アラタ   作:六塔掌月

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第二部・第四話

日曜日になった。アラタが二日前の伊都との会合の内容について紗良に伝えると、自分もその伊都や花夜子という人物と会いたいと言われた。アラタは最初は戸惑ったが、考えてみると悪くない提案であるということに気がついた。伊都のことを知りたいと思ったらそのパートナーと会うのは避けられないだろう。それならこちらもパートナーを伴って二対二にするというのは、均衡(きんこう)という意味では上手いやり方ではないだろうか。

 

翌週になり、伊都と会ったときにアラタは紗良の提案を伝えてみた。すると伊都は「尾形さんがそう言うなら」と食事会を設定してくれた。次の土曜日の昼にアラタと紗良が伊都の自宅を訪ねる。伊都は前もって花夜子と共に昼食の用意をしておく、という段取りだった。

 

日が経ち、土曜日になった。

 

アラタと紗良は伊都のマンションの最寄り駅の改札口で落ち合い、目的の場所へ向かった。マンションのエントランスで伊都に電話をかけ、扉を開けてもらう。中に入り、エレベーターで九階へと昇った。

 

アラタは九〇三号室の前に立ってインターフォンを押した。すると扉が開き、伊都と花夜子がアラタたちを出迎えてくれた。

 

リビングは一人暮らしとは思えないほど広かった。床はフローリングで清潔な感じがした。料理の置かれているテーブルは天板も脚も濃い茶色で、洗練されたデザインをしていた。

 

伊都はピザを頼んでいた。テーブルの上には生ハムとモッツァレラチーズが載ったピザと、しらすと大葉と青唐辛子が載ったピザが一枚ずつ並んでいた。その脇には伊都たちが自分たちでつくったらしいサラダのボウルが置かれていた。レタスとベビーリーフがベースで、赤と黄のパプリカがそこに色彩を添えていた。昼間なので飲み物はジンジャーエールがふるまわれた。

 

まずアラタが伊都と花夜子に紗良を紹介した。三年前から付き合い始めた女性で、いつも自分を助けてくれる。素敵な人だ。

 

次に伊都と花夜子がそれぞれ自己紹介をし、紗良と挨拶を交わした。アラタはそこで初めて花夜子が都内の私立大学の三年生であることを知った。彼女と伊都は一年半前から交際を始めたらしい。花夜子はいつも通りゴシックなドレスに身を包んでいた。

 

紗良のおかげで食卓の会話は雰囲気よく進んだ。紗良は持ち前の柔和(にゅうわ)な声と表情で、普段どんな生活を営んでいるかを伊都や花夜子にたずね、多くの言葉を引き出した。それはアラタにはできない芸当だった。紗良の手にかかれば、先日駅前にあるショッピングモールに枕を買いにいったという挿話でさえ、伊都に楽しい調子で語らせることができた。そこから話が繋がり、花夜子は自分は枕が変わると寝ることができない、それで今までどれだけ困ったことがあったかと笑いながら語った。そうしたさりげないやりとりが食卓の雰囲気を愉快で居心地のよいものにした。たぶん伊都の注文していたピザの味が良かったことも、そこには影響しているだろう。アラタはこんなにおいしいピザに出会ったことがなかったので、あっという間に自分の分を食べ終えてしまった。

 

食事が終わってしばらくすると、伊都がアコースティックギターを持ち出した。隣に花夜子が立ってアデルの「ハロー」という曲を歌い、伊都がそこにギターで伴奏をつけた。花夜子の歌はなかなかのものだった。声量はないが情感がしっかりと込められていたので、アラタは心を動かされた。紗良も笑顔で拍手をしていた。日本の古い歌謡曲もいくつか歌われたが、どれも良い曲だった。

 

ふたたび四人はテーブルについた。腹も満ち、余興も終わって、弛緩(しかん)した空気が一同の間には横たわっていた。アラタは心地よい気怠さを感じていた。

 

紗良が口を開いた。

 

「お二人は青ひげという昔話を知っているかしら」

 

花夜子は「知らないわ」と短く言った。彼女は興味深そうに紗良の顔を見た。伊都は少し気の抜けた表情をしている。

 

紗良はそこで青ひげという話を語り出した。

 

昔々あるところに青ひげという異名の男がいた。彼はとても裕福で、今まで六回結婚しているにもかかわらず、その花嫁はすべて行方不明になっているという噂(うわさ)があったので、周囲から恐れられていた。彼は森の奥の孤城に住んでいた。男は四十歳を越えていたが、輝く月に匹敵するほど美しい顔立ちをしていた。ただ、顎にたくわえられた長いひげは手入れをされておらず、ぼうぼうになっており、それが彼の容姿を異様なものにしていた。男はまるでどこか別の国から来た人のような雰囲気を帯びていた。青ひげというのはそこから来た異名だった。

 

さて、貧しい貴族の両親が財産目当てに青ひげに見合い話を持ちかけた。貴族の子供はすべて娘で、四人いた。両親は上の娘から順にひとりずつ青ひげに会わせて、見合いをさせた。一人目の娘は「あの青いひげが気持ち悪いから」と言って断り、二人目の娘は「すでに歳がいっているから」と言って断り、三人目の娘は「すでに六回も花嫁がいなくなっているのはおかしなことだから」と言って断った。とうとう四人目の娘を会わせる段になり、両親は泣いて娘にすがった。どうか私たちを救うためにあの男と結婚しておくれ。

 

末娘はそれを了承し、青ひげの求婚を受けることにした。娘は青ひげに連れられて城にやって来た。初めの日の夜に青ひげはたくさんの鍵の束を娘に渡して言った。お前はこの城のどの部屋も自由に使っていい。しかし地下に続く扉だけは開けてはならない。その扉の鍵だけは決して使わないように。

 

娘はうなずき、さまざまな部屋の扉を開けて楽しんだ。ある部屋には朝たずねるといつでも温かなパンやスープが用意されており、別の部屋には夜たずねるといつでも豪華なチキンやワインが用意されていた。娘はそれらを食べて喜んだ。また別の部屋では非常に美しいドレスが無数に用意されていたので、娘はとっかえひっかえドレスを着て、みずからの装いを姿見(すがたみ)に映して楽しんだ。城には青ひげと娘自身をのぞくと他の者はひとりもいなかったが、娘は疑問を覚えることがなかった。なぜなら城には便利な部屋が無数に用意されており、それらを使えば生活を送るには事足りたからだ。

 

あるとき青ひげが七日間、城を空けることになった。彼は出かける間際にもう一度娘に念を押した。地下に続く扉だけは決して開けないように。他の部屋は自由に使っていいから。

 

城に残された娘は最初の六日間はいつものように城での生活を楽しんだ。ある部屋で温かなパンとスープを食べ、別の部屋で湯あみをし(いつたずねてもその部屋には温かな湯が風呂桶に満ちていた)、毎日一着ずつ新しいドレスがおのずと用意される部屋で着替えを楽しみ、夜には最上階の広間で豪華な肉料理とワインを食べた。しかし一日一日が経つごとに娘の地下室への好奇心は高まっていった。禁じられた部屋には何があるのだろうか。夫は一体何を隠しているのだろう。

 

とうとう七日目の朝になった。昼には夫が帰ってくるだろう。娘は、仮に地下室の扉を開けたとしても、また元通り閉めてしまえば問題ないはずだ、と考えた。そうすれば決まりを破ったことは露見しないだろう。そもそも我々は夫婦なのだ。夫が持っているものなら、別に何を見たとしても咎(とが)められる由縁はないはずだ。娘は青ひげから与えられた鍵の束を持って、地下室の扉へ走った。

 

娘は地下室の扉に鍵をさしこみ、それを開けた。地下へと続く道は暗かった。娘は蝋燭(ろうそく)に火をともし、そろそろと進んでいった。娘は思った。どうも気色の悪い匂いがする。それに床には何か独特の濃い液体があるようだ。足の裏がねばつく。

 

娘が地下室の奥で目撃したものは壁に吊り下げられた女の頭部であり、血に濡れた長い髪の束であり、手足であり、また胴体だった。それらは切断されて断面から血を滴らせていた。床に広がった冷たい液体は赤い血だったのだ。青ひげはこれまで結婚してきた相手を殺して切り刻み、地下室にその遺体を飾っていたのだ。

 

娘は驚きのあまり悲鳴を上げ、手元から鍵の束を取り落とした。娘はすぐにそのことに気づき、鍵の束を拾って地下室を退散した。鍵にはいずれも血が付着して汚れてしまった。

 

娘は地下室の扉に鍵をかけると、いつも湯あみをしている部屋に入って、体を洗った。次に鍵の束を取り出して、鍵をひとつずつ洗うことにした。これで証拠隠滅だ。禁を破ったことが露見することはないだろう、と娘は考えた。しかし地下室に続く扉の鍵だけは別だった。そこに付着した血は取れず、鍵は赤く染まったままだったのだ。

 

昼になり、太陽が高く昇った。青ひげが城に帰ってきた。彼は妻と会うと、さっそく鍵の束を取り上げて検分した。ひとつだけ鍵が赤い。

 

娘が地下室の扉を開けたことがついに暴かれた。青ひげは娘を厳しく睨みつけると、言った。

 

紗良はそこで急に語るのをやめてしまった。

 

黙り込んでしまった紗良にアラタがどうしたのかと問うと、紗良は「続きを忘れてしまったわ」と言い放った。青ひげが何を言ったのか、次に二人はどのような運命をたどったのか、みんな忘れてしまったという。

 

花夜子が愉快そうな声音で言った。

 

「そんな。私、続きを知りたいわ」

 

怖い話は大好きだ、と花夜子は言った。一方でその隣に座っている伊都は青ざめた顔をしていた。おそらく今紗良がした話から自分の置かれた状況を連想してしまったのだろう。伊都はまだ自分の仕事についてパートナーの花夜子に打ち明けていなかった。

 

アラタは伊都を気の毒に思った。紗良はおそらくこのカップルに大きな興味を抱いたのだろう。それで揺さぶりをかけたに違いなかった。

 

花夜子が言った。やはり娘は青ひげとやらに殺されてしまったのだろうか。

 

すると紗良が返した。いやいや、案外娘の実家の家族たちが助けに来るかもしれないわよ。タイミングよくね。それで青ひげは返り討ちに遭(あ)うかもしれないわ。

 

紗良と花夜子は楽しそうにさまざまな可能性を議論した。

 

アラタは適当なところで話題を切り替えることをこころみた。それは上手くいき、今度は花夜子が大学やバイト先での生活を話し始めた。紗良もアラタもそれを聞いて適度に相槌を打った。伊都はずっと口数が少なかった。

 

時刻が四時を回ったところでアラタと紗良はマンションを辞することにした。

 

伊都の部屋の扉先で二人と別れの挨拶を交わし、退去する。エレベーターの中ではアラタも紗良も無言だった。エレベーターを降り、エントランスを抜けたところでアラタは紗良に礼を言った。紗良、今日は貴重な休みの時間を使って付き合ってくれてありがとう。いつもは見ることのできない後輩の面を知ることができて勉強になった。

 

紗良は微笑んで言った。

 

「そう? それならよかったわ。私も久しぶりに若い人と話せて楽しかった」

 

「でもちょっと伊都をいじめすぎたかな。彼女は途中から縮こまっていたから」

 

紗良は肩をすくめた。

 

「あの伊都という子は本当にあなたと同じ職業なのかしら。どこか少し抜けている気がするわね」

 

「抜けている?」

 

アラタと紗良は駅に続く道を歩きながら話をした。歩道には楠木(くすのき)が植えてあった。茶色い木の肌には規則的に深い縦の溝が入っており、厳めしい自然の雰囲気を醸し出している。見上げると葉と葉の間には微細な白い花が咲いていた。

 

紗良が口を開いた。

 

「つまりね、体の表面の皮膚から仕事人としての気配を発しているようには思えないのよ。背中にも足にも目がついていて、自分の周りのことならすべてを見ている、わかっているし、何事が起きても即座に対応できるという印象を覚えないわ。あの伊都という娘と対していて」

 

アラタは驚いて言った。

 

「私にはそういう印象を抱くの?」

 

背中に目をつけた覚えなどアラタにはなかった。

 

「物の譬(たと)えよ。少なくともあの娘にある種の盲点があるのに対して、あなたにはそれがないということなの」

 

紗良はそこで話を変えるようににっこりと笑った。

 

「今日はこれでおしまい? それともどこか楽しいところへ連れていってくれるのかしら」

 

それは紗良からの嬉しい誘いかけだった。アラタは紗良と手を繋ぎ、先日インターネットで調べた洒落(しゃれ)たバーについて話した。紗良は了承し、二人でそこへいくことが決まった。

 

☨☨☨

 

梅雨を抜け、夏を迎え、八月の終わりごろになった。アラタと伊都は変わらずに週に二度ジムに通ってトレーニングをおこない続けた。トレーニングが終わったら昼食を取り、木蔦に覆われた喫茶店に赴き、アイスコーヒーを飲んだ。そこで少し話をする。話題はあっという間に尽きてしまったから、いつしか二人とも黙ってぼうっとしている時間の方が長くなった。トレーニングの疲労と夏の暑熱による倦怠感を覚えながら、アラタは黙って伊都とアイスコーヒーをすすった。

 

ある日の昼のことだ。アラタと伊都はいつも通り喫茶店にいた。休息を取るにはちょうどよい具合の疲れがアラタの体を覆っていた。他者を前にしながら自分の深いところまで沈潜《ちんせん》できる、適度な痺れが心を満たしていた。今ならいつもはできない話を語ることができそうだ、とアラタは思った。

 

アラタは伊都に言った。

 

「この間小説を読んでいたらさ、子供たちを教育する立場の人がね、子供たちに向かって『あなたたちは絶対に歌手や映画俳優にはなれないんですよ』と厳しく言い聞かせていたんだ。伊都はどう思う?」

 

「どう、って。その子供たちは何をしたんですか。あるいはどういう立場に置かれているんですか」

 

「まあ、詳細はともかく、その子供たちは確かにある理由から、絶対に歌手や映画俳優にはなれないんだよ。その小説の特殊な設定としてそうなっている、ということなんだけど」

 

アラタは手元のアイスコーヒーを飲んだ。また口を開く。

 

「そんな立場に置かれたら、子供たちはどう思うのかな」

 

「教師を憎むかもしれませんね」

 

「そうだね。でも、その教師だって言いたくて言ったわけじゃないかもしれない。ちなみにその本はすごい売れたんだ。なぜだと思う?」

 

伊都は少し考えてから口を開いた。「わかりません」

 

「多くの人がその場面を読んで共感を覚えたからだよ。大抵の人は歌手にも映画俳優にもなれないものなんだよ、伊都。実は特殊な立場に置かれていなくても、この世のほとんどの人物は、実質的にその子供たちとあまり変わりがない位置にいるんだ」

 

沈黙が降りた。店の外では蝉(せみ)が激しく鳴いていた。扉と壁を越えてその音の一部が聞こえてくる。伊都はアラタが何を言いたいのかをとらえようと、頭を働かせているようすだった。

 

伊都が言った。

 

「それは別に、私も変わりがありません。私もそっくりその本と似たような体験がありますから。そういう家に育ちました」

 

「ああ、私も似たようなものだよ。でも特殊な家の事情がなくたって、実はこの世のほとんどの人間は自分の手でこしらえた大切なものを、みずから打ち壊しているものなんだ。それは何だと思う?」

 

伊都は考えてから言った。「一度望んだことを諦める、ということですか」

 

アラタはうなずいた。

 

「そういうことだ。人は欲する。あれもしたい、これもしたい、と。映画スターになりたいという大きな夢から、恋人がほしいという慎(つつ)ましい願いまで、さまざまな希望がある。でもそのすべてが叶(かな)うわけじゃない。むしろほとんどは叶わないものなんだ。そういうとき、いちいち泣いていたらきりがないからね。人は自分で自分の望みを殺す。意識にすら昇らない深いところでそれを実行する。なかったことにするわけだ。ねえ伊都。怒らないで聞いてほしいのだけれど、もしも君に花夜子ちゃんを処刑する命令が下ったらどう思う?」

 

伊都は眉をひそめて言った。

 

「急に何を言うんですか、尾形さん。そんなことは絶対に起こりませんよ」

 

アラタは一度目を伏せて、何を言えば自分の言いたいことが後輩に伝わるのかを真剣に考えた。テーブルの上のグラスを握るとアラタの手に冷たい感触が起こった。グラスの中にはもうアイスコーヒーはなく、氷だけがあった。アラタはグラスから手を放すと、頭の中で言いたいことをまとめた。

 

アラタは伊都をまっすぐに見据えた。穏やかな、しかし力を込めた声音で語りかけた。

 

「もちろん私だってそういうことが現実に起こると本気で思っているわけじゃない。でも、これは必要なことなんだ。いいかい、伊都。想像してみるんだ、その残酷な世界を。花夜子ちゃんがやむにやまれぬ理由から罪を犯し、投獄され、私じゃなくて君に処刑の命令が下る世界を。こことは違う、まったく別の世界に生きている君自身のことを。その世界の街を歩くとはどういうことか、その世界の空気を吸うとはどういうことか、その世界で斧を握るとはどういうことか、細部まで手に取るようにわかるまで、くりかえし想像してみるんだ。殺した相手の血の匂いが嗅ぎ取れるようになるまで克明に想像するんだ」

 

伊都はアラタの強いまなざしを正面から受けて、顔をこわばらせ、目を伏せた。伊都が唾を飲み込む音が聞こえた気がアラタにはした。その音はやけに大きく響いた。伊都は明らかに困惑していた。けれどもアラタが真剣であることに気づいたので、何も言えないでいるようすだった。

 

長い時間が経った。両者はともに何も言わなかった。

 

アラタは席を立った。

 

「今日はここら辺にしておこう。今話したことは大切なことだよ。伊都にはちゃんと考えてみてほしい」

 

伊都はかろうじてかすかにうなずくと、力のない動作で席を立った。

 

☨☨☨

 

夜。アラタは自室でベッドに横たわって物を考える。自分は後輩に対して心ない仕打ちをしているのだろうかと反省する。そうかもしれない。もしも自分の要求した通りの修練――想像という修練――を積めば、伊都は傷つくことになるだろう。

 

しかしそれは避けられないことなのだ。伊都には自覚が足りない、とアラタは思っていた。結局、誰かを殺すということは自分を損なうことに他ならないのだ。それによって深いところで受けてしまった傷を、まだ塞がり切らず血を流している傷を、伊都はおそらく引き受けようとしていない。でもそれは自分の傷なのだ。引き受けなければ、むしろますます傷は拡大し、あとでより深刻な被害を受けることになる。伊都が三回目の処刑で卒倒したことはつまりはそういうことなのだろうとアラタは推測していた。

 

抜けている、と紗良は後輩を評価した。そのことについてはアラタは伊都に同情的だったが、よく考えてみると実はアラタも紗良と同意見なのだということに気づく。

 

アラタは深呼吸を二回した。

 

ベッドから起き上がった。アラタはいつも通り机に向かうことにした。引き出しからノートを取り出し、最後に何かを書き留めたページを開く。

 

そうだ。〝両腕のない女〟は三代目の巫女と別れたのだ。そして新しい巫女がやってきた。

 

〝両腕のない女〟は四代目の巫女と会った。巫女は名をスズカといった。スズカはヒイネと比べるとだいぶ幼い印象を受けた。とても痩せていて、頬もこけている。手足は指先まで細い。村ではあまり食べさせてもらっていないのかと疑って、女は自分の分の食料までスズカにすすめたが、断られた。どうやらスズカは単に少食であるらしい。

 

女はスズカが村から給仕にやってくるたびに一度は声をかけた。村のようすを聞いたり、あるいはスズカ自身の体調をたずねたりした。一方でスズカは女に対して興味がなさそうだった。細い手足で食べ物を運んできて置き、女の家を掃除し、点検し、終わったら帰っていった。女が声をかけてきてもほとんど返事をしなかった。そういう断絶の時期が半年ほど続いた。

 

女はあるとき思い切って、スズカに座るよう強い調子で言いつけた。スズカは仕方なさそうに女の前に座った。彼女は猜疑心の強い目で女を見た。

 

「今から詩をいくつか唱える。黙って聴け」

 

女はそう言うと、若い娘の好みそうな恋愛詩を三つほど暗唱した。若い男が娘に求愛するといった内容の詩だ。

 

一つ目の詩を読み終えたところでスズカの表情が変貌(へんぼう)した。口元は引き締まりまなざしが真剣味を帯びた。三つ目を読み終えるころにはスズカの目は昼間に夢を見ているような雰囲気を宿した。切なさと愛しさがないまぜになったような表情だ。

 

女が暗唱を終えて黙り込むと、スズカは急に前のめりになって今のは何かと聞いてきた。女は、今のは詩と呼ばれるものだ、と答えた。自分は本で読んだものを暗唱した。

 

スズカはその返答に大きな衝撃を覚えたようだった。詩という素晴らしいものがこの世にはあり、どうやら自分ではない別の人たちはそれを知っていて、存分に味わっているらしいということ。詩は本に書かれてあり、この村とは別の世界では本が流通していて、人々がそれを読んでいるらしいということ。女はその本をいくつか所持しており、なおかつ文字を読めるらしいということ。スズカはそれらの事実の到来に驚きおののいていた。

 

スズカはしばらく黙り込んでいた。女がどうしたのかと問うと、スズカはもっと詩を読んでくれないかと懇願(こんがん)してきた。女は破顔して言った。また次の機会に読む。お前は私との取り引き条件として、村のようすを聞いてまわり、それを私に教えなければならない。特にヒイネのことを教えてほしい。

 

その日以降、スズカは忠実に女の依頼を実行した。自分の家族のことから隣の家のことまで、知ったことは何でも話してくれた。スズカは週に二度やってきた。食べ物を置き、掃除をし、水を汲んできてくれた。女はそれらのおこないに対する礼として詩を読んだ。スズカは懸命に詩を覚えようとしたので、女はそれに付き合った。スズカが暗唱をこころみて、女が間違いを訂正する。

 

スズカによるとヒイネは結婚して子供を産んだらしい。立派な男の子で、その子を育てるのにかかりきりのようだ。女はヒイネに会いたい、その子供を一目見てみたいと願った。それが実際に叶うかどうかは別として、願いをひそかに隠し持っていることは自由のはずだと女は思った。

 

さらに半年が経過した。女はそのうち取り引き条件のことも忘れて、スズカに詩や物語を読んでやるだけでなく、進んで文字まで教えるようになった。スズカは熱心にそれらを勉強し、地面に棒で単語の綴りを書いた。スズカはヒイネとは異なり、体と体がふれ合うことを好まなかった。女もそれで問題なかった。ひとりの若い娘が自分に警戒心を抱かず、普通に接してくれているだけで女は満足だった。

 

あるとき女はかねてから思い描いていたことをスズカに依頼することにした。すなわち、箱の製作である。女の心の隅にはずっと以前から箱のイメージが根付いていた。それほど大きくはない、木製の箱のイメージだ。それをスズカに頼んでつくってもらおうと思ったのだ。

 

アラタはそこまで考えてからノートにいくつかメモを書き込んだ。頭に思い浮かんだことをいくつかの短い文章にして書き留め、女がスズカに文字を教えているところを絵に描いた。そこでノートを閉じて引き出しにしまった。事が動き始めたな、とアラタは思った。これから何が起きるかわからない。

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