年長者らしいことをしているのね、と紗良は言った。先日伊都とした会話の内容を、アラタは紗良に伝えてみたのだ。アラタが伊都を指導する件については、以前に紗良と共有していた。
二人はアラタの自宅にいた。紗良は今は鏡台の前のスツールに座って自分の髪をととのえているところだった。アラタはベッドの上でうつ伏せになって、裸の紗良を眺めていた。スツールの面に押し付けられた紗良のヒップを見て、可愛いな、とアラタは思った。
「伊都は若者としては好ましい人物だよ。斜に構えたところがない。体もしっかり鍛えている」
紗良が言った。
「でも、きっと心に問題があるのね」
「そうなんだ。私はそれをどうにかしたい」
「けれど、どうにかできるものかしら。だって心は目には見えない。形もないし、ふれることもできないわ。医者が傷口を
紗良の指摘はもっともだった。アラタはしばらく考え込んでから口を開いた。
「仕事を無理強いはできない。そんなことをしても長期間に渡る使命には耐えられないだろうしね。これは伊都が自分で対処するしかない問題なんだ、本来は」
「それではあなたは何もしないのかしら」
紗良の問いかけはアラタに対する疑問というよりは、すでにわかっていることを確認するためのものに近かった。
アラタは答えた。
「そんなことはないさ。私は、そうだね、ただ〝在る〟ということをするつもりだ。彼女の前に立つ有意義な壁になれたらいいと思っているよ。伊都から見て、安心して疑問をぶつけられたり、あるいは泣き言を言えたりするような壁として在るつもりだ」
紗良は言った。
「頑張っているのね」
「自分の話ばかりでごめん」
紗良はスツールから立ち上がると、アラタに近づいて笑顔で言った。
「いいのよ。あなたが自分のことについて話してくれて、私はむしろ嬉しいわ」
アラタは上体を起こすと、紗良の体に自分の身を寄せて、ふれ合った。
「私は今まで紗良に自分のことを話していなかったのかな」
アラタの問いに対して紗良は
アラタはこれまでにさまざまなことを紗良に共有してきた。音楽の好みや食の好みを彼女に教えた。また、教わった。紗良をマンションの自室に招き、服や靴など、自分の好みと紗良のそれが重なるものを贈り物として与えてきた。そしてもちろん、ベッドの上で幾度も体を重ね合った。
しかし紗良はそれを十分だと思っていなかったらしい。アラタにはまだ恋人に
紗良がベッドの上に腰かけた。アラタは少し不自然な体勢で紗良の上半身を抱きしめた。
☨☨☨
そこから一週間が過ぎた。ある日にアラタと伊都がジムから出てきたとき、女の子が二人の前に立ちふさがった。
女の子は伊都よりも頭一つ分は背が低い。体は服の上からでもわかるほど
女の子が口を開いた。
「ずいぶん楽しそうじゃない。ジムでデート? ご機嫌みたいね、伊都」
伊都が花夜子に向かって言った。
「勘違いしていないか。この人は仕事の先輩だよ」
アラタは軽く頭を下げた。
「こんにちは。私は尾形という。伊都とは仕事の同僚で、今は指導する立場にあるんだ」
花夜子は伊都の隣にすばやく移ると、その腕に自分の腕を絡ませた。むすっとした表情で頭を伊都の肩に押しつける。花夜子は甘えるように額を伊都に擦りつけた。
「いきましょう、伊都」
花夜子は伊都を連れ去ろうとして腕を引っ張ったが、伊都はそれを拒んだ。
「実はこれから尾形さんとお昼ご飯なんだ。花夜子も一緒においで」
伊都は穏やかな手つきで花夜子の頭をなでた。花夜子はそれでも機嫌を直さず、伊都の腕に絡めていた手をほどくと、無言のまま伊都の背中を何度も強く打った。伊都は動じずにそれを受け切ったあと、ふたたび花夜子に謝った。優しい声音で語りかける。
「ごめんね、花夜子。一緒に食べにいこう。どうか私を許してほしい」
アラタは何も言わずに二人の様子を眺めていた。この花夜子という娘がきっと伊都の交際相手なのだろう。アラタは伊都の立場を察した。伊都もおそらくアラタと同様に、恋人にはいつも下手に出ているに違いなかった。常に相手の機嫌をうかがい、合格なら恋人からの
結局花夜子は二人についてくることになった。アラタは花夜子の扱いに関して迷ったので、伊都に昼食の店を選ばせることにした。伊都はチェーン店のうどん屋を選んだ。三人で店に入り、各々が好きなものを注文した。花夜子は少食らしく、素うどんにたくさん
三人で店を出て、アラタが先導していつもの喫茶店に入った。テーブルを挟んでアラタと伊都が向かい合い、伊都の隣に花夜子が座った。ウェイトレスがやって来て、アラタと伊都はコーヒーを頼んだ。花夜子はアイスコーヒーとチーズケーキを注文していた。
ウェイトレスが去っていくと花夜子が口を開いた。
「尾形さん、だっけ。何で伊都は仕事の同僚とジムになんかいかなきゃいけないわけ? 伊都は公務員なんでしょう」
アラタは伊都の顔をちらと見た。伊都はまだ自分の仕事について恋人に打ち明けたわけではないらしい。
アラタは花夜子の顔を見て言った。
「肉体も使う仕事だからね。我々は体を鍛える必要がある。伊都とは週に二度、しばらくの間は一緒にトレーニングをする予定なんだ」
「一体どんな仕事なのかしら」
花夜子は不審に思っているらしかった。確かに伊都が平日の昼間から同僚と連れ立ってジムに通っているのは、人から見れば不思議なことに思われるだろう。おそらく世の多くの勤め人はそういう時間帯にトレーニングをしていない。
伊都が花夜子に言い聞かせた。
「ねえ花夜子。どうか詮索はよしておくれ。前にも言ったけど、この仕事は簡単には内容を言えないものなんだ。でも別に危険なことをしているわけじゃない。この仕事があるから私は君と付き合えるんじゃないか。私が大学生の花夜子としょっちゅうデートをできるのもこの仕事のおかげだよ。もしも普通の会社に勤めていたら、日々の時間のほとんどは仕事に取られてしまうものなんだ」
花夜子は確認するように言った。
「ひょっとしたら、夜遅くまで通話しながら同じ映画を観ることもできない」
伊都はうなずいた。
「そういうことになるだろうね。この仕事でなかったら」
「私のこと、好き?」
花夜子は椅子の向きをずらし、姿勢を変えて伊都の方を向いた。花夜子のまなざしは一途なものだった。伊都はその強い瞳のあり方に直面した。
「突然何を言い出すんだよ」
「何ってことはないでしょう、伊都。これが、このことだけが二人にとって一番大切なことなんじゃない」
花夜子の目は
花夜子はしばしの無言ののち、眉間に皺を寄せた顔で伊都の肩をゆすった。
「違うの?」
花夜子の表情は暗く、切実なものを内に含んでいた。硬い沈黙が場に降りた。伊都は事態の大きさを測ろうとしているようすだった。何を言えばいいのかを考えている。
伊都はやがて意を決したようすで、自分も椅子を少し引き、花夜子と向かい合った。彼女の手首を握り「目をつむって」と真剣な声音で呼びかける。
「え?」
「目をつむるんだ、花夜子」
伊都は顔を寄せると、花夜子のくちびるの上に自分のくちびるをさっと載せた。伊都の左手が花夜子の肩を抑え、右手がもう一方の腕の手首をつかんでいた。そうやって花夜子をとらえると、伊都は長い間きっぱりとくちびるを押しつけた。離す瞬間には相手のくちびるを舌先で軽くなぞった。
伊都が顔を上げて語りかける。
「好きだよ、花夜子。私にとって一番大切なものが君だ。だからどうか心配しないでほしい。何もかもが上手くいくから」
花夜子はすっかり驚いたのか、しばらくは表情をなくして伊都の顔を見つめていた。次に彼女は顔を額から頬まで赤らめると、うつむいた。
アラタが口を開いた。
「花夜子ちゃん。伊都は実は仕事上で小さくない失敗を犯したんだ。それで私が指導のために付くことになった。でも安心してほしい。伊都はいずれ自分を立て直すだろう。私はそう信じている」
花夜子は
伊都がアラタに向かって口を開いた。
「でも尾形さん、このまま同じことを続けていて大丈夫なんでしょうか。我々は結局、トレーニングしかしていません。私には事態が好転しているという気がしないんです」
「さあ、どうかな」
アラタにも正直なところ伊都の治し方はわからないのだ。ただ、アラタはこれは〝解決〟できる類の問題ではないだろうと思っていた。たとえば、骨が折れた。レントゲンを撮影したところ、骨がずれているようなので元の位置に戻した。ギプスで固定した。あとは安静にしていて時間が経てば
伊都はアラタのそっけないとも受け取れる態度に動揺したようすだった。彼女は前のめりになって問いかけた。
「どうかな、って。尾形さんには解決への道筋が見えていないんですか」
アラタはそれに誠実に答えようとした。あらかじめ用意しておいた台詞ではなく、その場で自然と出てきた言葉をそのまま伊都に告げるよう努めた。
「伊都。これはだいぶ難しい問題だよ。はっきり言うと私にも事態が最終的にどこに落ち着くかわからないんだ。安心してくれとは言えないね。でも、何があっても私はこの旅に最後まで同行するつもりだよ。ずっと君といるよ。そこは固く約束しよう。
君と一緒に悩んだり、物を考える手助けをすることはできると思う。でもね、この試験問題はこれが正解ですよ、と数学教師のように示すことは、私にはとてもできそうにないな。残念だけど私はそこまで万能じゃないからね。できることと言えばジタバタすることぐらいかな。ねえ、我々はみっともなく床にひっくり返って手足をジタバタと動かそうじゃないか。だって他に手立てが見つかりそうにないからね」
伊都は物も言えず呆然としていた。顔の各部から力が抜けて口が半開きになっている。その顔を見て、申し訳ないな、とアラタは思った。しかしこれは必要なことだった。アラタは自走する便利な乗り物ではない。伊都はアラタという先達に乗って前に進むことはできない。彼女は自分の足で道をいくしかないのだ。
ウェイトレスがやってきて注文したものをテーブルに置いていった。アラタは黙ってコーヒーを飲んだ。いつも通り良い味がした。伊都はいつまでたってもコーヒーに手をつけなかった。花夜子はすぐにチーズケーキを平らげてしまった。
アラタはそれを見届けると領収書を取って席を立った。ここまでの会計はすべて私が払っておくよ、と伊都と花夜子に告げる。アラタはレジで代金を支払うと、二人を残して店を出ていった。
☨☨☨
アラタはマンションの自室にたどり着くと持ち物をリビングのテーブルの上に置いた。寝室に入って、服を脱いで下着姿になってからベッドに横たわった。
さまざまな思いが脳裏をよぎる。伊都を一度突き放したこと。それに軽い罪悪感を覚えたこと。花夜子という娘には
アラタの頭の中を過ぎゆく思いはやがて細々とした記憶の断片になっていった。ジムで見た、チェストプレスのオレンジ色のフレームの表面に浮かんだ光沢や、あるいはいつも伊都といく喫茶店の店先に
すぐにそれらの心象も散り散りになっていき、アラタの描くイメージは小さな箱にいき着いた。
大切なものがしまわれた箱。
アラタは一度はその箱を自分で開ける可能性を考えてみた。しかしすぐにそれは違うと思った。これは自分のためのものではない。誰か他の人に捧げられるべきものだ。アラタは箱の中身について知る権利を今は与えられていない。
ただ、それは
反省してみるとそれはだいぶ不思議なことだった。アラタはその箱や箱に関わる人々について具体的な心当たりというものはどこにもないからだ。単なる心の形象に過ぎないそれが自分の孤独の一部を担ってくれるとは、予期していないことだった。
アラタはベッドから起き上がると机に向かった。引き出しからノートを取り出し、シャープペンシルをノートの上に転がした状態で空想に浸った。
〝両腕のない女〟について考える。
〝両腕のない女〟はヒイネと言葉を交わしたいときは彼女から村の様子を聞かせてもらったり、自分で本を朗読してやったりした。あるいは言葉を交わさずとも繋がりを感じていたいときはヒイネと共に森を散策した。連れ立って歩くというのは不思議な行為だ、と女は思った。黙っていても、相手の考えていることがわからずとも、おのずと自分と相手の間に何かしらの繋がりが生じてくる。一定の間隔で刻む足音がリズムを生み出し、変わりゆく風景が意味をつくり出してくれる。
森に生えている
小川にたどり着いた。二人は小川に沿って、その上流に向かって歩いた。するとやがて木が密集していない開けた場所に来た。明るい土地だ。今の季節はそこでは背丈の低い花々が咲き誇っていた。ヒイネは花弁のまとう鮮やかな色を喜び、花芯の持つ暗示的な形象に心惹かれた。
屈み込んで花を覗き込んでいるヒイネを見下ろして、女は思った。この若く無知な娘の頭を自分の手でなでてやることができたらいいのだが、と。しかしそれはできなかった。彼女は過去にそのための腕を奪い取られている。腕、あるいは能力。あるいは願望。何と称しても構わないが、女はそれを強制的に切断されてしまったのだ。
女もまたヒイネの隣に屈み込んだ。花を間近に見たかったわけではない。ただヒイネを近くに感じたかったのだ。自分の顔をヒイネの顔の隣に並べる。ヒイネは花を見つめながら、いつも女に読んでもらっている恋愛詩を暗唱した。
そこにひとつの席がある
僕の左側に
「お
いつでもそう言えるように
僕の左側に
いつも空いたままで
ひとつの席がある
恋人よ
霧の夜にたった一度だけ
あなたがそこに坐ったことがある
あなたには父があり母があった
あなたにはあなたの属する教会があった
坐ったばかりのあなたを
この世の掟が何と無造作に引っ立てて行ったことか
あなたはこの世で心やさしい娘であり
つつましい信徒でなければならなかった
恋人よ
どんなに多くの者であなたはなければならなかったろう
そのあなたが一夜
掟の網を小鳥のようにくぐり抜けて
僕の左側に坐りに来たのだった
一夜のうちに
僕の一生はすぎてしまったのであろうか
ああ その夜以来
昼も夜も僕の左側にいつも空いたままで
ひとつの席がある
僕はいたずらに同じ言葉をくりかえすのだ
「お坐り」
そこにひとつの席がある
女はヒイネが詩を暗唱している間、その顔をじっと見ていた。その頬の皮膚の微細な変化や、上下の唇の開閉や、声をつくり出す舌の動きを観察した。そうしていないと心がどこかに吹き飛んでいきそうだったのだ。いつになく強い風が吹いている気が女にはした。実際にはその土地はまったくの無風だったのだが。
ヒイネはそこでようやく花から目を逸らし、女の方をふりかえってその顔をまじまじと見つめた。
「あなた、悲しいのかしら」
女ははっとして自分の顔をさわって、泣いているかどうか確認しようとした。しかしそれをする
すると、涙がこぼれ出た。大きな涙の粒が次から次へと女の目のふちからこぼれ落ち、頬をつたって滑り落ち、膝に
ヒイネは両腕でさっと女の体を抱きしめた。女は身をよじって逆らおうとしたが、ヒイネがますます腕に力を込めたので、次第に諦めて抱かれるままになった。温かい、と女は思った。二人は胸と胸をくっつけ、互いの肩の上に自分の首を乗せて、限りなく密接に抱きしめ合った。そこで世界は内と外との二つに分かれた。ヒイネの両腕から外側と、その内側の二つだ。二人の女性は孤独を退け、二つの肉体を左右の壁として、その中央に心を置くことを決めた。とても温かい、とヒイネも思った。この
以降の生活では、どんなことにでも女はヒイネとの間に途切れることのない繋がりを感じるようになった。連れ立って歩いているとき、女の代わりにヒイネが家を掃除してくれているとき、森からヒイネが顔を出して村から食べ物を運んで来てくれたとき、場合によってはヒイネがおらず(その時間の方が長かった)無である空間を眺めやっているときに、女はヒイネの存在を間近に感じた。
それは大層不思議なことだ、と女は思った。胸の内に
アラタは机に向かいながら、これはずいぶん大きな出来事だな、と感じていた。アラタは〝両腕のない女〟と巫女の
アラタはさらに空想の続きを考えた。考える、といってもそれは自分の知恵に頼む主体的なおこないではなかった。〝両腕のない女〟は意識と無意識のさかいでつくられる物語だった。アラタのおこなうことはただ待つというだけである。そのためにはできる限り
アラタはくりかえし〝両腕のない女〟と巫女が体をふれ合う場面を想像した。どうしてかその場面のイメージがおのずと脳裏をよぎるのだ。
ヒイネが女の隣に立って、相手の肩にふれ、そこに頭を乗せる。ヒイネには女のわずかな動作、すなわち右足を置く位置をわずかに変えて体の向きを直すだけの動きにも、自分に対する親密な気持ちを見て取れた。それはもっと体にふれていいという女なりの合図なのだ。ヒイネはそれを受け取って女のもう一方の肩や首に手でふれる。女も首を動かしてヒイネの顔のそばに寄る。あるいは二人は壁に背中を預ける形で隣り合って座り、何も言わずにくっついて時を過ごす。女たちは何も言わずとも通じ合っている。
女とヒイネの牧歌的な交流は続き、やがて三年が過ぎ去った。ヒイネの巫女としての役割が終わり、女は別れを惜しんだ。せっかくできた、森の生活での初めての友人だったのだ。
しかし悲しんでいても仕方がなかった。ヒイネには村での生活があった。本来はそこが彼女の属する領域だ。ヒイネは男と結婚する。成人し、清いものを男に捧げる。子供を産み、村の次の世代をつくり上げていくのだ。
アラタはそこまで思い描き、ノートに記したところで疲れてしまった。あとはベッドに横たわったまま音楽を聴いて過ごした。夜になったらアプリで夕食を配達してもらって食べ、シャワーを浴びてから眠りについた。