アラタ   作:六塔掌月

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第二部・第二話

二人の死刑執行人は平日の朝に初めて顔を合わせた。

 

結城伊都はアラタより一回り背が低かった。手足は細長く、髪はベリーショートで、繊細そうな顔をしていた。二重瞼(ふたえまぶた)で、睫毛(まつげ)が長い。その瞳には冬の星座にも似た輝きが認められた。誰にもふれられないほど遠いところで、自分の存在を示すためだけに便宜的に発している光。それが結城伊都という人物の中心的モチーフのようだった。年齢は二十七歳であると、法務省からの書類には記されていた。

 

アラタはいつも利用しているジムに伊都を呼び寄せ、まずは自分のトレーニングをじっくりと彼女に見せることにした。休憩を挟んで二時間と少し。その後に伊都がトレーニングに取り組むのをアラタが見物した。

 

伊都は軽くストレッチをしたあとトレッドミルに乗って十五分ほどジョギングをした。次にチェストプレスへと向かった。座席とグリップの高さを調節し、取りかかる。伊都は背中を少し反らせて胸で重量が感じられるようにしつつ、グリップを前後に往復させた。それは無駄のない、一定の動きの反復だった。アラタは伊都を見ながら、同じ数秒の動画をくりかえし再生しているような感覚がした。

 

伊都はラットプルダウンに向かい、重りを調節したのち、バーをつかんでシートに座った。上下にバーを往復させる。バックプルダウンをおこなったのちは重量を上げてフロントプルダウンをおこなった。胸元にバーを引き寄せる運動だ。アラタは伊都の背に備わった僧帽筋の収縮と隆起のさまを眺めた。伊都はやはり一定の動きを同じペースで正確に反復し続けた。そこに息遣いはあるのに、総体としてはとても静かな印象をアラタは受けた。

 

アラタは伊都がさまざまなマシンに向かって体を鍛(きた)えるさまを眺めていた。

 

終わった。すでに時刻は午後一時を回っていた。二人はジムに備わったシャワーで汗を流してから、着替えて外へ出た。季節は春になったばかりで、空気は温かかった。

 

何か食べよう、とアラタは伊都に声をかけた。伊都はアラタの顔を見て短く「はい」とだけ言った。それから目を伏せる。緊張しているのかもしれない。あるいは普段から誰に対しても同じような態度なのかもしれない。

 

二人はカレー屋に入ってそこで昼食を済ませたのち、そこから少し歩いて、路地の奥にある喫茶店を訪ねた。店先の壁は夥(おびただ)しい木蔦(きづた)によって半分以上が覆われていた。足元に置かれた低い看板を見落としていたら、誰もそこが喫茶店であることには気づかないだろう。

 

中に入ると、天井はとても高く、開放的な感じがした。高い位置にもガラス窓があるので店内は自然な陽光で満ちていた。上方では木の梁(はり)が剥き出しで、束ねられたドライフラワーがそこから吊るされていた。素朴な感じのする飾りだった。

 

ここまで会話らしきものは二人の間には何もなかった。何か話した方がいいだろう、とアラタは思っていた。空いている席につき、テーブルを挟んで伊都と向かい合う。注文を取りにきたウェイトレスに希望を伝えたのち、アラタは口を開いた。

 

「この仕事はとても暇だよね。伊都は普段は何をしているの」

 

伊都は目を見開いてアラタの顔を見た。それから短い間、横に視線をやった。おそらくアラタにどこまで個人的なことを話していいのか考えあぐねているのだろう。

 

「映画を観たり、ギターをしたりしています」

 

「へえ、ギター」

 

伊都はギターについていくつか専門的な話をした。ストラトキャスター。マーシャル。あるいはファズのサウンドの出し方について。楽器をやったことのないアラタにはほとんど何もわからなかった。しかし伊都がロックが好きで、エレキギターを演奏するらしいということだけはわかった。

 

アラタは言った。

 

「私はポストロックが好きなんだよ。コーム・ブルー・シーやイヤーズ・オブ・ライス・アンド・サルトとか」

 

伊都はポストロックには詳しくないと言った。それでアラタはスマートフォンを取り出して、入門に適したアルバムをいくつか画面で示して教えてやった。二人とも音楽を聴くという共通点をアラタは発見したので、自宅や外で聴くときの音響機器について伊都と情報を交換した。それでわかったのは、伊都はそうした機器にだいぶ金をかけているらしいということだった。

 

「好きなことがあるのはよいことだよ。それが必ず支えになる」

 

 伊都はうなずいた。

 

「友達はいるの? あるいは恋人はいるのかな」

 

伊都はそこでまた黙ってしまった。アラタは自分の話を出してみた。

 

「私はあまり親しい人はいないんだけど、でもひとりだけ交際している女の人がいるんだよね」

 

アラタは紗良の名前を出し、彼女との交流や生活について話をした。とても魅力的な女性で、色んな場所にいくのに付き合ってくれる。自分は紗良といてその体にふれていると心が安らぐ。

 

伊都ははっとして顔を上げた。何かを言おうとして一旦取り下げる。彼女はしばらく考え込んでから言った。

 

「私も同性と付き合っています。でも相手がどれだけ私に本気なのかよくわからないんです。尾形さんは紗良さんをホテルに誘うときどうしたんですか」

 

「どうって。私は普通に『ホテルに行こう』って誘ったよ。それでいいんじゃないかな」

 

伊都は頬をうっすらと赤く染めて息を吐いた。

 

「なるほど。それでいいんですね」

 

二人とも押し黙った。アラタと伊都の間には先ほどからずっと手つかずの話題があった。伊都はどうやら、それにふれられることを予測して体を固くしているようだ。

 

アラタはたずねた。

 

「倒れるときは、伊都はどんな感じがしたのかな。よければその日の朝から状況を聞かせてくれないか」

 

処刑の話題だった。アラタは書類で伊都の失敗のようすを知っていた。伊都は斧を振りかぶったところで過呼吸により突如失神したのだ。

 

伊都は着任以降すでに二人の囚人を屠(ほふ)っていた。そちらの方は手抜かりがなかったこともアラタは知らされていた。

 

伊都は口元に手を当てて、考えてから言った。

 

「前日の夜はきちんと寝られていたと思います。ただ朝起きたときには少しだけ体に倦怠感(けんたいかん)がありました。それと頭が妙に冴えていたというか。いや、逆かな。頭脳労働を目一杯したあとのような心地よい疲れがありました。でもそういった感覚もすぐにどこかへいってしまったと思います。朝起きて水を飲んで、ストレッチをしたあと軽い朝食を食べたころには、もうすっかりいつも通りの体調でした」 

 

アラタは相槌を打った。

 

「私は都内のマンションに住んでいます。そこを出て、最寄り駅まで歩いていき、列車に乗りました。東京駅に着いたのが午前の七時頃だったと思います。ジュースを一本買ってから新幹線に乗りました。私は毎回新幹線の中で三十分くらい、ルー・リードのノイズだけのアルバムを聴くんです。歌やメロディーがないやつです。それが精神統一にいいから。

 

仙台駅に着いて降車して、タクシーで処刑場へ向かいました。ここから先は尾形さんもご存じだと思いますが、裏口の門衛に身分証を見せて、そこから入りました。控室(ひかえしつ)に行きました。あとは制服に着替えて、一時間半ほどその部屋で待っていました。体が固まってしまうといけないので、二度ストレッチをしました」

 

アラタは口を開いた。

 

「私はいつもそこでイメージトレーニングをするんだよね。自分がちゃんと上手くできるかどうか、不安だからさ」

 

伊都は驚いているようすだった。

 

「尾形さんでさえ、不安になることがあるんですか」

 

「私は控室にいる間に仮面をかぶって、素手で斧を振る練習というか、ジェスチャーをする。それもできる限りゆっくりとその動作を行うんだ。斧を握っているつもりで、手をぎゅっと握りしめてね。大丈夫、私はできるんだ、って自分自身に言い聞かす。そうでないと心が風に吹き飛ばされてどこかへいってしまう気がするから。用意されている別の空き室で実際に斧を振るうこともあるよ」

 

伊都はしばらくアラタの顔を見ていた。彼女はうつむいて続けた。

 

「そうですね。私の場合はイメージトレーニングとはちょっと違って、斧を振る自分を思い出します」

 

処刑人は半年に一度は召集を受けて、国が用意している専用の訓練場に赴(おもむ)いて斧を振るう。伊都はそのときの自分の肉体の動きを正確に心の中で反芻(はんすう)する、とアラタに説明した。

 

「そうすると心が落ち着くというか、いつでも動き出せる、準備ができているという感じがするんです。さて、時間が来て、扉がノックされ、私は呼び出されました。廊下を渡って処刑用の広間にいきます」

 

伊都は眉間に皺(しわ)を寄せて、さらに頭の角度を深くして自分の膝を見つめた。

 

「すみません。そこから先は、広間に入って、ガラスの壁越しに見物人の方たちを見たことぐらいしか記憶にないんです」

 

アラタはたずねた。

 

「失神した原因に心当たりはある?」

 

伊都は深く息をして、椅子の背もたれに背を預けた。

 

「ありません。そもそも最初の二回は問題なくできたんです。なすべきことをなし、首を掲げ、脇に控えていた人に預けて、退出して。何もかもを滞(とどこお)りなく進行できました。法務省からの指示もあったので、三度目の仕事で失神したあとは病院にいき、色々と体の検査はしましたが、問題は見つかっていません」

 

ふむ、とアラタはつぶやいた。

 

「伊都。君は法務省からは二年の猶予(ゆうよ)を与えられている。その間は処刑に関わる必要はない。給料も満額出ると聞いている。君は二年で自分を立て直さないといけないんだ。その間の仕事は私が引き受けることになっている」

 

伊都は深く頭を下げた。

 

「申し訳ございません。尾形さんにはご迷惑をおかけすることになります」

 

「私は気にしていないよ。だから伊都も気にしないでいい。それよりも自分を立て直すことだけを考えてほしい。前もってメールで伝えていたけれど、我々はこれからしばらく、週に二度、火曜日と金曜日に会おう。といってもジムで一緒にトレーニングをして、こうしてお昼を食べるぐらいしかやることはないけどね」

 

伊都は不安そうな顔でうなずいた。

 

「それで何とかなるのでしょうか」

 

それはアラタにもわからなかった。

 

「ともかく私は君のことを知りたいんだ。まずはそこからじゃないかな。そうだ。どうせなら恋人も連れてきたらどう? それで三人で食事をする」

 

伊都は慌てて首を横に振った。アラタは破顔し、席を立った。伊都も席を立った。会計はアラタがまとめて支払った。

 

以降は二人は決められた曜日にジムで会い、トレーニングに励(はげ)んだ。アラタが先におこない、伊都がそれを眺める。次に伊都がマシンに向かい、アラタがその鍛錬を眺める。アラタの見立てでは伊都の筋力もトレーニングの仕方も申し分なかった。初めは後輩がきちんと筋肉を鍛えることができているかどうかを見極めるつもりでいたアラタだったが、しばらく経つともうその気もなくなった。すべては正常に進行している。問題ない。

 

しかし交互に相手の鍛錬を眺める段取りは変えなかった。アラタにとってはそれは観察というよりも、仕事仲間を見守るという感じだった。アラタは伊都の静謐なトレーニングを眺めるのが好きだった。それは外部に向かっておこなわれる働きかけではなく、内に閉じていく、祈りの所作のように見えた。もしもそれを外から邪魔する存在があったら、自分は厳しく排除しなければならない。アラタの内にはいつの間にか伊都を守るという気持ちが生まれつつあった。

 

二人はトレーニング後はジムの近くの適当な飲食店に入り、食事を取った。その後は毎回同じ喫茶店に足を運んだ。初めにいった、路地の奥にある店だ。

 

そこではさまざまなことが語られた。アラタがたずねると伊都は音楽の話やインターネットで見たさまざまな動画やニュースのことを語ってくれた。アラタの方では自分が読んだ本や映画についてあらすじを述べたり、見どころを語って聞かせたりした。しかしどちらかと言えばそこでは物が語られるよりも双方とも口を閉じている時間の方が長かった。アラタはそれで特に気まずい思いはしなかった。伊都の側も徐々にではあるが、緊張を取り除いていく印象があった。

 

一ヵ月が経つ頃、アラタは思い切って伊都にたずねてみた。

 

「初めての執行のあとはどんな感じがした?」

 

伊都は気弱な笑みを浮かべて言った。

 

「とうとう境界線を渡った、という気がしました。完全に別世界の人間になってしまった。そういう感じがしました」

 

伊都は初めて人を手にかけたときは、緊張と義務の気持ちが大きすぎて、何も感じなかったと語った。首を断つことも、見物人の前でそれを掲げることもごく自然にできた。その点は、ひょっとしたら二回目の方が嫌悪感や気味の悪い感じがあったような気がする。ともかく初回は驚くほど何も感じず、すべてが円滑に進行した。書類仕事を終えてシャワーを浴び、着替えて処刑場を辞し、駅に行って新幹線に乗ったあとも、特に何も違和感を覚えなかった。今ふりかえってみると自分は奇妙なほど静かな気持ちでいた。たぶん、頭の奥が痺(しび)れて何も感じることができなくなっていたのだと思う。

 

違和感は後日にやってきた。服屋にいき、店員と話しながらさまざまな服を取り替えつつ試着をしている間に、それはやってきた。店員と言葉を交わしていても以前と同じように自分の発言がまっすぐ相手に向かっている気がしなかった。これは自分の言っていることが相手に通じないとか、相手の言っていることがわからないという意味ではない。

 

伊都はそこでためらい、自分の言いたいことを表現するための言葉を探して、黙り込んだ。アラタは伊都が考え終わるのを待った。

 

ウェイトレスがアラタの空になったコーヒーカップを取り上げて立ち去っていた。

 

伊都は再び語り出した。

 

なぜか自分が口にしている言葉が、空気を渡って音として相手の耳に届く前に、何者かに横から奪い去られた感じがした。それを勝手に別の言語に翻訳されて、さらにそれをもう一度日本語に翻訳し直されたものが、何者かの手によって相手の耳に入れられた。そういう印象がした。意味は確かに通じているのだから別に不都合はない。しかしそれはもう自分の言葉ではないのだ。相手がしゃべっている言葉についても同じことが言えた。両者の間には見えない障壁がある。それは店員がつくりあげているものでも自分がつくりあげているものでもなかった。空気や、あるいは世界そのものがこちらに干渉してきているのだ。

 

伊都は店員が自分に服を渡す際に、あるいは自分が試着した服を受け取る際に、相手が手袋をしているのではないかと一瞬疑った。こちらの素性を知った上で相手は接してきているのではないか。執行人とは直接的に素手ではやり取りできないと相手は思っているのではないか。伊都はそう懸念した。よく店員の手を見てみると、別にそんなことはなかったのだが。

 

「穢れ」

 

アラタがそう言うと、伊都は肩をぴくりと震わせた。

 

アラタは続けて言った。

 

「その感覚は重要だ。いいかい。我々はストッパーなんだ。人間の道徳の最終段階を担当している。大切な物が机のふちからこぼれ落ちていくのを止めて、元の位置に戻してやるために我々はいる。受け止める存在。それが執行人だ」

 

伊都の瞳の奥でささやかな何かが光った。その光は小さいけれども硬質な感じがした。伊都はうつむき、テーブルの面を見つめて言った。

 

「私はそれに同意していません。私が引き受けたのは単なる作業だけのはずです」

 

アラタは反論した。

 

「しかし人間はどうしたって意味に縛られる存在だ。いいかい。この社会のさまざまな人物が特殊なリレーに参加している。ある人が自分の手元に生じたボールを、留めるのが嫌だと思い、次の人に手渡す。あるいはこっそりと人が持っている鞄(かばん)にボールを入れ込む。渡された人物ははっとしてそのボールを手に取り、また別の人に手渡す。自分はこれを持っていたくない、どうしても手元に保持していたくない、ということでね。しかしボールを野に捨てるわけにはいかない。なぜならそのボールは人間の手元に留まっていないといけないという掟(おきて)があるからだ。それは掟というよりは法則と言った方がいいかもしれない。そこで彼だか彼女だかは思う。何としてもこいつを他の人に引き渡すんだ、とね。こうしてボールは次から次へとリレーされていく。

 

世の中ではそうした特殊なボールが、目には見えないボールが、無数に受け渡しされているんだ。幾多の人の手垢にまみれ、思いを吸収する内に、ボールはやがて毒になる。巨大化し、もはや手に負えない存在になり果てる。つまりね、それを引き受けるのが我々なんだよ。伊都」

 

「そのボールを我々はどうするんですか」

 

アラタは答えた。

 

「飲み込むのさ。自分の体と血で浄化をする。人間社会の中でもそういう特別な位置に我々はいる。斧を振る作業はあくまでも前提に過ぎない」

 

伊都は静かな動きで首を一度だけ横に振った。二人は黙った。沈黙という粒子がアラタの肩にも伊都の肩にも降り積もっていった。

 

アラタが口を開いた。

 

「今日はここらへんで解散にしようか。今私が語ったのはとても大事な話だ。伊都には覚えておいてほしいな」

 

伊都は短く「はい」と答えた。二人は立ち上がり、店を出たところで別れた。

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