良の手を握った。
「紗良が
「占いというほどのものでもないわよ。単なる
アラタは紗良に顔を寄せて、その額にキスをした。
アラタは三年前に紗良と付き合い始めた。以来、主に週末や休日に二人は会っている。紗良は都内の法律事務所で働いていた。アラタはすでに自分の仕事について全容を打ち明け、給料の額面まで彼女に伝えていた。アラタにとっては幸運なことに、紗良は処刑人の仕事についてはまったく拒否感を示さなかった。何事もないといった表情で「それってけっこう大変な仕事なの?」と聞いてきた。アラタはそこで実直に仕事の内容を紗良に伝えた。処刑の実態をくわしく説明する。それでも紗良は特に表情を変えなかった。
アラタとしては紗良に働くのをやめてもらい、二人で同じ住居で暮らしたかった。彼女を拘束したいわけではない。週に何日か家を空けられても構わない。ただ今のように週に一度という頻度でしか会えないのは寂しかった。だからアラタは以前同居の話を紗良に持ちかけたことがある。しかし紗良が
死刑の執行は相変わらずアラタにとっては重荷だった。この仕事を始めたばかりのときは、ひょっとしたら自分はいつか何食わぬ顔で人の首を
むしろ人をひとり手にかけるたびに肩にのしかかる重みは増していった。東京から東北へ移動する列車に乗る瞬間から、アラタは冥府に足を踏み入れる思いがしたものだ。自分というものが消え去り、ただ緊張と義務感だけが体内に満ち、何かしら別の存在が自分を乗っ取っていく。緊張は斧を振り下ろす瞬間に極大になり、以降は体から徐々に力が抜けていくのだが、代わりにどす黒い自己嫌悪がやってきた。お前は人殺しだぞ、と耳元でささやく声が聞こえてくるのだった。
ただ、その罪悪感の受け止め方がアラタの中で変質してきている。以前は自分のすべてを否定し、存在の根本を
時間。
ところで〝両腕のない女〟はアラタの内側で長い時をかけて、徐々に発展しつつあった。腕を背後で縛ることを頼めるような相手がいなかったので、基本的な動き方を習得できたかどうかは心もとないのだが、アラタはおのれの足の指を使って陶器のふちをつかみ、口元に運んで酒を飲むことができるようになっていた。リップクリームを自分の唇に塗ることも、オレンジの皮を剥いてフォークで実を突き刺して口元に運ぶことも、足と足の指だけでできるようになっていた。
それはアラタにとって取り組むべき、興味深い修練のようなものになっていた。もともと体を
できることが増えたときには
また、アラタは〝両腕のない女〟について空想した内容をノートに
アラタの中ではそうした
〝両腕のない女〟は近年ではその人間関係を広げてきている。女は最初は
三人目の巫女であるヒイネは〝両腕のない女〟に積極的に話しかけた。女は最初は戸惑い、相手にしていなかったが、徐々に心を開いていった。きっかけはヒイネが酒を飲んでいる女を目撃し、自分も飲んでみたいと言い出したことにある。
ヒイネは女の制止も聞かず、勝手に陶器を持ち出して
ヒイネはやがて後ろに倒れ込んで寝てしまった。女はその場を片付けると、両脚を使ってヒイネの体を挟み、苦労をして寝床へと運んだ。二人で並んで横たわり、女はヒイネと自分に掛け布団をかけて寝た。七年ぶりに接する人肌は温かな感触がした。ヒイネはくりかえし寝言を言ったが、その大半は女にとっては意味がわからないものだった。
女の意識が闇に落ちる。
朝になった。女は寝床から起き上がると、肩で扉を押し開け、外へ出た。空はほとんど真っ暗なのだが、地平線の部分だけが赤く輝いていた。それがまるで
太陽が半分以上顔を出したところでヒイネが起き出してきて、女の横に並んだ。ヒイネは女の背中に手をふれながら「朝焼けって綺麗よね。私も大好き」と言った。女は横を向いて、隣にいるヒイネの顔をまじまじと見つめた。ヒイネはそれに、にっこりと微笑み返した。
女は言った。あなたは興味深い存在だ。そしてひょっとしたら、言いにくいことだが、少しだけ頭が悪いのかもしれない。
ヒイネは口を開け、そのままの表情で固まってしまった。女が初めてまともな口を利いたことに驚き、自分の知能に疑問を持たれたことに驚いた。
「それって私が馬鹿ということなのかしら」
それは怒りというよりも、率直な疑問としての返事だった。女は少し考えるそぶりを見せてから言った。
「というよりも愚かということだと思う」
それから二人は馬鹿と愚かの違いは何かについて詳しく議論をした。両方とも似たようなものではないかとヒイネは言う。どちらも間違ったことばかりを言い、しでかす、
「頭が悪いのに?」
女はヒイネの目を長い間見つめてから言った。
「そう。頭が悪いのに」
ヒイネはそこで初めて怒りを見せた。「私、そんなに頭は悪くないもの」
女は笑った。それは空を見て声を上げる、開放的で気持ちのいい笑い方だった。ヒイネはこの女も楽しそうにすることがあるのだということを発見した。それまでは人の形をした一個の質量に過ぎないという感じがあったのが、実は心を持つひとりの人間であるという具合に、ヒイネの中で女の印象が変わっていった。
アラタはそのような一連のイメージを夜ひとりでいる間に静かに思った。ただしそれは考えるという能動的な働きによってつくられるイメージではなかった。ぼうっとしているとき、心を手放して記憶の泉に沈め、自由に泳がせている間に、水底からおのずと湧いて出てくる心象だった。
アラタはそれを丁寧にノートに書き留めていく。
さて〝両腕のない女〟は巫女のヒイネと交流を深めていった。森の奥にある女の家をヒイネが定期的にたずね、雑事をこなしたあとに女と話をする。ヒイネはある日、女が文字を読めることを知って驚いた。女の所持しているたくさんの本をヒイネがたまたま発見し、これは何であるかと聞いたのだ。すると、これは本と呼ばれるもので、村にいる間に持っていたのをそのままここへ運んできただけだと女は言った。
「本なんてどこから手に入れたのよ。文字が読めるの?」
聞くと、女の母親は字が読めたらしい。女は子供のころに母親から字を学んだ。そして、あるとき村に外部から流れ者がやってきた。彼は大量の本を街から街へと運ぶ商人だった。しかし商売の旅の途中で傷を負い、街道から遠くない村に逃げ込んだところを、女の家族に助けてもらったということだった。彼は快癒後、謝礼としていくつもの本を女の家に残してから立ち去っていった。女はそれを読みながら育ったのだ。
ヒイネが興味を示すので、女はいくつかの詩を読み上げてやった。多くは恋愛詩だった。それらはみな華麗な
また、女は物語を読んだ。騎士が姫君に愛を
ヒイネはその物語にすっかり
一年が経過した。女は結局、その間にすべての本のすべての物語を読み終えてしまった。するとヒイネはもう一度最初から読んでくれと言い始めた。女は他にすることもなかったので、仕方なく同じ物語をもう一度読むことにした。元より彼女は村の最下級の存在、すなわち
しかしさすがにまったく同じことをするのは退屈だと思い、女はある工夫を凝らした。途中で自分で勝手に挿話をつくって付け足したのだ。その話は騎士が道で通りすがっただけの商人の生涯だったり、騎士が身を休めた先の宿屋の経済事情だったりした。女はそれらを面白おかしく話した。そうした裏話が実はちゃんと背後では騎士の旅や活躍につながっているのだ、という結びにした。
ヒイネは時にそれを気に入って喜び、時にそんな話はいいから早く本筋に戻ってくれと怒った。女はヒイネの反応を見ながら自分でつくった挿話の長さや話す時機というものを見計らうことにした。すなわちヒイネが気に入らないようなら早めに切り上げて本筋に戻り、気に入ってくれたなら長く話した。
それは女にとっても愉快な体験だった。自分の創意工夫で人を楽しませるのがこれほど面白いものだとは思わなかった。今までにない経験。大きな喜びだ。
そのとき机に向かっているアラタの後ろで扉を叩く音がした。紗良だろう。アラタはノートを閉じると机の引き出しにしまい、立ち上がって扉を開けた。
☨☨☨
終わったあとの苦しみを除きさえすれば、長い目で見れば、アラタの処刑の仕事は円滑に進行していった。アラタは常に
アラタの給金は銀行口座に手堅く積み立てられていき、いつしか大きな額になっていた。都内でなければ一軒家を建てても充分な額が残るぐらいある。アラタは紗良との素敵な暮らしを夢見た。シックなデザインの家屋をつくり、そこで仕事を辞めた紗良と楽しい生活を送るのだ。犬を飼ってもいいかもしれない。アラタの今がそうであるように、きっと二人の生活は暇だろう。旅行に出かけるのもいい。インターネットで繋がったコミュニティの読書会に出るのもいいだろう。そうだ。一軒家には庭というものがある。庭で植物を育てるという楽しみもあるじゃないか。
紗良は三十代半ばに見える女で、背が低く、髪型はいつもショートヘアにしていた。目の大きさは人並みで、顔の輪郭は丸かった。美人というほど優れた容貌ではないが、微笑むと特別に親密な印象を相手に与える。アラタはそれに魅了されて、彼女に交際を申し出た。紗良は今までアラタが恋人にしてきた女性と同じように、どこかミステリアスな雰囲気を帯びていた。
二人は平穏に過ごせる空間を好んだ。アラタが見つけてきた、静かな、コーヒーとケーキの美味しい喫茶店でアラタと紗良は話をした。あるいは二人とも同じテーブルで別々の本を読みながら、ただ時が流れるのに任せた。紗良が仕事で疲れているときはアラタがマンションの自室に彼女を招き、気兼ねなくゆったりと過ごした。どこかへ足を運ぶ気になったときは二人は美術館か植物園をおとずれることにしていた。そして夜にはホテルへ入った。
ある晩、ホテルの一室のベッドの上で紗良は語った。
「アラタ。あなたの目は不思議な目。きっと色んな汚いもの、醜いものを見てきたというのに、人間に絶望したところや、妙に達観したふりをしたところがない。むしろそうした経験を通過した上で、まだ子供の目を保っている。そんな印象を受ける」
「私はもう中年と言われる年齢なんだけど、そんなに幼く見えるのかな」
紗良は笑って言った。
「幼く見えると言っているのではないの。そうね。あなたは人生に期待するところがある、という目をしている。それも必要以上にでもなく、必要以下でもなく、自分の人生という器をきちんと見定めた上で、手に入るものを予期しているところがある」
次の日の朝にホテルの前で紗良と別れたあとで、アラタはその言葉をふりかえってみた。確かに自分は人生からかなりのことを教わった。高い授業料を支払って、すなわち色んな人や体験から打ちのめされて、さまざまなことを学んできた。しかしなぜか誰かに
アラタがマンションに帰ると一階の郵便受けに手紙が入っていた。法務省からのものだった。自室に入ってから手紙を開くと、そこには女処刑人である南切鬼の引退が明記されてあった。
アラタはそこで、南切鬼にもう一度会いに行くことを考えないわけではなかった。しかしそれは不要だろう。人からこれまでの仕事についてねぎらいの言葉をかけられることを好む人物とは思えない。そもそも他に何を南切鬼と話せばいいのか、アラタにはまるでわからなかった。彼女こそは完成された一個の斧だった。南切鬼はアラタとは根本的に心のあり方が違う存在だと言えた。あのとき、先達は仕事に対して何の迷いもないという顔をしていたのだ。
さて、これで現在の女処刑人はアラタと、六年前に着任した
私も名実ともに年長者だな、とアラタは思った。もちろん後輩の結城伊都という人物に会ったことは一度もない。これからもおそらくはないだろう。二人はチームの関係にはないのだ。あくまでも自分たちは一個の斧であり、片方がもう一方のスペアであるというだけの関係に過ぎない。二人は互いの顔を知る必要性さえないのだ。それでも自分が現役の女処刑人の最年長であるという事実に、アラタは
しかしアラタのそのような前提は裏切られた。その後に死刑判決が出た囚人を始末する際、結城伊都は失敗したのだ。処刑は五日後にやり直しとなり、アラタがそれを請け負った。
そして法務省の命令によって結城伊都はアラタに師事することになった。